あけましておめでとうございます。
今年もこのブログをよろしくお願いします。
さて、内陸にあって海とは縁遠い旭川。
でもかつては市内にいくつもの〝島〟がありました。
市街地の整備が進むにつれて姿を消した旭川の〝島〟。
いったいどんな〝島〟だったのでしょうか。
今年初めての記事は、あのブラタモリでおなじみの〝地形〟のお話です。
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石狩川に忠別川、美瑛川に牛朱別川、そしてその数々の支流。
旭川は大小さまざまな川が流れる「川の街」として知られています。
ただこうした川の整備が進んだのは昭和に入ってからのことです。
それまでは、市内の広い範囲に渡り、いくつもの川の流路が複雑に入り乱れていました。
いわば〝原始の川〟がほぼそのままの状態だった当時の旭川。
この時代の地理的な特徴として第一に上げられるのが、多数の「川中島」の存在です。
(地図―1)
上の地図は明治40年の旭川中心部です。
今は市街地となっている場所に多数の「川中島」があるのが分かります。
それぞれ「亀吉島」「喜平島」「上ノ島(上ヶ島」などと名前が付けられています。
(地図―2)
次の地図は大正3年のものです。
川中島の様子はほぼ同じですが、前の地図の「製鉄所」と書いてあったところが「下ノ島」となっています。
たくさんある川中島のうち「亀吉島」と「喜平島」は、当時そこに住んでいた人の名前が由来です。
まず「亀吉島」の名の元になったのは、こちら。
(写真―1)鈴木亀蔵
御存じ、旭川に最初に定住した和人として知られる鈴木亀蔵です。
アイヌの人たちからは「亀吉」と呼ばれていたため、彼の住んでいた場所が「亀吉島」と名付けられました。
では「喜平島」は・・・?
こちらは奥野喜平にちなんだ名前です。
喜平は鈴木亀蔵と同じく開拓期の旭川の住民です。
一方、「上ノ島」「中ノ島」「下ノ島」があったのは、今の新町方面から常磐公園、常盤町、市立旭川病院のある一帯です。
このうち「中の島(中島)」は、今の常磐公園に当たります。
このためかつては「中島公園」と呼ばれた時期もありました。
(写真―2)かつての下ノ島、市立病院付近
このように長く旭川の中心部にあった〝島〟ですが、「上ノ島」「中ノ島」「下ノ島」が、昭和5年から7年にかけて行われた牛朱別川の切り替え工事によって〝消失〟するなど、川の整備が進むにつれ姿を消していきました。
現在、その名残は、町名に残る「亀吉」などわずかになっています。
(写真―3)現在の亀吉町