・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

怪語補検:集中審議

2019年02月28日 | つぶやきの壺焼

国会には、集中審議と呼ばれる会議があります。
その呼び名を聞けば、議会や委員会で重要な課題について集中的に審議を行うことだろうと思うでしょう。
実施規則があるわけでもなく、要求されれば首相や担当大臣も出なければならないようです。
集中審議をしたいから出て来いと言われ、それを断れば、後の話が進まなくなるでしょう。

集中審議というからには、何を審議するのか、集中対象が絞られなければなりません。
集中審議であれば、出席者の意識は、一斉に審議対象事項に向かなければならないのですが、TVに映させるようなパネルを持ち込んだり、粘り強さだけを強調して見せたりで、発言者の意識は議会の外に向かっているように見受けられます。
聞かれる声には・・「あり得ません!」・・「信じられません!」・・「まったく理解できません!」・・「まったくおかしいですよ!」の連続のこともあります。
これでは審議ではなく、一所懸命であるという演技と、わいわい騒いでいるだけの熱心さを見てもらいたいというだけの集中にしか見えません。

異方向に集中しすぎた意識下では、することが度外れになれば、ほめられたい根性への効果は逆になるということに気がつかないようです。

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怪語補検:民意

2019年02月27日 | つぶやきの壺焼

すでに承認されていた沖縄の基地移転が、時の総理の軽率発言がもとになって、ややこしい話になりました。
県知事が変わると、新知事は反対と言い出し、火をつけておいてそのまま他界、次の知事はあらためて県民投票という民意確認方法を持ち出しました。

県民投票の準備過程で、不参加の市が続出したので、賛成か反対かに「どちらでもない」という、商業用アンケートのような奇妙な選択肢が加えられ、ともかく投票は実施されました。
結果は棄権が半数近く、これは投票所に行ったか行かなかったかの違いで「どちらでもない」よりもっと「どうでもよい」と思っている人だろうとも想像できます。

そもそもこれは、国会で決めたことを地方の行政で逆に正すという、民主的慣習に逆行する県民投票を、国民の民意を正すことにすり替えようとしたのがおかしなことでした。

「どちらでもない」のおかげで、結果の公表にはふた通りの計算方法ができてしまい、これでは、国の決定に本当に逆らいたいのかどうかという、地域民意確認の目的は達せられていません。

奇妙な投票には奇妙な結果が出るのはあたりまえで、奇妙な空気の実態を正常な民意が表したということなのでしょう。

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怪語補検:目線

2019年02月26日 | つぶやきの壺焼

カメラ目線、上から目線などと、目線という言葉がたびたび耳に入ります。

湯桶読みの「めせん」という言い方は、視線の言い換えとはちょっと違いながら、自分では使いたくない言葉の一つになっています。

ここまで書いて、二つのことに気付きました。

一つは、「線」という漢字に、あまり使われない「すじ」という読みがあったということです。
「すじ」は通常「筋」と書かれ、「線」を筋と読ませる文章にはまだお目にかかっていません。
「線」の元の字は「綫」であったものが、「セン」という音(オン)を持った「泉」に、つくりの部分を乗っ取られていまの文字になり、もとの字は異体字身分に追いやられてしまったといわれます。
音が幅を利かすと訓も影が薄くなり、「すじ」と読ませるにはルビの助けがいるだろうということです。

もう一つは、見えている状態にも一方方向の場合と双方向の場合があって、「視線」は一方方向、「目線」は双方向ではないかということです。
光の方向と話を絡ませるとややこしくなるので、それはやめて、この話は意識の方向ということにしておきます。

視線を向けるという場合は、見る人が見られる相手に向かっての一方方向です。
視線を浴びるとなると、双方向かなとも思いますが、とりあえず置いておきましょう。

カメラ目線と言う場合は、撮影される人の目がカメラを意識しそちらを向いている状態なので、これは双方向ということになります。
上から目線は、目というよりも意識の表現方向で、表現者が相手に向かってものを言ったり態度を示したりする方向と、相手がそれを上からと感じてしまうこととが双方向になっています。
相手が上下を全く問題にしなければ上からという効果は出てきません。

三つ目もありました。
視線にせよ目線にせよ、見るという行為は、見られる側の意識次第で性格も効果も変わります。
「上から目線が気に入らない」とぼやく人は、自分が下にいるという意識、いやらしく言えば劣等感が言葉になって出てしまうのではないかということです。

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怪語補検:悠々

2019年02月25日 | つぶやきの壺焼

悠々という状態には、自分の感覚と他人の眼とに大きな違いがあります。

いつも忙しそうに見えても、その人自身はゆったりしている場合もあり、ずいぶんゆっくりしていると見えても、その人はいつも何かに追われているような気分であったりします。
悠々なのかどうなのかに決め手はなく、決める必要もないのでしょう。

ただ、公費を騙し盗ってうまいことをやっている悠々だけは許されません。
いま、N町では、悠々と黙ってみてはいられないことが起きようとしています。
日本の国内に治外法権を作ろうという怪しい法案が、スルスル悠々と決められようとしているのです。

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怪語補検:緊急

2019年02月24日 | つぶやきの壺焼

さあ大変、大急ぎで、こっちが先、これらはみな緊急と呼ばれます。
かもしれないという知らせまでが"緊急"と呼ばれます。

そう言ってもらわないと困ることもあり、言われても困ることもあります。
緊急のたぐいの言葉を受けたとき、どうしなければならないかの判定には、言葉だけでなく空気の読み取りが必要です。

下請け製作の仕事をしていたとき、金曜日の午後になると、月曜日の朝までにという仕事をよこす、悪癖のある親会社の人がいたことを思い出します。
12月28日の夕刻、官邸に情報を持ち込む野鼠党の人も同類、こういう人たちは、多分いい死に方はしないでしょう。

ともかく、"緊急"は、気づかなければ危なくもあり、それに囚われてもよくない、困りものの一つです。

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怪語補検:再発防止

2019年02月23日 | つぶやきの壺焼

何かまずいことが起きると、そのニュースの末尾には、当事者は「再発防止に万全を期する」と言っていると書かれたり放送されたりします。
原因をつきとめずにできる対策がどんなものかは、およそ想像がつきますから、それに期待を寄せることもありません。

再発防止は、こういう場合の唱えごととして、ムニャムニャ述べられる言い訳弁の定番熟語になっています。
また起きるかもしれませんなどとは、わかっていても言えませんから。

言葉は魔力を持ちます。
同じたぐいのまずいことが起きなくなるのは、「再発防止」という言葉が消えたときなのでしょう。

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怪語補検:謝る

2019年02月22日 | つぶやきの壺焼

謝るということは、人が自分のそのときの気持を表す行為です。
自分が悪かった、失礼してしまった、いえそれほどでもないなど、どんな場合にも行われる社交手法の一つです。
謝っている姿を見れば、誤っている人が、そのときどういう気持でいるかがわかり、謝られたほうはそこで気持が落ち着きます。

謝るということは、その人がどういうことをしたかの説明にはなりません。
どういう事柄であるかの説明にもなりません。
その人の、そのときの気持の表れで、いわば瞬間に消滅するものです。

なんでも謝っておけばその場がおさまりやすいからと、しきりに謝ってみせる、謝り癖のついた人もいます。
謝らせることに快感を覚える、クレーマーと呼ばれる人たちもいます。

謝りごっこは美風でもなんでもありませんが、同じ文化のなかであれば風習のひとつで悪いことではありません。
しかし、異文化の人を相手に、うっかり謝り癖を見せてしまうと、謝ったことが事実の証明のように扱われます。
日本人は簡単に謝り、謝るときには何かを持ってくると思われてしまえば、有罪無罪どころか捏ねて作り上げられた架空の罪を種に謝罪要求が始まり、延々と続けられることになります。

要求するほうは、謝罪要求という空虚な行為から醸し出される空気に酔い、どんどん気分が昂ります。
つい先日も、酔っ払いの戯れ言のような外国人の謝罪要求がニュースにまでなりました。
国の最高責任者に謝れという暴言ですが、ここで酔いが醒めなければ、次は八百よろずの神に謝れとでも言い出すのでしょうか。

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怪語補検:帝国

2019年02月21日 | つぶやきの壺焼

帝国主義は悪者であると告げられ、ただそういうものかと思ってしまえば、その人の頭の中には、帝国=悪 という図式が固定されます。

深く考えることもなく、意味も何も度外視されて記憶にしみ込んだ言葉は、次には 嫌な国=悪い国=帝国 という反射意識に変わり、嫌いな国の代用表現にも使われることになります。

「盗人猛々しい」という表現を、全く見当違いのところで使ったあの言葉も、「嫌い」という意味にあてはまり、相手を怒らせるに十分な効果が出ていました。
こんなわかりやすい言葉でさえ、口から出まかせでも湧憤揚言としては十分な力を持ちますから、もっと意味の広がりの大きい帝国というような言葉は、応用多々、うっかり既定図式を当てはめると、言語戦略にひっかかります、ご用心ごようじん。

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怪語補検:援助

2019年02月20日 | つぶやきの壺焼

国際援助、経済援助、資金援助、援助交際などなど、援助という言葉は、何日かに一度はどこかで見聞きします。

援助とは困っている人に力を貸すことで、その場合の力はおおむねカネの力です。
援助の方法としてカネを動かすのではなく、カネを動かすために援助という言葉を利用することもあり、むしろそのほうが目立ちます。
助けてあげて何が悪いか、そんな切り札文句が、する側のあたまに残せるという妙な力をこの言葉は持っています。

一つ確かなことは、援助を受け始めると自力がだんだん減っていき、援助に頼らずには生きられなくなるということです。
いつまでも受け続ければ、行く末ろくな目には会いません。
いま何かワイワイつまらぬ大声をあげている、近くの対岸にある国が、はっきりしたその実例と言えるでしょう。

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怪語補検:この国

2019年02月19日 | つぶやきの壺焼

「この国」という呼び方は、外国人から見て今いる国を指す場合、あるいは小説の中での仮想国家をいう場合には、別に奇異に感じません。
しかし、日本人が「日本」と言わずに「この国」と呼ぶのは、自分の親や夫のことを話すときに「あの人」と呼ぶのに似て、距離を置きたいのか、気取りがそうさせるのか、いずれにせよあまりよい感じはしません。
夫の場合はもともと他人、帰化した人の場合はもとは外国人ですからまあよいとしても、日本に生まれてなぜ自分の国をこの国と呼ぶのか、それには何かの意図が絡んでいるのでしょう。

日本に生まれ育ちながら、反日を唱えたり、唱えないまでも心の底に反日の意識を持っていたりする人が、日本のあらゆる場所にいます。
その人たちは、自分のいるところを「日本」とは呼ばないでしょう。
ことによると国という概念さえ嫌っているかもしれません。

日本を「日本」と呼ばない人に、心を寄せることはできません。

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怪語補検:分別

2019年02月18日 | つぶやきの壺焼

分別という字には二つの読み方があります。
ふんべつ」と「ぶんべつ」ですが、「ぶ」と濁るほうが今では多く使われています。
ゴミの分別という毎日の生活でのかかわりが多いからです。

毎日拡声器をつけた車がやってきて、二重袋はいけないとか何とかうるさいことを放送しながら、集めてあるゴミの中から自分たちの受け持ち分を積んで去っていきます。

曜日ごとに指定されて出すゴミが一種類の日には、一度ですっかりかたづきます。
と言いたいところですが、曜日を間違えたか、気にしなかったかどちらかの人がいたときは、その分が分別されて残ります。
出すほうも分別、持っていくほうも分別の分別ごっこです。
こういうありさまを「異常な分別文化」と呼ぶ人もいます。

ゴミの分別がなぜ必要なのか、あらためて考えてみると、焼却炉の能力のことより、どうやら分別して運ぶ人の仕事をなくさないためで、役所がそう決めてあるからと、それが答えのように思えてきます。


「ふ」の濁らない「ふんべつ」のほうはどうでしょうか。
この言葉はもう忘れられかけていて、人々が仕事上で持つ力が強くなってくると、忘れの度合いも増してくるようにみえます。

大臣やそれに並ぶ要職にある人に、取材者が意地悪なのか幼いのか区別のつかないような愚問を投げかけると、想定外の問いかけにドギマギして、なぜそんなことを言ってしまうのかというほど、分別を置き忘れてきたかのような発言をしてしまいます。
財界の要職にある人は、稼げればどこにでもとばかりに、さんざん悪態をついてよこす隣国にわざわざ出かけて行ってタネ銭をばらまきます。
そこでばらまくのはタネ銭だけでなく、大事な技術までオマケにつけて差し上げてしまいます。
結果は経済交流とも言えず、経済も技術も吸い取られるだけに終わっても、こんどこそはと、分別を忘れた行為がまた性懲りもなく繰り返されます。
そのとき、お商売だけが狙いの経済交流は、技術交流、文化交流などという、目くらまし言葉に置き換えられています。

「ふんべつ」という読み方の衰退は、分別そっちのけの行いが増えて、言葉にしにくくなったからなのでしょう。

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怪語補検:憲法

2019年02月17日 | つぶやきの壺焼

手をつけたくない困った場面に遭遇する機会は、人間が生きていればかならず巡り会うものです。
手をつけたくなくても、どうにかしなければならないことも起きます。
そんなときにどうするか、判断基準の一つに法律というものが作られています。
法律以外にも判断基準は当然あります。
もし、それがまったくないとすれば、法律に触れなければ何をしてもよいとして、触れないぎりぎりのところで悪事を働くことも、多いばりで認められることになります。

地球上の国ごとに、判断基準の総元締めとされている憲法という重宝なものがあります。
重宝と言ったのは、それが強い制限力をもっていて、政府が、何かをしなければならないとき、大事なことでもせずに済ませるための言い訳道具として、大いに役に立っているということです。
まだあります、憲法を守ろうなどというと、さも崇高な精神のもとでの行いのように聞こえ、それを生活の糧にもできるという、魔法のような効果です。

憲法は文書の形にして示されますが、そんなものは書いておく必要がないと英智を示す国もなかにはあります。

私たちの日本も、百年余り前に、あまりに野放図ではと思われたかどうかはわかりませんが、憲法が定められました。
その後、まきこまれた戦争に負けた形で終わったとき、こう直せ、そうしなければ国民の心のよりどころも生活もなくなるぞと脅され、むりやり憲法の差し替えをさせられました。
着手後ひと月もかからずプレハブのように作られたこの憲法は、奇妙な性格を抱えながら、七十年余りも重宝に扱われてきました。

あらためて前文から読み直してみると、その奇妙さが浮かび上がります。

平和を念願し、理想を深く自覚し、どこの人かはっきりしない諸国民の公正と信義に信頼すると、安全と生存を保持できるだろう、そうしようと決意したというのです。
「決意した」という文面を見れば、これは法律ではなく宣言です。
宣言を判断基準にしたのでは、ご託宣を押し戴いてそれに従うというような、いかにも自律性のない、胸から腹にかけて何かモゾモゾとするような不快感に見舞われるのです。
さて、みなさんはどうお考えでしょうか。

 

 

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怪語補検:万葉

2019年02月16日 | つぶやきの壺焼

大昔に使われていた万葉仮名は、文字の意味にとらわれずに音だけ合えばそれを仮名に使うという、自由闊達な文字遣いでした。
これは怪語というより快語という気分です。

イの音には8、ロには4、ハには20、最多のシの音には29もの漢字があてられていたそうです。

皮留久佐乃皮斯米之刀斯
はるくさのはじめのとし

当て字の読み解きは頭の体操になります。
昔の人の、楽しい遊びだったのでしょうか。

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怪語補検: 約

2019年02月15日 | つぶやきの壺焼

約という文字は、つづめる、細く小さく締めてまとめるという意味をもっています。

約束は、あれもこれもではなく、このことだけは必ず守ろうという意思の交換です。


地球上には、約束という言葉をもたない珍しい国もあるようですが、Googleには翻訳語が出てきました。


発音を聞いてみると yagsog はヤッソと聞こえます。
これは、日本の漢字にその国の文字で表せる音をつけただけのように見えます。

気の毒ですが、心根に約束という概念を持つことができず、互いに決めた一つのことさえ守れない国には、明るい未来が約束されることはないでしょう。

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怪語補検: 黒幕

2019年02月14日 | つぶやきの壺焼

黒は人の目を引く色です。
黒は明度からいえば、いちばん低い色なのに、目立つのです。

儀礼のときに一斉に着る黒い服は、儀礼であることを目立たせる役割を持っています。

黒塗りは目立たせようとする行為です。
むかし強要された教科書の黒塗りは、見せないためではなく、読み取りながら塗らせることで、学童の意識に忌避の念を塗り込める効果を狙ったものと思います。

黒幕と呼べば、多くの人が知りたがります。
知らせるふりをしながらはっきりさせずにおけば、知りたがり賃をそこで稼げるという、こざかしい商売がそこに成立します。

ブラックだというと、なぜか人が寄ってくる、黒は不思議な色です。
いや、色ではないのかもしれません。

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