・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

転職

2022年08月10日 | Weblog

クイズ:転職


クイズを一つ

W ⇒ V  こんなふうに仕事を変えた有名人がいます。

誰でしょう。

ヒント 窓 ⇒ 防  解答はこちら


テロ

2010年06月27日 | Weblog
ものごとに定義を与えれば、良否正邪は別にしてその存在を肯定することになる。
だから、テロという始末に終えないものをわざわざ定義するのはよくないと思っていた。
Wikipedia には、「テロリズムとは、恐怖心を引き起こすことにより特定の政治的目的を達成しようとする組織的暴力の行使、およびそれを容認する主義のことであって、テロリズムに則った行為・手段、およびそれらによって敵対者を威嚇する事をテロルと呼ぶ。日本では一般にテロリズムとテロルの双方を指してテロと略す」と書かれている。

この「特定の政治的目的を達成しようとする」がまずひっかかる。
テロは目的とか達成などという概念の埒外にあるのではないか。

「生物と無生物のあいだ(福岡伸一)」で、生命の定義の基準は、自己複製と動的秩序だとしているのを読んだ。
自己複製と動的秩序、この逆は自己破壊と動的無秩序だ。
これこそテロではないか。
自分を壊してしまうのだからもちろん他人のことなどという意識はそこにない。
無秩序の前には政治的目的もその達成もありえない。

テロとは生命の否定なのだ。

花は根に

2010年06月17日 | Weblog
さるお方が花という意味をあらためて知ったと書いておられる。

http://blog.livedoor.jp/yamato_onoko/

こちらもあらためて辞書をめくり、歌を見つけた。

「花は根に鳥は故巣にかへるなり春のとまりを知る人ぞなき」

これがいちばん近いかと勝手に思う。

だが、「花は根に」という言い回し詠い回しが、「根に持つ」を連想してちょっと気になる。
しかし、ものは考えよう、言葉も考えようで、持ったものが遺恨の類でなく、根の先に広がったたくさんのひげ根、そこから吸い上げ蓄えられる豊かな養分なら、これこそ花のいのちの大きなお役目なのだろう。

昨日も元気に花を咲かせておられる何人もの方にお会いでき、まだまだ根腐れを自分で防がねばとカサカサ頭で思っているところ。

言葉の格

2010年06月14日 | Weblog
立場に応じた言葉の使い分けを、本音とたてまえがどうこうなどと言うと、いかにももっともらしく聞こえるが、この考えはあまり立派とは言えない。

たてまえとは立派なものか、総じて立派ではない。
なぜかと言えば、それにはできもしないことが多いから。
では本音は立派なものか、これも総じて立派ではない。
なぜかと言えば、それは愚痴の変形であることが多いから。

立派でないことを対立させてみても、その論法が立派になるものではない。

立場という言葉も、たてまえという考え方の近辺にある。
「俺の立場は・・・」などと言っても、自分を指しているわけではなく、自分がいる場を指しているので、自分そのもののことではない。
立場はというのは、自分という一個の人格の外側にある。

政治家を例にとってみても、党として、党首として、大臣として、個人の見解でなどと、めまぐるしい使い分け、言い分けが用意されている。
この言い分けが、言い訳代わりに使われることもある。
大臣でいるときは党を一時離脱しているなどと、アニメ型変身術が持ち出される。
こうなるともう立場分裂症状である。

つまり立場というのは人格が失われた概念なのである。
何かの場合に、立場を重んじた扱いをされても、そのひとの殻の部分がだいじにされただけで、その人の人格が重く見られたことにはならない。

たてまえも立場も、ある場合には一見立派でも、ちょっとしゃれた服を着ているぐらいのことでしかないのだ。
そのうえ腹の中に愚痴のかたまりを溜めていたのでは、どうみても立派とはいえないだろう。

ユーザーのためのサポート

2010年06月11日 | Weblog
昨日の続きで、またサポートのこと。

絵を入れてみて気が付いた。
国旗の正規寸法はこうだと書かれたものを切り抜いたが、数字の使い方が「わかりゃいいだろ」で至極鷹揚、これ、応用数学のケーススタディ。

さて本題、回路テスターで低い電気抵抗を測定するには、レンジを1オームにし、リード線を短絡した状態で、抵抗0の目盛に針が指すよう調整してから使うのだが、電池を取り替えた後でそうしてみると、フルスケール目盛調整器をいっぱいに回しても0にところに針が行かない。これは別の部品が故障らしい。

サポート担当に尋ねてみようと、テスターメーカーS社のホームページを見ると、あった、あった、○○クラブにお入りなさい。
なんだやっぱり同じことをやっているのか、と思いながらよく見ると、入会・登録は無料で、相談・質問ができるようになっており、定期校正・修理は品目別に金額が明示してある。
実際に何かして貰ったらそれに対価を払う、そのときに便利なように、あらかじめ登録して置く。これが普通の姿だろう。
早速申し込み用紙をダウンロードして手続きした。

用があろうがなかろうが、とにかくメンバーをできるだけ多く集めて、会費を取るだけとってしまえというような略奪戦略があたりまえになってきている昨今だが、そうでない日本で育った日本の会社がまだあった。
さすが半世紀前から名前を知っていた老舗。

窓の外を見ると、空は曇っているが心は晴れた。S社よ、ありがとう。

マチュはマッチョか

2010年06月04日 | Weblog
最近TVでK社の週刊世界遺産のCMをときどき見かける。
ペルーのマチュ・ピチュの写真が創刊号の表紙に載っている。
面白い名前の山だ。

マチュは、マウンテン、モンの系統、ピチュはピークで、突き出た山のことかと思ったが、この想像は見事に外れ、山を意味するのはピチュのほうだった。
では、マチュとは何か。

Wikipedia を見ると、「マチュ・ピチュ」(Machu Picchu) は「老いた峰」を意味すると書かれている。
写真で見るあの山の姿から、マチュはマッチョではないかと想像していたのに、「老いた」と知ってこれはがっかり。

スペイン語かと思って machu と picchu を西→日翻訳にかけてみたが、そのことばは二つともない。
もう一度 Wikipedia をよく見ると、これはケチュア語だった。
意味のほうにすぐ目が行って、どこの言葉なのかをよく見てなかった。

一般の翻訳サイトにケチュア語は載っていないが、あきらめずに探すと、あった。
理研の笠原和起(たかおき)博士によるスペイン語・ケチュア語・アイマラ語の辞書がある。
http://www.kaorin.net/jesqa/

そこで machu は老人, (男), おじいさんとわかり、念のため picchu を探したが載っていない。
伺ってみると picchu はやはり「頂点、いただき」だった。

驚きはまだ続く。
マチュ・ピチュ(老いた峰)の隣には、ワイナ・ピチュ(若い頂)という山があって、その山は頂上が急峻、マチュ・ピチュは山が丸いからこそ街を築けたとのことだった。

ことばも所作も、住み慣れたところ、使い慣れたものから自分勝手に意味をつかむと、まるきり反対ということもあるのだった。

新珍学会

2010年06月03日 | Weblog
「と学会」という珍しい名の学会がある。
世間のトンデモ本やトンデモ物件を品評することを目的としている。

はじめの目的は、トンデモ本を楽しむことにあったが、超常現象や疑似科学、陰謀論などを否定的に取り上げることが多くなると、オカルトを批判したいだけではないかと誤解されるようになった。
だがそれは、そうした分野にはトンデモの要素が多いからで、学会がオカルトを特別な標的にしているわけではないと会長さんは主張していらっしゃるという。
http://www.togakkai.com/

そのうちに本だけでなく、あらゆるおかしなものを扱うようになって、そちらのアイテムの方が多くなったそうである。
モノを直接扱ったほうが、本を通してよりも回りくどさがなく、トンデモ感が伝わりやいからだろう。

さて、世の中には、トンデモまではいかなくても、その一歩手前の、あやしいこと、いかがわしいこと、胡散臭いこと、えげつないこと、おこがましいことはいくらでもある。
それを調べる「あいうえお学会」というのはどんなもんじゃろか。

冷静なお方は、調べてどうすると言いたいだろう。
それなら次に「どうする学会」をつくろう。
省略と対抗の精神をあらわに「ど学会」とする手もある。

たいくつシノゲン

2010年06月01日 | Weblog
リゾートホテルの部屋などによく見かける、4枚の板を組み合わせて、いろいろな形を作るパズルがある。
「旅のひとときをお楽しみ下さい」と書いてある。
シルエット図形の見本がついていて、しばらくはそれで楽しめる。
だが、見本にある6種類の形が出来てしまうと、もう一度手をつけようとしない。
こうなると二度三度やってみようとは思わない。

形を作る上での原則を一つ掴んでしまえば、何回やっても簡単にできてしまうので面白くなくなる。
おすすめの文句のとおり、楽しめるのはひとときなのだ。

スポーツや芸事のように、どうすれば巧くいくのかわかっていても、そのとおりにはなかなかできないものなら、何度でも繰り返し試そうとするのだが。

売店で同じものを売っていても、買って帰ろうとは思わない。自分で作ってみようとも思わない。かといって、新しい図形を考えるほどの興味も湧かない。

わかってしまえば、そのあとのことは、魅力の材料にならないのだ。
ゲームは、意味のない、わかる必要のないものほど、面白くないと思いながらはまり込むものらしい。

マヤクヤク?

2010年05月31日 | Weblog
一度の経験がその役をやめられなくする麻薬役。
カントク、カンジチョー、カッパエビセン。
三つ目のはただ食べる役。

Wikipedia に、「かっぱえびせんをカモメなど鳥類の餌として与えるケースがしばしば見られるが、油分や炭水化物を消化できず死に至る可能性もあるので、与えてはならない」という注意書きがある。
人間はかっぱえびせんで死に至る病には罹らないだろうと、鳥より丈夫だったか。

韓国製もありとは!
http://plaza.rakuten.co.jp/kishisan1125/diary/200610050000/

やはり、どこかでだれかがと思ったら、中国と香港では「蝦條」、台湾でも作られ、タイでは「Hanami」、フィリピンでは「Oishi」とか。
こうなると本家真贋の区別もつかない。

♪ やめられない、とまらない・・・・・・・

そうだ、カッパえびせん食べくらべツアーなんてのはどうだろう。
孫にそんな話をしたら「死ね!」と一喝の終わりになりそうだ。

いき

2010年05月30日 | Weblog
いきとは、何かにつけて過ぎないこと。
美しい小紋を作る岩下桜佳女の言葉である。
こういう言葉にこうだああだと説明をし始めると、そのこと自体がいきでなくなる。

言葉なら聞くたびに心地よくなる、そういうのがいきなのだろう。

説明責任という言葉は、いかにもいきと無縁だ。
ものごとの説明は、それをわかりやすいように説きほぐして伝えることであって、責任を果たすがためにそれを行うとか、そのことをわざわざ済んだ済まないと人を貶める材料にしたり、十分だいや足りないなどとはかりにかけるのは、まったくいきではない。

説明してもらっても、いまさらどうなることでもないという場合に、むりやりそれをさせたことを手柄にするのは、なにかどこかが過ぎているからだ。

責任を問うなら、相手を了解させる説得責任を、ということにならないか。
そこになら、いきの働き場、利き場があるかも知れない。

孫々法人

2010年05月29日 | Weblog
独立行政法人は政府の子会社で、公益法人は孫会社だと説明している人がいた。
これはわかりやすい。
孫会社の下には孫々社もあるはずだけれど、それは何法人というのだろうか。

Webで見つけた「公益財団法人公益法人協会」という組織がある。
名前を聞いただけでまごまごしてしまう。
もうすぐ40歳というほど年季の入った組織で、公益法人の健全な育成発展に貢献し、もって公共の福祉の増進に寄与することを目的として設立されたというわかりにくい法人だ。
1年ほど前、新公益法人制度の施行にともなって改名し、いまの名前になったという。
法人の名前が変わると、そのたびに単純で覚えやすくなっていく場合と、逆にわかりにくくなっていく場合がある。
わざわざわかりにくくするのは、それで値打ちがつくと思ってのことなのか。

こういうサイトもあった。
「国・都道府県公式 公益法人行政総合情報サイト 公益法人information」
https://www.koeki-info.go.jp/pictis_portal/common/portal.do

これはどこの孫々法人がやっているのか書かれていない。
「公益法人の統計」というメニュがあってそのボタンを押したら、
"現在、表示する情報はありません"

まごまごの典型例、こういうのには発見の嬉しさは感じない。

現場用語

2010年05月27日 | Weblog
ニュースで「ホッカイドウケイでは・・・」???
北海同系 北海同型 北海同径 北海同慶 北海憧憬。

北海道か青森県に住んでいる人でないと、北海道警にたどり着くまでに時間がかかる。

なぜ「北海道警察では」と素直に言わないのだろう。
サツという、たったの2音を、どうしても節約したいのだろうか。

夢を撮る

2010年05月26日 | Weblog
夢の写真、まだ見たことのないそれに出会った。
http://trackback.blogsys.jp/livedoor/yamato_onoko/52618897

雨の日に濡れるのをいとわなければ、こういうのが撮れるのか。
ひたいが濡れる、カメラも濡れる、それをいとわずにカシャカシャやっているカメラマンの姿を想像していたら、そうではなかったという。

この写真を見ながら、アリスのあの曲を思い出そうとする。
曲名は覚えていない。
歌詞の一部も「○○のように」しか覚えていない。
「夢のように」だったか、「風のように」だったか。
テープはもう聴かないからと処分してしまった。

こういうことがあるので、身の回りの、いま使わないものがなかなか減っていかない。

つまらない発見

2010年05月25日 | Weblog
マニフェストは紙に印刷されたものだから裏返しがきく。
上質の、やや厚手の紙でなければ、裏返しはすぐばれる。

いまのコウヤクは紙製ではないから剥がすだけ。
剥がしやすさが肝心な品質というテープもある。

おかしな言葉

2010年05月24日 | Weblog
おかしな言葉は、なぜ淘汰されないか。
使われる場の問題だろうか。

たとえばレストランで「ご注文の品はお揃いですか」
レストランをA,B,C級に区分してみる。

A級のレストランでは、こういう言葉は使わないだろう。
客はそんな言葉がこの世に横行しているとは気付かない。
 
C級のレストラン、食堂といった方がよいかもしれないところでは、客と店の人の言葉の交流が自然に行われていて、もし「ご注文の品はお揃いですか」などと言おうものなら「なんだそりゃ、普通に言えよ」とやられてしまうから、使ってみようかと思ってもそんな言葉はすぐに追い出される。

問題は、ファミリーレストランを中心にした、いま最も数の多いB級の店だ。 
そこでは、店の人はアルバイト、客はちょっと気取った自分本位の人達。
当然相互に交流はなく、お互い行きずりの感じ。 
「ありゃとーざいましたー」と、そう思っていないとわざわざ告げているような尻上がりの声に送られて店を出れば全く無関係な人。
店の人がどういう言葉を使おうと気にしない、気になっても口にしない。
店長をつかまえて言ってみたところで、マニュアル店長には通じない。最少人数で切り回しているアルバイターに泣き出されても困るし、プイと帰ってしまわれてはなお困るから、とに角マニュアル遵守で押し通す。

その場には、その場をつくろうだけの、言葉でない音の往復しかなかった。
そうか、言葉だと思えばおかしいので、あれは臨場音だったのだ。