・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

おかしな日本人:7 不平症

2019年10月31日 | つぶやきの壺焼

政府は"常に反対"の対象と決めてあるかのような政党と報道機関があります。

日常そういう人たちを相手にしていると、とにかく不平不満を持ち込まれない対処法が身に付き、何ごとにも支障を起こさないこと丸く収めることが優先されます。

不平症に罹った人たちは、不平の発露が生き甲斐ですから、何を望みどういう状態を目指したいのかは口にしません。
不平のタネづくりには、真実も道理も考慮されません。
いよいよ不平のタネが尽きれば、質問という責め具を使います。
不平、質問、質問、不平と、政治本来の目的とはまったく関係のない言葉と怒号のやり取りが、議場で繰り返され、そのもっとも愚劣な部分が切り取られてニュースと呼ばれる映像と記事に仕立てられ、国内外に発信されます。

こちらでバカ呼ばわりしている外国の人からは、日本人こそバカではないのかと思われているかも知れません。

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おかしな日本人:6 呼び名惚れ

2019年10月30日 | つぶやきの壺焼

グローバルという呼び名が一時もてはやされ、何でもかでもグローバルを付ければ人気を博すように見えた時期がありました。
それが、力のある企業が地球規模の経済活動を押し広げる戦略の呼び名らしいことに人々が気づき始めると、グローバルを冠した呼び名は、どこか間抜けなようにも聞こえるようになります。

それぞれの地域でそこにあった生活を続けているものを、ガラッと変えさせて世界中まったく同じように一体化しようというのもバカげた話なのに、それが理想と唱える人もいます。
理想と言いながら、それはただ自分の思い通りにしたいという野心でしかないでしょう。

海外で新しい呼び名を耳にすると、すぐに惚れ込んで試してみようとする、そこまではよいのですが、自分の心まで明け渡し、脳の働き方まで変えてしまうのは、危ない性格だと思うのですが、いかがでしょうか。

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おかしな日本人:5 不動信仰

2019年10月29日 | つぶやきの壺焼

得た場、得た座を明け渡さない、これは遊牧民を除けば世界中の多くの人に共通の、どこか信仰のような感情でしょう。
とくに川の近くの眺めの良いところに、終の棲家を得た人は、景観を遮られるのは否、その場から他に移るのも否と思うでしょう。
堤防はダメよと言い続けて半世紀を無事に過ごし、それ見たことか何も起きないではないかと思っていたところに、百年に一度のことがやってきてしまい、水に浸かってしまったのは、まことにお気の毒です。
この現象は、自然が変わったのではなく、大きな変化の一部分です。
地球上の人間が寄ってたかって自然の変わり方に影響を与えてしまっていることもあるでしょう。
それに気付かなかったのですから、しかたがありません。

川の近くに住む人は、いつも気持ちのよい川風を受けていられて羨ましいと思ったこともありましたが、やはり、川も海もごく近くは危ない場所なのでした。

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おかしな日本人:4 適量無視

2019年10月28日 | つぶやきの壺焼

漁師は魚を獲るのが仕事です。
漁業は魚を獲るだけでなく、育てて獲って集めて市場に提供するのが仕事です。

育てることをないがしろにすれば、漁業は成り立ちません。
育てるというと、まず囲って餌を与えることを考えそうですが、魚はそんなことをしなくても自由にどこにでも泳いで行かせれば、自分で餌を見つけ食べて大きく育つでしょう。

獲ることだけ心を奪われ、大きくなるまで待たなければ育てることが中途半端に終わります。
掌に乗るような大きさのマグロを獲ってしまったのでは、魚が育つわけがありません。
見つけたらすぐ獲ってしまわなければほかの人に獲られる、それなら協定を結んで稚魚のうちは獲らないことにすればよいのに、目先の利益だけを追う漁業社は、それぞれ気ままを続けたがります。

農林水産省という役所がありますが、そこでは、魚を育てることにどれだけの手を尽くしているのでしょうか。

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おかしな日本人:3 摘出癖

2019年10月27日 | つぶやきの壺焼

細かいことへの気配りは、社会生活にとってだいじなことです。
ものごとの細かい観察は、科学研究にもだいじなことです。
細かい部分の性能や仕上がりは、製品の価値を高めるだいじなことです。

ただ、細かいということと、部分にこだわることとには、大きな違いがあります。
社会の機能には全く影響のない、たかだか数万円の金銭のやりとりを、違法の枠にあてはめて大問題に仕立て上げ、国会の審議を止めてしまうという愚かな戦略がまかり通るというのは、部分へのこだわりをだいじにし過ぎる市民感情のあらわれでしょう。
問題にされた黒い水引に包まれた金銭の移動という物理現象は、日頃の交誼か恩義への返礼という意味しかもっていません。
それは、平和な社会生活にも、国家喫緊の問題にも影響は皆無です。

このように、細かい部分を摘出して責めてみたがるのは、私たちの平均的性癖なのでしょうか。

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おかしな日本人:2 民族差別

2019年10月26日 | つぶやきの壺焼

はるかむかしに遡って血統を調べれば、ほとんどの国の人は、複数の民族にたどり着きます。

国民のすべてが、民族によって区別されることなく、叡智を発揮しながら国の発展に向けてたゆみない努力を続けられることが望ましい平和な状態と言えるでしょう。
ところが、世の中には、抗争を稼業にしているような小集団もあって、静かに暮らしている人々が常に差別され迫害を受けているかのような錯覚を誘導する虚言をまき散らし、人々の心に妖火をともし煽りたてます。
人間は、帰属する集団が小さい場合、とかく劣等差別意識を持ちがちで、特別な処遇や生活条件を当然のように所望する人もなかには現れます。

少数の民族に特別な援助を施し、特権を与えることは、実質は優遇差別になってしまうのですが、全体の平静維持を願うあまり、文化の継承保存をもっともらしい理由立てにして、特別な法制までされることもあります。

民族意識というのは、なぜ騒動の材料にされなければならないのでしょうか。

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おかしな日本人:1 神話嫌い

2019年10月25日 | つぶやきの壺焼

現代科学では同じことを再現して確かめることができなければ真実ではないだろう、だから神話と呼ばれるものは信じてはならないという空気の中で育ってきた人がたくさんいます。
その人たちは、「日本の歴史は神話と結びついているからこそ、格別にユニークなものとなっている」(日本国紀 百田直樹)という説には、違和感を拭い去れず足を踏み入れられずにいるのでしょう。

こういう人たちの心を塞いでいる重い緞帳を開くにはどうしたらよいのでしょうか。

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縛られた縄を振り解こう:31 他責症

2019年10月24日 | つぶやきの壺焼

学説・論文にとって文献は力強い傍証材料になります。

ただし、学説・論文の裏付けに文献が正しく用いられた場合、その関係が有効なのであって、正当に使われなければ、ただの偽造文書に過ぎません。

また、学説・論文は、ものごとを説き明かし伝えようとする意図や意思の発表手段なので、膨大な量の文献のさまざまな部分を取り出し、つなぎ合わせて読めるようにしたところで、学説・論文にはなりません。
それは単なる調査報告か紹介記事でしかないのです。

学説・論文を評価する場合、ともすれば参考文献の数に惑わされがちになりますが、参考文献が少ない、あるいは書かれていないからといって、その学説・論文に価値がないとは言えません。
自分が信じていた世間一般に植え付けられた思考様式と異なる論を、参考文献から見つけ出せないことを理由に軽々に排斥する人には、評論の資格はないでしょう。

学者と呼ばれる人は、とかく文献への執着度が強く、その強さには、自身の学説についての責任を、文献すなわち自分以外のところに負わせようとする気持ちがこもっているようにも思います。
もし間違いがあればそれは文献のせいというわけです。

学説・論文が優れたものであるかどうかは、積み上げた文献の数には比例しないようです。

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縛られた縄を振り解こう:30 隠蔽症

2019年10月23日 | つぶやきの壺焼

人心を惑わさない、もめごとを避ける、波風を立てさせない、静かに、穏やかに、騒ぎ立てない、安穏平和がいちばんという暮らし方は、多くの人が望むところです。

それを理由に借りて、だいじなことでも言いにくいから知らせずにおく、そのうちに知られては困ることになっていく、それが時を経れば手がつけられなくなる、世紀をまたいでも解決できない、次の世紀末にようやく人々はあきらめ、苦い思い出だけが残る、これが安穏平和なのでしょうか。

水面下という言葉がよく使われます。
誰にも経過がわかるようでは交渉ごとがうまくいかないので、話をうまくまとめておいて、結果がはっきりしたときに皆に知らせるための方法をひと言で、多かれ少なかれ事情を知った人が得意げに話す場合の用語です。
これは、こっそりやっていて情報は隠蔽されているという状態の言い換えに過ぎないのですが、隠蔽では聞こえが悪く、水面下と言っておけば、失敗しても責任を追及されないという利点もあって使われるのでしょう。

ともあれ、隠蔽が習性になりさらに症状のようになれば、安穏平和とはほど遠いことになるのは間違いないでしょう。

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縛られた縄を振り解こう:29 過接触症

2019年10月22日 | つぶやきの壺焼

触れたがらないのとは逆の障害もあって、相手構わず接触を試みるのは、接触恐怖よりもさらに大きな負の効果をもたらします。

相手が言質を利用しようと接触を待ち構えていることに、過接触症の人は気づきません。

要職にある人、あるいは元XXと呼ばれる人が過接触症にかかり、見境いがつかなくなれば被害は拡散します。
渡航も言論も自由な国では、過接触症の被害は計り知れなものになります。

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縛られた縄を振り解こう:28 接触恐怖症

2019年10月21日 | つぶやきの壺焼

知るきっかけに恵まれても、触れてみる機会を得ても、未知のことにはなるべく近づかないという生活習慣の備わった用心深い人がいます。

用心深さも度を過ぎれば、社会との接触を恐れるようになります。

社会との接触恐怖が、集団になると世界との接触恐怖にもつながっていきます。
近海であっても海の向こうのことには見ても聞いても素知らぬふり、決してものを言わずに押し黙る、個人のことでなく国会がそんな接触恐怖症にかかったとき、世界からは経済的に好都合な相手としか見られなくなるでしょう。

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縛られた縄を振り解こう:27 発揮症

2019年10月20日 | つぶやきの壺焼

地方行政機構の頂点、都道府県で言えば知事の座を占めると、行政執行の権力が与えられます。

権力には、魔力が働きかけをします。
その一つは、持った権力を早く使わなければならないという、つまらない切迫感です。

権力執行の最も簡単なのは、プロジェクトの中止です。
大プロジェクトは実行は大変ですがやめるのは簡単、「中止しなさい」のひと言ですみ、ヤッター気分を味わうことができますます。

地方行政の要諦は安定と成長でしょう。
安定と成長には、世間の耳目を引くような権力発揮は必要ありません。
ところが、目立ちたがりの人が首長になると、発揮症を自分で抑えられなくなります。

発揮症と仲良しの権力魔は、持っていればよい権力を、発揮しなければならない権力に変質させます。
とにかく目立つことをしなければという発揮症は、地方が国の一部分であることさえ忘れさせます。
後にどういう影響があるか、そんなことは、継続を遮断し前例を否定する快感によって、配慮の領域から追い出されます。

苦く悲しい症例は既にあります。
大市場移転の遅延、基地移転事業の停滞、芸術祭の不適切展示など、経済損失と文化水準劣化の悪影響に気付かせず、それが地域のみの問題ではないことにも意識を向けさせないよう、神経系統を紊乱させる魔力が働いているのです。

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縛られた縄を振り解こう:26 ゲーム縄

2019年10月19日 | つぶやきの壺焼

ゲームも人を縛りつけます。

ゲームオタクを過ぎると、ゲーム依存症と呼ばれる人も出てきます。
重症になると、ゲームがたよりというのではなく、ゲームに24時間縛られ、夢の中でもゲームを続ける、そうなれば依存症どころではありません。

ゲームは誰にも迷惑をかけないからいいだろうという人は、電車に乗って座ったとき、向かい側の席にいる人全員が、スマホを手にして指をピコピコ動かしている場面の気味悪さを味わったことがないのでしょう。
自分がゲームに縛られていれば、ほかの人のことは目に入りませんから。

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縛られた縄を振り解こう:25 無痛が善

2019年10月18日 | つぶやきの壺焼

人間にとって、痛くもかゆくもないのは、どうでもよいことの代表的形容です。
確かに痛さはいやなものです。

痛みを取り除く方法はいろいろあります。
それを人に相談すれば、医師に診てもらえと言うでしょう。
医師にまずすすめられるのは、薬を飲め、貼れ、つけろということでしょう。

わずかな痛みでも、薬で早く取り除くほうがよいかどうか、それは大いに疑問です。
薬の力を借りなければ痛みを忘れられないような体質に、じわじわと変わっていくからです。

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縛られた縄を振り解こう:24 外交儀礼

2019年10月17日 | つぶやきの壺焼

常人であれば、大きな顔をして来られそうにない相手を、儀式に招待、なぜと問われてそれが外交という答えもあります。
もう一度、常人であれば、理由を作って丁重なお断りが来ると期待しても、仕方がないから行ってやると言わんばかりの返事が来る、それもまた外交なのだそうです。

顔を見合わせれば、手を差し伸べないわけにはいきません。

そんなことを繰り返していくうちに、儀礼が儀礼でなくなり、相手には優越感、こちらには鬱屈感が積もっていきます。

国際交流の実績としてだいじなのは、そこではっきりものを言わせ、世界に向かって正確に報道しておくことで、作り笑顔の握手写真ではありません。
会ったときにボソボソと交わしていた話などは記録に残らないでしょう。
記録にない記憶だけでは、自分の発言をだいじにする人同士でなければ、切り札にはなりません。
下手な心理小説の筋書きのようなことを、知ってる自慢にする人の話は、まずあてにはならないでしょう。

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