・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

壮大な誤謬

2012年10月31日 | つぶやきの壺焼

小さな間違いはすぐ見つかるが、大きな間違いは見つけにくい。

言い間違えたとか、書き間違えたとか、そんなどうでもよさそうなことには皆が気づくが、全社ぐるみで始めてしまった○○運動などということになると、それが大きな間違いであっても気づかない。
たとえ気づいた人がいても、白眼視、昇進機会の逸失などに耐え抜いてでも間違いを指摘する者はほとんどいない。

○○運動というのは、気運の盛り上げだけが狙いだから、それで実践した結果が、将来ことあるときに、どういう影響をもたらすかということは論じられることがない。

○○運動の発表会を行って、巧みな作文が功を奏して入賞してしまったことがらは、現場で実用化しないわけにはいかないから、実際の設備設計にとりいれられる。

ところが、そのときには思いもよらなかった、というより、思いをよせなかった異常事態が起きた場合には、まったく処置なしというような不幸を招くこともある。

全社をあげて褒めたたえてしまったことだけに、責めを負える者はいない。
間違いのもとは、○○運動そのものの企画にあるのだが、後にそれを指摘する見識は、多分どこにも見当たらないだろう。


グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答
Ulrich Beck,木前 利秋,中村 健吾
国文社

ほんもの-にせもの

2012年10月30日 | つぶやきの壺焼

世の中には、ほんものとにせものと、どちらが多いだろうか。
比較症の患者はすぐそんなことを考える。

たとえば薬。
偽薬というのがあって、効き目を試すときに使うそうだが、偽薬のほうを飲んでいて病気が治ってしまうと、区別がつかなくなる。

あれは偽薬でしたと言われても、同じ症状が出たときその薬を飲むと治ってしまう。
そうなると、病を治すのが薬だから、その人にとっては偽薬も真薬ということになる。

ほんものは善、にせものは悪という図式が崩れる。
ほんもの-にせものの区別も意味がなくなる。

どちらが多いかという比較も意味がないことに気づけば、比較症の症状も消える。

病は気から、治すも気から。
病に犯されるのは、治ることに気づかない場合が多いのではないか。


真贋
小林 秀雄
世界文化社



勝者の品格

2012年10月29日 | つぶやきの壺焼

天皇賞で勝ったイタリア人の騎手、天覧席の前で下馬、ひざまづいて敬礼。

勝者の品格を見ることができ、心地よかった。

勝ちを得たときの仕草で、競技の品格も、勝者の国の品格も、そこに定まる。


あるとき、無邪気なアスリートが、もらったメダルを噛んで見せた。
その気まぐれな仕草も、サルまねが繰り返されると式典マナーのようになってしまう。

喜びの瞬間の表情などつかまえられない、腕の悪いおバカなカメラマンが、サルまねを注文する。
勝利の興奮も冷めかけたときの顔で、下品な所作を強いられた映像は、見苦しいだけのものでしかない。

TV中継の価値は、観るものにすがすがしさを与えたかどうかが、決め手になりそうである。


勝者の思考法 (PHP新書)
二宮 清純
PHP研究所

未経験では裁けない

2012年10月28日 | つぶやきの壺焼

IT犯罪には、判例が少ない。
警察は捜査の経験も取調べの経験も少ない。
検察も深いところまでは読みきれない。
裁判もこれまでの知識では、判定根拠はみつからない。

前例に照らしてどうかということを気にしすぎてきたこれまでのやり方では、新しい事態への判定能力は育ってこなかった。
前例がなければ、自分で判定しなければならないのだが、考えるだけではわからないIT犯罪には、手のつけようがない。

年齢には無関係の子供のいたずらに似た行為からはじまるIT犯罪は、今の大人たちに、その経験を積ませることは絶対にできない。
タイムスリップも役立たない。
子供の時代に戻っても、そこにITはないのだから。

絶対などということは、この世にはないと思っていたが、やはりあった。

死刑をどうするかよりも、IT犯罪をどうするかのほうが急を要する。
法務大臣様はいかがお考えだろうか。


「IT」の死角―インターネット犯罪白書 (別冊宝島Real (#008))
 
宝島社

無料のエネルギー

2012年10月27日 | つぶやきの壺焼

ないはずと思っているものが、ときどき現れることがある。
たとえば、無料のエネルギー。

位置のエネルギーは、それを応用すればタダに近くなる。
その応用の代表的なものに、電気自動車が電気をつくってくれるという、あの話がある。
下り坂だけを走っていれば、載せた電池にどんどん電気が貯まっていくという勘定なのだが、下り始める位置に到達するまでのエネルギーは、計算の都合上考えないことにする。
こうあからさまに言ってしまえば、そんなばかなと思うことも、エコの文字がつくと都合のよい側の計算だけができるように、人間の頭はできている。

ゼロとかマイナスには、なるべく考えが及ばないように、世の多くの人には暗示がかかっている。
それでも「無料」という言葉に吸い寄せられていく。
「無料」のものには「無用」のものが多いことはすぐ忘れ去られるから。


「知っておきたい熱力学の法則と賢いエネルギー選択」―アメリカの科学者が提案するエネルギー危機克服法
Richard S. Stein,Joseph Powers,安部 明廣
エヌティーエス

人類の失敗

2012年10月26日 | つぶやきの壺焼

人類は二つの妄信による大きな失敗をした。

ひとつは、経済が有力な学説にしたがって科学的または論理的に動くという妄信、もうひとつは、自然が計算に基づいた仮定を超えるような激しい変化をもたらすことはないという妄信であった。

妄信のもとは言葉である。
社会は政治分野のことであって、科学の範疇ではなかった。
であるのに、経済社会、社会科学などと、どこか響きのよさそうな連結熟語を編み出して、それを妄信の手助けに使ってきた。
確率事象として扱うには、計算してみるという行為以上の意味がないことにまで、何パーセントの確率でなどと、つい信用してしまいそうな表現手段を用いて、既に決めてしまった計画推進の妥当性の論拠としてきた。

言葉だけで作り上げた枠組みなどは、地球の表面を一瞬で走りぬけ、地表の内部を揺り動かす大きな力を前にしては、押さえにもつっかえにもなりはしない。

とは言え、失敗は大きいほど学べることも広く大きい。
政策が合うとか合わないとか、賞をもらえそうかどうかなどという、小さなことは個人の目標なり夢なりに任せて、大失敗が生きるような、組織的な思考プロジェクトを推し進めることを考えるよう、賢人方に奮起してもらいたいものである。

転換が発想まででおしまいでは、思いつき遊びにしかならないのだから。


日本型リーダーはなぜ失敗するのか (文春新書)
半藤 一利
文藝春秋

飛べるうちに

2012年10月25日 | つぶやきの壺焼

空が澄んでくると、渡り鳥の季節かとふと思う。

いつだったか、Yさんの撮った渡り鳥に、頂点の1羽より、両側が少し前に出ているのがあったのを思い出す。

列の先頭を飛ぶのは疲れるらしいから、鳥の知恵でときどき入れ替わるのかと思った。
この様子を「先頭の1羽より、両側が少し前に出ている」と書いたら、「その二羽が先頭ではないのか」とお返しがきた。

なるほど、いちばん先に出ているのが列の先頭だから、ほかの鳥がそれより前に出ていることはありえない。

人間の集団でも、先頭に立っているはずの人が実はそうでなく、ほかの人が先に出ているのはよくあること。

渡り鳥の場合には、先頭の1羽が少し下がることはあっても、ほかの群れに引っ越してしまうことはないだろう。
人間の集団では、どういうことが起こるかわからない。

秋とは、どこか背中の後ろを風が通り抜けるような思いがする季節である。


わたり鳥の旅
重原美智子
偕成社



優良と劣悪

2012年10月24日 | つぶやきの壺焼

優良対劣悪、わかりやすい対義である。
だが、わかりやすい概念は、なにごとにも共通と思われがちのところに怪しさがある。

優良劣悪があるなら、優悪劣良ということもあってよいはずだが、それは曲がった考えだと思うのが常識という名の相場らしい。

概念は、思い込んでしまうと観念になって頭の隅で固まってしまう。

優れているものは良く、劣っているものは悪い。
そんな観念が、教育・研修の場にまで入り込んでくる。

教育・研修の場では、悪いことは教えないものと誰もが思っているから、そこで取り上げられたことはすべて良いということになる。

新概念でもないのだが、“優悪”ということの実例を挙げてみよう。
ディベートがそれで、あれは有害研修のひとつではないかと思う。

どんなことを言ってもよいから、とにかく相手を言い負かす。
ひたすら感情を抑えて、論理にもならないようなことまで持ち出し饒舌で戦う。
目的は勝つことにおかれていて、互いに考えることはそっちのけになる。

口が達者で常に相手を打ち負かす言葉より、普通のことをきちんと言える、当たり前の言葉の訓練をしたほうが良いと思うのだが、どうだろうか。


大村はま 優劣のかなたに: 遺された60のことば (ちくま学芸文庫)
苅谷 夏子
筑摩書房



一見合理的

2012年10月23日 | つぶやきの壺焼

線引きは、境界をはっきりさせることなので、合理的な措置のように思われがちだが、そうでもないことが処々方々に出現する。

たとえば、危険区域。
状況の変化で境界線が変わって、住居を二分してしまった例があるという。
家の半分は住んでもよいが、線の向こう側は立ち入り禁止。
トイレが向こう側になってしまったらどうするのだろう。

放射性物質が、線の向こう側には危険なほどあって、こちらにはないなどということがあるわけがないので、こんな線引きは不合理の標本でしかない。

調整の余地を認めない線引きが、いさかいの種にならないとも限らない。

まっすぐな線は、競技用のラインと手書き文字の練習だけでよさそうだ。


まっすぐな線が引ければ字はうまくなる
高宮 暉峰
日本実業出版社

見せられるウソ

2012年10月22日 | つぶやきの壺焼

実体の見えないものは、たとえでしか表現できない。
たとえば「心」のように。

安心、安全のような、たとえるすべさえないものを、具体的に示せなどと迫るのは亜呆な要求。
もし見せられたとしても、ウソを愛でるしかない。

「世界平和」 「グローバル」 話は大きくなるほど、どこか怪しさが増してくる。

 

ドキュメント・森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』 (DVD付)
森 達也,替山 茂樹
キネマ旬報社

緊張してこそ

2012年10月21日 | つぶやきの壺焼

「リラックスは緊張の後に得られる」
高橋Qちゃんの明言である。

ただ楽けを望んでもだめ。
何も心配ごとがなく、何もせずに肩だけがこっている人にときどきお目にかかる。
コッターコッターと肩に力を入れている。

緊張と脱力、交互にうまく組み合わせるとよい。
緊張の通販はないのだろうか。

夏も終わって蚊取り線香も使わなくなったし。


リラクセーション―緊張を自分で弛める法 (ブルーバックス)
成瀬 悟策
講談社

離合集散

2012年10月20日 | つぶやきの壺焼

離合集散、この言葉は、対義動詞を組み合わせ、それをまたつなげることで、整理のつかない状態に至るまでの動きをつかまえて、世の中に起こることがらの様子をうまく言い表している。

文字を見れば辞書を引くまでもないので、この熟語を引いてみるのは初めてだった。
見れば、離合は「離れることと合うこと」、集散は「集まることと散ること」と、意味を説くでもなく読んでいるだけの、まじめな書き方が滑稽である。

国語の辞書の説明には意味を持たせず、熟語の意味は使う者にゆだねようという考えなのか。
そうしておかないと、辞書にはこう書いてあると、かたくなに熟語の意味を狭めながら、自説の正しさを主張する朴念仁が増えるおそれがあるのかもしれない。

ところで、離合集散の四字を、意味の近い二字ずつに分けてみると、離散、合集となる。
離散からは共同体の崩壊、合集からは合衆国があたまに浮かんでくる。

散らばっていく動きと、集っていく動き、世界各国の動きもそのどちらかにあるような気がするのだ。
発展途上と言われるアフリカには、知らないうちにたくさんの国ができている。
EUは、集まりかけてみたものの、どこか危なげである。

散らばるのが発展途上の現象であるとすれば、日本はどうなのか。
ある地方だけをまるで他国のように扱い、あるいは地方主権などと体のよい言葉でほったらかしにする。
それだけを見ると、まだ発展途上ではないかと思えるのだが、突然に位相が反転して、衰退途上にならなければよいと願うばかりである。


帝国と経済発展: 発展途上世界の興亡 (サピエンティア)
尹 春志,尹 春志,Alice H. Amsden,原田 太津男
法政大学出版局



おりこうインコ

2012年10月19日 | つぶやきの壺焼

おじいさんとおばあさんに可愛がられていたインコがいなくなった。

空を飛んでみたくなったのか、庭に出たおじいさんの肩から急に舞い上がり、どこかへ行ってしまった。

よその会社に迷い込んだインコは、優しいお姉さんに家に連れて行ってもらい、幸せだった。

遊んでいるインコが何か言っているのが電話番号のようなので、お姉さんがそこにかけてみたら持ち主の家だったという。

こちとらなどは、自分の家の電話番号も語呂合わせでやっと覚えているのに、インコはえらいなあ。

詐欺師の家に飛び込まなくてよかった。


インコの心理がわかる本―セキセイインコとオカメインコを中心にひもとく
細川 博昭
誠文堂新光社

企業の力

2012年10月18日 | つぶやきの壺焼

企業に「育成力」がなくなってきたという説がある。
成果主義のおかげで課題処理は巧みになったが、人を育てることが忘れられているという。

もうひとつおろそかになっているのは判断力だろう。

ある大都市の地震の被害想定で、3263人の死者が出るとの報道があった。
3千人の大台さえ怪しいと思うのだが、それに263人という端数までついている。

コンピューターの正確無比な計算結果を、そのまま被害想定値とするのもどうかしているが、発表を示された数値を丸めることにも考えが及ばないメディアのほうも、こんなことで大丈夫なのかと心配になる。

計算条件をいくつも当てはめて、ある組み合わせ条件の場合にはこうなるという、コンピューターの答であるのはわかっているが、コンピューターで正確に計算した結果は、みな本当の答えであると思ってしまっては、妄信というほかない。

ここでいささか本当らしい答えとしては、「3000人を超える死者が出る」ぐらいのところなのだが。
一桁の数値まで示さなければ、世の多くの人に、まじめに考えていると思ってもらえないというご配慮なのだろうか。


論理的に考える方法―判断力がアップし本質への筋道が読める
小野田 博一
日本実業出版社



面白そうな町へ

2012年10月17日 | つぶやきの壺焼

町には相がある。
駅を出た途端に感じる町相とでも言おうか。

がやがやと賑やかな町、静かで落ち着いた町、なにかありそうな面白そうな町、つまらなさそうなツンした町。活気のある町、しょぼくれた町。

町の空気は、訪れた人も手伝って作られるが、町の相には、その町の人々の相が現れる。

町の面白さは、「何が」を突き詰めていたのでは出てこない。
昨日は、国語教科にクラムボンが入っているわけを、いただいたコメントで教えられた。

学習指導要領の「言葉の響きを楽しむ事を教える」は、名言でもある。
言葉の響きとは、宮沢賢治が書いた言葉だけでなく、教室全体の言葉の響きでもあったのだ。

町の面白さも、町全体の響きから出てくるに違いない。
響きの感じられる町は何か面白そう。
たとえば、中野の町のように。
ちょっと足を伸ばして行ってみようか、という町が増えていけば、活気の広がりがつながって、町々がいっそう楽しくなるだろう。


町の忘れもの (ちくま新書)
なぎら 健壱
筑摩書房