・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

補欠選挙とは何だろう

2013年06月30日 | つぶやきの壺焼

選挙でわからないことが一つある。
首長や議員団に、ある年齢に達した人全員が投票する通常の選挙と、議員に欠員ができたときの補欠選挙とでは、性格が違う気がする。
性格の違う選挙で投票権がまったく変わらないというのは、どこかおかしい。

代表を選ぶのだから変わりはないと言ってしまえばそれまでなのだが、そう思わせられているどこかに、説明できないわけのわからなさが潜んでいそうな気がするのである。

選挙制度は、自然に生まれたものでも神の思し召しでもないだけに、どこかに違いがありそうなのだ。
何が違うのか、考えているうちにふと思い当たった。

選挙の投票意識には、義務と権利があるのだが、通常の選挙では義務の意識が強く働き、補欠選挙では権利の意識が強く働くのではないか。

統計を捜し求めるのも面倒だからしていないが、多分補欠選挙は通常選挙より投票率が低いと思うのだがどうだろうか。

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わかりたがりはものわかりがよくない

2013年06月29日 | つぶやきの壺焼

聞くは一時の恥、ほとんど廃れた言葉で、「一時」を「いっとき」とすらっと読める人も少なくなってきているのではないかと思う。

ものを聞くのは恥ずかしいこととされていた時代は、世の中のことがわかりやすく、人のすることを見ていれば大体の想像がついて、ひどい見当違いもなかったのだろう。

新しいものや新しい言葉が次々に現れて、世間のことがややこしくなってくると、聞かずに済ませられることが少なくなってくる。
そうなると、なんでもすぐ聞くのが当たり前のようになり、聞かぬは永遠の恥だとばかりに知りたがり屋が増えてきた。

知りたがりが昂じてくると、知るだけでは満足せず、理屈でわかろうとする人がまた増える。
知りたがりよりもわかりたがりが増えると、使ってみなければればわからないことでも、まず先にわかりたがるようになる。

言葉は、意味がわからなくても気持は伝わる。
それが生き物元来の情報伝達手段で、言葉を知るということは、何かを伝えられるようになるということなのである。

言葉は、知る前にわかろうとするのは無理なのに、まず意味はなんであるかを確かめないと不安になるとわかりたがり屋になる。
言葉の意味がわかるには、また別の言葉が必要で、使った経験のない人に意味をわからせるのは至難の技なのである。
言葉に関して、わかることが先というのは、無意味な逆転の発想のように思う。

言葉の話は回りくどくて、わかりたがるとますますわかりにくくなる、困ったものだ。

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のどもと過ぎれば噛むのを忘れる

2013年06月28日 | つぶやきの壺焼

小学生がプラムの種をノドに詰まらせて呼吸困難になり、搬送先の病院で亡くなったというニュースを聞いた。
給食に出されたものらしいが、飲み込んだとき近くには児童しかいなかったのだろうか。
特別支援学級ということなので、子供たちも異常に気付かなかったか、気付いても先生に知らせる知恵が回らなかったのか、まことに気の毒である。
大人が早く気付いて、逆さに吊り上げて吐き出させれば助かったかもしれない。
こんなとき、うろたえて救急を待つだけでは時間がどんどん経ってしまう。

近頃の子はものを食べるのが下手になったのではないか。
よく噛むことを習わずに、のどを通りやすいものばかり食べていれば、噛み方どころか飲み込み方も、飲み込めるかどうかの判定もできなくなる。
ストローや吸い口からチューチュー吸い込むだけの習慣が付いていると、のどを通らないものまで吸い込んでしまう。

果物も梅干も、種つきで普段食べさせていれば、こういう事故も減るだろう。
むやみに食べやすいものを与えるのは、愛情でもなんでもありはしないのだ。
こういう子らが歳をとったら、救急車が忙しくてたまらなくなるだろう。

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使わなければ衰える脳

2013年06月27日 | つぶやきの壺焼

「フリーズする脳」(築山節 NHK出版) に、『脳はボケるようにできている』という確かな言葉があります。

ボケるようにできているということは、使わなければ衰えるということです。
これは脳だけではありません。
人間の体全体がそうなのです。
脳以外のところは、ああ最近使ってないなと自分でも気付きますが、脳はちょっと違います。
使っているつもりでいて、実はそうでないという場合があるのです。

脳が衰えるなら大きめにと思っても、それは無理です。
衰えの度合いを極力少なくすることしか、脳に向かって打つ手はありません。


脳の働きに、智恵という、また得体の知れないことがらがあります。
脳は大きくできなくても、智恵の居場所は自由自在ですから、いくらでも広げられます。
智恵の居場所にも、やはりある種の自然現象に似た性質があって、いつも一回り大きくしようと思っていなければ、だんだんしぼんでいきます。

脳の働きはしわのより方だという話も昔聞きましたが、智恵はおかしなもので、しぼまないようにしわを展ばそうとすると、端のほうに切れ目ができ、またしわが寄りやすくなります。

智恵のしわ伸ばしには、コラーゲンも、ヒアルロン酸も、ペプチドも、飲んだりつけたりはいりません。
TVやゲームにつかまった呆け状態から、抜け出せばしわが伸びそうです。

脳は使おうとしてもいきなりは動きませんが、智恵はその気になれば動きます。
智恵は脳を動かすOSで、カスタマイズ可能だったようです。

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名刺は誰のものか

2013年06月26日 | つぶやきの壺焼

名刺は郵便切手と収入印紙の次に小さい日用紙片です。
おっと、電車の切符を忘れていました。
Pasmo を使うようになってから切符を買わなくなったので、つい忘れるところでしたが、ここは名刺の話なので、切符のことには触れずに置きます。

パソコンいじりのある会のイベントに、名刺を作って差し上げますというコーナーを置いたら、なかなかの好評で、私は自分で作れるからと、友達の分までさっさと作り始める奥様がいらっしゃったという話を聞きました。

名刺というものは、顔や連絡先の記憶時間を引き延ばしたり断続させたりするためのもので、その人独自のものなのです。
会社や団体で作る名刺は、企業、団体の営業または外交活動に必要なので、それぞれの会社や団体の、やはり独自のものです。

名刺は、自製でも、注文印刷でも、他者が手を出すのは差し出された名刺を受け取るときだけのものです。
家族のものならともかく、その製作意思の発現には、他者が手を出すものでは元来ありません。
早く言えば、ついでに作ってあげようというのは要らぬおせっかいで、頼まれていたのなら作ってあげてもよいだろうということです。

他人の名刺を気軽に作るのを、いちいちとがめだてするのも大人気ないので、一つ方法を思いつきました。
「名刺はご自分のものだけおつくりください」
こう書いて、よく見えるところに貼り出しておけば、それでもなおという面の皮の厚い人でなければ、頑張る人はいなくなるでしょう。

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大学より確かな大学校

2013年06月25日 | つぶやきの壺焼

車中の雑談で、こんな話を聞いた。
「大学という名が、本名の場合と通称の場合とがあるんだねえ」「え?」
「大学と大学校との違いだよ」

「校」は、教える-ならうという交差した授業が行われるところである、これは漢和辞典の記述である。
どこの大学を出たかが、あてにならない物差代わり、あるいは人物のブランド・タグのように便利に使われてる「大学」、それには「校」という字がついていない。

大学では、教える-ならうという交差した授業が行われないから「校」をつけない、ということでは、まさかないだろう。

大学とは別に、「校」のついた「大学校」というところがある。
「校」がつくかつかないかの区別は、学校教育法の規定に沿った教育訓練施設でないかあるかなのである。
「ないかあるか」は変な言葉遣いだが、「つくかつかないか」と先に言ってしまったので、解釈を逆にされないためにはこうなる。
ぐずぐず言うよりもこれはこう、という書き方のほうが確かであるからもう一度書く。

「校」がつかない「大学」は、学校教育法の規定によるもので、
「校」がつく「大学校」は、学校教育法の規定によらず、規定する法律のないものである。

法に縛られると、規定に合わせることのほうに考えが固まってしまい、教育の理念や効果よりも、罰せられないか、補助金の支給を止められないかという計算が先に立ってしまう。
こう考えると、法律の規定に縛られない大学校のほうが、それぞれ独自の目的に沿って、教育の内容が確かなのではないかとさえ思うのだが、どうだろうか。

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お寺だったお稲荷さん

2013年06月24日 | つぶやきの壺焼

豐川稲荷は「宗教法人 豐川閣 妙嚴寺」山号は圓福山という曹洞宗のお寺でした。

お稲荷さんは、みな紅い鳥居に紅いやしろの神社と思っていましたが、いまごろになってそうではないと知ってみると、「知る」ということの不思議さをあらためて感じます。

TVやネットがなければ知らずに一生を終えるところでした。
知ったところで何がどうなるものでもないことを、あれこれ並べてみてもしかたがありませんが、「知る」ことがときどきサボる脳にどういう影響を与えているだろうかという、興味の材料にはなります。

もう少しまめであったときなら、豊川までは足が伸びなくても、赤坂までなら出かけてみようか、みやげは青野の赤坂もちか、などと考えるところでしょう。

赤坂には、坂の途中からまた枝分かれの坂があり、名前がついていたのを思い出します。
JISの本丸である日本規格協会の本部、とらやの本店と、四角いものが揃った街ですが、もし鳥居の形が丸かったら、ご利益はどんな形で現れるだろうかなどと、奇妙な考えにズッコケそうなので、このあたりで下り坂のブレーキを踏んでおきます。

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首を傾けてみるエリアマップ

2013年06月23日 | つぶやきの壺焼

交差点や駅の近くには地図看板が掲げられている。
昨今は「エリアマップ」と呼ぶらしい。

エリアマップは、どういうことを重視して作られたかをみると、おおむね3種類ある。
1.デザイン
2.厳密性
3.利便性

眺めて楽しむ人はごく少ないから、利便性の高いもの、つまりひと目見ればすぐわかるように作られているものがよいのだが、なかなかそうはいかない。
置いてやる見せてやる気分が捨てきれてないものをときどき見かける。

いつだったか、都内のある交差点で見かけたのには、蛙に見せたいのかと思うような、上下逆転型のものがあった。
自分の目玉を背負ったつもりで見なければならない、後が上向き、前進方向が下向きになっていたのだ。
あれは見ているうちに頭がくらくらしてきた。

上の写真のものもデザイン重視の例である。
バックに写っている建物が倒れて見えるように、盤の前に立って道路の向きと見比べたとき、盤を63度左に傾けないと、方角が合わない。
盤は動かないから、見る人が首を63度右に傾けなければよくわからないようにできている。

置こうとする現場に立って見ることをせずに、机の上で、「こう見た向きに作ってください」と注文したが、出来上がってから据え付ける方向が違ってしまったのではないかと思う。

手間を省きすぎるとろくなものはできないという見本にされて、剥げ落ちるまでここに立っているこの看板が気の毒である。

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聖域とはどういうところでしょう

2013年06月22日 | つぶやきの壺焼

聖域というむずかしい言葉があります。
おかしてはならない区域、それに触れてはならないとされている問題や領域、と説明するあたりで、すでにこの領域はおかされています。
不振のベテラン選手がレギュラーの座に居続ける場合、聖域と呼んでおけば他に理由は要りません。
聖域は、「そんなことを聞くものではない」という看板言葉です。

「聖域なき関税撤廃を前提とする限りTPP交渉参加には反対」というメイ言があります。
「全てを無条件で」と言ったのでは、無条件の愚態的説明をすぐに求められます。
そこを「聖域なき」と置き換えればもう手も口も出せません。
「聖」の威光が、どんな疑問もどんな解釈も寄せつけないのです。

言葉には魔力がありますが、この言葉ほど強い魔力をもったものはなさそうです。

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争いごとは争いの存在を認めさせるために起こされる

2013年06月21日 | つぶやきの壺焼

争いごとは、何がどうしたからという原因を聞けば、争いごとにしない手段はいくらでも見つかります。
それでも争いごとが起こるのは、争いの雰囲気を知らせたい人がいるからでしょう。

トルコのデモは、タクシム広場にあるゲジ公園の存続を訴える運動として始まったそうです。
ゲジ公園は緑の少ないイスタンブール中心部にあります。
政府が、これを取り壊してオスマン帝国時代の兵舎をモデルにした多目的ビルを建設するという計画を立てていると報じられました。
「帝国」「兵舎」このキーワードが二つも入っていれば、プラカードの文言には事欠きません。

植物のタネはみな小粒、育て方次第で花も実も違ってきます。
争いごとも、見せたいのは花や実だろうと思ってしまうと、少しハズレということになりそうです。
育て方を開陳したい、それが生きがい、そんな人が世界中を渡り歩いていますから。

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国癖という困りもの

2013年06月20日 | つぶやきの壺焼

集まった人が境遇の差を笑い飛ばす国もあれば、人が集まったときには笑顔を見せない国もあります。

笑顔を見せない人たちは、個人的なかかわりを嫌うように躾けられたのでしょう。
集団では事を起こしても、個人とのかかわりをもたない、もってはならないとされていれば、当然固い顔つきになります。
その国の人は、プリクラには一人でしか写らないそうです。

一人一人は付き合いができないわけでもないのに、表立っては個人同士のかかわりを見せない、見せてはならないという国癖ができてしまっているように思います。

事を起こす場合でなければ集団を作らないとなれば、団体のマナーなどは育ちません。
ルーブルでは、目に余る行為があまりにも多く、団体客を断られたそうです。
その人たちは、是非の分別を自分でできず、「なぜ」を考えることができません。
言葉遣いまで正しいかどうかと権威の判定を求めたがります。

その国の団体客とは、同じホテルに泊まらないほうがよいとさえ言われます。

その国流の販売法があるそうです。
1.モノは客が手にとって見られない置きかたになっていて、要求すると店員が出してきます。
客がキャッシャーに足を運び代金を支払い、支払い証明伝票を持って戻ってきて店員からモノを受け取るという仕組み、これが表側のやりかたです。
2.モノをいくつ買いたいかと店員に聞かれ、複数なら即座に割引になります。
カネを店員に渡すと、店員がカネを受け取り、奥から出してきたモノを客の鞄に裸のまま店員が押し込みます。
これが裏側のやりかたで、キャッシャーは別にあっても、その際全く機能していません。

なくて七癖と言いますが、国癖を知らないと、旅行の気分にも費用にも、大きな差が出るようです。

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現代イルカ気質

2013年06月19日 | つぶやきの壺焼

イルカの頭のよさには驚かされます。

まだ調教の合図を覚えこんでなかった素人が、「鳴け」なのか「ジャンプ」なのか見極めのつかない合図を出したら、とりあえずと思ったかどうかわかりませんが、立ち上がって鳴いてからジャンプをした様子が放送されました。

イルカの属するクジラ類には、高度な知能だけでなく、自意識、苦悩、社会文化を特徴としてもっていると唱える研究者もいるそうです。

食にありつくには、いろいろなことを覚えて、実際にやってみせなければなりません。
わたしはそういうの嫌だ、などと言ってはいられないのです。

とはいえ、嫌な人の合図には応えなくなるので、イルカのトレーニングは、イルカに嫌がられないことが肝心なのだそうです。

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お辞儀の種類

2013年06月17日 | つぶやきの壺焼

お辞儀にも種類があるようです。
礼を尽くすお辞儀と、格好をつけるお辞儀。

どちらに属すかは、お辞儀の姿を見ればわかります。
片足を前に出してしなを作った振りを見せるお辞儀は、説明の要もなく格好をつけるお辞儀で、なんとも見苦しいものです。
片足を後に引くところを、反対側の足を前に出してしまったのでしょうか。

それをCM画面に出す変わった会社もありますが、何が狙いなのか、よくわかりません。

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笑って許して

2013年06月16日 | つぶやきの壺焼

アフリカでは、下層にいる人が格差の事実を目の前にすると、皆で笑い飛ばすそうです。
苦境が平常の生活なら、それと違った様式に出会ったときには、笑っておくしかないということなのでしょう。

日本人は、そういう場合に笑ってはいけないと思ってしまいます。
不謹慎という言葉があたまをよぎるからです。

アフリカには英雄がいないそうです。
現代の日本には英雄はいませんが、英雄ぶる人はいます。

さて、どちらが幸せでしょうか。

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補助金には税金が追いかけてくる

2013年06月15日 | つぶやきの壺焼

東急桜新町駅の近くにサザエさん一家の銅像がある。
町の商店街振興組合が、都と区からも補助金をもらって作ったもので、12体で4200万円かかった。

これに固定資産税がかかるとは、サザエさんもびっくりしただろう。
その額58万9200円。

いまの税法では、町の活性化に役立っても商店街振興組合のものなら事業用資産だという。
これが役所の所有物なら無税。
できあがったときに寄付してしまえばよかったかのだろうか。
保全維持をどうするのかなどと、またややこしい話もあるとは思うけれど。

調布の「ゲゲゲの鬼太郎」さんは事業用ではないらしい。
お化けは仕事をしないからか。

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