・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

あけすけ文化とにくしみ文化

2014年12月31日 | つぶやきの壺焼

今朝はゴミがないので新聞を取ってきてと言われ、新聞も遂にゴミのついでになり下がったかと思いながら、このエレベーターが帰りまで1階で待っていてくれれば今日はツキがありそうと、急いで郵便受けから新聞を取り出して戻ります。

しかしエレベーターは、はやばやと上に向かっていました。
折り返してきたケージから、同じようなことをしに、どこかの旦那が降りてきます。

「お早うございます」声をかけてもこちらをちらっと見て無言、やはり日本の文化には衰退の気配が見られます。

郵便受けとエレベーターとは、小さな集合住宅なので目と鼻の先、いつもはそういうとき一緒に乗れるよう待つのですが、いい歳をして朝の挨拶もできない半分サルのようなのを待ってやることもなかろうと、すぐに上階のボタンを押しました。
向こうからは、こちらが半分イヌに見えたかもしれません。
やはり今日はツキがなかったのだろう、ですか、そういうことは考えないことにしています。

世界には、天真爛漫のあけすけ文化もあれば、何かにつけてうらみがましく思うにくし文化もあり、お国柄はいろいろです。

日本の文化がだんまり型であっても、日常の受け答えに、「あぁ」でも「うぅ」でも、声ぐらいは出せるようでなければ、半猿型とみられても仕方がないでしょう。

サルのまねをしていれば、だんだんサルに似て知恵が働かなくなってきます。
サルに還って行きたくはありません。

イヌのまねをしていると、だんだんイヌに似て行儀の悪いことも平気でするようになります。
日本人が外国人の真似をすると、みな行儀が悪くなります。
なぜなのか、やっと気付いただいじなことがあります。
日本は、かつて世界で最も行儀のよい国だったのです。

愛猿家は少ないでしょうが、大勢いらっしゃる愛犬家のみなさん、失礼いたしました。

ことし一年、続けてお読みくださった方には特に深く感謝いたします。
どうぞみなさま、よいお年をお迎えください。

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違い探しと 違い配り

2014年12月30日 | つぶやきの壺焼

CMで「違いがわかる」というキャッチフレーズを、よく聞かされた時期がありました。

それがもう古く感じるようになったのは、違いがわかっても仕方がないと思われるようになったからではないでしょうか。
「違いがわかる、それがなにか」という、よく言えば醒めた気分、悪く言えばしらけ気分もあるかもしれません。

万物に違いはあって当たり前なのですが、違いを全く気にしなくなると、文化の維持に必要な峻別能力が衰えてきます。
海外から来る人はみなお客さまと思ってしまうのも、その現象の一つです。

よたなCMメーカーがよくやる手ですが、会話には使われても正常な日本語でない言葉を、美醜お構いなしに、むしろ醜のほうをわざわざ持ち出してしゃべらせることがあります。
しゃべらせているうちは方言と受け取りますから、サル好きの人が真似をしてみるぐらいですみますが、それを書いて見せたのではもういけません。

あまりにひどいのですぐ消えましたが、「すいません」と書いて見せたCMがありました。
CM信奉者は、CMと報道の区別を差別だと思っているのか、怪しい報道よりもCMのほうが本当らしいと思うのか、「すいません」と書かれたのを見て、それが頭にこびりつきます。
そうなると、わざわざ間違えて見せたほうが本当の言葉と勘違いしたり、あるいはTVの画面に出れば天下に通用する言葉だから使って何が悪いと変な自信を持ったりで、そのときにはもう違いがわからなくなっています。

FAQにも「すいません」と「すみません」はどちらが正しい言葉ですかという質問が出ていました。
質問者の意図はふたとおり想像できますが、これがまた位相の違いが大きいのです。

ひとつは、日本語をよく知らない外国人が、どちらが本当の日本語なのかを知りたいという素朴な質問です。
もうひとつは、質問文に「それでよいのか」と書くのもわざとらしいので、違いがわからないような顔をとりあえずしておいて反応を見ようという方法です。

こういうことの結果がどうであったかには興味がわかないので、探し出してわざわざ見ようとも思っていませんが、違い探しはゲームにはなっても、違い配りは文化衰退の応援になりますからよくないことと思っています。
いかがでしょうか。

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逆転すると閉じ込められる 奇妙な空間

2014年12月29日 | つぶやきの壺焼

XYとYXの違いはなんですか、という質問が、言葉に関するFAQにときどき現れます。
似たような言葉を並べてみせて、比べる意図を知らせない、愚問に属するものが多いのですが、ごくたまには、そこから何かを見つけ出すことのできるものもあります。

折角の投稿を、なぜその多くが愚問と言うのか、ここでお断りを入れておかなければならないでしょう。
理由は、質問者に「なぜ」の心が何も感じられないからです。
ニックネームの付け方などから見ると、小学生以下とは考えられないような人が、聞いてみたくもないけれどおしゃべりはしたいという、幼稚園児のコレナニ質問と同類のことをしているからです。
愚は愚であるというだけで悪ではありませんから、排斥はできません。
最初はグーというじゃんけんもあるので、仕方のないことではあるのです。


あるとき見たものに、理論と論理の違いは何かというのがありました。
出ていた答はこうです。

理論は、ものごとを説明するため、言葉や数式で組み立てた道具。
論理は、ものごとを、整った筋道で考えたり説明したりする方法。

これだけしか書いてなかったので、「違いはなんですか」の問いには答が出ていないのですが、回答者は、その先は自分で考えろと、わざと書かなかったのかもしれません。
そのやり取りのことはどうでもよいのですが、この回答で見つけたことが一つあります。

論理という説明の方法に、理論が組み入れられることがあります。
ということは、「理論」の文字が逆転して「論理」になると、なった先でそこに閉じ込められてしまう奇妙な空間が形成されそうな気がしたのです。
逆さになると吸い込まれ、出られなくなる、こんなシステムがもし具体化されれば、環境改善に役立つのではないかと思ったのでした。

何だ、ただの言葉遊びではないか、つまらないと思いでしょう。
もちろんそうなのです。
遊びはもともと、している者が面白いので、見ている人はつまらないものなのです。

FAQの愚問発信者は、「それ引っ掛かった」と、自分の遊びに手を叩いているかもしれません。

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抱っこひもは 安心な子育て用具か

2014年12月28日 | つぶやきの壺焼

前に、抱っこひものことで「しっかりしたものを買って、しっかり抱きかかえるように、お母さん、気をつけましょう」と書きました。

「しっかりしたものを買って」というのは、縫い目が不確かで突然切れたり、はずすつもりはないのに留め金がはずれたりしないものをというつもりでした。

近ごろの生活用品には、肩にかけるベルトがわずかな衝撃でプツンと切れたり、ここからと表示のある場所を見つけて容器を開けようとしても爪の先も引っ掛からなかったりすることがしばしばあります。
どこで作ったのかをよく見ると、外国製品です。
廉価好好で買い集めてきて売っているものには、早くたくさん作ることしか頭にない人が、低賃金で仕事をこなした結果がよく表れています。
作る人も、買いつける人も、それをまた売る人も、数が勝負と思っていますから、検査などという商売への敵対行為は、たぶん悪だと思っているのでしょう。
そうなれば、量販店から物を買う場合には、買う人に検査の役割が回ってきます。
検査費用はかかりませんが、検査の手間は購買者持ちというわけです。
せめてベルト類ならグイと引っ張ってみる簡単なことぐらいは、やってみたほうがよいのですが、もしそれで千切れたら、お客さん商品を壊さないでくださいとも言われかねません。

物を移動させて収入を得るだけの仕事には、それがどういう品物なのかは責任の範囲外で、渡した側の責任ということにしておかなければ、やってられないよという感覚しか生まれません。

軽営商売の弁護と勘違いされては困るのですが、こんなばかげたことが市場の常識になってしまっているのも、ふた昔ぐらい前に海の向こうではやった、グローバルなんとかのおかげでしょう。

買うまでは気を付けても、買って使うときになると、モノの神様を信じきってしまっているお母さんは、そのひもの助けを借りて抱っこしているのが、だいじなだいじな自分の子どもであることを忘れてしまいます。
子どもを抱くときにはしっかり抱きかかえなければなりません。

子どもを抱いたらスマホには手をつけないよう、LINEに気をとられてずり落ちたら抱っこひもの構造欠陥だなどと考えないよう、けじめをちゃんとつけるようにしましょう。
抱っこひもは、子どもを縛りつけるものでも、ぶら下げるものでもないのです。

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柱と梁は家の骨 そして国の骨

2014年12月27日 | つぶやきの壺焼

小谷地震で亡くなった方がなかったのは、家が倒れても潰れなかったからだと言われます。

潰れない家、太い柱と梁が、命を救いました。
独りで逃げられそうにない人が頭に浮かび、近所の人が助けました。
みんなでやった道普請が、心をつないでいたのだそうです。
 

大臣は国の柱、閣僚は国の支えです。
柱は柱、梁は梁なのではありません。
柱と梁は、縦か横か、位置の違いと力の加わり方の違いだけで、一体なのです。

踏まれて叩かれて、強固な一体構造はできあがります。
総力をあげて家全体を支えなければなりません。
手前勝手な一抜けたは許されませんぞ。

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水素を作ると石油が売れる

2014年12月26日 | つぶやきの壺焼

水素ステーションがあちこちに作られようとしています。
長い間自動車燃料にしてきた石油の使用量を減らすためでしょう。

そこで売られる水素はどうやって作るのでしょうか。

水から作るには、どうしても電気が必要です。
いま、急いでその電気を起こすためには、石油が必要なのです。
こんなふうに順に考えていくと、水素燃料は何のために作るのか、わけがわからなくなってきます。

この星の人間は、おかしなことを考えるものだと、異星人は不思議に思うでしょう。

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勘違いのもとは体験不足

2014年12月25日 | つぶやきの壺焼

サービスを正常な形で受けたことのない人は、サービスの仕事をする人は何でも言うことを聞くものと思ってしまいます。
ここで、正常な形のサービスとはどういうことかと疑問を持ちたがる人は、多分未体験者でしょう。
わざわざ説明を加えれば、特別な条件をつけなければ、その国の社会で、時と場所と場合に応じて普通に受けられるサービスです。

テーブルにじかに放り出されたパンを食べ、そういう食べ方だけで育った人には、正常な食事のサービスを受ける体験がないので、普段とは違う場で出された食器を、自分にくれたものと勘違いするかもしれません。
まさかと思う人は、正常が身についている幸せな人です。

正常なサービスを経験させておかないと、無法なサービスを要求してそれをきいてくれれば、自分が偉いと思ってしまうでしょう。
外国からやってきて、知らないことを勝手気ままにする人たちには、黙っていうことをきいてはいけません。
天ぷら屋にやってきてラーメンを注文されたら、断らなければなりません。
そこでカップラーメンを出して間に合わせておくのは、機転が利いた所業とは言えません。

勘違いを気付かせずに、最初にしてもらったことが当たり前だと思いこめば、そういう異常識はどんどん広がります。
この国の正常なサービスはこういうものと、優しく教えるような気持で、しないことはきっぱり断るという態度でのぞまなければなりません。

その場だけ相手の気分がよければそれでよいというのは、外国人の訪問客がごく少ない時代の扱い方だったのです。
集団でがやがややってくる観光客は、猿の群れに似た行動をとることもあるでしょう。
黙っていうことをきくだけでは、正常なサービスを知ってもらうことはできません。
人間の社会では、猿の言いなりになっていてはならないのです。

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都合に合わせた奇妙な計算

2014年12月24日 | つぶやきの壺焼

85歳以上の4人に1人は認知症という説があります。

仲よく暮らしていたふた組の老夫婦のひとりが、やはり別々に生活しようと言い出しました。
4人に1人が認知症という、ラジオの言葉を聞いてからのことです。

4人に1人なら、2人で暮らせばかからないだろう、2人×2世帯は1人危ないという計算をしたのだそうです。

そう言われてしまうと、ほかの3人には同居継続の理由が見つからず、行き詰まったときの多数決ということになりましたが、さて、結果はどうなったでしょうか。

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スマホは無欲の象徴

2014年12月23日 | つぶやきの壺焼

無欲、無気力、それなのにみな熱中しています。
電車の中で、急に不気味な動物の檻に入ったような、あるいはべき乗の次元の世界に入り込んでしまったような、両腕の付け根の外側がむずむずしてくるような感覚に襲われることがあります。

モノが飽和すれば、欲しがるものもなくなってきます。
人々が、何かを欲しがらなければ、モノは作られません。
モノを作らない世界には、頭を使い腕を磨いて作る仕事は生まれません。
仕事がなければ、収奪のお余りさえも出てきません。

顔だちをみな同じに整え、肌をツルツルに、そんなことだけしか望まなくなり、男もそれをまねるようになったと聞きました。
危なくなった足元を支える杖と、人の見えないところから見えたふりをするだけの自撮り棒、ヒョロ長いものだけが増産という言葉の対象になります。

欲しがらない、ツルヒョロがスマートな生き方、スマートホン命名の由来が、なんとなくわかった気がします。
わかってくるということは、寂しさの増すことでもありました。

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政治に参加すると暮らしが豊かになるか

2014年12月22日 | つぶやきの壺焼

政治は参加を待っていると叫ぶのは、どういう人たちでしょうか。
多分、政治だけの生活を目指しながら、参加できない人たちでしょう。

政治に参加し熱中する人が増えれば、生産力は低下するという説をばらまくのは、どういう人たちでしょうか。
多分、自分が政治家であって、生活領域を荒らされたくない人たちでしょう。

どちらの言い分も間違っては聞こえません。
間違いないのは、そういうことと、みんなの暮らしが豊かになることとは、どうやら関係がなさそう、ということです。

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固体のお酒はいかがですか

2014年12月21日 | つぶやきの壺焼

ちょっと一杯までいかずとも、甘くもなく、刺激が強くもなく、ほんのりするものを口に入れたいときがあります。

小瓶のラッパ飲みでなくそうするには、液体ではむずかしく、粉や顆粒では飛び散って具合が悪いので、やはり固体ということになります。

口を楽しませ、体も温まる、固体の酒、秘匿身体燃料などと舌をかみそうな品別ではなく、何かよい名前はないでしょうか。
それより先に、上手に作ってくれる飴屋さんが現れないでしょうか。

洋酒入りチョコレートのようにすぐ壊れるものでなく、酒飴のようにそんな匂いはするけれどもノンアルコールというものでなく、静かに溶けていくほんものの一口酒、そういうものがほしいのですが。
形は酒樽型がよろしいようで。
いかがでしょうか。

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きれいごととはどういうことか

2014年12月20日 | つぶやきの壺焼

よその国での過去の八百長疑惑を、日本代表チームの外国人監督がぐずぐず言われていました。
問題はそんな疑惑にあるのではなく、どこか、何かが、誰かの気に入られていないのでしょう。
それが何なのかは、もちろんだれにも知らされません。

別に理由はないのかも知れません。
仮にあっても、子供が駄々をこねるのに似て、何だそんなことと、鼻にもかけられそうにないことかもしれません。

その八百長の話も、だいじな試合で相手に点を入れさせて負けてやったのなら、まだ罪が重そうですが、勝った試合だったようです。
どうしても勝たせたい人がいて、競技の当事者が何も知らない間に、相手チームに利益が供与されたようなのです。
その試合の勝敗は、相手チームの成績には何も響かない、どうでもよい試合であったらしいのです。

たとえは下品ですが、立ち小便の経験者は悪人でしょうか。
このたとえの行為には、ぎりぎりの生理的切迫状態にあったか、酔った勢いで連れにつられてのことだったのか、いずれにせよ、自分の意思は働いています。
自分のまったくはかり知らないうちに、勝ち点を得ないゲームを相手がしていたという、過去の話を責め立てられてもどうにもなりません。

理想に近い何かを言い出されたとき、それが面倒なことであると、「きれいごと」と言って相手にしない手はよく使われます。
「きれいごと」が嫌か「汚れごと」ならよいのか、そんなことを言い出せば泥仕合になりますから、たいがいの人はそこで黙ります。

興行のためのスポーツの世界では、ないないと言われながらどこにでもありそうな、愚にもつかない話なのですが、それがあってはならないこととして、有能な人を貶めるのに使われるとき、そういうことこそ「きれいごと」と呼ぶにふさわしいのではないかと思います。

任命責任やなんやかやと、マイナス印をベタベタつけられるのが嫌であれば、外国人監督を呼ばなくても、立派に世界中のチームと試合のできる自国人の監督を養成すればよいのです。
ゲームの出来なくなった年齢になって、それならばどうぞというような花道稼業では、大人の事情の解りあえる狭い国の中でしか監督の仕事はつとまらないでしょう。
「きれいごと」を報道の材料にしているうちは、グローバルに通用するチームを作り上げる監督は、この国には生まれないと思うのですが、いかがでしょうか。

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スポーツ選手の年俸

2014年12月19日 | つぶやきの壺焼

観客の大勢集まる競技の選手は、勤め人では一生かかっても得られない金額の年俸を獲得します。
年間ヒット3本でも、観客動員力があれば、年俸3千万円という人もいます。
1本1千万円という計算はしないほうがよさそうですが。

巨額の年俸に、腑に落ちにくいところはあっても、だれも抗議はしません。
制度がそうなっているからです。
しかし、制度は慣習が定着して出来上がっていくものですから、変えられないことはありません。

けた外れの金額から脱却する方法はあるでしょう。
たとえば、交渉は本人相手に限るということにすれば、手練手管で大きな金額をもぎ取る交渉人の手数料分が減るだけでなく、選手自身の心が反映されれば、全く違った水準に落ち着くことになるでしょう。

交渉人の仕事は、交渉ごとですから、選手の年俸交渉ができなくても、ほかにいくらでも仕事は自分でつくれます。
得意の交渉力で、自分とも家族とも交渉すればよいのです。

余った金はどうするのか、学校の施設改良、地域クラブ活動の振興、指導者の送り込みなど、行く先に困ることはありません。
数人の年俸分で、青少年育成にはるかに大きな効果が得られます。
子どもうちから力のついた選手が増えれば、外国人に頼らなくても観客は集められます。
外国人は、日本が好きで日本で暮らしたい選手がくれば、それでよいのではありませんか。

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石油価格急落 社長さん方よろしく

2014年12月18日 | つぶやきの壺焼

燃料費が高くて給与を上げられないと言い続けてきた社長さんは、今度は何を理由にされますか。

ダメヨダメダメは、いつまでも続けられません。
オリンピックを前に、若い人たちにそっぽを向かれないよう、頑張っていただかなければなりません。

どうしたらよいのかは、それぞれの社長さんの胸三寸、景気に乗る契機を逃さないよう、どうぞ奮励努力をお願いします。

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体を表そうとつけた政党名は嫌われるのか

2014年12月17日 | つぶやきの壺焼

命名を頼まれると、口で言うだけではすまずに、書いて差し上げなければならないと思いはじめます。
次にはどういう紙に書くか、半紙ではお粗末ではないかと、気になる人もいるでしょう。
そういう人のためには、命名書の用紙が用意されているようです。

名は体を表すと古くから言われていて、それをだいじにというより、気を遣いすぎて、かえって気配りが足りずにつけてしまう名もあるようです。
命名者が後悔するのは、付けた名が体を表さないものになってしまった場合です。
人の名の場合は、実体がわからないうちの命名なので、名のほうにほとんど責任はありませんが、組織の名の場合は、あるべき体を考えた上での命名ですから、いい加減な名前は付けられません。

企業名は、売れればよいとも言えますが、政党名は、性格と大違いの名前を持っていてはよくないと、だれもが思うはずであるのに、そうでない逆のこともあります。
名前だけは半世紀も前からのままで、体を表してない名が力を持つという、奇妙な現象が起きることもあります。

選挙放送中に、目の前で倒れた女性に目もくれず、放送を続けるような候補者を立てていたKという名の党が、改選前の2.6倍の議席を得たのをみると、いまの世は、冷たさに人の心が誘われるのかと、うそ寒い思いがします。

体を表そうと、優しい名をつけた政党は、生まれて間もないのに消えて行きます。
政党の名が体を表しては、しくじりを呼ぶのかもしれません。

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