・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

マヤクヤク?

2010年05月31日 | Weblog
一度の経験がその役をやめられなくする麻薬役。
カントク、カンジチョー、カッパエビセン。
三つ目のはただ食べる役。

Wikipedia に、「かっぱえびせんをカモメなど鳥類の餌として与えるケースがしばしば見られるが、油分や炭水化物を消化できず死に至る可能性もあるので、与えてはならない」という注意書きがある。
人間はかっぱえびせんで死に至る病には罹らないだろうと、鳥より丈夫だったか。

韓国製もありとは!
http://plaza.rakuten.co.jp/kishisan1125/diary/200610050000/

やはり、どこかでだれかがと思ったら、中国と香港では「蝦條」、台湾でも作られ、タイでは「Hanami」、フィリピンでは「Oishi」とか。
こうなると本家真贋の区別もつかない。

♪ やめられない、とまらない・・・・・・・

そうだ、カッパえびせん食べくらべツアーなんてのはどうだろう。
孫にそんな話をしたら「死ね!」と一喝の終わりになりそうだ。

いき

2010年05月30日 | Weblog
いきとは、何かにつけて過ぎないこと。
美しい小紋を作る岩下桜佳女の言葉である。
こういう言葉にこうだああだと説明をし始めると、そのこと自体がいきでなくなる。

言葉なら聞くたびに心地よくなる、そういうのがいきなのだろう。

説明責任という言葉は、いかにもいきと無縁だ。
ものごとの説明は、それをわかりやすいように説きほぐして伝えることであって、責任を果たすがためにそれを行うとか、そのことをわざわざ済んだ済まないと人を貶める材料にしたり、十分だいや足りないなどとはかりにかけるのは、まったくいきではない。

説明してもらっても、いまさらどうなることでもないという場合に、むりやりそれをさせたことを手柄にするのは、なにかどこかが過ぎているからだ。

責任を問うなら、相手を了解させる説得責任を、ということにならないか。
そこになら、いきの働き場、利き場があるかも知れない。

孫々法人

2010年05月29日 | Weblog
独立行政法人は政府の子会社で、公益法人は孫会社だと説明している人がいた。
これはわかりやすい。
孫会社の下には孫々社もあるはずだけれど、それは何法人というのだろうか。

Webで見つけた「公益財団法人公益法人協会」という組織がある。
名前を聞いただけでまごまごしてしまう。
もうすぐ40歳というほど年季の入った組織で、公益法人の健全な育成発展に貢献し、もって公共の福祉の増進に寄与することを目的として設立されたというわかりにくい法人だ。
1年ほど前、新公益法人制度の施行にともなって改名し、いまの名前になったという。
法人の名前が変わると、そのたびに単純で覚えやすくなっていく場合と、逆にわかりにくくなっていく場合がある。
わざわざわかりにくくするのは、それで値打ちがつくと思ってのことなのか。

こういうサイトもあった。
「国・都道府県公式 公益法人行政総合情報サイト 公益法人information」
https://www.koeki-info.go.jp/pictis_portal/common/portal.do

これはどこの孫々法人がやっているのか書かれていない。
「公益法人の統計」というメニュがあってそのボタンを押したら、
"現在、表示する情報はありません"

まごまごの典型例、こういうのには発見の嬉しさは感じない。

現場用語

2010年05月27日 | Weblog
ニュースで「ホッカイドウケイでは・・・」???
北海同系 北海同型 北海同径 北海同慶 北海憧憬。

北海道か青森県に住んでいる人でないと、北海道警にたどり着くまでに時間がかかる。

なぜ「北海道警察では」と素直に言わないのだろう。
サツという、たったの2音を、どうしても節約したいのだろうか。

夢を撮る

2010年05月26日 | Weblog
夢の写真、まだ見たことのないそれに出会った。
http://trackback.blogsys.jp/livedoor/yamato_onoko/52618897

雨の日に濡れるのをいとわなければ、こういうのが撮れるのか。
ひたいが濡れる、カメラも濡れる、それをいとわずにカシャカシャやっているカメラマンの姿を想像していたら、そうではなかったという。

この写真を見ながら、アリスのあの曲を思い出そうとする。
曲名は覚えていない。
歌詞の一部も「○○のように」しか覚えていない。
「夢のように」だったか、「風のように」だったか。
テープはもう聴かないからと処分してしまった。

こういうことがあるので、身の回りの、いま使わないものがなかなか減っていかない。

つまらない発見

2010年05月25日 | Weblog
マニフェストは紙に印刷されたものだから裏返しがきく。
上質の、やや厚手の紙でなければ、裏返しはすぐばれる。

いまのコウヤクは紙製ではないから剥がすだけ。
剥がしやすさが肝心な品質というテープもある。

おかしな言葉

2010年05月24日 | Weblog
おかしな言葉は、なぜ淘汰されないか。
使われる場の問題だろうか。

たとえばレストランで「ご注文の品はお揃いですか」
レストランをA,B,C級に区分してみる。

A級のレストランでは、こういう言葉は使わないだろう。
客はそんな言葉がこの世に横行しているとは気付かない。
 
C級のレストラン、食堂といった方がよいかもしれないところでは、客と店の人の言葉の交流が自然に行われていて、もし「ご注文の品はお揃いですか」などと言おうものなら「なんだそりゃ、普通に言えよ」とやられてしまうから、使ってみようかと思ってもそんな言葉はすぐに追い出される。

問題は、ファミリーレストランを中心にした、いま最も数の多いB級の店だ。 
そこでは、店の人はアルバイト、客はちょっと気取った自分本位の人達。
当然相互に交流はなく、お互い行きずりの感じ。 
「ありゃとーざいましたー」と、そう思っていないとわざわざ告げているような尻上がりの声に送られて店を出れば全く無関係な人。
店の人がどういう言葉を使おうと気にしない、気になっても口にしない。
店長をつかまえて言ってみたところで、マニュアル店長には通じない。最少人数で切り回しているアルバイターに泣き出されても困るし、プイと帰ってしまわれてはなお困るから、とに角マニュアル遵守で押し通す。

その場には、その場をつくろうだけの、言葉でない音の往復しかなかった。
そうか、言葉だと思えばおかしいので、あれは臨場音だったのだ。

似た曲

2010年05月23日 | Weblog
あれ、この曲はどこかで聴いた、そう思うことがときどきある。
はじめのほうのフレーズが似ているとその感じは強くなる。

似た曲だと思わせないためにも、はじめが肝心らしい。

上海万博のあの曲は、岡本真夜の「そのままの君でいて」に似ていてひと騒ぎあった。
私の耳には、またそれが山下達郎の「クリスマス・イブ」に似て聞こえる。

まだあった。
クイーンの「伝説のチャンピオン」は「マックザナイフ」に似ていないかな。

お怒りめさるな、似て聞こえるものは仕方がない。

訓練地拡散

2010年05月21日 | Weblog
戦闘訓練は、同じ場所で繰り返しやるよりアウェイのほうが効果がありそうだ。
大リーグも移動して戦うではないか。

抑止の対象は元来仮想のもの、ひとつところで同じようなことを繰り返すより、まったく環境の違うところでやったほうが効果的。
遠隔地に迅速に移動するのも訓練のうちではないか。

伝える

2010年05月20日 | Weblog
「鼓は声、間、音」と、人間国宝の亀井忠雄師が話していた。

やや間抜けな質問「音は三番目ですか」
答       「順番はありません」

叩いているだけでは何も伝わらない、鼓もそうだった。

議員資格を正すには

2010年05月19日 | Weblog
今の国会をダメにしている最大原因は、職業政治家制だ。
議員になるだけで生活が成り立つことが間違っている。
こういう制度のもとでは、ほんの一握りの例外を除いては、議員の資格を保つことだけ、椅子取りだけの「継続は力」が一生の仕事になってしまう。

それなら議員になることだけでは生活が成り立たないようにすれば、この問題は一挙に解決する。
具体手法は、議員の歳費を10~20%にすること。
10~20%カットと読み違えては困る。 カット80~90%、そうすれば、生活のカテ議員はたちまちいなくなる。
議員をとりまくアマタレ・ベタベタ構造も崩壊するから、政治は本来あるべき姿を取り戻し、清浄にかつ正常になる。

議員名法

2010年05月18日 | Weblog
もうだいぶ前のことだが、分裂病が統合失調症と改名された。
本質を表した名前の方が確かにわかりやすい。

議員先生方の名前も、本質を表した「議員名」にしなければならないことを、法律で決めたらどうだろう。

この法の主意は次のとおりとする。
1.立候補のときは、議員名で立候補し、投票ももちろんその名前で行われ、当選したら任期が終わるまでその名前を使う。
2.次の立候補のときは、前の任期中の言動・活動・議員生活態度などに合うような議員名をつけなければならない。
3.もし名前で表現されたことと違うことをした場合、すなわち名が体をあらわさなかった場合は、議員の資格を失うことにする。

やっていることと名前が一致しなければ、議員の資格もなくなり、次の立候補資格も与えられない。
あれは党の昔の話でむにゃむにゃなどという言い訳もきかなくなる。

協同

2010年05月17日 | Weblog
産学協同ということがよく言われるが、政学協同というのはどうだろう。
政治は実務の世界、そこに理念を盛り込まなければ立派な政治はできない。
理念には学が要る。 
政治家の安直学でひねり出したまやかし理念は、このややこしい世の中には通用しない。
政治に理念を盛り込むには、御用学者でない者の清真な学理が要る。
そこに政学協同の意義がある。

猫商い

2010年05月16日 | Weblog
野良猫の餌代に200万円とられることになった人がいる。
野良猫がかわいそうで連れてきては餌をやっていたら、近所の人に訴えられた。
餌をやるのをやめなさい、そして迷惑料に200万円払いなさいと審判された。

猫も急に食場を失って大いに迷惑なのだが、猫に小判という人間の作ったことわざがあるのでカネはもらえない。
200万円はどこに行くのか、猫嫌いの人に行く。
猫嫌いの人が猫の餌を食うのか。

この手で猫を使った商売を考えた人がいる。
猫好きで野良猫を見ると放っておけない人を探す。
はじめは空き腹猫1匹をうろうろさせておき、猫好きが食いついて仮飼い主になったらだんだん増やす。
ぼつぼつぶつぶつ苦情を言いながら、しかし仮飼い主があきらめないように、巧みに被害実績を積み上げていく。
ころあいを見て告発する。
猫の餌代がぐるっと回って迷惑料に化け、うまくいったら次の町へ。
さすらいのルーピーキャッター。

「こころ」を読む

2010年05月15日 | Weblog
あるきっかけから、高校教科書に最も多く採用されているという漱石の「こころ」を読み直してみた。
読み直しと言っても、記憶にあったのは書名だけで、初めて読んだのと変わらない。
いまさら買って読む元気もないので、図書館から3冊借りてきた。
なぜ3冊もか、ここにいわくあり。

図書館から本を借りる場合、ネットで検索し予約しておき、知らせが来たら借りに行くことにしている。
「こころ」「漱石」で検索し、ぞろぞろ出てきたなかから、文字の小さい文庫本を避け、全集なら読みやすかろうと平凡社の「世界名作全集」を選んで予約した。

貸し出しの用意ができたと連絡があってとりに行くとき、受け取るだけならと眼鏡を持たなかった。
「これでよろしいですか」と言われて背文字を見たが、はっきり見えない。
古ぼけた小型のものをこれが全集かと思いながらとにかく借り出し、帰ってからよく見ると、その全集が、字は7Pと8Pの間の6号ぐらい、版の大きさは文庫並みだった。昭和34年の版で紙もだいぶ焼けている。
全集が大判本とは限らなかった。

これはだめだと、また別の日に図書館まで出かけて行って探した。
あるある、漱石全集は4~5種類もあった。
ほるぷ出版の漱石全集は、文字が大きくいちばん読みやすいが「こころ」が入ってない。
仕方なく角川の「日本近代文学大系」から探し出した。
これは、字は10Pぐらいでまあまあだが、全部の漢字にふりがながついている。
「私が愈立とう」に「わたくし いよいよた」とおまけがつく。
長いふりがなは文字の間隔をわざわざ広げなければおさまらないので、行が間延びしたものになる。
おまけにこの印刷は行間に余裕がない。
詰めたほうがよいところは広がっていて、空間の欲しいところは詰まっている。
目がちらちらしてまことに読みにくい。

これもだめだと、もう一度ネットで書名と出版社を条件にして検索、ようやくほるぷの「日本の文学」に入っているのを借りることができた。
10Pより大きい5号活字で行送りも8ミリ以上あって、これは読みやすい。
本はやはり現物を確かめてから買ったり借りたりした方がよい、とあらためて思った。

さて、この本は、図書館の整理シールを見ると、なんと児童図書館の蔵書になっている。
三角関係の果てに自殺で終わる本が、なぜ児童図書なのか、また国語の教科書に載るのか、理解に苦しむところだ。
蔵書の場や掲載を決めるときに、書名と著者しか見ていないのではないか。

それはともかく、中身のことに触れなければ話にならないので、本題に入る。

暮らしの中で、余計なことは知りたがらない、余分なことは話さない、これが普通の人間のこころのように思っていた。
知って欲しくないことを打ち明けてしまうには、命と引き換えの覚悟がいることさえある。
一方、知ってどうするというようなことを、無闇に知りたがる人もあちこちにいる。そんなことが書かれている。

前世紀の終わりごろから、情報化という化け物のお陰もあって、知りたい、聞きたいという身勝手な興味のままに、相手のことを考えずにキリやノミで突っつき散らすような人が増えてきた。そして、自分の興味がある程度満たされた人は、それでコミュニケーションがはかれたなどと得意顔になる。

こころのうちをわかるまでに至らず、知ったつもりになるだけでも、発掘研究者のような執念がなければできない。
また、こころのうちの最もだいじなところを知らしめ理解させようとするには、ヌーディストに宗旨替えするような勇気がいる。
心の病をもっていて気の毒な状態にある、あるいは人に危害を加える心配がある、そんな人のことでないなら、お互いにもう少しさらっと付き合うように、そうすれば世の中もっと住みやすくなるだろうと、あらためて感じた。
            (7年前のメモから)