夏に入る、空がまぶしい。
電線にぶら下がって何をしているのか。
違った、屋根の上だった。
夏の支度、山では山小屋と呼ぶが、海の小屋は何と呼ぶのか。
海に建つのは、「海の家」だそうな。
小屋では小さく聞こえるからか。
夏に入る、空がまぶしい。
電線にぶら下がって何をしているのか。
違った、屋根の上だった。
夏の支度、山では山小屋と呼ぶが、海の小屋は何と呼ぶのか。
海に建つのは、「海の家」だそうな。
小屋では小さく聞こえるからか。
この木の肌の模様は、世界に一つしかない。
そう思うと、切り取ってそこに何か貼り付けても、ただそれだけで楽しめる。
生皮ならもっとよいが、そうもいかない。
写真なら1枚が100種にも100枚にもなる。
「腹八分目」はむかしのこと、いまは「腹七分」でも十分、60歳で腹四分、80歳で二分、100歳になったら霞にしようという人が現れた。
え、二分!スジまでなくなりそう。
こう言ったら、それならクールビズにならって、青筋・赤筋のストライプのシャツをどうぞ。夏到来です!と来た。
これは一本、いやもう一本ぐらい参った。
Yahoo 知恵袋に、「○○とはなんですか」という質問をよく見かける。
「門構えとはなんですか」という質問があったら、これを見せてあげたい。
通り端に、いきなり大きな門があっても、そういうのを門構えとは呼べないだろう。
ビルの外階段に、らせん型のものをときどき見かける。
場所を取らないよう、うまく考えられていても、そこでの昇降は苦手だ。とくに降りるとき、勢いがついて足早やになると目が回ってくる。
散歩の途中、ふと見下ろすと、めまいの起こりそうな階段があった。
らせん階段ではないが、同心曲線の連続と、色合いと光線の具合がそう見せるのだろう。
体の不自由な方の出はいりもありそうな施設なので、余計なことだが少々気がかりである。
ヒッチコックに「めまい」という映画があった。
あれは高所恐怖症の話だったが、この階段は、歩道からすぐ踏み込める位置にあって、高所恐怖症の人がこの縁に立つと、吸い込まれるかしゃがみこむか、そんなことを考えながらカメラを構えると、なおのこと目がくらくらするのだった。
人間は、対称といえば、まず左右対称を考える。
自分の体がそうできているからだ。
しかし、動きには左右対称でないことを好む。
人間は、と書いたが、他の生物はそんな考えは持たないだろう。
空を飛ぶ鳥は両翼を広げ、オケラは両手のようなものを左右同じように広げてみせる。
考えてそうしているのではないが、そうなる。
動物の動作だけでなく、ふだんはほとんど動いているようには見えない植物も、何もせずに、対称位置に葉をつけ、対象形の花を咲かせる。
自然の摂理、これを7角形や9角形にしてやろうなどと考えだすと、そこから不幸が始まる。
ものごと、切り口がはっきり見えることは、切った人の気持がよくわかって心地よい。
とにかく切り倒してあとは捨てようと思ったのか、輪切りにして何か作ってみようと思ったか、切り口の様子で想像がつく。
そんなことを想像してみて何になるかというのは、バカは死ななきゃ治らないの浪花節文句を知らない人の、いらぬご心配。
また引き合いに出すが、Yahoo 知恵袋の質問にも、何を聞きたいのか、まるっきり切り口の見えないものがある。
「質問のある人?」という先生の言葉に、さっと手は挙げたものの、聞くことを何も考えてなく、思いついた言葉を持ち出して「どういう意味ですか」「正しいですか」と言ってしまう、QFQ会のQタロー君やQ子ちゃん。
N町にも切り口のはっきりしない丸太ん坊がごろごろ転がっていそうな気がするが、会期どん詰まりで夏至の今日、さて、どう切れるのだろうか。
花の形は、円いか尖っているか、そのくらいが相場だが、散歩の途中で四角い花を見つけた。
ただのアジサイで、四角くもないではないか、と思ってしまえばそれまで。
円いといっても真円の花などあるわけがなく、尖っているといっても、触ると突き刺さるような花もない。痛ければ、それは棘で花のせいではない。
「四角の意味はなんですか」「これを四角と言うのは正しいですか」と簡単に書きこむ Yahoo 知恵袋の質問者のような人が増えてくると、ものも言いにくくなる。
カナ文字はあまり使いたくないが、会話というと口と耳だけのことのように受け取られやすいから、コミュニケーションと言っておこう。
そのコミュニケーション基本は、まず肯定から入ることではないかと、アジサイが四角く見えて漸く気づいたのである。
作物を、立派に、美味しく育てるために、未成熟の実が摘み取られる。
「てっか」の犠牲は、ばらばらのうちはそれほど感じないが、山積みにされると残酷に見える。
糠漬けにすれば結構食べられるのではないかとも思うが、そうする人は少ないらしい。
ケイザイという、人間が考え出したコトの運び方には、自然の摂理をひん曲げた尋常でない何かがひそんでいるように思えてくる。
今朝、Facebook に写真を2枚載せたが、「マイアルバム」に1枚しか出てこない。
できの悪いのは「てっか」処理されるのだろうか。
若い芽の葉先が、花のように白い観葉植物を、散歩の道すがら見つけた。
YRPの光の丘水辺公園に半夏生の見事な群生があったのを思い出したが、それとは違うので「非半夏生」と書いておいた。
ペペロミアの仲間のように見えるが、名前は知らない。
YRPに歩いて行くにはだいぶ離れてしまったので、しばらく行ってないが、今はどうかと調べてみたら、ちょうど間に合った。
まだご覧でない方は、夢のような景色が待っているので、汚れてよい履物持参でぜひどうぞ。
鑑賞会は6月26日(日)~7月5日(火)
予約しておけばガイドもつき、いろいろな植物の名やガマの住処も教えてもらえる。
http://www.kousya.yokosuka.kanagawa.jp/file/shitei/shizen/hikari.html
忘れたのか、落したのか、また帽子を見つけた。
何ものかが、そこにある。
存在理由というほどのことでなくても、なぜかぐらいは、散歩のついでの頭の運動というほどのことでなくても、と「ほどのことでなくても」がいつまでも続く。
さぞ読みにくいだろう。散歩の歩き方が描写できただろうか。
散歩というものは、ただ、それほどのことである。
歩数計などわざわざぶら下げることもない。数字などどうでもよいので、歩数を数えるのは、歩数計という商品があるからに過ぎない。それほどのことなのだ。
ごちゃごちゃ言っていると、帽子のことを書き忘れてしまう。
さて、これは忘れたのか、落したのか。
どちらでもない。きっと飛ばしたのだ。
道が分かれている。
ちょっと見れば本道はどちらかと気付くが、脇道、分かれ道というものは、踏み込んでみたい、逸れてみたいという誘惑に駆られるようにできている。
畑の中の散歩道なら、ほいしまったと戻るのも簡単だが、見ず知らずのところへ、いきなり連れてこられた避難者の方々には、そのときの生活のかかった道の選び方が一生を左右する。
支援への道筋をはっきりさせ、道案内をしっかりやる、そんな構えは、N町の人々にどれだけ見られるだろうか。