歩道が行き止まりになっている。
だが、その先、歩いて行けないことはない。
ここ半世紀のうち、最悪の年が今日で終わる。
最悪の年でれあれば、当分はもっと悪くはならない。
そうでも思わなければ、暦もあらたまらない。
このろくでもない状態に、選挙というつつましげな行為で、何がしかの加担をした過半数の国民としては、忸怩の思いだけをぶら下げて年を越すわけにはいかないから。
歩道が行き止まりになっている。
だが、その先、歩いて行けないことはない。
ここ半世紀のうち、最悪の年が今日で終わる。
最悪の年でれあれば、当分はもっと悪くはならない。
そうでも思わなければ、暦もあらたまらない。
このろくでもない状態に、選挙というつつましげな行為で、何がしかの加担をした過半数の国民としては、忸怩の思いだけをぶら下げて年を越すわけにはいかないから。
富士は不思議な山である。
見えたというだけで心が落ち着く。
天才を自認し、セザンヌをヘッポコと罵ったあのバクハツ画伯は、富士山にもけちを付けていたが、やはりあの姿は美しい。
およその方角はわかっていても、窓からは丘に遮られて見えない。
何度も歩いたその道で、ようやく見える場所を見つけた。
家から徒歩10分のこの場所に、これまで気づかなかったのは、雲に隠れているときしか歩いていなかったからか。
思っていたより南に寄っているので、はじめは間違いではないかと思った。
「雲か山か呉か越か」という詩があるが、雲の見間違いではないかと思った。
こんな形の雲はない。
方角の違いは立っている向きの違い、道路が正南北ではなく、曲がっていただけのこと。この先の畑からは房総の山も見える。
初日の出のときは、海岸でなく丘の畑に来よう。
そのとき富士はどう見えるだろうか。
そう思ったが、来年元旦は曇りらしい。
三代目と呼ばれる人、名乗る人は、およそ成功者とみてよさそうである。
みな立派にやっていらっしゃる。
そうでない三代目は、ことさらに三代目であることを強調しない。
自分で言わなくてもみな知っているからということもあり、名乗りにくいということもありそうだ。
国民の多くが当たり前のように二軒の家を持つといわれるあのギリシャが、ユーロ危機の引き金を引いてしまったた。
そのとき首相であったP氏は、名門政治家の三代目だそうである。
リーダーとして政治的実行力を欠いていたと評されている。
できもしない空約束で国民をだまし続けたが、二年間はその座にいることができた。
身近にいらした三代目も空約束の主であったことは同じだが、こちらは一年もたずにポシャった。
さて、こんどのあそこの三代目はどうなのだろう。
支える人がよほどしっかりしていてもらわないと、何をしでかすかわからない。それでは隣近所は危なくてたまらない。
本当にお手柔らかに願いたいものである。
人間は工夫する動物である。
人間以外にも工夫する動物はいる。植物にもある。
だが人間以外のそれは生存の必要上のことで、自分の生存に直接かかわりのないところで工夫するのは人間だけだろう。
工夫してできたものの多くは、他人が見てもどうということはない。
工夫は、しているときが楽しみのとき、工夫者はこれで満足なのだ。
ひとの工夫に、片端からけちをつけず、「いいね」と言ってあげよう。
それが素直に言えない人は、工夫という楽しみをあまり知らない人なのかもしれない。
カイロとカナ書きすると、エジプト生まれかと思うぐらいのことだが、懐炉と漢字で書くと、そのものを知らない人は、懐に炉を仕込むのだからものすごい装置ではないかと思うだろう。
昔の懐炉は、いまの線香一束ほどの大きさの燃料棒に点火して、薄型で小さめの弁当箱のような格納容器に入れて、それを懐中に忍ばせていた。
格納容器は、角を丸めた金属製で、表側にビロードを貼って当たりをやわらかくし、ばね仕掛けの蓋がパタンと閉まるものだった。
どこかに隙間があって、ちょうどよい具合に酸素が供給される構造になっていたのだろう、最後まで完焼し、時間が経てば冷温停止するよう巧くできていた。
その後出てきたのが白金懐炉。白金のコイルが燃焼口にあって、そこに石綿のようなものが詰まっていて、タンクの中に入れてあったベンジンが徐々に沁み出し少しずつ燃えていく仕掛けだった。タンクはずっと小型になり、腹巻に落とし込んでおいてもじゃまにならない、よい形にできていた。
それから後は、いまの振ると発熱する袋入りのものになった。
テーブルに、円形のぺしゃんこになった縫いぐるみのようなものが置いてある。
釣り耳がついていて鍋つまみのようにも見える。
なんだそれ、と聞くと、袋だという。
袋だけではわからない。
手にとって見ると、背中が割れてそこから物を入れるらしい。
CDの袋にしては少し小さい。
懐炉入れだと聞いてわかったが、へえと思ったのは、持ち主が小学生なのだ。
小学生が懐炉を使うのか。なんとまあ爺くさい。
こちらの爺はゴルフをやめてから懐炉など持って歩いたことはないのに。
擁壁が気になりだすと、あちらこちらで目に付く。
工夫の跡あり、成り行き任せあり、自然尊重あり、とにかく土が崩れなければよいわけで。
新しく手を加えたところよりも、年代を経たところのほうが、危なそうに見えて案外しっかりしていることもある。
無策の策とでもいうのだろうか。
土が崩れ落ちないように崖の表面をコンクリートで固める。
城跡の石垣に見られるように、コンクリートのなかったころは大きな石を積み重ねていた。
土の斜面に直接練ったコンクリートを吹き付けて固まらせる方法が一時はやったが、何か頼りない気がしていた。
いまは格子と面を組みあげて覆うのが主流なのか。
この方法は、凹凸崖面にもなじむらしいが、出来上がりを見るとどこか不気味ではある。
なだらかな平面に築くよりも、地山になじんだこちらのほうが丈夫なのだろうか。
シートを被せるのとわけが違うから、格子の形を凸凹面に合わせていくのは、さぞ大変だろうと思う。
やり難いことには、どこかで現場合わせという遣り繰りと一緒に無理が出るものだが。
吹きさらしのホームに風除け小屋が二つある。
ここに入ると、陽は当たらないが風も当たらない。
北風の日はありがたい。
この小屋は、北側の全面は塞いであっても、東西には通気窓を開けてある。
夏に蒸れかえると、中のベンチに座っている人のためによくないという配慮だろう。
しかし、寒い時季には塞がっているほうがよい。
この通気窓、開閉できるようになっているとよいのに。
設計者は、出来上がった現場を見たのだろうか。
見たとしても、それが陽気のよい暖かい日だったのでは、木枯らしの日にこの中で首をすくめる爺婆の気持ちはわからないだろう。
防護措置に暫定という条件がつくと、施工者は苦労する。
最初の瑕疵原因者が不明の場合は、黙って修復してしまうと事実の証明ができなくなるから、とりあえずそのままにしておく。
しばらくすると、中の土砂が流れ出たり崩れ落ちたりする。これはまずいと仮止めをする。
また崩れる、また仮止め。
繰り返しているうちに、見るも無残というか、苦心の跡も生々しくというか、哀れな姿になる。
暫定は、とかく後始末が長引き、すっきりと心の晴れる状態になれない。
個人のことなら楽しみ半分ということもあるが、公的なことに暫定はよくない。
はじめから、口癖どおりに「しっかりと」手を尽くすのがいちばん効率の良い方法なのだ。
久しぶりに電車に乗る。
これから旅行か、キャリーカートを引っ張ったお嬢さんが、隣の席に座る。
長く伸ばして後に流した髪、ほわっとオードトワレの香りがただよう。
おお、今日はラッキーデイか。
まっすぐ前を向いていても、右下側の白いものが視界に入る。生足か、行き先は南国か。
膝の前に立てたキャリーカートにかくれて、正面からは見えない。
しばらくすると、違う香りがしてくる。
こんどはなんと、たくあんのにおいだ。
まさか、ミドルノートがそれではあるまい。
季節は、幻想の世界から現実の世界へ五感を呼び戻す。
いま、大根の季節だった。
駅の近くに高層駐車場がある。ただし、駅の乗降者用ではない。
近頃ではこの程度では高層とも言いにくくなったが、重層というのも変だからひとまず高層と言っておく。
こういうビルを車窓など遠方から眺めると、車両用のスロープの傾斜がはっきり見えて、ビルがゆがんだようであまり心地よくない。
ここの高層駐車場は、最近真っ赤に塗り替えられた。
近くを通ったとき、赤く塗る前よりも傾斜が目立たないような気がした。
赤い色は傾きを少なく見せる効果があるのだろうか。
左翼の象徴のようなあの色には、傾きをあまりはっきりさせない狙いもあるのではないかと、ありもしないことにまで考えが及ぶ。
錯覚から、目からの楽しみも、空想の楽しみも生まれる。
そんなこと何が楽しいのか、目の良すぎる人、頭の冴えすぎる人にはわからないだろう。
砂浜に貝殻が落ちている。
拾われるまでは、空に向かって口を開いているように、殻の背を砂につけている。
三つも集まっていると、仰天という言葉を思い出させる。
空になって、乾いて、流されて、また波に乗って、浮き上がったものは浜に打ち寄せられ、潮の引いた後にはこうなる。
ただ波に身を任せていれば、待っているのは仰天の姿をさらすことか。
大根の季節がやってきた。
新聞に干し場の写真が載ったので、もうそんな時季かと行って見た。
架には、まだまだこれからというぐらいしか懸かっていない。
あの写真は、開花前の花見にお出で写真と同様、去年撮ったものだったか。
巨大な岩壁が目の前にある。
よく見ると岩壁ではなく、それは砂層で、ときどきさらさらと表面が崩れ落ちている。
上には、楼閣というほどのものではないが、大きな建物が並んでいる。
この風景から危険を感じるのは、そこにしゃがみこんでいるからだ。
立ち上がれば、たちまち錯覚は消し飛ぶ。
むかし、何かにつけて視野を広げよと力説する評論家がいた。
視野と言ったのでは、一点から見るものの見方に聞こえる。
いつまでもしゃがんでいないで立ち上がって見るのは、視点を移動することだ。
見つめる位置を変えれば、ものごとは違って見えてくる。
上から目線、カメラ目線、消費者目線などという、業界用語の一夜干しのような言葉は使いたくないけれども。
自分が見ようとする姿を決め付けてしまえば視点は固定する。
固定視点からものごとを見て、それが実態だと言い募るのは錯覚陶酔、お化け屋敷のお楽しみと大して変わりはなさそうである。