・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

細かさにとらわれて見えなくなる

2013年07月31日 | つぶやきの壺焼

スーパーの魚で中毒が出たと報じられました。
食品の検査はしっかりやってほしいことのひとつではありますが、1品1品できることではありません。
魚などは、検査しているうちに、鮮度がぐんぐん下がることが誰にも想像できます。

果物のハンドピックも、粒の小さいものでは終わるまでに古くなってしまいそうな気がします。

「厳密に間違うより、あいまいで正しいほうがよい」とケインズは言ったそうです。

厳密な検査表や、見た目の粒揃いより、食べて美味いほうがよいと思います。
あまりに綺麗に揃った生鮮食品には、かえって不気味さを感じます。

それにしても、日常の食べ物は、収穫から口に入るまでの過程が複雑で段階が多すぎます。
収穫以前のことは目に見えないので、どうなっているのか知ることもできません。

それでも食べて寝て生き続ける、人間はすごい生きものです。

にほんブログ村


いろどりあざやかの愉しみ

2013年07月30日 | つぶやきの壺焼

ぬり絵、貼り絵など、色の扱いは子供の頃から親しまれます。

画才とは、かたちを描くことの巧みさと、それに色の扱いの見事さです。
色の扱いは、色才とでも言いましょうか。

ピンクのクラウンが売り出されるそうです。
  http://p.tl/75a1

色才にたけた方に、これはおすすめです。
降り立ったときに、車の色と着衣の色の調和がだいじです。
どんな人が降りてくるかと待ち構えている人を楽しませる、そこでまた愉しみが増えることでしょう。

にほんブログ村


指示待ちと指図嫌い

2013年07月29日 | つぶやきの壺焼

「指示待ち」は「指示嫌い」であるという、奇妙な結びつきがあるようだ。

後にピッタリ付かれて、顔を見入るとイライラ顔のおばさんなので危険を感じ、頃合を見計らって減速し、先に行けと合図を送ったら、追い抜きざまに右側面の前のほうをこすられたという話を聞いた。

早く行きたいけれども、自分からは思い切って行動に移せない。
減速して左に寄ってくれたのはよいが、合図を寄越したのが気に入らない。
追い抜くときのおばさんの気分は多分そんなところだったのだろう。

自分では機会を捉まえられないけれども、気分が乗ったときに動き出したいという、変な葛藤を抱えながら運転しているドライバーは案外多いのではないか。

流れに乗ってと自分では思っても、前の車の背中しか目に入らず、全体の流れを察知する勘ははたらかない、休日にはそういうドライバーがぞろぞろ繰り出してくる。

追い越させるのは、追い越しよりも厄介なのだった。

にほんブログ村


頼れるけれども頼られない

2013年07月28日 | つぶやきの壺焼

困ることがあるとすぐ交番に駆け込む人がいます。
お巡りさんは、ていねいに話を聞いてくれます。
聞いてもらえば気が済んだという人が多いのは、お巡りさんも承知していて、話を聞いていると状況の察しがつきます。

交番はとかく頼りになります。
しかし、お巡りさんは、なるべく頼られないようにしなければ、ご近所同士のいさかいや、迷い猫さがしまで面倒をみなければならなくなります。

なんでも話を持ち込む人には、自衛の発想はありません。
力を持った人に頼って暮らしていくという生活習慣が、骨の髄にまでしみこんでいます。

事件ならすばやく動く警察システムを、事件にならなければ動いてくれないというふうに、自衛の心を持たない人々は見てしまいます。

自審番という熟語も、いまでは一字一字変換していかないと目の前に現れなくなってしまいました。

にほんブログ村


食いつかれても驚かない

2013年07月27日 | つぶやきの壺焼

その国での投資は、その国の政府への奉納のつもりでというところがあります。
そこでは、早く勝負してサッと引き上げる事業なら成功するといわれます。

アイフォーン5にかかってきた電話に出たら感電死、充電に使っていたのがその国から出荷されたものだったと、後になって報じられました。
  http://p.tl/b6sk

その国で、銀行のATMから偽札が出てきたという体験談も聞きました。

地方によって異なるので、言葉が正確に伝わりにくいといいます。
旅行のガイドが別の地方の言葉を聞いて「何を言っているのか全然わからない」とぼやいていたのを思い出します。
言葉が通じなければ、ナーナーで話を進めるしかありません。
契約のことなどは口頭では危ないのです。

食いつかれたときにどうするか、あわてて手を引っ込めると怪我をします。
食いつくあごを開かせる方法を熟知していなければならないでしょう。
国内で実地訓練をむやみにされてはたまりませんが。

にほんブログ村


使わなければ記憶に残らない

2013年07月26日 | つぶやきの壺焼

口の大きい瓶の蓋は、初めに開けるときに力が要る。
これなら簡単という道具があるが、中央のとがった部分を、どういうときにどう使うのか、瓶の口をあけるたびに考えていたが思いつかなかった。

あるとき「ガス抜き」という画像を探していたら、その道具の写真が出てきた。
なんだ、そうだったのか。

爪きり、くぎ抜き、裁ちばさみ、昔からある道具には、その用途が名前になってつけられている。
別の使い道はあっても、それは機能の応用であって、一つのもので複数種類の全く違う使い方をするものはあまりなかったから、すっきり命名ができた。

使ってみなければ何ができるのかわからないこの道具には、名前の付けようがない。
ガス抜きオープナーでは、なんのことかわからないだろう。

にほんブログ村


法律の条文はなぜわかりにくいのか

2013年07月25日 | つぶやきの壺焼

法律の文章はなぜわかりにくいのかという疑問は、法典をひろげて見たことのある人なら最初に持つだろうと思っていたが、そうでもないらしい。

わからない、難しいその文章は、わざとそういう書き方をしてあるのではなく、一般人が読みにくいだけという見かたもある。

日本の法文は日本語だと思うから、読んでわからないと思うので、文字と発音は同じでも、言葉の本質が違うのだった。
違う言葉なら、わからなくてあたりまえだったのである。

法令や契約書などの法的文書は,誰が読んでも同じ意味にしか解釈できないように書かれていなければならない、そこが日常の日本語とは全く違うのだった。

「法律は、立法意思を参照してはならない」という原則があるといわれる。
日常の日本語は、書かれたこと話されたことが、どういうつもりであったのかを感じ取り斟酌して理解に至る。
しかし、法律は、法文に書かれているとおりに判断をくださなければならず、読み方によって意味が変わってはならないのだ。
日常の日本語のように読みやすい条文にしたのでは、読む人ごとに解釈が異なり、実際のできごとに厳密な適用ができなくなることもある。

人間の営みが複雑になってくれば、法文もそれにつれてより厳密な表現を要求されるので、法文の簡潔化への希求は、ありえないことを望むようなものなのかもしれない。

にほんブログ村


長旅は身の毒

2013年07月24日 | つぶやきの壺焼

出かけたかと思うとすぐ帰ってくる人と、どこまで行ってしまったのかなかなか帰らない人がいる。

人それぞれでその人の勝手なのだが、旅の時間が延びると、恥のかき捨て時間も延びる。
あまり長いと、我に返ることを忘れてしまうかもしれない。

短旅には短慮の発動を防ぐ効果がありそうだ。

にほんブログ村


数値表現はときに理解の邪魔をする

2013年07月23日 | つぶやきの壺焼

数値を細かく分け過ぎると、データ全体から得られる情報量が減るという実例がある。
地図上の分布図などにはそれが如実に現れる。

数値は表現の愚態化にも役立ち、読み取る人も頭を混乱させることがある。

こんなニュース記事があった。

『東日本高速道路は1日深夜から2日早朝にかけ、関越自動車道の関越トンネル(湯沢町―群馬県みなかみ町、約11キロ)に設置されている天井板の撤去工事を始め、作業を報道陣に公開した』

11キロを一晩で、まさかと思ってもう一度読む。
「1日深夜から2日早朝にかけ・・・撤去工事を始め、作業を報道陣に公開した」
工事開始に必要な段取りと報道陣に公開で一晩、それならわかるが、そんなにゆっくりしていたのでは 11キロを終えるにはずいぶん長くかかるだろう。

もう少し読み進める。
『関越トンネルの天井板は上り線と下り線に6カ所ずつ、換気設備の吹き出し口などに設置されている。工事では換気に必要な設備を残し、不要と判断された3カ所ずつを撤去する』

天井板を外すのは 11キロ連続ではなかった。
換気吹き出し口に設置された全数の半分、それもいつまでにとは書いてない。

結局、数字が報じられても、だいたいどんなことをするか、その程度しかわからないのだった。

にほんブログ村


うそつきを恥と思わない子供たち

2013年07月22日 | つぶやきの壺焼

 板橋で7月19日に小学2年の男児と中学3年の女子生徒が相次いで男に切りつけられたと報じられた。
頭のおかしいのがそう立て続けに出るのはおかしいから、模倣犯かと思っていたが、これがどちらも子供のうそだと2日後に明らかにされた。

2人は「親に心配してほしかった。ことが大きくなりすぎて言い出せなかった」と話しているという。
腕などの傷はたまたま付いていたと言っているそうだが、そちらのほうが問題だろう。
たまたまの説明にはどこかにうそがある。
自分の腕に傷がついて原因がわからないはずはない。
子供か親か、あるいは別の誰かの都合で言いたくないのだろう。

警視庁では、悪質性が低いことから、虚偽申告などの処分はしない方針だというが、これを悪質性が低いと見るところにも問題がある。
少なくとも、親には厳重注意ぐらいのことはしておかなければならないだろう。
こういううそを子供がつくには、親の責任が大きい。
それを軽く見させるのは、社会の責任が大きい。

うそをついたら恥、その気持がなくなってしまえば、うそはつき放題ということになる。
日本をとり戻すというなら、何代か続いて上塗りをしてしまった「うそつきの恥」を剥がすことからはじめなければならない。

にほんブログ村


念には念を入れ

2013年07月21日 | つぶやきの壺焼

図書館に本を取替えに行った。
一度の貸し出しが3冊までなので、3冊返してついでに3冊借りてくる。
借りる本を探してカウンターに持って行き、先に借りた本を返す手続きをしてから次の本を借りる。

この普通の順序が、その日は逆になった。
借りる本が少し重かったので、先にカウンターに載せた。
受け付けてくれたおばさんが、バーコードリーダーを当てながら「あれ?」と言う。
「そうそう返すのがあったんだ」と借りていた本を取り出す。
「返すほうを先に出してください」そんなことはわかっているが「はい」

借りた本を手提げ袋に入れていると、「返す本を先にそこに置けばいいのよ。下げて持っていると重いでしょ」「はい、いつもそうしているんですが、傘を持っていたので」

なぜ返す本を先に出しそこなったのか、手提げ袋、傘、借りる本3冊、この6個の持ちもののうち、早く手から離したかったのが借りる本だったのだ。

「こんどから順番間違えないように」「はい、お手数をかけました、ありがとう」

さて、あの応答はおばさんの気分を鎮める効果があったのだろうか。
「はい」ばかりでは歯ごたえがなかっただろう。
少しは言い返しがあって、もうちょっとガスを噴出したかったのではないか。

そのあと二度ばかり行ったが、入念夫人には会えなかった、やれやれ。

にほんブログ村


議会答弁台の構造改革をせよ

2013年07月20日 | つぶやきの壺焼

座って話すこと、立って話すことを言い表す熟語はないかという質問がFAQに出ていた。
そんなことをなぜ短縮して言い換えなければならないのかがよくわからないが、異なった表現の必要性よりも、言葉を見つける趣味なのかもしれない。

熟語がないのは、座って話すか、立って話すかという姿勢の区別を、ことさらにしなかったからだろう。

しかし、議会での答弁の様子は、質問者の顔を見ずに、首を曲げて下を向き、面倒くさそうか、自信がなさそうかのどちらかに見えてしまう。

あれは、答弁台の構造がそうさせるのだろう。
机があるから手をつき、下を向く。
机がなければ、下を向いては格好がつかないから真直ぐ向き合うだろう。

もじもじさせずに直立で答弁させるよう、机は撤去するとよい。
メモが必要なら、手に持てばよい。
服装、姿勢を正し、質問者をまっすぐに見て、弁論でも談話でもしてほしい。
いつか見たような、一国の総理が、やくざの兄貴分のような格好をし、襟元を広げて背を丸め、ぐずぐず言う姿は国辱ものだったから。

にほんブログ村


裁判ドラマはなぜはやるのか

2013年07月19日 | つぶやきの壺焼

裁判ドラマには種類が多い。
裁判官のはなし、検事のはなし、弁護士のはなし、裁判員という素人のはなし、裁かれる人のはなし、いちばん人数が多いのに主題になりにくい傍聴人のはなし、立場が違うからはなしもいろとりどりでドラマに仕立てやすいからだろうか。

仕立てる前にすでにドラマになっている事件もある。
起訴はされたが、被告が犯人であると証明される証拠が、検事はあると言い、弁護人はないと言う。
被告が犯人であるという根拠は、他の人が犯人であったことはありえないからだという論法だけのものである。
物証の見せようがない I T事件などは、証拠になりそうなものを保存してあっても、瞬時に削除してその場所に何か書き込んでしまえばもう読み取ることはできない。
後から書き込んだ部分を消したところで、最初の保存の証明はできない。
証拠が必要になれば保存した痕跡があった、と言い張るしかない。
しかし、消した後が痕跡だと言えるなら、どんな記憶装置でも、痕跡はすぐに出来上がる。

痕跡には色分けもしるしも、何もついていない。
初めにしたことがはっきりしている場合には見つけられても、何をしたかわからず再現のしようがないことの痕跡など見つかるはずがない。

そういうものが証拠に仕立てられて出された法廷にでは、被告が犯人であれば、知っていて判別できのは被告一人だけということになる。
もし被告が犯人でない場合は、事実を知っている人も、確実に判別できる人も、一人もいない法廷が開かれる。

これはもうドラマでしかない。
しかし、人間が演じるドラマで、人間が判別できないことを表現するには、超演出、超演技が必要になるが、今、そんなことが可能なのだろうか。
TVドラマやアニメでなら実験はできても、実際の法廷で許されることなのだろうか。

にほんブログ村


先手必勝後手必敗

2013年07月17日 | つぶやきの壺焼

「客が増えたから人を雇うのではなく、客を増やすために人を雇う」
という会社がある。

“田代コーヒー”
  http://www.tashirocoffee.co.jp/

社員を見捨てない「あきらめない完熟共育」を実践する会社である。
全社員に「教える」仕事をさせ、教えることを評価し、育てることを評価する。
全員を採用活動にかかわらせ、参加したいと思える職場環境がつくられる。

「販売するのは商品ではなく、コーヒーというフルーツをいかに楽しむかという『価値』なのだ」と田代和弘社長は説く。

人が居つかない会社は、先輩が「教える」よりも自らの「いい気分」を望むからだろう。

にほんブログ村