・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

言葉をうろうろさせるとどうなるか

2014年11月30日 | つぶやきの壺焼

日本語を覚えたら、絵が違って見えてきたという外国人がいたという話を、どこかで読みました。
どう違って見えたかはそこには載っていませんでしたが、前後の話の具合では、好い意味の違いであったと推察できます。
見えてなかったところが見えてきたのでしょう。
静けさの描かれた絵の奥にある日本人の心の静けさ、たくましさの表された絵の底にある魂のたくましさ、そういうものを見てとれるようになったということなのでしょう。
方言から土地柄が感じ取れることとも、合い通じるものがあると思います。

外国人が、日本語を聞いたとき、それが何やらうろうろしたはっきりしないものであったり、むやみに言い縮めたせっかちなものであったり、やたらに騒がしいだけのものであったりすれば、日本人の心は彷徨癖の出やすい短気なものかと感じ取られるでしょう。

普段いい加減なもの言いをしておいて、外国人だけに上等な言葉を聞かせるような器用なまねは、だれにもできることではありません。
議会や役所の言葉も、町や村の言葉も、みな日本語として聞かれるのです。

N町の大きな建物の中で張り上げる声が、しどろもどろなものや、読み上げ調でしかなければ、それが日本人なのだと、いまの時代には即刻世界中に伝わります。
国の代表ならば、代表にふさわしい事と言葉が、そこになければなりません。
いつ誰が聞いても日本語が敬意を持って聞かれるように、先生方にもお気づかいをお願いしたいものです。

にほんブログ村


法をバカにする国は 呆痴国家になりさがる

2014年11月29日 | つぶやきの壺焼

「いま忙しいからそんなことはしていられない」
すればよいことはわかっていても、面倒な場合、棚上げの言い逃れによく使う言葉です。
定形化しているこういう言葉には、ああそうですかと思っておくのが、世の中の習慣になっています。

こういう習慣は、ずぼらなのか、ゆったりなのか、どちらにもとれます。
望みを持つほうからすればずぼらですが、望みの度合いが薄くなればゆったりに変わります。
「同じことは一つのこと」と言われますが「同じことは二つのこと」でもあるわけです。

棚上げという方法も一つではありません。
棚の奥に置くか、手前の手の届きやすいところに置くか、手前にあればまだ望みは持てます。
どこに置くかは、だいじさの順序によるでしょう。

いくら忙しくても、めし抜きでも、徹夜でも、とにかくやってしまわなければならないこともあります。
だいじさの度合いはまた、何のために、誰のためにで濃淡が決まります。

国政も、利路盛善か、理路整然か、党のためか、全国民のためか、それによって、棚上げの位置は変わります。
法に違反していることがあれば、いくらなんでも棚の奥に仕舞い込むわけにはいきません。
違反の疑いどころか、判決が出ていれば、たまに取り出してほこりを払っておけば済むことではないでしょう。
司法をバカにしたそんな行為を、何食わぬ顔でされたのでは、エンマ様もいつまでも黙っていられません。
おれのやり方に文句があるかないかで投票しなさいなどと言い続け、鉄槌が振り下ろされるまで気付かないほど忙しくしていなければならないとすれば、高速道路とレースサーキットの区別がつかない、まことに危険状態にあると言えるでしょう。

にほんブログ村


流行と横行 どちらが始末が悪いか

2014年11月28日 | つぶやきの壺焼

何が気に入らないのか、むやみやたら乱暴な言動が、世間にたびたび見られます。
顔の見えない人に向かってのネット罵言、見知らぬ人への狼藉が横行しています。

一方では、意味のない短縮語や、よく耳にする熟語だけをつなぎ合わせた間に合わせ言葉が流行しています。
短縮語の多用は、意思を言葉で伝える人間の基本能力を弱めます。
これでは回らない舌も治りません。
間に合わせ言葉の流行は、世の人々の、表現力の総体的低下、頭脳劣化傾向の証です。

政策にも、テキトーな耳触りのよい、しかし意味のわかりにくい名前がつけられることが流行します。
その名前を呼んで、それが気に入るかいらないかで次の国会議員を決める投票をしなさいと、TVで放送される場面をつくりあげる、このような学級委員を選ぶ程度のたやすさで、国民の代表選びを間に合わせるというのも、当節の流行なのでしょう。

横行は、数が増えてもいわば個々の事象ですから、横を向いてかわすこともできます。
流行以前に相手にされなければ消滅もするでしょう。
しかし、流行は、個々の態度には無関係に浸透します。
始末の悪いのはどちらでしょうか。

にほんブログ村


害Xと言わずに使ったら

2014年11月27日 | つぶやきの壺焼

害虫という言葉はありますが、害獣という呼び方は耳にしません。

薬物は、一つの種類でも、薬用になったり毒物になったりします。
匙加減次第なのでしょう。

アライグマが増えて困るという話を聞きました。
怒ると怖いので飼う人が少ないのでしょう。
むやみに痛めつけず、怒らせないようにすれば、凶暴にはならないと思うのですが、自分の子供の面倒見もあやしい人間が、つきあいの少ない動物相手では、なかなか難しいことなのでしょう。
しかし、危なくなれば害獣、追い放てでは、アライグマにばかにされます。

毛皮製品や食肉にするなど、命がなくなってからのことではなく、生きているうちに何かさせることを考えたらどうなのでしょう。

手先が器用らしいので見て楽しめることをさせるとか、格闘技でも仕込んだら、楽屋に好物のたべものが届くかもしれません。
人間やイヌの食べるものなら何でも食べるそうです。

にほんブログ村


望ましい自然の摂理を妨げない発明

2014年11月26日 | つぶやきの壺焼

2015年という世紀の節目を、あと40日足らずで迎えようとしています。
15年がなぜ節目か、その説明を求めたがる向きもあるでしょう。
お答えいたします。「そういうのを野暮と言います」

何かを新しくしてみようと提言するとき、新しくするそのことには、ほとんど理由がないことが多いのです。
新しい感覚に乗り換えるきっかけづくりが、強いて言えばその理由になるでしょう。

21世紀初頭から7分の1世紀の間には、オトボケ総理が何人も出てきて、日本もだいぶひどい目に遭いました。
国民にとっては、それは誰のせいでもなく、自業自得だったのです。
節目の理由を考えることがなぜ野暮なのか、自業自得を自嘲してみてもはじまらないからです。

七曲がりのはじめの角を曲がったら、大発明が生まれるとよいと思っています。
そのひとつは、善悪行に対応してはたらく寿命調整装置です。
善は栄え、悪は滅ぶ、これが自然の摂理であってほしい、その逆は通常の感覚をもった人間ならだれも望まないでしょう。
しかし、事実はそうはいきません。
人間一人ひとりがかたくななものだからです。
善悪の感覚は、判断のその前に、自業自認を曲げることはありません。
気がついたときには悪いことをしていた、よくある話です。
生まれたときは、成長の結果を見分けることはできせんが、育つ間に善悪の素性はほとんど決まってしまいます。
悪の素性を、身に塗りたくられてしまった人は、半世紀50年、その間に切り替えができなければ、この世に生きている間の転換はほとんど望み薄でしょう。

長寿礼賛は、ゴミの分別よりだいじな分別対象だと思っています。
永らえないほうがよい命も、なかにはあるのです。
それは、世の中に害悪しかもたらさない人の命です。

善行悪行の度合いに比例して寿命が調整され、悪行しかできない人にはこの世からなるべく早く退散してもらう、そういう装置の発明を期待しています。
なぜ機械にそれをさせるのか、人間には、善も悪もすべて平等という、奇妙な考えにこだわりを持つ人が、案外多いからです。

にほんブログ村


自由に束縛されることは幸せか

2014年11月25日 | つぶやきの壺焼

何をするのも、何を聞くのも、何になるのも、すべて自由、日本はよい国です。
ただ行ってみたいだけの見知らぬ地、ただ聞いてみたいだけのもともとない理由、ただなってみたいだけの異教徒、見ることも、たずねることも、変わってみることも、自由であるがために、ひとには何をしているのか見当のつかないこともあります。

何ごとも自由でなければならないというある種の妄信は、拍手の数さえ多ければ、どんなことでも、まずやってみようという気にさせます。
困ったことに、自由の縄に縛られていますから、自分では拍手さえもできません。
自由でなければならないという雰囲気のなかで、動きが取れないままに動く、矛盾そのものの行為をさせられてしまうのです。

そんなときは、憲法でこのときに限りと決められたことにさえ、例外づくりも拡大解釈も、自由でなければならないと思いこんでしまいます。
最高裁からこれはだめと言われたことでも、権限の限界も自由でなければならないと思えば、何度でもだめと言われることに苦痛も悔恨も感じません。

幼児性は、個を見るときにはこよなくいとおしく、人々の顔をほころばせます。
しかし、本人も周辺も気付かないうちに、権力行使に幼児性が現れたときには、うっかり微笑んではいられなくなります。
一億数千万の人々を縛る自由の縄が徐々に太くなり、捲きつける数もだんだん増えていきます。

さて、お地蔵様、ときにはこの縄を振り千切る自由に、思い至ることはないのでしょうか。

にほんブログ村


窓を開ければ風が通る

2014年11月24日 | つぶやきの壺焼

「機会の窓を開け損なうな」
元外交官T氏の言葉です。

からだの弱い人は、風を嫌ってすぐに窓を閉めたがります。
こころの弱い人も、風通しを避けてすぐに窓を閉めたがります。

閉めた窓に、ご丁寧に敵対看板をぶら下げる人もいます。
名指しの敵対看板は、相手に脅威など与えることはありません。
そこに書かれた相手よりも、窓の外を通る人に見られて、反感を買う効果しかありません。

抜け場を失った風は、壁に沿って舞い上がります。
パタンパタンと揺れていてそのうちに、ぶら下げ紐は切れて、看板は色があせる前に、どこかに飛んで行ってしまいます。
そのあと、開けることがなければ、窓に残るのは、せいぜい懸ける場所を間違えた蜘蛛の巣ぐらいのものでしょう。

にほんブログ村


対立は近似の変化形らしい

2014年11月23日 | つぶやきの壺焼

FAQに「この言葉の対語は何ですか」という質問がたくさん見られます。
これらは多分、日本語学校か、国語の時間に出された「この言葉の対語は何か」という宿題の答えを見つけるために、「何か」を「何ですか」と入れ替えただけでそのまま質問にしてしまう、Webが育てた不精頭の持ち主の発信なのでしょう。

こういう人の頭の働きは、シャトルバスのように、知りたい~聞いて答えをもらう~知りたいことがわかるという、単純所定往復区間運動のみになっています。
シャトルバスに乗る人は、歩いても大した距離ではなく、荷物を持っているのでもないのに、待たされても乗ります。
なぜ乗るか、なぜ聞くのか、返事は同じ「楽だから」です。
簡単便利が最高の価値、ファストフード、コンビニ弁当がこの世で一番のすぐれものというわけです。


さて、シャトルさんたちは考えてなさそうですが、よく質問に出てくる対語とは何でしょうか。
タイの国語を漢字にしたと言ったのでは、さすがのシャトルさんも首を縦に振らないでしょう。

対語は、反対の言葉、逆の意味、対照的な意味、対立的な意味をもった“別の”言葉です。
対照、対立が“違う”こととは限りませんから、“違う”言葉ではなく“別の”言葉なのです。
「同じ穴のむじな」は、人間社会同様、言葉の社会にもあるようです。

対語には当てはまりそうもない、しかし実際に使われている言葉の組み合わせがあります。

大丈夫 ≒ 必要ない
やばい ≒ 気に入った
かわいい ≒ 奇妙な

ニヤリイコール記号は、論理的には、こういうところで使うものではないと言えます。
しかし、この記号でつなげた、それぞれ二つの言葉の関係に最適な記号が、浅知恵では見つかりません。

論理的には位相が120度くらいずれたような、しかし情緒的には、力を抜いて上に挙げたときの両手のような、そんな関係にありそうな言葉の対です。
これが、言葉の数からいくと、左辺は1、右辺はnであることが、また面白いところです。

「大丈夫です」≒「間に合ってます」=「欲しくありません」=「私はそれを食べません」=「嫌いなのです」

にほんブログ村


相談の屑とはどういうものか

2014年11月22日 | つぶやきの壺焼

「どっちでもいいは相談の屑」
母親からたびたび聞かされた独白です。
格言とまではいかないこの言い分は、やはり独白ぐらいの格の言葉のように、いまでも思います。

街に出かけたとき、夕食を何にするか、SとTとどっちがいいかと聞かれることがありました。
まともなTの味をまだ知らなかったころには、Sのほうがよかったのですが、聞いたほうがTを望んでいそうだと察知すれば「どっちでもいい」としか答えようがありません。

そういうときに出たのが「どっちでもいいは相談の屑」でした。
そんなとき、Tの返事を待っていたほうはおかんむり、結果はまったく異種のSになるのでした。


自分がこうしようと決めたこと、誰に相談しようと異論のなさそうなことでも、それがいいと言ってもらえば安心、そういうのをミンシュテキでコミュニケーションがとれている、世間では言うらしいのです。

相談というのは、何かを決めかねるからするのであって、結論を決めておいてから「どうだろう」と聞かれても返事のしようのない人は黙るしかありません。
そこで話をしてみるのは、相談は相談でも、やはり屑のような気がします。

結果のわかっている選挙も同様ではないかと、ふと思ったところです。

ここで、珍手法を発見しました。
独白格の言葉も、反転すると格言に仕立て上げることができそうです。

結論の決まっていることは相談の屑である。

にほんブログ村


270円という相場

2014年11月21日 | つぶやきの壺焼

270円郵便切手があります。
売られている値段は、一躍510円、1.89倍です。

横浜の街を歩いていたら、ニコニコ270円居酒屋という看板を見つけました。
あの看板、撮り溜め画像に入っていないかと探してみたが、ありません。
あの日はカメラを持たずに出たことを忘れていました。

吉野家の牛丼、第三食堂のうどん、500円の半分よりちょっと高いこの値段、270円という数字には、人の心を引きつける何かがあるのでしょうか。

にほんブログ村


ゼロキャピランコノミってなんだ

2014年11月20日 | つぶやきの壺焼

人間がむやみに短縮語を作りたがるのはなぜでしょうか。
多分、獲得慾のあらわれでしょう。
短縮語から何を獲得できるのか、それは時間です。
時間だけは、地球の回転速度が変わらない限り、どんな人にも平等に与えられています。

獲得慾は、平等ということが気に入らない人の持つ欲望です。
他の人より何でも自分が多く持ちたい、持ってどうするかはあまり考えずにとにかく多く持ちたがるのです。
ひとの分まで分捕りやすいのはまずカネですが、カネだけでもの足りなくなると、時間に目をつけます。

ほかの人の時間を欲しがっても、時間だけはぎ取るわけにはいきません。
せいぜい自分が何かしている間、ほかの人には何もさせずに待たせておくぐらいのことになります。
料理人が客を待たせておく、講習会で自分だけがぐずすずと質問を続け、ほかの人には何もさせずに待たせておく、みな身勝手な時間分捕り慾のあらわれです。

この分捕り慾は、特定の人から分捕ることだけではおさまりません。
たくさんの人から、場所を選ばず時をかまわずに時間を奪うには、言葉を縮めてしまうこと、それが短縮語の起源のようです。
言葉が縮んで、できた時間は何に使うか、心配は要りません。
意味のないおしゃべりが、すぐにをそれを埋めてくれます。
多少意味は違っても、コミュニケーションなどとカナに置きかえれば、おしゃべりも顔が立ちます。

ただおしゃべりをさせておく、客や受講者を待たせるのも結果は同じ、それで時間を分捕ったつもりになれるのが面白いところです。
TVにも同じ型の番組がたくさんあります。
TVのCMもある意味では同類です。
すべてに共通な点がひとつあって、おしゃべりに夢中になれば、人が時間を奪われたことに気づかないということです。

おっと、おしゃべりが過ぎて、標題の短縮語にしては長すぎる変な言葉の説明を忘れるところでした。

「スマートチャージ」おしゃれな請求書という奇妙な名前の販売様式を見かけたので、それがどういうものかをひとことで表そうとしたら標題のようになりました。

初期費用ゼロ⇒ゼロ・キャピタル⇒ゼロキャピ
運用費用のみ⇒ランニングコストのみ⇒ランコノミ

 ⇒ http://jump.cx/smacha

ただそれだけのこと、読者の時間分捕りに成功したというわけです。
ごめんなさい。

にほんブログ村


あての外し方ができれば一流の上

2014年11月19日 | つぶやきの壺焼

学生集めにフレンチレストランをつくった大学もあるそうですが、刑務所でカレーの味が有名になるのは何なのでしょうか。
そこのカレーは品川の高級ホテルより旨いと評判の刑務所があるそうです。

刑務所は、いるのに辛い場所でなければならないものと思っていましたが、娑婆よりも楽でいられる、旨いものも食べられるでは、再出発で当面の目標が、よい条件で再入所することになりはしないでしょうか。

食べる人を喜ばせることが、料理人のいちばんだいじな心得ですから、経験を重ね、腕がよくなればなるほど、不味いものは作れなくなるでしょう。

レストランで行儀の悪いほかの客に迷惑をかけるような客には、あてにしてきた味を外すのがいちばん効き目がありそうで、客の顔を見てそれができれば、一流の上位でしょう。

刑務所で美味すぎるものを作らいためには、普通の一流の腕は邪魔になるのではないかと、窓を開けて舞い込んだ北風に、ふとそんな気がしました。

にほんブログ村


自分へのレッドカード

2014年11月18日 | つぶやきの壺焼

イングランドで、サッカーの審判が、自分にレッドカードを出して退場した例があると聞きました。

自分が人間の道に反した行為に及んでしまったら、それを自分で改める、自律の見本のようなこの行為は、さすがイギリス人です。

ウソがばれても、自分は悪くもおかしくもないと、他人のせいにする、それを理由に処分されれば裁判を起こす、こんな人にまともに取り合う国もあります。
さて、どこの国でしょうか。

にほんブログ村


同音異語の偶然と必然

2014年11月17日 | つぶやきの壺焼

まったく違うけれども同じ発音の言葉が、日本語には数多くあります。
FAQにも、発音が同じだから同じ意味ですかとか、同じ発音のこの二つの言葉は何が違いますかとか、ひどいのになるとニュアンスの違いはなんですかなどと、とぼけた質問がたびたび載ります。
質問するほうはとぼけているつもりはなく、まじめらしいところがなお奇妙に感じます。
多分日本語を覚えたての外国人なのでしょう。

これは、日本語教室の教え方に問題がありそうです。
同じ言葉を見つけて違いを確かめなさい、表現には必ずニュアンスの違いがあるのでそれをよく考えてみなさいなどと宿題を出すので、それならFAQが早いと、自分では何も考えずにすぐ質問投稿に走り出すということなのでしょう。
こう書いたのをもしそういう人が読めば、走り出すとはどういう意味ですかと、また質問が出そうです。


「しょう」という発音の言葉には、「賞」と「症」があります。
ほかにもありますが目立つのはこの二つです。
褒められる「賞」と病名の「症」、陽陰一対のように考えたがる人がまた出そうです。
これが無関係かというと、そうでもなさそうで、「賞」を得て「症」に陥ることもあるのです。

ノーベル賞は人間世界最高の賞の一つでしょう。
ところが、人間の感覚がずれてくると、賞の扱いにもずれが現れるようで、そうなのかなあという受賞者がときどき出てきます。
だれがとは言わないことにしておきますが、こんな例もあります。

事実だけが認められると言われている部門の賞が、寄与した事実は、実は商品化だけという例です。
近ごろは売れるということの貢献度が重く見られ、高く売れるもの、たくさん売れるものは優れたものとされがちです。
こんなことで、3人めの同時受賞枠にぶら下がったひとりが、こともあろうに、自分が学んだ大学、研究の場を与えてもらった会社を、謙遜のふりにかこつけて貶しまわったあげくに、しばらくしてすり寄りを見せ、態よく断られればまた貶すという、まことに心貧しい振舞いに及んだという話です。

これは「症」に陥ったと言うより、「症」があらわになったと言ったほうが当たっているかもしれません。
心貧しき病、こういう人の病は、貧心症、マインドシック症候群(MSS)と名づけてもよいのではないかと思います。
世界的な賞に絡んだことであれば、何だやっぱりそんな奴かという一個人の問題ではなく、国の文化の恥、国辱ではないかとも思います。

「賞」と「症」の陽陰関係は、偶然のことではなく、残念ながら必然なのでした。
「同時受賞者の立場は対等とは限らない」という、あまりはっきりは知らされていないノーベル賞のルールが、それはそうだろうと、妙な納得感を得させてくれます。

にほんブログ村


トリミングに必要なのは 大きく確かな眼

2014年11月16日 | つぶやきの壺焼

トリムは、まっすぐに整える元来の意味から、整えられた結果がだいじである作業です。
船や飛行機で、乗客や積み荷のバランスをよくするのもトリムと呼ばれるようですが、今年の春、K国船がひっくり返ったのも、失敗か、気にかけなかったか、いずれにしてもトリムの失敗でしょう。

ものごとはおよそ、する気がなくてもし過ぎてもよくありませんが、トリミングが過ぎると、元に戻すことはできません。

髪の毛や犬の毛は、失敗してもまた伸びてきますから、次にまた失敗しないように工夫すれば、そのあとしばらくの目障りですみますが、この世に一回限りのことでトリミングに失敗すると、その結果がいつまでも残ります。

先日TVで武原はんの地唄舞「鐘ヶ岬」を放送していました。
それを撮影したとき、カメラマンの眼は、舞踊の撮影ではなく、ヘボドラマの撮影と同じ働きをしていたようです。

美しく舞う姿態全体が背景の中で流れるように動くところをとらえきれずに、顔の表情や手の動きをアップでとらえるのに腐心して、肝心の足が切れて見えないのです。

舞台や風景は、よほどしっかりしたトリムの眼をもたないと、いくら新鋭の装置を使っても、記録をやり損ない、再び観ることのできない絶対の機会を逃すことになります。
公共放送のカメラマンは、三脚の上に胡坐をかいているわけにはいかないのです。

にほんブログ村