・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

せきたてという悪癖と忘れるという論具

2014年02月28日 | つぶやきの壺焼

10年ぐらいかかるかと普通なら思うTPP交渉がまとまらなかったと騒ぎ立て、50年はかかるだろうと普通なら思う原発事故の後始末がまだまだと騒ぎ立てられます。
現代人はせきたて症に罹っています。
世の中の動きは早くなっているのだから、何でも早くしなければならないと思い込むのは、地球人の何分の一かが気付こうとしない共同罹病の共通症状です。

そうでありながら一方では、時の感覚を自らしびれさせ、半世紀前のことを持ち出し、そのあと互いに話し合ったことなどは忘れたことにして、敵という名の勢力宣伝化粧に余念のない人も出てきます。

何でも早く早くとせかせる人、あっ忘れたと言ってせきたて風をかわす人、世はさまざまでちょうどよいのでしょう。
せかせかは勝手ですが、じたばたは見苦しいのでやめたほうがよさそうです。

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私人として靖国参拝という奇妙な行為

2014年02月27日 | つぶやきの壺焼

神社にお参りするというごく自然な行為は、日本人特有のものです。
他の国の人が、理屈ではわかったような顔をしても、それは理解であって、感覚のまん中のところに響いてはいません。
そんなことは出来ない相談なのです。

どこか特定の神社に、誰かが参拝すると、他国の人間が難癖をつける、この変てこなことが、外交手段に使われます。
人間の知恵のなさを、神様は笑っていらっしゃるでしょう。

神社参拝は、する人が宣伝することでもなければ、周りでことさらに騒ぎ立てることでもありません。
それをさも珍しいことのように、わいわい言い立て書き立てるメディアも、どこかが狂っています。

神社参拝に、公人とか私人とか、立場を説明することもありません。
閣僚が参拝するとき、私人としてなどとわざわざ言えば、そのとき既に売名行為になっているのです。
その場に押しかけて、そのことを問い質すような、ばかげたメディアの質問も、売名のちょうちん持ちでしかありません。

折角行ったのだから、昇段してお参りしたいと考えるのも、タカビー感覚がそうさせるのでしょう。
普通の人間のお参りなら、普通のお参りの仕方をしてくればよいのです。
一般の人の邪魔になるから、一緒にかたまって行くというのも変な言い訳です。人は3人以上集まれば、他の人の迷惑になることが何か起こります。

玉ぐし料を積み立ててあると、わざわざ言うのもおかしな話です。
一人一人参拝するのに、なぜ積み立てが必要なのか不思議ですが、積み立てと言えば個人の支出と聞こえるだろうと、まさかそうは考えていないでしょう。

あれやこれや、明晰な頭脳をゆがんで見せてやろうという、神様のいたずらでしょうか。

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自主的行動をせまるのは出来ない注文

2014年02月26日 | つぶやきの壺焼

「自」という文字は、おのれを指す意味でありながら、「自主的に行動しなさい」「自律がだいじです」などと、自分のことでない場合に多く使われます。

なかでも「自主的」ということは、奇妙な性格を持っています。
自主的行動の最適例である「投票」という行為ですら、信仰あるいは信条にしばられて心の内とは別のことをしてしまう場合もあるでしょう。
自主的な投票によって選ばれたはずの人たちが、肝心の国政という仕事の場では、「党議拘束」という「自主的」とは正反対のことをやっています。

「自主的行動を指示されたとき、従っても従わなくても自主的にはなりえない」と橋爪大三郎氏は言います。
「はい」と言えば相手の指示に縛られ、「いや」と言えば自主的行動はしないことになる、「自主的」とは言葉のあや、着物の柄のようなものでしかなさそうです。

「人間は自由という刑に処せられている」と、サルトルがどこかに書いたそうですが、「自由」も、自分以外の何かがあって、その束縛から逃れるのが自由なので、自分だけなら自由も何もなく、そんな言葉は生まれなかったでしょう。

とにかく「自」という字には、いつも逆の意味が付いて回っているように思います。
自動車も、いまは自分で動くことよりも、自分で止まることのほうに力が入っているようです。

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軽口習慣の模倣はうまくいかない

2014年02月25日 | つぶやきの壺焼

芸人はときどき政治家のモノ真似をします。それも芸のうちです。
その出来がよければ、それだけでもメシを食えます。

政治家もときどき芸人の真似をします。それはモノ真似にはなりません。
あまり出来のよいのは聞いたことがありませんが、もちろんメシのたねにはなりません。

モノ真似の成立可否は、聞く人の心を捉えるかどうかで決まります。
芸人のモノ真似が芸になるのは、似ているかどうかをもう一つ超えた何かがあるからです。

芸人はウケを狙います。
政治家もときどき芸人の真似をしてウケを狙います。結果は歴然、笑い声だけは聞こえます。
けれども、この笑い声は、芸人の見事な芸を見たときの笑い声とは違っています。
笑い声は、鳴き声よりもその質を区別しにくいので、笑ってくれればOK僕上等と思ってしまうこともあります。

ウケ狙いは芸人仕事の本質の部分ですから、それこそプロの仕業です。
政治家のウケ狙いはアマの域を抜けられません。

軽口でウケを狙おうとすると、ほとんど失敗に終わります。
軽口の巧拙は国民性にもよります。
口の重さの平均値の高い国の人が、軽口の達者な国の人の技法だけを真似てもうまくいきません。

性根は模倣できないのです。

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調べるということには前提があった

2014年02月24日 | つぶやきの壺焼

「取調べとは、調書の書き方の交渉の場である」  村木厚子談
 ⇒ http://jump.cx/mura

ものごとを自分の思惑通り、あるいはそれに近い結果が出るように、相手を言いくるめるのが交渉です。
望む結果が出るには、相手の心変わりが必要です。
もともと同じ考えなら、交渉とは言えません。必要のないところに目的行為はありえませんから。
はじめから結果がわかっていて「俺が交渉してきた」などというのは偽渉です。

「調べる」とは、未知のことを探ってわかるようにすることと思っていました。
ところが辞典をあらためて調べてみると、これは「しらぶ」の口語体で、「しらぶ」は
(1)音律を合わせととのえる.楽器の調子を合わせる.
(2)音楽を奏する.弾じる.ひく.
(3)言葉に調子をつける.図にのって話す.
(4)かれこれ照らし合わせて考える.
  
(イ)点検する.調査する.研究する.
  
(ロ)尋問する.糾明する.
となっています。(広辞苑第二版)

最後の(ロ)尋問する.糾明する.には、「罪人をしらべる」という用例まで付いています。

これを見ると、「調べる」対象は未知のことではなく、調べられる人はそのときすでに罪人で、事件について口頭で罪状を問いただし明らかにすることが取り調べであるとされていたようです。
取調べという行為の解釈がこうなのでは、冤罪などという言葉も取調官のあたまにはまず浮かばないでしょう。

取調べが交渉の場と考えるには、その場に置かれているわが身と、取調べに当たる人との関係を壁際のカメラを通してでもあるかのように見つめられるほどに、肝が据わり頭が冴えていなければかなわないものと思います。

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経歴は経験がつながってできあがる

2014年02月23日 | つぶやきの壺焼

経歴は、これまでに何をしてきたかということですが、その中のある時期に、XX大臣などという国の運営の重職が含まれていると、その後の発言も重く見られます。
ところが、重く見られるはずの行動、発言が、あまりにも軽すぎて、重みを打ち消してしまうどころか、その人ばかりでなく、国全体が軽く見られる要因になってしまうことがあります。

総理大臣、大統領、国によって異なる最高位職ですが、職を離れても、世界の人が見る目からは「元」というめがねがはずされています。

総理、大統領の経験者の人格が、国の広さ狭さにかかわりがあるのかと、ふと思うこともありますが、これはそうは思いたくないことの一つです。
経歴は、それをつくる一つひとつの経験のありかたにかかわることであるはずです。
経歴の列車には、最後尾にまた次の経験という車両がつながっていきます。
末尾車両には、すばらしい展望車をつなげて欲しいものです。
その車両の不具合から、全車両脱線にならないよう、全線の長期停止などという椿事を出来させないよう、車両の保守点検をしっかりしてもらわなければなりません。

あの列車ならこの程度でまあ、というわけにはいかないのです。

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プロフィル欄で何がわかるか

2014年02月22日 | つぶやきの壺焼

プロフィルには、他人が書く人物紹介と、自分が書く自己紹介があります。
人物紹介、自己紹介とも、顔写真、出自、経歴が載ります。
出自も経歴のうちに入れてしまうと、顔写真と経歴がプロフィルということになります。
しかし、顔写真は載せたい人と嫌がる人とがいますから、経歴だけがプロフィルと呼ばれることもあります。

プロフィルという言葉は、研究社の英和辞典では『ラテン語の「輪郭を描く」の意から(人、特に顔の)横顔、(彫像の)半面像』とされています。
記事の重複は、辞典という性格からあえてそうされたものでしょう。辞典に向かって言葉遣いのことを論じ掛けても仕方がありません。
辞典には、およそ意味中心、文法無視の記事が多いものです。いや、辞典制作者は、無視ではない別視だとおっしゃるかもしれません。

紹介されるプロフィルに載る顔写真は、正面あるいはやや斜めでもほとんど正面のものが多く、まともな横顔は滅多にありません。
プロフィルといいながら横顔を載せない、文字の集まりからその人物を想像せよというのがプロフィルと呼ばれる記事になっているようです。

人物紹介、自己紹介に、弱点、欠点を並べることはしませんから、それを読み聞きしたところで全貌を知ることはもちろんできません。
その場で何を知らせたいかだけを知ることができる、それがプロフィルの全貌なのでしょう。

おやおや、横顔や半面像のことを全貌とはこれいかに。

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覗き穴から見るものは、自分の心の底

2014年02月21日 | つぶやきの壺焼

ほぼ毎日、何を書いているのか、ときには標題すらも忘れてしまうブログ書きが続いています。
ブログ書きは中毒現象のようなもので、「する」を続けるよりも、「しない」を続けるほうが気がかりの種になりやすいようです。

覗き穴という標題は、なんだこれと思う人、眉をひそめる人、いろいろな顔つきを想像しながらつけました。
発信後にその穴から確実に欠かさず覗いているのは自分です。
覗き穴から見えるのは、気付いてみれば自分の心の底でした。

題材相互に脈絡があったりなかったり、ただ文字が並んでいるだけと見えることもあります。
自分の心の底を、こうまでして見てどうするのか懐疑をもちながらの快技に、さしあたり必要なことも次に回して、とられる時間が長引いても、その時間には、あるべき頓着さえも忘れ去っています。

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継続が力を失うとき

2014年02月20日 | つぶやきの壺焼

三日坊主という言葉は、ものごとを続けられない揶揄に使われます。
「続ける」には、「する」を続けるのと、「しない」を続けるのと両方があることに気付きました。

ことと次第によっては、「しない」を続けるほうが良い結果をもたらす場合があることを、ソチの情報で知らされました。

競技直前でも、毎日何時間かのはげしい練習を続けていないければ心身の調整ができなかった人と、競技のことよりもゆったりした環境で心を落ち着けることに専念した人と、結果の違いは歴然でした。

「する」継続が、力を失うときもあったのです。

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在庫量は価値判定の要素になりうるか

2014年02月19日 | つぶやきの壺焼

「在庫とは、企業・商店などが加工や販売をするために保有する原材料・仕掛品・製品あるいは商品などの財貨を指す」
Wikipedia にはこの意味のことが書かれています。
庫に在るということで、いつでもすぐに役に立てるよう待たせてあるものです。意味なく貯めてあるものではありません。
まさかのときのための備蓄とは、また意味が違います。

「在庫処分」という店頭用語をときどき見かけます。それには定常の価格よりいくらか安い値段が付いています。
定常価格との差額が「処分」の意味なのかもしれません。
在庫は加工・販売という次の工程にそなえてのことで、捨てるためではありませんから、「処分」は「廃棄」の言い換えではありません。

在庫で悩みの種になるのは、その量です。
在庫管理という言葉もあって、適正在庫量の計算技法が確立していれば在庫管理は万全などというお気楽旦那の勘違いの材料にもなっていますが、ともあれ量が問題ではあるのです。


在庫はモノだけかというと、そうでもなさそうで、生活体験の在庫量という言葉をどこかで聞きました。
なんでもやった、いろいろやった、方々見て歩いた、それだけでは生活体験とは言えません。
何かをやらないよりも、どこかへ行かないよりも、ぱらぱらと散らばっている記憶の断片が多いには違いありませんが、生活体験の在庫量とは言えないでしょう。
その場で実際に生活してみた体験の積み重ねが生活体験の在庫量なのでしょう。

その在庫は加工するものでも販売するものでもありません。何に役立つのか、それは人間の価値判定に役立つのではないかと思います。
在庫量と言いましたが、在庫の質との関係は少しややこしくなります。
生活体験が上質かどうか、悪質と言ったのでは聞こえが悪くても、天井の高い建物の中での優雅な生活よりも、どこかうさんくさい生活のほうが、案外価値の重さを持つこともありそうです。

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わかりやすさが求められる複雑な世の中

2014年02月18日 | つぶやきの壺焼

「超単正愛」こんな四字熟語はありません。
これを一字ずつばらばらにすると、現代人が、それを求めるかどうかは別として、強く意識することがらになります。

「超」はとびぬけたさま、皆と同じという安堵水準から、何かが、どこかが、とびぬけていると多くの人がそれを認めます。
40歳を超え、むかしなら孫に囲まれる年齢で、オリンピックで活躍しメダルを勝ち取る人も「超」をつけて讃えられます。

「単」はわかりやすいさま、ただ一つの、ごちゃごちゃしていないことが、人の心をすっきりさせます。
原発即ゼロなどという、夢ことばの名残のような独白にも、2候補合わせて200万に近い都民が、賛同して票を入れました。

「正」はただしいこと、この言葉は悪の対義であるというだけで、絶対視されます。
世の人は、一つひとつの言葉や行いが、正しいかどうかをいちいち確かめたがり、そのときには、おかれている条件も、時と場合がどうであるかということも忘れてしまっています。

「愛」はいつくしむこと、与えることでも貰うことでもなかったこの感情が、いつかやり取りの材料になり、その言葉を思い出すのは、ほとんど貰い分の不足を感じたときにだけという、妙な具合になっています。
どんなドラマにも組み込みやすく、憎しみとの組み合わせも入れると、さまざまな描写を、主題にも背景にも役立てることができます。そのためもあってか、日本人には、実生活で直接表現するとどこかしらじらしい感じがする扱いにくさもあります。

四つに共通するのは、わかりやすいから好まれやすいということでしょうが、わかりやすい話はうそ話に仕立てやすいということもあって、実は、無数にある複雑な枝や根に、気付かないことが多いものです。

人々は、それぞれ自分の好みに合わせて、見たいところだけを見る習性がついていますから、だいじなことをさせる人選びも、笑顔と口車につい乗ってしまいます。後でぼやいてもしばらくの間は我慢させられる、その繰り返しが続きます。人の失敗率には半減期はないのか、なかなかやってきません。

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ケチをつけたくはないけれど

2014年02月16日 | つぶやきの壺焼

オリンピック競技のルールには、どうにも理解しがたいところがあります。

?1.フィギュアは姿かたちですから、ぐるぐる回る回数などはどうでもよいのに、それが採点の要素になっていること。
?2.ジャンプは跳ぶことですから、飛距離以外は二の次でよいのに、着地後に決められた姿勢を示すことが採点の要素になっていること。
?3.モーグルはコブだらけの斜面を早く滑り降りる競争ですから、決められたコースの中でどこを通り抜けてもよいのに、早さよりもコブの大きなところを選んだことが採点の要素になっていること。

数字になりやすいこと、1か0かをはっきり示せること、それが採点基準になってしまえば、審判の人格などは無用ということになります。
ルールがなぜ退化とも言えるこんな方向に流れよっていくのか、それはルールを決める人たちの知能が、機械依存によって見えない退化を余儀なくされているからではないかと思います。

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過去の支出は無関係というコスト計算の原則

2014年02月15日 | つぶやきの壺焼

いままでにかけたお金の勘定をして、しきりにぼやく人は、コスト感覚が鋭いのかというと、実はそうではありません。
勘定の記憶力が強いだけで、コスト感覚には疎いのです。

今どうするか、この先どうするか、それを判断するためのコスト計算には、過去の支出は計算外なのです。

過去のコストがいかに「天文学的」だろうと、今後の原発の採算性には関係ありません。(池田信夫)
 ⇒ http://jump.cx/cst

過去の支出にこだわるのは、コスト感覚でなくコットー感覚なのかもしれません。

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おめもじというだいじなこと

2014年02月14日 | つぶやきの壺焼

昨日の視覚のもじりのことから、ふと思い出したのが「おめもじ」という言葉です。
漢字では「御目文字」となるようですが、こうするとやわらかい感じが失われます。
この言葉には、やはりひらがなが合います。

「お目にかかる」と同義ですが、「おめ」は「お面」にかかっている気もします。
気おくれすることを「おめる」「怖める」といいますから、その意味もどこかにありそうです。
「お目にかかってもじもじする」では駄洒落の領域に入ってしまいますが、最初はおそるおそるお目にかかるという、そんな態度も言い得ているかもしれません。

「もじ」には文字だけでなく言葉という意味も含んでいます。
「おめもじ」は面と向かって言葉を交わすことのように思います。

一国の宰相が、他国を訪れることが大きく報じられるのも、会って話をする機会をつくることが、地球上に住む人間同士にとってどれほどだいじかということの顕れです。

自分の都合だけで特定の国だけにはのこのこ出かけて行っても、ほかとは遠吠えで騒ぎまくることしかしない宰相は、任期中の人気を持ちこたえるために、冠を自ら脱いでしまったあわれな辛い相の毎日を過ごしていかなければなりません。
自業自得とは言え、いかにもお気の毒なことと思います。

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好みは交互にやってくる

2014年02月13日 | つぶやきの壺焼

「月が鏡であったなら」というおおむかしのはやり歌をまた思い出しました。
何かの拍子にふと思い出す、そのきっかけは、ほんのちょっとしたことが多いものです。

何だったか、思い出せないと悩んだときは、記憶の幕は厚く重くなります。

形の好みも、食べ物の味と同様、記憶の再起ですから、ときどき変わります。
丸い形がよかったり、角ばった形がよかったりします。

今日あたりは丸いほうに分がありそうです。
というのも、「数字が月に見える」という話を、ラジオで聞いたことを思い出したからです。
数字が月にとは何だ、にくだくだ説明は要りません。

ご覧のとおりです。

視覚を変えれば ⇒ 視覚のもじり ⇒ しかくもじ ⇒ 四角い文字

折角丸い気分でいたものが、もう角型に変わろうとしています。

みなさん、鏡の形は四角と、円と、どちらがお好みでしょうか。

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