・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

丁寧ことばがいやしく聞こえる「御」の字

2014年07月16日 | つぶやきの壺焼

御雇いXXという職業は、丁寧に呼ばれているのに、いやしく聞こえます。
ふとそう思いついて、「御雇い」で検索してみましたが、現れたのは「御雇い外国人」だけです。
不思議なことに、他にも何かあるはずなのに、それが一つもありません。

雇われYYYと呼ばれる場合は、何らかの契約が交わされていますから、雇われる側は、雇う側をはっきり認識しています。
雇われることの本質がはっきりしていますから、いやしくは聞こえません。
そして、これには「御」がついていません。

実際にはありそうな御雇いXXは、XXが本業に見えて、実は「御雇い」が本業になっている節があります。
丁寧な呼び方が、裏面に折り返されたほうについている、そんな感じがします。
この折り返しがつくと、どういうわけか、とたんに品格が下がるのです。

「御」は、「それで御の字」という、中途半端であきらめさせる言葉にも使われます。

「御」の字が品を落としてみられる例に、「御客様」という呼び方があります。
これも、どこかばかにされているようで、呼ばれると心地よくありません。


幸い「御国民」という呼び方はないのでよいのですが、むやみやたらに主権を唱えていると、そう呼ばれる日が来ないとも限りません。

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使われているうちは歴史に載らない

2014年07月15日 | つぶやきの壺焼

瓦は、いったん捨てられないと、いつ作ったのかわからないそうです。

焼いて作られたものがいつできたのかは、埋まっていたところの土から判定するので、屋根に乗っている間は、歴史に載らないというわけです。

その土も、掘り返された跡があれば、もう計算は合いません。
焼かれた瓦のほうは、歴史に残ろうとは考えていなかったでしょう。

瓦は捨てられて歴史に残りますが、人間が、輿に乗っているうちに歴史に残ろうとすれば、降りたときには恨まれごとか悪評しか残らないかもしれません。

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鬼ごっこをすると叱られる安全公園

2014年07月14日 | つぶやきの壺焼

鬼ごっこ禁止の公園があるそうです。
公園は静かに座っているところだからという、じいちゃんばあちゃんが日がな一日座っている、どこかの福祉大国の公園を見てきて、まねをしているのでしょうか。

鬼ごっこをする子は、狭いところでもうまく走り抜けます。
走り回っても、じいちゃんばあちゃんにはぶつかりません。

走らせないで子供を育てると、そういう身のこなし方ができなくなります。
静かに並んで歩いていれば、誰かが守ってくれるとしつけられた子供たちは、暴走車や酔っ払いが近づいても、とっさに身をかわすことができずに立ちすくむだけ、親子ともども泣きを見なければなりません。

安全な公園が、自衛本能の鈍った、なすがままになる人びとをつくります。
それで都合がよくなるのは、だれなのでしょうか。

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色は動きで見える

2014年07月13日 | つぶやきの壺焼

「墨色は墨の粒子の動きでうまれる」と書家双雲が言っています。
墨の粒子の動きの瞬間が固定されたものを見て、それから動きを感じ取ると色感になる、これは余計な説明です。
双雲のこういう言葉に、「どういう意味ですか」と、なぜQ症候群患者からQ発信が出たとき、よせばよいのにA返信をしてあげようと思い始めると、余計な説明をひねり出したくなるのです。

ひねり出すと言えば、ガラス工芸にもその工程のある部分で、その動きがありそうです。
久しぶりに横浜で会合があり、開会前に持って出かけた余裕の1時間ほどで、高島屋の美術工芸サロンに行き、ガラス工芸作品を見ることができました。

~流れゆくままに~ 須藤珠美 ガラス展

こんな色まで着けられるのかと思うほど、さまざまな色合いのカラス器の中に、黒一色で描かれたレース模様が動くのを見つけました。
器を回転台に乗せてくるくる回す、子供だましのような見せ方をしているのではありません。
しっかり踏ん張った固定の台に載っているのに、レースが風に吹かれて静かに動いているように見えるのです。
真黒の模様が、薄い色にさえ見えそうな、墨書の粒子の動きとはまた違ったものが感じられるのでした。

駅で見られる電車の動きに似た錯覚だろうと、余計な説明は考えないことにしておきましょう。

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正面から向き合わなければ曲がって見える

2014年07月12日 | つぶやきの壺焼

四角四面という言葉があります。
やたらまじめで堅苦しいことのたとえですが、四角なら四辺、立方体なら六面なのに、この言葉は正しいですかと、四角四面を気取った阿呆Qの登場を誘いそうな言葉です。

フレキシブルディスプレイでは、四角な面が曲線に見えますが、四角な新聞が曲線状に写った写真を四角な紙に印刷して「これ、見てごらん」と持って来られた方がおられます。
人物の集合写真を、超高画質で撮って配ってくださるほどの、カメラ操作には慣れた方なので、わざわざそういう撮り方をして印画を見た人の反応を見ようという遊びだったか、何かの戒めのおつもりだったのかと、あとから気がつく何とやらです。
意図を確かめるのは野暮なので、それはしません。

「真正面からカメラを向けなかったからでしょう」と、そのときいきなり口にした、したり顔の感想が、何とも恥ずかしい気もします。

ものごとは正面から向き合わなければ曲がって見えるという、警鐘を鳴らして歩いていらっしゃるのかもしれません。
はすかいから、あるいは裏から見るのは、まず正面からはっきり見てからがよさそうです。

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面と線

2014年07月11日 | つぶやきの壺焼

点と線という松本清張の著名作があります。

点⇒線⇒面と、つながることによって相が変わります。
線の話が面として受け取られると、食い違いが出てきます。

周囲が方形でないディスプレイが開発された話をしたら、そんなのはずっと前からあるという返事。
「四角でない」という言い方が「平らでない」と聞こえたらしいのです。
たしかに、四角な紙も、曲げて斜めから見れば四角には見えません。

周囲が曲線のフリーフォームディスプレイを、面を折り曲げできるフレキシブルディスプレイのことと思われたのでした。


「四角でない」⇒「曲がって見える」
抽象表現が具象想像に変わるときに、感覚のレイヤーを重ねそこなうと、こんな食い違いができます。
この食い違いがいったん出来てしまうと、話を合わせるまでにいろいろな言い換えが必要になります。

説明は簡単なほうがよいとよく言われますが、もっとも簡潔なつもりの「四角でない」は、言葉足らずであったようです。

枠のないディスプレイに、「枠が四角でなく曲線の」とは言いにくく、枠にとらわれたばかりに話の枠がずれてしまったのでした。

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街路樹はなぜ丸坊主にされるのか

2014年07月10日 | つぶやきの壺焼

毎年秋になると、これでまた芽が出るのかというほど、街路樹はきつい剪定、徹底した枝切りを施されます。
太枝も元から落とされて、杭なのか立ち木なのか、わからない姿になるものもあります。

なぜこれほどまでに枝を伸びにくくするのか、台風8号で倒れた沖縄の街路樹を見てわかりました。
たわわな枝は、思いきり強い風を受けるのでした。

野にある樹は、枝が茂れば幹の根も釣り合いがとれるように丈夫になるでしょう。
しかし、街路樹は、周囲の舗装や配管で自由な根張りを許されず、幹も太くなれません。

いたしかたない環境適応の結果、毎秋季断髪丸坊主の恥辱に耐えるしかないのでした。

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待てば海路に台風も来る

2014年07月09日 | つぶやきの壺焼

集団も個別もそんな区別はもともといらない、自明の権利である自衛権論争に気をそらせながら、働く人はひたすら働き、遊んで暮らす人は毎日ただ遊んでいます。

はじめ10万円で契約された超危険作業の報酬が、現場で実際の作業に当たる人のところまで来ると、6000円になってしまっているという非情な現象も、神のお告げであるかのように、当事者が話題にのせてはならないという奇妙巧妙な掟が出来上がっていて、何かと言えば報道の自由を唱えるメディアからも、伝えられることはありません。

何かの機会にそれを耳にすることはあっても、そんな人もいるのだから仕方がないと、いつまで続くか見通しのつかない非正規雇用の自分のありさまを、享受しなければならない境遇であると思わせることにしか、情報の力は働きません。
とにかく構えずに待つという習慣が、半世紀かけて根付きました。

待てば海路・・・・・・ということわざも、来るものが台風だけでは何ともはや。

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なぜ原子力にこだわるのか

2014年07月08日 | つぶやきの壺焼

持って行き場のないものを後からあとから作り続けるのは、動物が種の永続を願う本能の変容でしょうか。
さしあたりの処置はともかくとしても、さしあたりの行動が、始めた途端にやめられないことになってしまう、それが始末の悪いところです。
続けることが種を根絶やしにするおそれがあっても、いま続けることを先にしたがる、それが人類の最悪の習性です。

続けることでいい思いのできる人、生きがいを感じる人、苦痛であってもほかに何もできない人、さまざまな人たちが、止めることには行動を起こしません。
止めようやめようと騒いだところで止める力にはならないのに、騒ぐことを始めればそれだけを続けます。
止めるために何をしなければならないかに、知恵のある人知識を持った人も、自分の力を出し尽くそうとはしません。
みな観客席側に座り込んで、「続ける」ことだけを続けます。

なぜ止めないのかは、「止められないと思っている」こと以外に理由はありません。

原子力問題も、対テロ問題も、止められないという理由をそれぞれに見つけ出して、永遠の非常時を維持することに力を入れ続けます。
なぜそういうバカげたことを続けるのか、それは、続けなければならない、「もうやめた」と言ってはいけない、と思い込んでいるからです。
「もうやめた」と言われると困る人は、世界の人口のせいぜい1%ぐらいかもしれません。
どこにいるのかさえわからないその人たちのために、仕掛けたことをとにかく続けて、99%のひとびとは毎日を過ごしているのです。
人間は、苦楽成否にお構いなく、永遠を好む生きものなのでしょう。

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教えないのはくたびれるから~そんなばかな:5

2014年07月07日 | つぶやきの壺焼

伝統工芸と呼ばれるものは、これまで伝承されてきた工法です。
伝承されてこなければ、つくられたものだけは残っていても、伝統工芸の仲間入りはできません。

工法は、教える気がなければ伝承されません。
また、教えられる気がなくても伝承されません。
教える者と教えられる者が、同じ場に居合わせなければ、伝承されません。

ところが困ったことに、教える者と教えられる者どうし、お互いに気疲れを感じてしまうことがあるのです。

電車の停止位置がうまくいかず、扉も開けずに次の駅まで行ってしまった珍事も、指導員同乗という気疲れのたねが、集中力を出させなかったのではないかと思います。
こういう性格の人には、指導員のほうも楽ではありません。

教えることがうまくいかないのは、懸命になるとくたびれるから、教えたがらないのもくたびれるから、でしょうか。
気疲れを取り除く決め手は何でしょう、教え甲斐という人間どうしの気持ちの問題でしょうか。

どちらか一方に気分周波数の調整能力があって、共振を起こせるかどうか、そんなことかもしれません。

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逃げ腰型研究に明日はない

2014年07月06日 | つぶやきの壺焼

地球人の原子力利用の失敗は、世界中逃げ腰型研究者ばかりだったことに原因がありそうです。
終末処理の方法を確立できないうちに、最も肝心なそのことから逃げていました。

共同研究という、人間社会では当たりまえのことも、産業といううしろだてに頼らなければ成りたたないと思いこんで、声を掛け合うことからも逃げ、ひとりずつバラバラに研究室に閉じこもっていたのでしょうか。

自世代にはとりあえず必要がないとしてきた終末処理のことは、でっち上げたコスト計算方式を壊してしまうので、言い出せば産業界からは冷たい目で見られます。
その冷たい眼から逃れるのに、危険性を唱えているだけの、暗闇の読経のようなことしかすることはなかったのでしょうか。

ものが壊れてから、「だから危ないと言ったではないか」などと、いくら叫んで回っても、それはもう研究の仕事ではなく、逃避の旅でしかありません。

研究の壁を、自ら取り除く意志を持たずにいたのでは、「それが現実」という言葉も、逃避先を示す貼り紙の決まり文句で終わります。

原子力の専門研究者は、御用会議の委員や、ぶち壊しのための講演論者の依頼は断って、研究室に戻ってください。
掻きまわしたり、溜め込んでみたり、隠したりの、その場仕事ではなく、何をどういう手順でどう進めなければならないかという、道筋を見つける共同研究を始めてください。かた意地、逃げ腰は、危機には役立たないのです。

箱もの産業、プラント産業の売り込みを待ってみたり、試してみたりの進言では、任期勘定の時間稼ぎ効果しか得られないでしょう。

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オレガノが消し去る歴史の香り

2014年07月05日 | つぶやきの壺焼

後の世に語り継がれることを何かしたいという気持ちを強く持つ人は、歴史に残るようなことをなし遂げるでしょうか。
実際にそれができるのは、ごくわずかの人でしかありません。

認められよう、歴史のページにこれを刻みつけようという思いだけが走り回って、することは忘れ去られたほうがよさそうなことばかりという、気の毒な結果になることが多いのです。

「私を初めに使ったという人は20人もいる」と、タモリが言ったそうです。
本にまで書かれているデビューの話でも、俺が私がと言いつのる人がこれほどいるのでした。
どんな素晴らしいことをしてみても、「俺がのぉ」というひとことで、その効果も好香も消え去ります。

歴史に残ることは、自分でも思い出せないくらい数多くのことのうち、ただ一つかもしれません。
「これを見てくれ」と力んでしたことほど、忘れられやすいのでした。

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グローバル汚染が進んでいます

2014年07月04日 | つぶやきの壺焼

2016年にオリンピック開催予定のリオデジャネイロの夜景です。msnの壁紙サイトにありました。
そこにはこんな説明が書かれています。
「昼間とはまた違い、夜はライトアップされ一段と魅力的な風景を見せてくれます。」

当たりまえのことがわざわざ書かれているのには、何か意味があるのでしょうか。
「昼間とはまた違い」は、ちょっと文字を外してあるようです。
「ま」と「た」の間に半文字、後に一文字を入れてみると、説明全体の意味をつかめるようになります。
「昼間とはまったく違い」、「昼間の風景は見るに堪えないけれど」と言いたげなのです。
何がひどいのかと思っていたら、ブラジルの海は、いま、古タイヤ、マットレス、ときには遺体がぷかぷかと浮いているというラジオ放送がありました。

不思議なのは、リオを開催地に決めたときに、海はどうだったのかということです。
視察のときは、何かと忙しなく、海を見ている暇もなかったか、開催が決まってから人々の気分がいっそう大らかになって、役に立たなくなったものは何でも川に捨て海に流れ込むようになったのか。
間に合わなければもう一度ロンドンでなどと言う人もいるそうです。

中国では、伝書鳩が狂って行方不明になった、PM2.5の影響かという話もあります。


局地的なテロとは違い、環境汚染はグローバルです。
どこかに演技の臭いのするテロとは違い、環境汚染に演技性はありません。
演技されてないことが広がっていくのは、誰もエエカッコしようのない恐ろしいことです。

グローバルだワールドだなどと、のんきに浮かれていると、とんでもないことになるかもしれません。

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サッカージムを作りましょう

2014年07月03日 | つぶやきの壺焼

ボールを持っているだけで得点できずに敗退したのは、プレーヤーの基礎訓練方法が適当でなかったからでしょう。
体力と放言力は人並みでも、またとないチャンスに、思ったコースから思ったところへボールを蹴ることができなければ勝つことはできません。

筋力や体型だけでは、ボールをゴールに運べません。

サッカージム、ゴールセンターを作りましょう。
小型ゴールマウス、ゴールシミュレーターを使って、もっとゴールの練習をしましょう。
ゴールの練習は、小さな的でもできます。

曲芸のようなボール操作より、どんなボールでもゴールに叩き込める、そんな技を身につけましょう。

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多数決命名はほとんど失敗する

2014年07月02日 | つぶやきの壺焼

名前を公募すると、「いま」にしか考えの及ばない候補がたくさん集まります。
カワイイ、オモシロイ、それだけの名前は、短期のイベント向きで、人の集まり方もそれにつられます。
けれども、元来長命を望む施設の名前には適しません。
町名に「いま」しか考えなかった失敗命名の見本は、大都市のあちらこちらに残っています。

品川の隣にできる新しい駅に、「芝浜」はどうかという案があるそうです。賛成です。
駅の名は、乗り降りする人よりもはるかに多い、通り過ぎる人々の耳に残ります。

地名駅名は、その地の人だけのものではなく、国の文化遺産なのです。
下手な公募で、恥ずかしい名をつけるのはやめましょう。

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