・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

マルマル

2011年01月31日 | 政治の70不思議

マルが並んでいる。それが目に付いた。

写真になってからよく見ると、ふたつのマルは両方ともフタだった。

マルマル・フタフタ、繰り返しているとゴスペルソングになりそうだ。


マルマルお世話、フタフタ隠せ。

大勢の人間が、自分では何もしない。

自分でしてはならないと、世の中が望んでいることにして、マルマルお世話になる。

福祉社会バンザイ。

社会保障ヤレヤレ。


ただなんとなくいい気持ちにさせる工夫につとめる政治や行政。

負担させるといえば税金を絞り上げることにしか知恵が回らない。

フタフタ政治が、くにをクタクタにする。

マルマル・フタフタ、フタクタ・くにクタ。


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2011年01月30日 | 政治の70不思議

近頃の駅の階段は様子が変わってきた。

単純に段々が続いているのではない。

途中に柵があったり、斜交いに狭くなっていたり、この駅の付近には大きな会社がないからよいが、降りて行く先が狭くなっているこの階段に、降車客が大勢一度に押し寄せたら大変だと思う。

日本人はおとなしいからよいが、となりのCだったら、混雑、競争、喧嘩の3K騒動が毎朝のように起きるのではないか。

万里の長城の昇降階段口の混乱ぶりが、民度の象徴としていつまでも頭に残っている。

バサンたちも他の国へ行ってあんな様を見せてこなければよいのだが。


開店前

2011年01月29日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

「商店街はすたれるもの」とみなが思うと、商店街はどんどん寂しくなる。

世の人々は、そういうマイナス思考を巧みに植え付けられてしまっているのではないかと思うことがある。

引導の親戚のようなこの種の話のタネには、肯定の相槌を打ってはならないのだ。

こう言うと、「現実がそうではないか」と言いたがる人が必ずいるが、その人は現実病に罹っているのだ。

現実がだめだからこそ、何とかそこから抜け出そうと、がんばる人が出てくるので、現実が万々歳なら何もすることがなくなるではないか。


まだ開店前の時刻に、「ここの商店街もすたれたね」と話しかける人がいたので「まだ開店前なんだよ」と答えた。

商品棚の覆いから靴が1足のぞいている。

さあ、いちばん先に私を見つけて買って欲しいと。

 


紋様

2011年01月27日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

 

駅のホームに円い模様が散らばっている。
ガムのかすを吐き出して踏んだ跡、いや、踏んでべったりついたのをはがした跡だ。
踏みつけ踏みつけ、永く放置されると、周りの舗装面は汚れてガムの跡だけが最初に踏んだときの色で残るから薄く見えるのかと思ったが、そうではなさそうだ。
いっせいにガムが吐き出されるのではないから。
薄い色になるのは、はがしたガムに汚れが一緒についていってしまうのかもしれない。

こうして、美しいとはいえないが、まったくランダムに描かれた紋様が出来上がる。
巧まずして作られたものは見る目に抵抗を感じさせない。
それだからあんなふうに無遠慮に吐き出されるのか。

捨てるとなれば、その場所に少しは気を使うものだが、そのときは捨てるという感覚さえ持たない人がただ吐き出すのだろう。

これも60余年前に厚木から入ってきたGI文化を真似たのが因になっているのだ。
路上吐き出しの悪習は、1940年代前半にはまだなかった。


連結

2011年01月26日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

「ものはつながることによって強固になる」と前に書いた。
このつながり方は、強固になっているのか。
大地震のとき、一つ一つのビルの揺れ方は違うから、このつなぎ目がどうなるかは想像がつかない。
まさかつなぎ目がゴムのように伸びて、地震が収まればまた元に戻るようにはなっていないだろう。
あるいはどこか弱いところを造り込んであって、揺れ方次第でそこがブッチ切れ、ビル本体には大きな損傷をもたらさないようにしてあるのだろうか。
どこか一部分が変形したり壊れたりしても、ビル群全体としては強固なのだといえるかもしれない。

ハード面ではちょっとひねった強固さであっても、まったく途中階の連絡がないのに比べたら、ソフト面では大いに強固であるといってよいだろう。

新旧共存

2011年01月25日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

街が新しくなる。
その変わり方の早さは活力の現れである。

新しければよいとは限らない。
新しいものは概して軽く、古いものには重さがある。

古いだいじなものを残しながら、新しいものを求めつくり上げていく。
その調和感覚は知恵の現れである。
調和が崩れるとき、かかわった人の浅はかさが露呈される。

目と耳

2011年01月24日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

目と耳は、共に老化の先駆機関である。
メガネ屋さんで補聴器を売っている。
使う場所がお隣だから抵抗はない。不思議にも思わない。

メガネはかけていても余計なものは見えないが、補聴器をつけていると、周囲の雑音も一緒に入ってきて肝心の音や声が聞こえないこともあるという。

補聴器をつけた人に、大声で話をしても通じないことがある。
そういうとき、補聴器の性能を疑ってはならないのだ。
雑音をさえぎるような違う角度から、あるいは雑音よりやや強めに話せばよい。

視覚と聴覚では、自動/他動の割合が違う。
他動の範囲が広い感覚を相手に働かせてもらうには、辛抱と工夫がいる。
キ・コ・エ・テ・ク・レ。

体験

2011年01月23日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

何ごとにも体験は尊い。
体験の有無は、読書や資料検索よりもはるかに力を持つ。

体験はビジネス・モデルとしても有効になる。
天狗舞が置いてあって旨い天麩羅を食べさせる蕎麦屋に看板が増えた。
蕎麦打ちをどうぞと呼びかける。

さて、どこからさせるのか、おそらく八分どおり練ってあるのだろう。
そうでなければ、体験看板に釣られてやってくる人に打たせた蕎麦など食べられたものではないから。

級別になっていて、本気で覚えたい人には台の清拭から始めさせるなら、本当の体験になるのだが。

冬の野

2011年01月21日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
晴天が続く。
風さえなければ、日がかげるまでは、心地よい。
日本海側の方には気の毒だが、雨が降らないので車がきれいにならないとぼやく人もいる。

リサーチパークと呼ばれるこの丘には、まだまだ空地がある。
風向きが変わるほど、ここに建物が建ったときには、少し離れた駅に行く途中にある商店街の風向きも変わるだろう。

月光

2011年01月20日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

満月だった。
月光浴は体のリズムを整えるという。

これまでは、月光を浴びるという感覚を持つことがなかった。
気まぐれに日光浴はたまにしても、月光浴はしなかった。

世の中がせせこましくなると、体のリズムもせせこましくなってくる。
治ったと思うとすぐどこか調子が狂う。

寒い季節のほうが、空が晴れていてよい。
元気を出して、月の光を浴びよう。

じゃんけん

2011年01月19日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

勝てばうれしいが、負けても痛手の少ないじゃんけん。
チョキなしは、はじめから勝負のついているじゃんけん。
それでも不意を衝かれれば、負けることがある。
負けない法則は単純だが、簡単でわかりやすいあらゆることに瞬間的判断をくだし、そのとおり確実に行動することはむずかしい。

夕空

2011年01月17日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

陽の沈むとき、紅く輝く窓がある。
いつまでこれを見られるか。

陽の映る窓も、それを眺める窓も、動くことはない。
陽に沈む位置は日々移動していくから、いつかは輝く窓が見られなくなる日がやってくる。
また来年、また来年と、いつまでこれを見られるか。
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堀内敬三の名訳で「夕暮れに仰ぎ見る輝く青空」となった My Blue Heaven という曲がある。
また7曲をお届けしよう。

エノケン
藤山一郎
四角佳子
Kaho
Nat King Cole
Frank Sinatra
Doris Day