・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

終点は走り出す前に決めておくもの

2013年09月30日 | つぶやきの壺焼

原子燃料の最終処分場が完成しているところは、現在地球上に一箇所もありません。
ゴール地点を決めないうちにスターターがピストルを鳴らし、みな走り出してしまったのです。

北欧フィンランドでは、巨大な地下トンネルの建設が進み、ようやく7年後には搬入が始まる計画、これが世界初の原発使用済み燃料最終処分場です。
 ⇒ http://p.tl/dYvs

大昔に氷河で押し固められた強固な岩盤上にあるフィンランドでこそ、地下トンネルでなんとか間に合いそうな気もしますが、それでも地球という生きものが、これからどう態度を変えるか、予測はつきません。

アメリカでは、インデアンの聖地ユッカマンに処分場が作られようとしているそうですが、困り果てての神頼みのようでもあります。

日本では、高レベルの廃液をガラスで固め、300mよりも深い岩盤に埋めるという方法だけが決まっています。
地下深くならば、水の動きが緩やかで、活断層や火山を避ければ安全は十分確保されるという、90年代に研究機関が都合よくまとめた報告書が根拠になっているそうですが、その後、自信を持っていたはずの安全性の話が、大地震で覆されました。
売れている役者を使って、「必要だと思います」などと言わせていたウソくさいTV放送も、どうにも具合が悪くなってしまいました。

強固な岩盤で活断層のないところ、人が近づかずに済む広大な土地、そんな場所は日本にはどこにもありません。
核のごみは、人類共有の負の資産です。
爆弾の被害実験にまで使われた日本が、燃焼実験後のごみの始末まで引き受ける義理はないでしょう。

他国の土地へというわけにいかなければ、世界最深のマリアナ海溝に沈めるか、地球外の反動の及ばないところまで追い出すしかありません。

踏み切り前で一時停止しても、そこは下車できない場所なのです。

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もう一つの仕事

2013年09月29日 | つぶやきの壺焼

森下仁丹はカプセル技術の会社になりました。

ジンタン、ジンタン、スッタカタッタッターの唄だけでは、立ちゆかなくなっていました。

社内に醸成されていた、それまでの単一で均一な価値観は、仁丹の姿そのものでした。

ブランドの力が、重い”かせ”にさえなっていたのを打破し、何でもやってみることから”ゾクゾク”する仕事が見つかると、カプセルを作る仕事に乗り出したそうです。

くわしくはこちらに。
 ⇒ http://p.tl/1ZG7

シームレスカプセルは、仁丹の製法の、簡単には真似のできない技術の産物です。

副業から裏業、転がる回る小さな球形が、何かを暗示しているようでもあります。

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いついつまでも

2013年09月28日 | つぶやきの壺焼

自分では食べない犬や猫が増えているそうです。

ペットは、死ぬまで飼い続ける責任が飼い主にあるという改正動物愛護管理法が9月1日に施行されたという記事を見て、もう一度確かめたら、1年前、2012年の9月1日でした。

それまで自治体は、飼い主が持ち込んだ犬や猫を一定期間収容し、新たな飼い主が見つからなければ命を奪って処分していました。
飼い続けるのが困難と判断される「相当の理由」がない限り、自治体は引き取りを拒否できるようにもなりました。
自分で飼えなくなった飼い主は、次の飼い主を探す努力をしなければなりません。

感受性の強い犬や猫は、飼い主の気まぐれがいつ起きるか、気が気ではありません。

自分では食べないのは、放って置かれることのないよう、忘れられないようにとの、せいいっぱいの意思表示なのかもしれません。

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自動ブレーキの功罪

2013年09月27日 | つぶやきの壺焼

自動ブレーキがCMによく顔を出す。
とっさの場合に救われる、ありがたい装置だが、それに慣れっこになりブレーキは自然に効くものと思ってしまうと危ない。

自動制御依存は一種の文化病で、人間の自律性を徐々に弱体化させていく。

ものが汎用化されれば、設計に手抜かりが出たり、形だけそっくりのいかさま商品が出たりする。
動かして使うものにはなくてはならないのがブレーキ装置で、その設計、製作がいい加減では危なくて使いものにならない。


法律も、施行されれば運用の過程でブレーキが必要になることが必ずある。
法律を作るのは人間だから、ある場面では自分も縛られることが出てくる。
それでも、自分にとって都合がよくなる望みが優れば、その法律が必要である、あるいはあったほうがよいという考えが固まって、法案が作られていく。

なくても済んでいたものを、あったほうがよいと考えることが改善であると思い始めると、必要性だけにとらわれて、既に制定された法律の中にも、全く合理性を欠いたものがあることには目もくれなくなる。
間違って作ってしまった、あるいは現代では意味のなくなった、ザル法やカス法の親戚がまた増えていく。

法律は、何かを動かすことよりも制限を加える必要に迫られて作るものであって、その制限の加え方に悪用や行き過ぎのないよう、備えなければならないのがブレーキ装置なのである。

運用するのは優れた人々であるからと、ブレーキ装置に配慮が行き届かなかったり、ブレーキ装置の全くないひどいものが作られたりすれば、社会の安全を保つための法律が、危険物になるかもしれない。
本体がブレーキの性格を元来持っている法律に、さらにブレーキ装置を備えようというのだから、設計もついおろそかになるだろうが、そこで手を抜かれては困る。

ブレーキという共同社会にとって極めてだいじなことを、自動ブレーキ装置に任せきりにする傾向には、どこかでブレーキをかけなければならないだろう。

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機密になくてはならないもの

2013年09月26日 | つぶやきの壺焼

機密になくてはならないもの、それは解禁の方法をはっきりさせておくことです。

機密事項が、秘密にしておく必要がなくなったとき、中身を知ることができなくなっては、何もかもうやむやに終わります。
過去の機密部分が明らかにできなければ、歴史はご都合物語にしかなりません。


特定秘密保護法という法案が議会に懸けられようとしています。
 ⇒ http://p.tl/48md

ひとつわからないことがあります。
特定秘密に指定されなければ、扱いが疎漏でよいのかよいうことです。
扱いがきっちりしていれば、あえて「特定」にしなくても、当事者は厳秘とそうでもないことぐらいは区別できるはずなのに、そんなこともできない人に機密事項を知る機会があるのでしょうか。

もうひとつ、法案を通すとき、ある部分だけを修正すれば、それですっかりよくなったと錯覚させる、痛いの痛いの飛んでけ式の立法技術があるということです。
これは法律に限らず、どんな取り決めの文書でも共通のことなのですが。

とにかく、ブラックボックス保全法のようなものにならないよう、おまかせシャンシャンで済まさないよう、半世紀後に子供たち孫たちを困らせないように、永田町の先生方も、メディアのみなさんも、しっかりやって欲しいと思います。

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交通機関の発達は遅刻を増やす

2013年09月25日 | つぶやきの壺焼

東京名古屋間40分という列車が、何年後かに走ります。

翌日の約束を控えた人も、今夜帰らなくても大丈夫と気を許します。

交通機関は、速く動くものほど、遅れを取り戻しにくいということに、平常運転に慣れ親しんだ人は気付きません。

速く動く交通機関が増えると、平常運転だけを考えた行動計画が立てられます。
地震のひと揺れで遅刻激増、ハンカチと下着の売れ行きは増すでしょう。

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違景偽画のたぐい

2013年09月24日 | つぶやきの壺焼

TVドラマに出てきた平凡な山の写真に、「浅間山」と説明文字が入った。
低く、小さく見えたその風景は、違う山に見えた。

浅間山の姿は、田淵行雄の「初冬の浅間」という写真でしか頭に入っていない。
何十年か前に、その形に近い、ただ黒く見えるだけの浅間を眺める機会はあったが、山の姿としての印象は薄い。

ドラマの風景に、なぜ話と無関係な文字を入れるのか。
おまけに山の名が違うではないか、と思った直後に、滝の画像が出てきた。
「白糸」かと思って見ていると文字は「軽井沢」。

山の姿、滝の趣きも、見る位置、撮られた角度によって変わるから、実際の真偽は見定めにくい。
らしくないから文字を加えたのかもしれない。
しかし、あそこに二度にわたってそれぞれ出てきた三文字は、間違いなくドラマの格の引き下げを手伝っていた。
入れとけ風景、付けとけ名前、ただ忙しいだけの製作現場、「えぇい間に合わねぇ、これでいいや」こんな想像をしながら見たドラマは、筋も役者の顔も、三日も経てば忘れてしまう。


スポーツカメラマンも偽写真を提供することがある。
試合中にシャッターチャンスを逃し、古い写真を引っ張り出して載せたらすぐバレたという話もある。


サブリミナルにその極を見るような、ゆっくり見させない画像づくりは、違景偽画のたぐいをなんとも思わない、ギャグめいたウソを常用する習癖をじわじわと拡げている。

他民族への襲撃理由にさえウソがまかり通る。
地球は温暖化中と言われながら、人々の心は寒くなっていく。

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売国無罪は無法無策

2013年09月23日 | つぶやきの壺焼

人をあやめるニュースが後を絶たない。
被害者が10人未満ならニュースになるが、1億人になるとニュースにならない。

外交の無資格者が、元公人の地位を利用して他国に出かけ、勝手気ままなことを言い歩く。
瞬時にばらまかれたその種で、1億人を超す被害者が、何年も苦労を強いられる。
ネジの緩んだ当人の頭に、罪の意識はのぼらないから始末が悪い。

特定機密防止法よりも、売国行為制止法を作ってもらいたい。

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無頼と無礼

2013年09月22日 | つぶやきの壺焼

相撲の手の中で、勝っても負けても嫌な味が残るのは張り手である。
勝負事には何がしかの無頼の要素がある。
張り手を反則にできないのも、あまりに整いすぎては堅苦しさが強くなり、客足が遠のく懸念からだろうか。

無頼の手は、無礼との見境がむずかしい。
無頼の手が、たまたまの運に恵まれて勝ちにつながると、同じことは止めておこうと頭では考えていても、勝負の瞬間にまた無頼に走ることがある。
体が勝手に動き、無頼の手が無礼にずり落ちてしまう。

結果で痛い目にあうことがなければ、自制を働かせられない現代人には、痛い目を作らなければ無礼への仕切り線がずるずる下がっていく。

痛い目の作り方を一つ提案しよう。
立ち合いに張り手を使って勝ったときはよいが、負けたときには張り手への罰として黒星を一つ半加算というのはどうだろうか。
表の星は八勝七敗でも、立ち合いに張り手で挑み負けた番組があれば、三役の場から下ろされるという、そんな痛い目はどうだろうか。

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業種転換:2

2013年09月21日 | つぶやきの壺焼

業種転換による経済の新陳代謝の効果などということばをときどき見かけますが、経済の新陳代謝とはどういうことなのでしょうか。
生産性の高い企業と産業が、生産性が低いままの旧態依然とした企業と産業を退場させて、国民経済全体の効率を向上させるなどと言ってしまうと、儲からない仕事は止めてもらって儲かる仕事だけをやってもらうと聞こえます。
しかし、稼げれば何をしてもよいというのは個人個人の話で、社会を構成する企業が目標とすることではなさそうです。

社会が変わっていくには進化が必要です。
ところが、変わることが何でも進化とは言えません。
進化のつもりが退化でありながら気付こうとしない、テレビボケ、ゲームバカの増加の勢いという最適な実例があります。


メーカーが作ることをやめて売ることしかしなくなるのは、ただ乗り換えただけで、気分転換の効果しかありません。
そこで仕事をしてきた人にとっては大いに迷惑です。
企業とは、仕事をするための人の集まりであることが忘れ去られています。


優れた業種転換は、お題目にもならない熟語の行列からは生まれません。
「売れない理由を経営コンサルタントに頼んで分析してもらうのではなく、地べたを這って、自分の頭で考えた」という社長さんがいます。

下請け自動車部品メーカーから家具メーカーへ、転換の可能性を見事に探り出した
杉山製作所の島田亜由美社長です。
 http://p.tl/TUlI

これまでに扱っていた「鉄」という素材は変わっていません。
そこでは、「使ってもらう人の笑顔で自分も笑顔になれるモノ」をめざして、創り出す仕事が続けられています。

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ずれの修正は早くしないと

2013年09月19日 | つぶやきの壺焼

年金の始祖はビスマルクだそうです。
60から支給する制度を作ったときの平均年齢は47歳でした。
巧くやったつもりだったのに。

継続が力を現すのは、修正も一緒に続けるからです。

まず手始めに、支給辞退制度を作りましょう。
富裕層の強欲さが、メディアの種切れを救うという二次効果もあります。

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冤罪が作り上げられる場

2013年09月18日 | つぶやきの壺焼

冤罪は、人間の使う道具のうちで最も卑劣なものの一つである。
道具は、存在することに意味を持ったとき、使われることを超えた価値が、見る人に感銘を与える。
冤罪には、使われること以外に意味を持つ機会はない。道具のカスである。

冤罪の使い道はどこにあるのか。
一つは、何がしかの役柄を持つ人が、その役を超えた地位を得るために励む舞台づくりである。
役と欲で作られた舞台に、「裁く」者が出てきたとき幕が開く。
もう一つは、巧妙かつ陰湿な筋立ての悲劇に、人々の興味をかき集めるための宣伝材料である。

冤罪劇はどのようにして出来上がるのか。
悲劇の構成には、常人にはまさかと思う技法が用いられる。
罪を犯したというひと言さえ得られれば、時も場所も方法も、練達の文筆によって、論理矛盾には目もくれずに脚本は仕上がる。
手出し無用であるはずの立法の役目を持った人が、戯曲編成に参加することもある。


冤罪は使われることにしか意味を持たないから、自然発生ということはありえない。
使う人の制作でしか生まれ得ない。
制作の動機は役と欲の共振である。

欲をもたず、単に役に忠実である人は冤罪などつくろうとはしない。
また、役を持たない人が、鬱憤晴らしや面白半分にひとを陥れる行為に及んだとしても、それだけでは冤罪は生まれない。

役を超えるためであるから、「役」を持たない人には役立たないのである。

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スピーチと場の奇妙な関係

2013年09月17日 | つぶやきの壺焼

「この場を借りて・・・・申し上げます」というあいさつ言葉がある。
その言葉が聞かれる場合、話す人に場を借りる意識はない。
場を借りるどころか本人は主役のつもりでいる。

スピーチには、場のためのスピーチと、場を借りるスピーチがある。
場のためのスピーチは、その場を盛り上げたり、雰囲気をよくしたり、主体は場にある。
場を借りるスピーチは、その逆だから主体は話し役のほうにあるはずなのだが、場を借りてというスピーチには、「場のための」が多いからややこしい。

どこかがおかしいと思ったら、奇妙のもとは「借りる」という言葉にあった。
借りるという言葉の裏側には、貸すということがあるはずだと考え始めると、どちらか一方が欠ければ、片足だけがしびれっ放しのようで心地よくない。

ここでの「借りる」は、貸借関係という実態のない、ただの言葉のあやだったのだ。

もう少し考えると、場のためのスピーチの主体は場にあるというのは、はずれなのかもしれない。
「場」はかりそめの「ところ」に過ぎないから、主体はそこに集まった人たちなのだ。

議会という貸借関係のない場も、主体は議員一人一人なのだから、居眠りかやじか売名か、そんなことだけをやっていてもらっては困るのである。

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業種転換

2013年09月16日 | つぶやきの壺焼

デパートのXX周年記念売り出しで、大中小3個組のステンレスボールを見つけて買ってきました。
新潟県三条市にある会社名が包装シールに書いてあります。

三条市は、17世紀初頭の三条鍛冶から始まった金物づくりの町という印象を持っていました。
こういうものの鑑定能力を持たない私らには、あそこで作ったものなら良さそうだと思うだけが判断材料です。

持ち帰ってよく見ると、シールの端に MADE IN INDIA と書いてあります。
金物の町も、作るのを止めて売ることしかしなくなったのかと、ここでややがっかりです。

人間の使うものが変わってくれば、作るものも変えなければなりません。
そこでほかのものを作ることを考えずに、作ることを止める、扱うものの種類は変えずに扱う仕事を変える、あざやかな業種転換です。

販売権は売り渡しても、買い戻す機会は作れます。
しかし、ものをつくる技を売り渡してしまえば、伝える人がいなくなりますから、買戻しはできなくなるでしょう。

「伝統工芸」などという呼び名はどうでもよいでしょう。
しかし、つくることだけは続けたほうがよいと思いますが、いかがでしょうか。

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