・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

対立を力と思ってしまうとどうなるか

2014年05月31日 | つぶやきの壺焼

人の耳に、感慨か関心かを吹き込む言葉には、対立概念が巧みに組み込まれているようです。

対立するものごとには、そこから何かの意味を見出す効力があります。
ものごとを考える上では対立があっても、理想は共有している、そうであれば、どうにもならない奇妙な対立はだんだん減っていくことでしょう。


対立が、あるときどきの状況ではなく、対立することを目的に何かが行われると、結果はろくなことにはなりません。
毎日ある時間帯には、その失敗が誰の目にもわかるような巨大建築物もあるようです。
ツインタワーの一方に、灯がともらないのです。
片側の施工権を強引にぶん取って、早く作れる力を見せ付け、威信をあらわそうとしたことが裏目に出たようです。

対立の話にさほどの興味は湧きませんが、写真を見ていると、二つのビルのつながったところに目が行きます。
このつなぎ目だけは、対立を忘れて協議しなければ話はまとまらず、技術者同士は結構仲良くやっていたのではないかと、勝手な想像をしています。

画像はこちらから拝借しました。
「胡乱な日々」
 ⇒ http://jump.cx/uron

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方法を目的にすり替えるとどうなるか

2014年05月30日 | つぶやきの壺焼

論点というほどの改まったことでなくても、何かをキチンと話し合うことには、みな抵抗を覚えます。

話はいい加減なほうが面白く聞こえて、お互いに楽だからです。
D I Y、だじゃれ、言い逃れ、やじ、これは話の三楽です。

三楽でも五楽、九楽でも、それが方法であるうちは、面白くもあり、楽しくもなれます。
けれども、この「楽しく」が方法の域をまたいで目的にされてしまうと、とたんに興が冷めます。

X活と名づけられるいろいろな集まりに何度参加しても、求めてきたXにめぐり合えないのは、目的のXが忘れ去られて、いつの間にか「楽しい」ほうだけに、ことがすり替えられているからでしょう。

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回転木馬は回る場所を変えられない

2014年05月29日 | つぶやきの壺焼

みなさんの懸命に取り組んでいることで、わからないことが一つあります。
国土の端から端まで、1日で行って帰ってこられるようにしたところで、何がどうなるのでしょう。

むやみに動き回っても、人間の行動範囲などたかが知れています。
回転木馬は、いくら早く回しても、そこでしか回らないのに。

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メモの綴じ方は左右どちらがよいか

2014年05月28日 | つぶやきの壺焼

 メモを綴じない人と綴じる人、綴じないけれどもクリップで挟んでおく人がいます。
綴じるか挟むか、どちらかの場合、紙面に向かって右側がよいか、左側がよいか、ふと考えました。

右左と言えば、その概念の出発点をつかめない疑問は、いまだに解けません。
太陽の沈む西に向かって、北極星を見られるほうが右だというのも、いかにも苦し紛れの出来そこない定義です。
しかしいま、それは関係がありません。
無関係の話題は、話をそらしたいときにしか効果がありませんから、そうでないときには止めたほうがよさそうです。
ひとの話なら、混ぜっかえしの趣味を満たせますが、自分のしている話を混ぜ返しても仕方がありません。


横書きものは左綴じが普通のかたちです。
ところが、メモの場合には、ずっと綴じてはおきません。右手で剥がすには、紙の端をつまんで右に向かって開く方向に引っ張れる右綴じのほうが具合がよいのです。

では、既に綴じられている親切なメモ帳や、ノートブックをメモに使う場合はどうしたらよいでしょうか。
紙の上下を気にしないなら、水平にくるっと回せば、左綴じがたちまち右綴じになります。

逆立ちが嫌ならどうするか、後ろから使えばよいのでした。
左とは、右の反対だったのです。

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うっかり名前は教えられないか

2014年05月27日 | つぶやきの壺焼

エレベーターで可愛いイヌを抱いた人に出会いました。
イヌの名前を聞いたら、やや口ごもりながら、飼い主の喉頭がん手術の話が始まり、降りるまで続きます。
降り際に「声が出ないからイヌの名は教えられない」と言い訳がありましたが、手術の話は十分聞き取れたのです。

イヌがご主人に付き合って声を出さなくなったのでしょうか。
名前を聞かれると自分で答える、おりこうなイヌだったのかもしれません。
お気の毒に。

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新しいゲーム・ルールでやってみたら

2014年05月26日 | つぶやきの壺焼

千秋楽も過ぎて、またチャンスを逃した力士の記憶だけがあたまに残っています。
相撲の勝負は、おおかたは立合いで決まります。
一瞬のたじろぎから優勝の機会を逃し、それがそのあとの力士生活にずっとかかわってくることもあります。

意表はつくもの、勝負には何が起きるかわかりません。
負けてはならないときには、どんなことがあっても勝つことが王者の資格です。

制限時間を過ぎても、まだ「まった」を許すから、気合いの高まりがずれるので、制限時間後に「まった」をすれば相手に軍配が上がることにしたらどうでしょう。
遅くてもそのときまでに、すぐ立てるよう相互の空気を盛り上げていってこそ、プロの立合いと言えます。
どこかだらだらとした空気を一掃するには、ルールを変えるしかありません。

ルール変更と言えば、先日ラジオで面白いことを聞きました。
オセロの対戦中に、白黒逆転の機会が与えられるというルールです。
将棋のように駒にも盤にも方向を決めてあるものとは違い、「逆転」の宣言一つで入れ替わりができます。
いつ逆転権が行使されるかわかりませんから、状況の優劣度と危険度が一緒に増減します。
ゲームの途中では、ほどほどの優勢にしておかないと、大勝ちしそうで喜んでいれば、いきなり「逆転」と言われたときひどい目に合います。
隅さえ確保すればというチョロい戦法は役に立ちません。

こんな具合に、ゲームのルールを変えることは、だらだら防止ぼけ防止に効き目がありそうです。いかがでしょうか。

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古くても新しい本

2014年05月25日 | つぶやきの壺焼

Oさんの買われた車に乗せてもらったら、新しい車の懐かしい匂いがしました。

図書館から、まだ誰も読んでいない本を借り出すと、匂いはしませんが、何かラッキー感を覚えます。
新しい本を買ったときの悦びに近いとも言えます。
図書館の場合は、もっと稀な機会に恵まれたとも言えます。

書店から棚にある本を買っても、それは立ち読みのカスかもしれません。
予約して買えば、誰も読んでないものが買えます。

図書館では、蔵書になかった本をリクエストして、それがかなえば誰も読んでないものを借りることができます。
いち二度そういうことがありました。
先日のラッキー例は、蔵書の中から借りた本であるのに、それがまだ読まれてなかったのです。

おおむかしの本のように、ペーパーナイフでページの端を切りながら読むのとは違いますが、綴じて裁断したとき切れ味が悪かったのか、紙の端がさばけずにくっついているのでした。
かすかな抵抗を感じながらページを開くとき、新しい本を読むのと同じような気がしたのです。

紙の本には、やはり電子図書とは違う、手に持つ愉しみがあるものです。

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ルール作りというムダ話

2014年05月24日 | つぶやきの壺焼

ルールを守る習慣のない国を相手にする広域経済貿易で、ルールを作ってそれに乗せようという方法は有効なのでしょうか。

正義という名の虚構という、あまり上等でないタイトルのドラマを、不幸なことに思いついてしまいました。
人類が二千年がかりで実現できなかったことを、一万年先には達成できるという望みを持ち続ける人の、嫌われ話、迷惑話がテーマです。

ウソ話、ムダ話は、同じ考えを持った人たちの間では面白い空気を作りますが、それをホントと信ずる人たちにすれば、ときに人間の心をだんだん捻じ曲げていく毒性サプリメントにもなります。

毒をもって制することのできる毒は、先にばらまいておいた毒だったという話がどこかに出てきそうです。
そこには「せいす」が「征す」と書かれているようです。

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多用途はものの値打ち

2014年05月22日 | つぶやきの壺焼

いま、安定している食料の代表は鶏卵です。

卵には、大きく分けてふたとおりの用途があります。
割って食べる元気のもと、ひなを孵して育てるもとです。
食べ方も、育て方も、また用途が分かれます。

人間も、何か一つのことしかできないというのでは、鶏に負けそうな気がします。

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出す名前と出さない名前

2014年05月21日 | つぶやきの壺焼

留守番電話には、どすのきいた声がよいと聞きました。
表札に女子名を出すと危ないそうです。

表札に家族全員の名前を書くのは、留守のようでも誰かいるかもしれないという、空き巣防護の効き目に期待してのことでしょうか。
空き巣ねらいは来なくても、別の何かが来そうな気もします。

ペンネームを並べて書くと、書き方によっては、そのペンネームの人が同居しているようにも見えます。
不思議なことに、ペンネームでないほうの名前は、見ても覚えられません。

表札だけに使う名、表札名という名の名前もありそうです。

表札に、犬の名前を書く人もいるそうで、愛犬家というより尊犬家と名づけたほうがよいかもしれません。

表札を出さない人はいるけれども、名前を書かない表札があるだろうかと想像すると、どこか不気味な感じもします。
集合住宅では、住んでいても名前を書かない人もいますが、雑居ビルで、何人かの人が仕事をしているのにドアにも郵便受けにも名前がないのは、どういう人たちなのでしょう。

言葉は交わしても名前を知らないどうしが多いのは、名乗らずに自然に名前をおぼえてしまう子どもの頃の不思議な才能を、いつまでも持ち続けられると思っているからでしょうか。

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相撲がつまらなくなるとき

2014年05月20日 | つぶやきの壺焼

終盤に向かう大相撲の魅力は、取り組みが一色でないところにあります。
相撲がどの取り組みもみな同じだったら、全然面白くないでしょう。

違いが面白いと言っても、つまらない取り組みが出ると、たちまち帳消しになります。
つまらない取り組みの代表は、偶然にお気の毒な揃い文字ですが、NHKの3種類のようです。

N 【逃げ相撲】 はじめから逃げ回る相撲
H 【跳ね相撲】 爪先で走り跳ね回る相撲
K 【気分相撲】 粘らず素直にこける相撲

イラストはこちらから拝借しました。
東北大学競技麻雀同好会 ⇒ http://jump.cx/thdmjd

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合理性を集めると大きな合理性になるか

2014年05月19日 | つぶやきの壺焼

鶏インフルエンザが怖いので、生きている鶏を買うというのは、合理的な選択でしょうか。
生きているうちにという人は、鶏肉になるまでの加工過程で感染の危険が大きいからという理由をもっています。
加工過程の実態をよく知っているからこそ、その選択ができるので、理由が通る範囲では多分合理的なのでしょう。

人間が考えてすることは、ある範囲でだいたい合理性をもっています。
たとえ行き当たりばったりに見えても、錯乱状態でさえなければ、その人にとって、そのときにそれを望み、そのとおりにしたのだという、理屈があるでしょう。

しかし、それぞれに合理性をもった行為も、考えの及んだ範囲のもう少し外側のことまでよく考えてみると、範囲を広げたり集めてみたりしているうちに、合理性が転回して全体では合理的でなくなってしまうこともあります。

自衛権というのは、法律で決めなくても自明のことです。それには理屈など要りません。
これが集団的などと奇妙な言葉と組み合わさると、どこかに不合理な、なぜそんなことまでしなければいけないのかというところにまで足を踏み入れる状況をつくってしまうおそれがありそうなのも、合理性のかき集めとどこかに似たところがあるような気がします。

そうそう、集団的合理性などという言葉はなかったのでした。

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回転させないダイヤルもあった

2014年05月18日 | つぶやきの壺焼

スマホ時代に生まれ育った子どもはダイヤル電話機を知りません。
年代別に使う電話機が違うと、子どもは、ダイヤル電話機を見れば数字穴を指で押します。

そんな話を聞いて、ダイヤル電話機の画像を探していたら、見つかったのがダイヤル式の壁掛け電話機でした。
壁掛け電話機は、箱型で側面にグルグル回す信号発信ハンドルが付いたものと思っていました。
恩賜箱根公園の湖畔展望館にもまだ残っていたのを思い出します。
それにダイヤルが付いているのです。
お、壁掛けにもこういう新型があったかと、写真を載せられたブログを読むと、これがなんと、プッシュボタンがダイヤル状に並んでいるものでした。
 ⇒ http://jump.cx/mukaiten

電話は壁に向かって立って使うもの、番号は円く並んでいるもの、それは変えずに、押すだけで回さなくてもよくなった、これなら便利になったと思うでしょう。
実用品の形を急に変えてしまうのは、気まぐれデザイナーのお楽しみ仕事です。
使い慣れたものを少しずつ好くしていく、そんな余裕ぐらいは持っていて欲しい、あまりガツガツしないでと言いたいところです。

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好い加減なところがいい

2014年05月17日 | つぶやきの壺焼

お前のしていることはいい加減なのかと、あるとき尋ねられました。
自分では「いい加減だから」と言うことがありますが、あらためて詰め寄られると、ズバッと「そうだ」とは言い切れない、「いい加減」という言葉は、何ともいい加減な性格を持っています。

いい加減の「いい」を「↓↑」と発音するのと「↑↓」と言うのでは、意味が逆転することに、今頃ですが気付いたのは、呑み会の席でのKさんの話からでした。
子どものときに、うなぎ屋の店先の水槽で、ただうねうねとうごめいているうなぎの群れの中に、どういうわけかまぎれ込んだ金魚を見つけた、あのときのことを思い出します。

前より後が上がるとよくない表現になり、下がるとよくなる、これは上昇志向一本槍の方には気にいらない話でしょう。
「いい」を「好い」と漢字にして普通に読むと、ほとんど「↑↓」となるのがまた妙です。

「ものは言いよう」と言われますが、ここにも「いい」が出てきます。
「いい」は「飯」でもあって、日本人の食べものとも深いかかわりがあるからだと、これはまたいい加減なこじつけですが、ここまで来て、この話が出だしで間違っていたことに気付きました。
聞かれたのは「いい加減なのか」ではなく「適当なのか」だったのです。
「適当」が「いい加減」にすり替わっても、話の筋道はほとんど同じです。

こう書いてあるとか、こう言ったとか、そんなことは読み方聞き方でどうにでもなるのに、大勢集まってわいわいもじゃもじゃやっているさまは、水槽のうなぎとあまり変わらないような気がしてきました。

あと四十余日後のいっせいに食われる日に向けて、懸命に太ろうとしているうなぎ君たちにも、いい加減にしておいたほうがいいよと声を掛けたくなります。

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