<課税の研究>
研究と呼ばれる行為は、何かを減らしていくよりも、増やしていくことを考えるほうが多い気がする。
では、増減を同時に考える研究はないのだろうか。
それがあった。増税と減税をうまく組み合わせる方法を研究しているところがあった。その名は「税研」、研究の事例はここに。
<課税の研究>
研究と呼ばれる行為は、何かを減らしていくよりも、増やしていくことを考えるほうが多い気がする。
では、増減を同時に考える研究はないのだろうか。
それがあった。増税と減税をうまく組み合わせる方法を研究しているところがあった。その名は「税研」、研究の事例はここに。
<意味ありげな>
十二支のサルの次はトリ、意味ありげなその順でいくと、サル痘はトリ痘の予告編か。
薄気味の悪いこんな想像は、ダジャレの域だ気にするなとしておきたいところだが、考えてみればやはり怪しい。
何が怪しいかというと、病がはやるとすぐワクチンが出来上がっていること。
特定の種の動物以外には感染しないものと思っていたウイルスが、人にもうつる。
こんなことは、ウイルス自身が自分の性格を変えるのでなければ、つくり変えが行われているのではないか。こんなつくり変えを、素人ができるはずがない。どこかの大先生の「研究」成果なのかも知れない。
ウイルスをつくり変えられるなら、ワクチンだってできるだろう。
「研究」費用がうまく手に入れば、ウイルスとワクチンをセットでというマッチポンプ式のプロジェクトも、製薬会社と共同でなら、これはとんだビジネスモデルが。いやいや、そんな恐ろしいことをモデルにはできない。
そんなことはないと思いたい、だが世の中には、ないほうがよいことをしたがる人もいる。
⇒ https://in.intelligencereport.jp/mrir_pvcp_1?cap=HS1
(すぐ見ないと消されそう)
そのうちに、ワクチンの販売企画を先に作って、その工程に合うようなウイルス生産とパンデミックが計画される ? くわばらくわばら。
<骨太って何だ>
「骨太の方針」という日本語離れした奇妙な形容詞のついたことばが、近ごろ当たり前のように使われている。
「論理は個々の言語に内在する事情によって多様でありうる」(外山滋比古「日本の修辞学」)という名言があるが、この「多様でありうる」ことには、でたらめやたがの外れたことばは含まれていないだろう。
骨太とは、私の感覚からすれば、骨が太いことを表すことばであって、骨格の芯の部分がしっかりしていいるというたとえことばであったと思う。
想像するに、はじめにこのことばを使った人は、政策の方針がしっかりしたゆるぎないものであることを示そうとしたのではないだろうか。
そのとき、「骨太」という表現をお気に召した方が、政策の根幹を「ここに示すのは骨太の方針である」と言ったのではないだろうか。
「示した方針は骨太であるぞ」と言ったつもりが、基本方針のことを骨太の方針と名付けたものと聞き誤ったか、言い換えられてしまったのか、それはわからない。
「基本方針が骨太である」という形容のつもりが、「骨太とは太い骨のことつまり基本方針そのものである」となってしまったのではないかと思う。
ことばを言い換えたり、もののたとえに使いまわしたりすることは、それがその場限りならば罪はないが、珍語、珍訳、珍用法に定義めいた解釈がつけられ、メディアがその普及の役目を面白がって引き受けたりすると、奇妙な日本語ができてしまう。
この種のことばが国語として教育の場にまで定着してしまうと、私たちの国のことばはどんどん乱れていく。
まことに辛く悲しいことである。