「超単正愛」こんな四字熟語はありません。
これを一字ずつばらばらにすると、現代人が、それを求めるかどうかは別として、強く意識することがらになります。
「超」はとびぬけたさま、皆と同じという安堵水準から、何かが、どこかが、とびぬけていると多くの人がそれを認めます。
40歳を超え、むかしなら孫に囲まれる年齢で、オリンピックで活躍しメダルを勝ち取る人も「超」をつけて讃えられます。
「単」はわかりやすいさま、ただ一つの、ごちゃごちゃしていないことが、人の心をすっきりさせます。
原発即ゼロなどという、夢ことばの名残のような独白にも、2候補合わせて200万に近い都民が、賛同して票を入れました。
「正」はただしいこと、この言葉は悪の対義であるというだけで、絶対視されます。
世の人は、一つひとつの言葉や行いが、正しいかどうかをいちいち確かめたがり、そのときには、おかれている条件も、時と場合がどうであるかということも忘れてしまっています。
「愛」はいつくしむこと、与えることでも貰うことでもなかったこの感情が、いつかやり取りの材料になり、その言葉を思い出すのは、ほとんど貰い分の不足を感じたときにだけという、妙な具合になっています。
どんなドラマにも組み込みやすく、憎しみとの組み合わせも入れると、さまざまな描写を、主題にも背景にも役立てることができます。そのためもあってか、日本人には、実生活で直接表現するとどこかしらじらしい感じがする扱いにくさもあります。
四つに共通するのは、わかりやすいから好まれやすいということでしょうが、わかりやすい話はうそ話に仕立てやすいということもあって、実は、無数にある複雑な枝や根に、気付かないことが多いものです。
人々は、それぞれ自分の好みに合わせて、見たいところだけを見る習性がついていますから、だいじなことをさせる人選びも、笑顔と口車につい乗ってしまいます。後でぼやいてもしばらくの間は我慢させられる、その繰り返しが続きます。人の失敗率には半減期はないのか、なかなかやってきません。
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