・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

別次元:14 謝罪 >< 祈願

2018年12月31日 | つぶやきの壺焼

これほど尽くしてもまだ謝り続けなければならないのかと、なじられ責められ耐え切れなくなることもあるでしょう。
謝れば罪が消えると思い、そう願っていても、願いがかなうものではありません。

謝罪は祈願とは別の次元のことです。
謝罪には負の効果しかなく、たび重ねれば負担感が増えるばかりで、罪が軽くなることはありません。
相手の負担を目当てにつくられた罪の場合、もともとないものが消えていくことはありえないのです。

罪つくりな言いがかりに、その場の空気を和らげようと、とりあえず謝罪しておくこともあります。
そのときは謝罪と呼んでも、その行為者に罪の意識はありません。

だれそれがあのときに謝ったから、そのおかげでいつまでも相手より下位の立場に置かれなければならないなどとぼやくのは、いじめの連射にかわし方も思いつかず、反撃の勇気もない弱者の言い訳でしかありません。
自らの意志の弱さを先人の謝罪行為の記録や記憶を使って覆い隠そうとする、卑劣な表現手段です。

口をつぐんで静かにしている同胞を、いつまでも引き合いに出して、いまの自分の立場や気分を正当化するのは見苦しいことです。
話の引き合いどころか、選挙の応援などに引っ張り出すなどは、ぶざまもいいところです。

世界の笑いものになる行為は、もういい加減にやめましょう。

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別次元:13 苦楽 >< 正否

2018年12月30日 | つぶやきの壺焼

むかし「苦楽」という雑誌がありました。
創刊の大正13(1924)年1月号には、直木三十三(当時三十三歳)のはじめての小説が載っています。
執筆者の顔ぶれをみると、凄い雑誌です。

この「苦楽」は life の訳語だそうで、人が生きることには苦も楽もあって、しかも苦が先、それ当たり前だったのでしょう。
いまでは楽の割合が多いほど佳い暮らし方のように思う人が増えました。
苦が悪いこととされ、それを避けるほうが正しい生き方のように言う人もいます。

しかし、苦楽と正否は別次元のことがらです。

苦楽は半々ぐらいがよさそうなので、苦を全く味わうことのなかった人は、生き方の体験が普通の半分ということになります。
そういうひとが、未体験側の半分に行き会ったときには、もう途方に暮れるしかなさそうです。

多くの苦に巡り合った人が特に偉いわけでもありません。
苦を自力で乗り越えた人が偉いと言えるので、自慢のたねにはなりません。
それはほかの人が褒めたたえることなのでしょう。

さほどでもない苦から、やたらに逃げ回っていれば、それが正しいか否かではなく、せっかくの機会を逃すことになります。
逃げているとき、それが実は苦なのだということに、その人は気付いていません。
逃げていておもしろいのは、鬼ごっこ、子供の遊びです。

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別次元:12 次元変換

2018年12月29日 | つぶやきの壺焼

はじめからウソのことをとらえて、事実の経緯が確認されていないから手の打ちようがないというのは、面倒なことに意見をいわないための言い逃れです。

ものごとは、事実の観察と真偽の認証との次元が一致したとき、ほんとうのことがわかります。

事実をすがめで見ながら、これが真実だと叫んだり書いたりしたものにときどき出会います。
真偽の次元を何かの都合に合わせてずらせておけば、自分がうそを言っているといういやな思いを遠ざけることができるというものです。

こういう扱いに慣れてくると、真偽の次元軸変換が脳内で無意識に行われるようになります。
次元変換の自動化、これは外交、報道などに携わる人の"優れた能力"でもあり、"危険な装置"になる困りものでもあります。

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別次元:11 利不利 >< 正邪

2018年12月28日 | つぶやきの壺焼

ビスマルクは、「大国が国際法を守るのは自国に有利な場合である」とし、理念や情念に左右されることのない、現実的な国益判断の必要性を説いたといわれています。

地球上には、大国でもないのに大国のまねをしてみたり、理念、情念のどちらでもなく恨という概念しか持たないように人を育て上げたりする奇妙な国もあります。

利には不利、正には邪という、それぞれの軸上に対立概念を考えるのが通常の脳の働きでしょう。
ところが、恨にはその働きがなく、どちらを向いても恨、とにかく恨が徹底されている模様なのです。
これは、次元が定まらずわけのわからない脳神経のはたらきによるもので、こういう人が政治の中枢にいる国際法も条約も意に介しない国と、通常の人間感覚で何とか交流を図ろうと思うのは"無駄な考え休むに似たり"で、まったく意味を持たないようです。

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別次元:10 進・退路

2018年12月27日 | つぶやきの壺焼

言行不一致は、行いで攻めたてる道と、言いくるめて逃げる道が、論理的に重なりもせず平行でもないという、気持ちの悪いものです。
ところが、そういう次元の違いが常道という人たちがいて、国を挙げてそれが当たり前のように言いたがる、奇人の集まりがあります。

隣国の海岸近くまでやってきて、むやみにレーダーを放射し、危険を責められると、狙ったのは飛んでいた飛行機ではなく、海にいた異国の船だと言い張ります。
空と海では方角が違うではないかと言われ、しまったと思えば次には、放射などしていないとうそぶきます。

とち狂ったような言動や、正常な頭脳では解釈のしようのない異次元の考えは、同じ言葉を使ってみても理解できるものではありません。

並んでカメラを向けられたときだけニコニコして見せる、それだけを覚えた異次元文化の国の人との対し方は、これまでの"そのうちなんとかなるだろう"では永久に通じることはなく、足踏みで泥沼が深くなっていくばかりです。

この交流の仕方には、いよいよAIの出番が来たのでしょうか。

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別次元:9 寸法

2018年12月26日 | つぶやきの壺焼

売っているパンやケーキが、大型で食べきれなさそうで手が伸びないマーケットがあります。
オレンジジュースが、手のついた洗剤のような容器に入って売られています。

食べものの大きさも、食べる人の体の大きさによって変わり、異次元の世界のような錯覚を起こしそうです。

ものの大きさが違えば、それを作るコストも変わります。
通貨換算だけでGDPを単純に比較した順位付けは、どこか思考の次元がずれているのではないでしょうか。

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別次元:8 主義 >< 信仰

2018年12月25日 | つぶやきの壺焼

言霊信仰という想定回避手段があります。
信仰は、頭で考える主義とは別次元で人をとらえ、そのつながりがまた信仰に深みを増していきます。

口にしなければことは起こらないという、何世紀も前から根付いている言霊信仰は、言い続ければそうなるという人心攪乱に逆用もされます。

「長い目で見れば日米安保にも悪い影響を与えかねない状況だと強く危惧している。沖縄の民意を意図的に逆なでしているとしか思えない。到底容認されるものではない」
などとうそぶく政治屋もいますが、その人は、「強く危惧している」と言いながら、おそらくそれを願っているので、国の存亡にかかわることであれば、そんなことは到底容認されるものではありません。

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別次元:7 時間軸

2018年12月24日 | つぶやきの壺焼

時間軸がずぅーーーんと伸びたような、巻き貝の動きを見せている、ただそれだけのサイトがあります。

ときには、異次元の世界でひとやすみもよさそうです。

淡水巻き貝ラムズ日記 

淡水貝でなじみの深いのは巻き貝のタニシと二枚貝のシジミです。

タニシとシジミで思い出したのが、貝殻の形とはまったく関係のない、それを好んで食卓に乗せていた祖父のヒゲでした。

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別次元:6 異次元同語

2018年12月23日 | つぶやきの壺焼

同じ言葉が次元の異なるそれぞれの場で使われると、話がややこしくなります。

行政区域の首長の座に、それまで行政の仕事とは全く関わりのなかった人が就かせられることがあります。
担ぎあげられる人には、芸能の才をもった人気集めの得意な、いわゆる名の売れた人がときどき選ばれます。
ある意図をもって予め用意された脚本どおりに動き回りしゃべりまくることは、そういう人が得意とするもともとあった才能を発揮して、いとも簡単にやってのけられます。

首長は選挙という手続きを経て選ばれます。
この人ならばどうにかうまいことやってくれそうだという人気さえかちとれば、多くの人々から票を集めることができます。
投票者の多くは、さほど深い考えもなく、顔つきと話しぶりぐらいにふと心が惹かれ、あたりのよさそうな人の名が投票用紙に書かれます。

人々の望むことは、生活が良くなることで、それが得票数にあらわれたとしても、その区域の行政が国防政策にも深くかかわっていることなど、ほとんど意に介していないでしょう。
人々が思う生活と、国の政策とは異なった次元で捉えられます。
生活と政策に対する民意はべたっと重ね合わせられるものではありません。
生活と政策の次元が交錯するところがあったとしても、それぞれのごく一部でしかないのです。

首長に選ばれたからと言って、推薦者が書いた政策の脚本が、すべて民意に基づいたものとするのは、すり替え手ずまでしかありません。
それが悪いのは選んだ人が悪いというのも、詐欺は騙されるほうが悪いとするのと同類の言いくるめでしょう。

選ばれれば何をしても何を言って歩いてもよいというのは、これも民主主義という制度を捻じ曲げた、異次元の解釈で、その行動言動が常に民意によって見張られているということを都合よく忘れてしまっているのだと思います。

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別次元:5 移動 >< 連絡

2018年12月22日 | つぶやきの壺焼

道路交通法のとんでもない改正案ができたそうです。
 「運転者が自動運転システムから運転を引き継げる態勢を取っていれば、走行中に携帯電話の使用やカーナビ画面での映像視聴が可能になる」(sankei.com) というものです。

人間は、異次元のことを同時に実行しようとするとき過ちを犯します。
心ここにあらずのたとえどおり、することに気持を集中できないからです。

車両の運転は位置移動の手段、電話や視聴は情報連絡の手段で、まったく行動次元が違います。
車両の運転だけでも一種の危険行為であるのに、それにまた別のことをさせようというのですから、無茶もほどほどにしてもらいたいと思います。

自動運転が無人のほうがまだましかもしれません。
そう、無人なら電話も視聴も必要ありませんから。

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別次元:4 貧富 >< 政体

2018年12月21日 | つぶやきの壺焼

暮らしが豊かになれば、貧しさから這い上がった人々が、独裁政体を嫌って民主政体を望むようになるだろうと待つのは、気の長い野外の火起こし作業に似ています。

驟雨に見舞われれば、もう一度やり直しか、あきらめるか、どちらか選択を迫られます。
にわか雨は自然現象、それをむりやり止めることはできません。

願望の風を懸命に吹きつけようとしても、あおぎやすい向きにしか動かさないうちわでは、たびたび降り注ぐ雨の水を乾かすことは、永久にできないでしょう。

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別次元:3 政治 >< 文芸

2018年12月20日 | つぶやきの壺焼

中心部に、その場の人が注目するよう造られた場所があります。
議場という政治の場と、劇場という文芸の場です。

形が似ているので場の意義を取り違え、あるいは場違いを承知の上で、とにかくそこに出たがる人がいます。

最も見苦しく、甚だ迷惑なのは、政治家のまねをしてみたいだけの演劇人です。
醜態が常態に変わってしまわないうち、早々に退場されることを願っています。

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別次元:2 課税 >< 保障

2018年12月19日 | つぶやきの壺焼

税はおカネで集められます。
だから税金という言葉があるのでしょう。

おカネで集められれば色分けはできません。
消費税は社会保障にあてると、それならばと思わせやすい、おかしな説明を聞かされたこともありました。

消費税を、社会保障にこのように割り当てて使いましたという報告は見たことがありません。
書き上げて見せるだけの報告書など、まともに見る人がどれだけいるかわからないからでしょうか。

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別次元:1 性能 >< 良否

2018年12月18日 | つぶやきの壺焼

性能が優れていて値段が安ければ、それは良い品物だとだれもが思うでしょう。

しかし、品物の良否は、それだけで判定はできません。

実用上は気付かなくても、中に何かの仕掛けがあって、使っているうちに電波をとおしてたくさんの情報をかき集めて利用したり、いずれは破たんに導くような何かの仕掛けをこっそり送り込んだり、そういう優れた性能をもったものもあるのです。
さしあたり目につくようなことは何も起きていないからといって、ゆめゆめ油断はなりません。

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錯覚時代:31 正常機能

2018年12月17日 | つぶやきの壺焼

人は錯覚の渦の中で生きています。

人道、人権、人口と、人の字がつく言葉が錯覚の種になることもしばしばあります。
忘れてはならないこと、ないがしろにしてはならないこと、漸増がのぞまじいと思うことは、ものごとの判断基準の一部分です。
それが先頭に競りあがって、ほかのことには目もくれなくなっているとき、人は錯覚に陥っています。

人が錯覚を起こすことを利用して、詐欺を働いたり、論題をはぐらかしたり、偏った考えに導いたりという、誘導錯覚、ご都合錯覚は、良いことではありません。
ただ、誘導錯覚にも、罪のないマジックのように、人を楽しませるものもあります。
それもよく見れば錯覚とわかるものと、錯覚ではないのに錯覚に見えてしまうというややこしいものもあります。


ものの形ばかりでなく、色も違って見える錯視という現象もあります。

杉原厚吉教授によれば、錯覚は脳の正常な機能で、錯視があったからといって、脳を叱ってはならないそうです。

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