・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

主義という名の欲望

2012年12月31日 | つぶやきの壺焼

○○主義という言葉を見かけない日はない。
辺境の町のスーパーで売っている魚の種類より、主義の種類のほうが多いかもしれない。

今年新しく生まれた主義があっただろうかと、「主義」で検索してみたら、「正解主義」というのが最初に現れた。

「日本をダメにした正解主義から脱出する方法」__藤原和博対談
前編: http://diamond.jp/articles/-/29630
後編: http://diamond.jp/articles/-/29916

正解主義は、呼び名が耳新しいだけの、日本の教育業界に巣食った古臭いやり方なのだが、興味のある対談ではある。
しかし、ここで中身を取り上げていると話題がずっこけそうなので、あったというだけにしておこう。

さて、主義さまざまを言い始めるときりがないので、ここで主義とは何だと総括してしまうことにする。

考えてみると、主義とは欲望の表現形式であったように思う。
こうありたい、あらねばならぬ、は欲望である。
近頃あまり聞かれなくなった主義主張の自由などという言葉もあるように、主義の持ち方は自由、つまり欲望の持ち方は自由というわけである。
中には、主張が用意されてない主義、店の看板だけ掲げて売るものがない、なんだそれと言いたくなるのもある。

主義とは欲望だと思い始めると、○○主義と名づけられたことどもに、品格を伴わないものが多いのに気づく。
それもそのはず、○○主義という呼び方は、その欲望を持った人々への揶揄、さげすみに用いられることしばしばなのである。
この世でいちばん上等と思われ続けてきた民主主義にしてからが、むやみに等しくありたいという欲望、面倒なことは数で審判という便法の代名詞であったり、それを唱える人のふてぶてしい顔を見せられたりするとき、やはり品格とは程遠いものを感じてしまう。

あなたの考えは○○主義だ、お前は○○主義者か、そう言われると、○○にどんな字を当てはめてもいい気持ちはしないものである。
ことによると、主義という名には、欲望への鉄槌のエネルギーが秘められているのかもしれない。
それも、欲望を持ったものが鉄槌を食らうという、自壊自爆のエネルギーとしてである。


分別の大切さ

2012年12月30日 | つぶやきの壺焼

わが市では、来年になるとごみの収集回数が減るという。
隣の市が引き受けてくれることになったらしいが、そうなった理由や経緯はよくわからない。

分別と言えば、まずごみを思い浮かべるが、ごみの分別を、なぜ個別にさせるのか、その意味はいまだにはっきりしない。
処理するのに細かく分けておかなければ困るといわれるが、ごみの行く末は、煙にするか、土にするか、別の下級用途にまわすか、その三通りしかない。
たかがごみを相手に、細かく分ける作業が機械化できないわけがない。
どこかでカネがかかるのは当たり前だが、分別種類ごとに走り回らなければならない収集車の運行だけを考えても、その仕事を作るためとしか意味は見あたらない。

ごみの分別は庶民にさせるが、カネの分別はそうはさせない。
やはり、ごみよりカネのほうがだいじなのだろう。
どこかの怪しい国が、こともあろうに隣の国の紙幣の偽物を作ってばらまきにくる。
大変危険なことでえらい迷惑だが、何が危険かというと、インフレを招く危険なのである。
デフレに辟易したので、今度はインフレがよいなどと、札びらを裏返すようなことを言う人もいるが、それはただ話がわかりやすいだけ、受けやすいだけのこと、インフレ万歳などと言って物価がどんどん上がられてはたまったものではない。
給料も上がるからなどと言う巧言を、そのまま真に受けてはいけない。
どのみち給料は物価に追いつけないように仕組まれているのだから。
何ごとも急にどかどかやれば必ず失敗する。調子に乗りすぎてはならないのだ。

偽札流通によるインフレの危険は、流通量にあるらしい。
あってはならないのだが、1枚2枚のことならば、それで何か手に入れても、うまくやりやがった程度ですみそうだが、偽札流通量が紙幣流通量の0.01%を超えるとインフレの危険が増すと言われている。
0.01%という数字の根拠はわからないが、とにかく出回って無害ではありえないから、そこで真贋の分別が必要になる。

こういうものは、使うつもりがなくてもそれを作ってみたいという、変な趣味を持った人もいるだろう。
もしそっくりで見分けのつかない偽札ができてしまったらどうするか。
せっかく作ったものをすぐに焼いてしまうのは惜しい。
厳重に保管はしても、盗難に遭わない保証はない。
そのうちに自分でも見分けがつかなくなる。
そんなばかなと思っても、自分で見分けがつかないくらいでなければ、製作技術は未熟なのだろう。
偽札作りのジレンマである。
こんなときにも、ただ一つ方法はあるそうだ。
印刷するときに、番号をすべて同じにしておけばよい、それなら必ず自分で分別できる。
こんな話を、いつだったかラジオで聞いたのを、ごみのことから思い出した。


歴史に戦争が目立つのは

2012年12月29日 | つぶやきの壺焼

歴史に戦争の記述が多いのは、世界中の人々が戦争好きであったからと考えるのは、どこか偏りがあると思っていたが、こんな理由もあった。

戦争の歴史は、そのあとに顕かにあらわれる民族の性格の記録である、という塩野七生の説である。
人間集団の性格をあらわすには戦史が格好の材料だからで、それなら歴史に戦争の記述が多いのもよくわかる。

見方によっては都合のよい解釈であっても、ものごと、心を落ち着かせておくには、考え方の都合よさも大いに効果があるから、何でも違う違うと言い立てて気持ちをささくれさせるよりも、ときにはよいのではないかとも思う。

ご都合主義もすべてが捨てたものではないという、あと三日の年の暮れの、だらけた都合のよい感想である。


方言とは何だろう

2012年12月28日 | つぶやきの壺焼

「~さぁ」と言うのは方言か、という質問を見かけた。

方言とは、あるひとつの言語の中の亜種・変種のことという定義もある。
http://okwave.jp/qa/q2258976.html

この定義からすると、「あるひとつの言語」がなければ方言は成立しない。
「~さぁ」は、何が「あるひとつの言語」だったのかはっきりしない。

「昨日さぁ、 あっちでさぁ、大雨にあってさぁ」は、「昨日ね、 あっちでね、大雨にあってね」と同義で、この「ね」が「あるひとつの言語」なのかも知れない。
しかし、なくても意味の通じるこの「ね」は、それをつけること自体が方言のようでもある。
東京の放送局のアナウンサーが、この「ね」を連発すると、東京の方言なのだろうか。

さて、そうなると、方言のまた方言ということになって、話がややこしくなっていくだけである。

「方言であるかないか」ということには、いったいどれだけの意味があるのだろうか。
これは、察するところ「この言葉は正しいかどうか」と同類のもので、○×で答の篩い分け集計が簡単なテスト形式を、電子化時代の教育手法であるとした「日本語教育機関」の愚問乱発の余波ではないかとも思う。

愚問からは愚答しか出ないから、何とか気の利いた答を見つけようと、FAQサイトに質問を持ち込んでくるのだと思えば、それに○×をつけて返すだけでは、回答にならないような気もするのである。


つなぎ目が商売のタネ

2012年12月27日 | つぶやきの壺焼

ものごと何でもつなぎ目をつくると、それが商売のタネになる。
輸送、保管、仲買、配送、ネット販売、上げればきりがない。

つなぎ目の多い製品は工量が増えるから、当然価格も上がる。
つなぎ目ができれば、そこには何らかの手当てが必要で、そのための材料も増える。

世の中のつなぎ目を減らしていくと、価格は下がるが仕事も減る。
つなぎ目を増やせば価格は上がるが仕事も増える。

趣味趣向性の強い個人消費や芸術品なら、つなぎ目はいくら増やしてもよいが、生活必需品や公共施設公益事業でつなぎ目の増えるのは、生活者にとって大いに迷惑である。

東京の地下鉄には、同じ駅に二つの系統が入って、一つでよいホームにわざわざ仕切り壁を入れ、乗客はぐるっと一回りして改札口というつなぎ目を通らないと乗り換えができないというバカなしかけがあった。
それが賢政の力で取り除かれた話は有名だが、大勢の人が利用するものには、つなぎ目を極力減らしたほうがよい。

こんな簡単な理屈に逆らって、今頃発送電分離などというみょうちくりんなことを推し進めようとしている人もいる。
狙いは取引の機会を増やしたいだけに過ぎないのだが、それがよいという根拠に、世界中で発送電分離が進んでいるとか、分離して自由化すれば電気料が安くなるとか、真偽を確かめにくい話を持ち出す。
そのために作ればどんなのもでも出来上がる数字やグラフで、多くの人をだましにかかっているようにしか見えない。

商機は正気でつかみ、商魂は性根をもって現して欲しいと思う。
公共の施設を、外国に売り渡すことだけは、どんなことがあってもしてはならない。
忍び込む隙を見せてもならない。
誘いの隙などというものは、昔の剣術の話にしか役に立たないものなのだ。

(参考サイト)
発送電分離は火事場泥棒
http://www.mxtv.co.jp/nishibe/archive.php?show_date=20121222


乗り物と輸送機

2012年12月26日 | つぶやきの壺焼

空を飛ぶ機械でも、一般人や手荷物程度を乗せる航空機と、兵や物資を載せる輸送機では、役割も違えば機能も違う。

日本にいる米軍が配備することになったオスプレイという名の輸送機も、開発段階から初期配備期に8回の事故を起こしていて、危ないものと思っている人が多いだろう。

特殊な機能を要求されれば特殊な機構が当然必要で、その開発段階に失敗はつきものである。
機能の特殊性と、開発の困難度、試作初期の事故率は、比例するだろう。

しかし、使い始めてからも事故が続けばそのままでよいわけはなく、米国海兵隊が使用を中止した2000年暮から、2002年5月の使用再開まで改良が加えられてきた。
その後2年間で量産開始に漕ぎ着け、2007年にはイラクで実線に使われたという。

それを日本に持ち込もうということなのだが、この配備が、CH46という古い型の後継であると聞けば、さていまごろになってようやくか、という疑問が沸かないでもない。
CH46系の輸送ヘリは、海上自衛隊では1988年、陸上自衛隊では2002年、航空自衛隊では2009年に、すでに使われなくなっている。
それをまだ沖縄にいる米軍が持っていたのだった。

オスプレイの機能をCH46と比べてみると、時速は約500kmで2倍に近く、往復可能距離は約600kmでおよそ4倍、ヘリではできなかった空中給油も可能で、1回の補給で行動半径は1000kmを超え、沖縄を中心にすると、朝鮮半島、中国大陸東部、南シナ海までを含む範囲になる。
輸送兵員も24人で2倍、貨物の搭載量も約3倍、最高飛行高度は約7500mで攻撃も受けにくい。
これで在来型のヘリと同様に学校の校庭のようなところにも着陸できるとあっては、行動半径内の諸国にとっては脅威となるだろう。

ここまで見えてくると、初期事故の情報をタネに配備反対を叫ぶのは、どこのどなたの御用なのかと想像がついてくる。

TV放送などで印象に残りやすいのは、事故や災害の実写映像だから、それがいつのものかも紹介されずに放映を繰り返されると、情緒的にしかものごとを見させない誤情報の性格に変わっていき、正常な判断を狂わせることになる。
偏らない情報がマスメディアから発信されれば、乗せる人は荒くれに見えてもエリート集団なのだから危険なものに乗せるはずがないなどという珍説を繰り広げる必要もなくなると思うのだが、どうだろうか。

(参考)
MV-22オスプレイ事故率について (防衛省 2012年9月19日)
http://www.mod.go.jp/j/approach/anpo/osprey/dep_5.pdf


非上場の一流企業

2012年12月25日 | つぶやきの壺焼

会社の経営目標を、上場に置くことがある。
その会社は、一部上場の目標を達成すると、次に目標にするものがなくなる。

高速道路無料化などという、どこかの国のまねをしたばかげたことを目標にかかげれば、仮に達成したときは万歳、乾杯ということになっても、その後高速道路をどうしていくか、事業の裏づけになる財源の収入がゼロでは、目標の立てようがない。
そんなことを人気取りの材料にしていた能天気な政党が何をしたかは全国民が周知のとおりである。

上場された株式には人気の作用が大きい。
その会社が将来どうなるかよりも、その時々の人気で株価が動く。

未曾有の天災と、人気を気にしながら右往左往した政治の失敗とが重なって、会社の人気が底をつき、ようやく落ち着いた株価が同業他社の20%にも満たないという惨めな状態で、何の罪もない従業員まで大きな負担を強いなければならなくなった会社もある。

 

上場をあえてしない会社もある。
サントリー、YKK、コカコーラなどがそれだが、それぞれに名が知られ、それぞれに業績を揚げている。
サントリーは、会社は創業者グループ鳥井3兄弟と従業員のもので、企業運営と無関係、無責任な株主のものにしないという。

こういう会社と、株価はべらぼうに高いが何をしているのかわかりにくい会社と、どちらに信頼がおけるだろうか。


一方有効の言葉

2012年12月24日 | つぶやきの壺焼

無念も無想も、一方有効とでもいうか、無という意味しか持たない。

有るという意味を無理やり持たせた対語を考えようとしても、意味が散らばってしまって、逆の意味にはならない。

「生きた心地」もその一つかと思ったが、「死んだ気」というのがあるではないかと言われそうだ。
だが、「生きた心地」はその後に「がしない」あるいは「がしなかった」と続くから言葉が成り立つので、「生きた心地がする」ではジョークにしか使えない。
「生」の逆に「死」を持ってきても、「死ぬかと思った」と言っては同じ意味になってしまう。

「生きた心地がしない」とは、たとえば、バスの運転手が急におかしくなって、それでも走り続けているときなど、そう言えるのだろう。
そういう状況がずっと長く続いていると、感覚が薄れてきて、「大丈夫ですよ、落ち着きましょう」などと言われれば、危ない状態にあることを忘れてしまう。
人間は、自らが錯乱状態に陥らないためには、感覚を鈍らせて恐怖を感じないように制御する一種の力を持っている。
そのときは、無の境地の端っこに足をかけ、立っているのかもしれない。

このような自らの制御は、自らを助ける働きだからよいのだが、それを仕掛ける側の目的で他に求めたり利用したりするのは、罪悪と言ってよいだろう。
もし為政者がそのようなことをすれば、国民は無念無想などとのんきなことを言ってはいられなくなる。
ここ1~2年、N町にはそんな空気がよどんでいたのではないかと思うのである。


夢のなかの新語

2012年12月23日 | つぶやきの壺焼

夢の中で長い足を見て、なぜか「ダコ足」と呼んでいた。
夢の中身はだいたい記憶に残らないことが多いが、この呼び名だけは目が覚めても覚えていた。

ことによると、どこかにそんな言葉があるのではないかと検索してみたが、ない。
ダコで検索したのでは、ハンナ・ダコタ・ファニングという女優の名しか見当たらない。
ダコ足で検索すると、ゲームに出てくるタコ足という頭領とか、タコ足配線で、「タ」のにごりが外れている。

ひとつ驚いたのは、タコ足の攻略法などと、ゲームの秘術をこと細かに説明しているサイトがあって、それがまた見事な文章であることだった。
よくあるアプリケーションソフトのいい加減なヘルプなど及びもつかない、図解入りの懇切丁寧な説明が繰り広げられている。
この才能をほかの何かに活かせたら、市場からがさつな悪文が減っていくのではないかとも思うのだが。
書いている人にしてみれば、それがゲームのことだからなのだろう。

まあ、ひとのことは言えない。
夢の中に出てきた言葉のことなどを、わざわざこんなところに下手な文章で書いている自分は、いったい何をしているのだろう。


ぼう術くさぐさ

2012年12月22日 | つぶやきの壺焼

昨日と入れ替わって、くさぐさが後につく例をひとつ。
ぼう術くさぐさと書けば、棒術のことかと誰もが思いそうだが、ここでの話はそれとは違う。

「望術」 望みかたのわざをこう呼んでみた。
望みを遂げるわざなら遂望術ということになるが、未遂に終わるものが入ると、遂望術と言ったのでは過ぎて且つ及ばなくなる。
だから望術なのである。

望術、平たく言えば「おねだり」のしかたなのだが、価値の共有を望む場合には「おねだり」ではないから、これもまたはみ出し部分が出てくる。
かといって、提案術とも言えない。
提案と言いながらただ欲望を遂げたいだけのこともあるから、これも当たらない。
やはりここだけでよいから「望術」ということにしておいてほしい。

さて、本題は「望術にも性格あり」と思ったことにある。
ひとつは、望みをかなえたい場合、ことをわけて説き伏せるやりかた。
もうひとつは、望みをかなえたい場合、繰り返し繰り返し、ただそれを言い続けるやりかたである。

はじめのほうは、最初は相手にされないようであっても、説き伏せるだけの理由があれば、理解という人間特有の心の動きによって、望みを遂げられることが多い。
これなら遂望術と言ってもよいだろう。

しかし、あとのほうは、「おねだり」としか相手には受け取られない。
旦那に何か買わせようとする遊女の「おねだり」に似て、ええぃ面倒なと、つい首を縦に振るまで続けられる。

こう考えて見ると、望術の性格は、望む人の性格ではなく、望む事柄のほうにあるような気もしてきた。
つまり、遂望に達するのは、説き伏せるだけの理由があり、提案と呼べるものであって、その結果に何らかの価値の共有が認められる場合ではないかと思う。
遂望の割合を左右するのは、価値の共有度の違いなのだろう。

そのものをどうしても使いたいから欲しいのでなく、旦那にカネを使わせたいからモノをねだる。買ってもらってもクローゼットに放り込むだけで身につけて歩くわけでもない。
よほどのボケ旦那相手でなければその望術の達成度はだんだんゼロに近づいていくだろう。

内閣閣僚が近く総入れ替えになるが、地方の首長も、各界の首領も、クレクレ症候群に陥らないよう、望術を用いるときは、価値の共有度をしっかり認識して掛かってもらいたいと思うのである。


くさぐさの恥

2012年12月21日 | つぶやきの壺焼

この標題を、はじめは「恥のくさぐさ」と書いた。

「くさぐさ」は、漢字で「種」と書く。
ところが「くさぐさ」と打ち込んで変換すると、最初に出てくるのは「草草」という字で、本来の「種」はIMEに登録されていない。

種類の多いことを示す「くさぐさ」という言葉が、いろいろ生えているたくさんの草たちから出たのは確かにそうだろう。
けれども、こんな具合に、漢字の使い方を元々の意味しか残さないことにしてしまったのはなぜだろう。
これは、日本語の深さを知るのを面倒がった、どこかの国の、きわめて素朴、単純明快を善とするゆるいあたまの人間の差し金ではなかったかと思う。

それはともかく、「恥のくさぐさ」と書いてから、「くさぐさ」という言葉の使われ方は、「秋の花くさぐさなれど」「くさぐさのうるわしきもの」とあるように、いろいろある様子をさしているので、種類という概念を表しているのではないことに気づいた。
ならば「恥のくさぐさ」としたのでは「恥の種類」と書くのと同じで、これはとんだ恥かきになってしまう。
ここはやはり「くさぐさの恥」でなければならないだろうということになった。

 

前置きがかさばりすぎたが、主題はこうである。
には、そうであることを恥ずかしく思う心と、それがわかってしまうことを恥ずかしく思う心の、少なくとも二種類があるように思った。

そうであることを恥ずかしく思うのは、力量不足であるとか、つい邪の道に踏み込んだとか、そのこと自体を人に知られようが知られずに済もうが、とにかく恥ずかしいというこころ根である。

もう一方の、わかってしまうことを恥ずかしく思うのは、力量不足をののしられるとか、悪事がばれてしまうとか、知られて何か言われるのが恥ずかしいというカッコワルさを嫌うこころなのだ。
力が足りなければつけるように努め、正道を歩むように心がければよい。しかし、それはもう面倒でもあり堅苦しすぎるからごめんで、ゆんるりと過ごしたい、それでも見せるところはカッコヨクしていたい、ということなのだろう。

だが、なかには、カッコヨクしていたいということを広言する人もいて、それを恥ずかしいとは思っていないらしい。
そういう人の恥ずかしさのためには、もう一種類の恥のありようを取り入れなければならないようである。
となると、もうひとくさか。

春秋の七草とは、よく言ったものである。


ゲの字の力

2012年12月20日 | つぶやきの壺焼

ゲのつく言葉には力がある。

ふとそう思った。

まず「原理」、原理主義という言葉はわかりにくいが、原理原則なら誰でもすぐわかるだろう。

 

大地震の前までは、電力会社グループのCMがたびたびTVの画面に現れた。

CMには販売促進の効果がなければ意味がないのに、地域独占の電力会社がなぜわざわざCMを出すのか、それが不思議だった。

そんなことをしなくても電気は売れるのに。

不思議とは、思議できないのではなく、思議が足りない、行き届かないという意味もありそうで、あのCMの不思議はその適例だった。

CM代支払いのためであるという、簡単な原理に気づかなかったのだ。
CM代支払いは、広告、放送というメディア集団にエネルギーを注ぎ込む。
得られるものは、一つ一つの商品の売りさばきよりはるかに大きなものなのだ。

それは思考様式の誘導、つまり愚にもつかないことに求心力が強まり、グローバルな金の流れに都合のよい考え方に、ひとびとのこころを捕らえ収斂させていく巨大な力である。

元気、現実、原子、ゲーム、ゲノム、ゲの字の力は強く、そこ恐ろしい。ゲゲ・・・・・・。


無駄なあれこれ

2012年12月19日 | つぶやきの壺焼

何の役にも立たずに、ただそこにあるものをトマソンと呼ぶそうだが、トマソンには説明不能な愛嬌が感じられ、無駄とはどこかが違う。

愛嬌も何もなく、ただそこにあるだけ、してみただけ、そういうものごとこそ真性の無駄と呼んでよいのだろう。

時間を無駄に使って、身の回りにどんな無駄があるかを考えてみた。

まず、セットになった商品、これには役に立つのは一部分だけというものが多い。
電動工具のセットがある。
頑丈なケースに、ドライバー、ボックススパナー、ドリル、研磨用具などがずらっと並んで入っているが、買ってから実際に役に立ったのは、ごく一部だけ。

ドリルの中には、刃の立っていないものもあって、1本買いのドリルのほうが役に立った。
こうなるとバラのドリルを入れた小さいケースも、この工具セットのケースに入れておきたくなる。
その空間は、何かに退いてもらわなければできないから、まったく使う見込みのない部品には退去願うことにし、それらは埋め立てごみになって消えていった。

釣りでもするなら袋に入れて錘になったかもしれないが、あいにく魚釣りの趣味にははまり込まなかった。

TVショップでも、これもつけますあれもつけますと、なくてもよいものをつけて宣伝するのをときどき見かけるが、やはり無駄もののほうが多いだろう。

無駄になりやすいのは、どういうものだろうか。
そう、「セット」だった。

「トマソン」「セット」
禅問答の掛け声に、どこか似ているではないか。


カメラワーク

2012年12月18日 | つぶやきの壺焼

「顔、小さいね」くだけた対談の席でホスト役がほめる。
「そうかしら」と答えたとたんに画面がアップに。
小さいと言われた顔が大きく映る。

 小さいと言う話のときに大きく写す、カメラマンもとろいが、ディレクターも同様。

どちらかに、あるいは誰かに、かすかな敵意を抱いているのか、いい加減なのか、それともキホンがなっていないのか。

カメラワークは、見る人にどう見えるか、それがいちばん肝心なところで、ただくっきり写せばよいというものではない。
カメラワーク次第で、チームワークの実態も映ってしまう。

この番組は、音声の調節も下手で、老人には急に聞こえなくなってもそのままということが多い。
長く続いている番組こそ、局で取り仕切る人がデレッと見ているとだんだん質が落ちるという自然の原理を忘れてしまってはならないのだ。

スポンサー側でも、案外視聴率などという数値データしか見ていないのかもしれない。


名前の由来

2012年12月17日 | つぶやきの壺焼

LTEという高速データ通信規格がある。

Long Term Evolution の略で、ドコモが主として開発した次世代の移動体ネットワーク技術だという説明は随所にあるが、この言葉の意味はドコにも説明がない。

LED の語呂転がしのようにしか読み取れないのである。

4G の手前だからと言われても、それがなぜ長期の進化なのか、さっぱりわからない。
長期は短期より信用できそう、進化は現状維持より優れていそうで、なんとなく良さそう感を誘う化粧品の命名と、同じような名前のつけ方なのだろうか。

名前だからよいではないかとも思っても、こういう説明的な名前に出会うと、ついなんだろうと考えてしまう。

ここでの Long Term とはこういうことなのでと、どなたか言いくるめでも迷解でもよいので、していただけないかと思っている。