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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

日露戦争と旭川・中編

2022-02-27 13:31:37 | 郷土史エピソード



「日露戦争と旭川」。
このことについて調べ、書いているうちに、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。
今(2022年2月27日13時)の時点で、ロシア軍の侵攻は続いています。
これは、明らかな他国への侵略です。
理不尽な武力の行使によって、日々の平穏な暮らしを突然奪われたウクライナの方々のことを思うと、いたたまれない気持ちになります。

そのロシア、領土を含む勢力拡大の野心という意味では、100年以上前の帝政時代と変わらないようです。
軍事侵攻を主導しているプーチンは、実に20年以上も権力の座にあります。
その傲慢な姿は、帝政ロシアに君臨した皇帝と重なって見えます(日露戦争時の皇帝、ニコライ2世は、気の弱い、優柔不断な人物だったと伝えられていますが…)。

日露戦争と旭川について調べたワタクシの感想については、このロシアのウクライナ侵攻のことも合わせ、改めて次回の後編の締めくくりに書くつもりです。

ということで、前回は乃木第三軍による二〇三高地奪取までの動きを、旭川第七師団との関わりを中心に書きました。
今回は、その第七師団の一兵士として従軍したワタクシの祖父について。
そして旅順攻略を果たした第三軍が加わって行われた日露陸戦の最大の戦い、奉天会戦について見ていきます。





                   **********



(祖父、秋山吉次郎)


前編でも触れましたが、日露戦争に動員された第七師団の兵士の中に、ワタクシの母方の祖父がいました。
名前は、秋山吉次郎(きちじろう)。
ただ彼はワタクシが生まれた1年半後に亡くなっています。
ですので、祖父の記憶はありません。
以下は、残された戸籍などの記録や伝え聞いている話をまとめたものです。



画像01 秋山吉次郎(1879ー1959)


吉次郎は、明治12(1879)年、岡山県岡山区(今の岡山市)で、元岡山藩下級藩士、秋山喜十郎(きじゅうろう)の次男として生まれました。
彼が生まれた時、喜十郎が何をしていたかは不明です。
藩で刀鍛冶をしていたという話があるので、そうした仕事を続けていたのかもしれません。
ただ喜十郎は、吉次郎が14歳の時に亡くなってしまいます。

その吉次郎が北海道にやってきたのは、明治32(1899)年7月。
19歳の時でした。
場所は、旭川の北およそ35キロにある剣淵村です。
今は絵本の里、剣淵町として知られていますよね。

この年、まだ未開の原野が広がっていた剣淵には、となりの士別村とともに屯田兵村が置かれます。
屯田兵村は、明治8(1875)年、札幌琴似に初めて設置され、この剣淵と士別まで合わせて37村が置かれました。
入植した屯田兵の数は7337人。
吉次郎は、そのうちの最後の屯田兵の一人でした。

剣淵への入植の時、吉次郎には、母と姉、兄と弟の4人が同行していました。
北海道への当時の移住者の多くがそうだったように、おそらくは喜十郎の死後、一家は故郷での暮らしに目処が立たず、新天地に活路を求めたのだと思います。



画像02 晩年の吉次郎


他の兵村と同じく、剣淵兵村にも、入植までの詳しい行程の記録が残っています。
剣淵に向かう屯田兵337人とその家族は、士別兵村の仲間(屯田兵100人とその家族)とともに、西回りと東回りの2隻の船で北海道を目指します。

吉次郎一家が乗ったのは西回りの東都丸。
岡山から神戸に出て、船に乗り込んだのが、明治32(1899)年6月18日です。
東都丸は、途中、瀬戸内海や日本海で各地の志願者を乗せながら北海道に向かい、29日、小樽の手宮港に入ります。
その日は、小樽に一泊し、翌日から2班に分かれ鉄道に乗り換えます。
そして旭川を経由し、剣淵に到着したのは7月1日と2日です。



画像03 吉次郎らが泊まった三浦屋旅館(大正4年・「旭川市街の今昔 街は生きている」より)


「剣淵町史」に載っている元屯田兵の回想録には、以下のように書かれています。


「6月30日 これより兵員家族は2日間に分かれて輸送されることに決まり、自分等は第1日に炭鉱貨車に乗り込む。無蓋台車に天幕を張り茣蓙(ござ)を敷き跪座(きざ)する。
午後4時旭川駅に到着し下車する。その夜は駅前の三浦屋旅館に宿する。1軒で500人を収容することはできず、鮨詰の様な一夜を明かした。
7月1日 前日の様に無蓋台車に乗せられ剣淵に向う。当時、列車は蘭留までしか開通していなかったが、士別まで工事中なため和寒までは建設列車が往復していたので、屯田兵と家族たちは特別に建設列車を利用して和寒まで輸送してくれた。
和寒よりは只一筋の刈分道(現国道40号線)を家族と共に歩んだのである。和寒の東の山すそ伝いに進む道は、両側は未だ斧鉞(おのまさかり)の入らない原始林で、あたかも林のトンネルを通るようで昼なお暗く気のめいる道が続き、雑草は背丈をこえて生い茂り、人影などは全く見えない。此の中を意気揚々として進む屯田兵もあれば、下駄ばき、ぞうりばきもあり、モンペ姿の母親、長袖におたいこ姿の娘、菅笠(すげがさ)を冠ったもの、こうもり傘をさすもの、かすりの着物や縞の筒袖、それぞれのお国の風俗そのままの姿の列が続いた。」(「剣淵町史」より)




画像04 開設間もない頃の剣淵兵村(「剣淵町史」より)


こうして剣淵に着いた一行は、先着していた将校や下士官がイタドリで作った歓迎のアーチと、今も剣淵の中心部に残るヤチダモの大木の前に集合し、最初の訓示を受けました。

詳しい話は省きますが、当時の剣淵は水の便が悪く、入植した屯田兵と家族は苦労に苦労を重ねたそうです。



画像05 剣淵・士別両兵村の合同演習(明治34年・「剣淵町史」より)


画像06 剣淵兵村の屯田兵(年代不詳・「目で見る旭川・上川の100年」より)


画像07 剣淵に残るヤチダモの大木



続いては、吉次郎ら剣淵の屯田兵が出征した明治37(1904)年の様子です。
この当時、屯田兵の現役期間は5年間でした。
このため剣淵兵村の屯田兵は、この年3月末で満期除隊となりました。
ところが前編で書いたように、日本はその直前の2月にロシアに宣戦を布告します。
もちろん現役が終了したとしても、兵役の義務は残っています。
このため吉次郎たちには、息をつく間もなく招集がかかり、8月にはそれぞれの部隊に編入されます。



画像08 吉次郎の屯田兵手帳


こちらは吉次郎の屯田兵手帳です。
長男である叔父のもとに保管されていたものです。

ここには生まれた場所や親きょうだいの情報、給付された被服や装備、扶助米の支給状況などに加え、日露戦争の出征から帰還までの動きが細かく書かれています。
まずは戦地に赴くまでの動きです。



画像09 屯田兵手帳に記入された記録(1)


画像10 屯田兵手帳に記入された記録(2)



招集を受けた吉次郎は、まず8月7日に旭川の第七師団歩兵第二十八連隊補充大隊第三中隊に編入され、すぐ18日に同第十二中隊に再編入されています。
以後、戦地ではこの十二中隊の所属が続きます。

入営した吉次郎が、旭川の屯営を出発したのは10月28日。
前編で書いたように、第七師団の将兵は鉄道と船で大阪に向かいました。
戦地に向けて吉次郎が大阪港を出発したのは16日。
そして旅順に近い遼東半島の大連に着いたのが21日です。



画像11 旅順近郊の第七師団の幕営(「第二十八連隊概史」より)


大陸での第七師団が、乃木第三軍に加わって旅順攻略、そして作戦変更後に総力を上げた二〇三高地奪取戦を戦ったのは、前編で見たとおりです。
その戦いに吉次郎はどう関わったのでしょうか。


「自十一月参拾日至十二月五日旅順西北方標高二〇三高地ニ於テ戦闘」
「仝十七十八日二百三高地西南方甲丁山ニ於テ戦闘」



この時期の行動について、屯田兵手帳にはこのように記載されています。

1つ目の記述は、11月30日から12月5日にかけてとなっていますが、この間に行われた戦闘は2回だけです。
第七師団が初めて主力となった11月30日の二〇三高地奪取戦。
そしてその失敗を踏まえ、児玉源太郎満州軍総参謀長がテコ入れした12月5日の二〇三高地戦です。

どの様な形かはわかりませんが、この2つの戦闘に吉次郎が関わったのは間違いありません。



画像12 二〇三高地占領後の第七師団の将兵(「歩兵第二十五連隊史」より)


すでに書いているように、このうち5日の戦いで、第七師団はついに二〇三高地の占領に成功します。
占拠地での記念写真におさまる第七師団の兵士たちは、こころもち放心したような表情に見えます。
吉次郎も、七師団が任務を達成した喜びより、多くの戦友を失った悲しみや、命を取り留めた安堵感のほうが強かったのかもしれません。



画像13 「師団歴史」(「新旭川市史」より)


一方、2つ目の記述では、「12月17日と18日に甲丁山で戦闘」となっています。

第三軍は、二〇三高地の奪取の後も、旅順要塞への攻撃を続けました。
第七師団司令部が編んだ「師団歴史」には、12月17日と18日の動きについて、以下のように書いています。


「十七日 高丁山攻撃を行う午前九時全く之を占領す(中略)
 十八日 (中略)本夜敵の歩兵約五百高丁山に逆襲し来たりしも巧みに之を撃退し敵に多大の損害を与え捕虜一名あり」(「師団歴史」より)



手帳にある甲丁山と、「師団歴史」の高丁山は同じです。
高丁山は二〇三高地に近いロシアの堡塁の一つです。
吉次郎もこの高丁山堡塁の占領と奪還阻止に関わったと思われます。



画像14 東鶏冠山北砲台の大爆発(半藤一利「日露戦争史」より)


そして第七師団が高丁山で敵の逆襲を撃退したという12月18日、東鶏冠山(けいかんざん)砲台が、大音響とともに崩壊します。
この砲台は多くの日本の将兵の突撃を阻んできたロシアの大要塞です。
日本の工兵が粘り強く掘削した2本の坑道に大量の爆薬を仕掛け、これに点火した結果でした。

この後、他の要塞でも日本側が仕掛けた爆破が相次ぎます。
これを受け、旅順を守るロシア軍司令官、ステッセル中将はついに降伏を決意します。
この後行われたのが、教科書などによく写真が掲載される二〇三高地近くの村、水師営(すいしえい)での両将軍の会見です。



画像15 水師営の会見(「図説 日露戦争」より)


旅順攻略を達成した乃木軍に対し、満州軍総司令部は、遼東半島の北でロシア軍と対峙している本軍への合流を命じます。
北進までの間、旅順には多くの慰霊碑、忠魂碑が建てられ、第三軍が主催する慰霊祭が行われました。



画像15 旅順に建てられた第七師団の忠魂碑(「札幌歩兵第二十五連隊史」より)


(奉天会戦へ)



画像16 遼陽会戦での満州軍(半藤一利「日露戦争史」より)


さて、乃木第三軍が旅順攻略戦に臨んでいた頃、満州軍主力は、ロシアの野戦軍主力との戦いを繰り広げていました。
野戦におけるロシアの戦いは、あえて余力を残して後退することを繰り返し、敵を懐に引き込みつつ、相手の疲弊を待って攻勢をかけるのが常道でした(あのナポレオンも、ロシア遠征ではこの作戦により大敗を喫します)。
8月の遼陽(りょうよう)会戦、10月の沙河(さか)会戦でもロシア側は戦略的後退をくり返し、満州の拠点都市、奉天の南で日露両軍は膠着状態に入っていました。



画像17 第七師団の北進行軍計画表(「歩兵第二十五連隊史」より)


この事実上休戦状態の本軍に合流するため、第三軍の友軍とともに第七師団の将兵が北進を始めたのは、明治38年(1905)年1月22日のことです。

画像17は「歩兵第二十五連隊史」に掲載された行軍表です。
第七師団が集合場所である遼陽の北の街、黄泥窪に到着したのは、開戦から1年が経ったばかりの2月9日。
19日間で90里、約360キロの強行軍でした。



画像18 遼東半島と遼陽、奉天周辺図(半藤一利「日露戦争史」より)


2月20日、満州軍総司令官の大山巌大将は、各軍の首脳を集め、新たな作戦を指示します。
この戦いで、大山と児玉源太郎総参謀長は、ロシア軍の後退を許さず、殲滅を図ることを期していました。
国力の劣る日本は、戦力の面でも戦費の面でもほぼ限界に達し、戦いの継続が難しくなってきていたためです。
大山は訓示の中で、この会戦は「日露戦争の関ヶ原」であり、「全戦役の決勝」となることを心得よと全将兵に呼びかけました。



画像20 大山巌満州軍総司令官(「図説 日露戦争」より)


画像21は、奉天会戦の直前の両軍の配置図です。
沙河をほぼ挟むように、東西約200キロに渡って対峙しています。
その数、ロシア側31万、日本側25万と言われています(ロシア側は後衛にさらに10万、日本側は後衛なし)。

数に勝る敵にどう殲滅戦を仕掛けるか。
世界史的にも過去に例のない大会戦。
2人が採用したのは奇策とも言える包囲作戦でした。



画像21 奉天会戦直前の配置(半藤一利「日露戦争史」より)


図で分かるように、日本軍の最右翼には、鴨緑江(おうりょくこう)軍、最左翼には第三軍がいます。
鴨緑江軍は、第三軍から引き抜いた第十一師団を中心に新たに組織された軍です。

作戦では、まずこの両軍を進撃させて敵の陽動を誘います。
慌てたロシア軍が中央の兵力を削いで両翼の守りを固めます。
そのタイミングを逃さず、今度は第二、第四、第一の日本軍主力が、中央から猛攻をかけるというものです。
鴨緑江軍と第三軍には、戦線の両翼から大きく円を描くようにロシア軍の背後に回り込み、敵の退路を断つ役割も与えられました。

画像22は、作戦で想定された各軍の動きです。



画像22 奉天会戦の進撃概図(半藤一利「日露戦争史」より)


(奉天会戦始まる)


会戦は、2月24日、最右翼を突く鴨緑江軍の進撃によって始まりました。
第三軍が宿営地を発ったのはその3日後。
想定通り、西回りに大きく迂回しながら北進を始めます。
その第三軍に先行するように、最左翼では、機動力のある秋山支隊も北に進みます。
秋山支隊は、「坂の上の雲」で中心的に描かれた松山出身の海軍参謀、秋山真之(さねゆき)の兄、好古(よしふる)が率いる騎兵の精鋭部隊です。



画像23 クロパトキン大将(「図説 日露戦争」より)


ロシア満州軍の総司令官は、日露戦争の直前までロシア陸軍大臣を勤めていたクロパトキン将軍です。
クロパトキンは、進撃を始めた鴨緑江軍が乃木第三軍であると思い込み、予備兵力の大半をその対応に向かわせます。
鴨緑江軍の主力が、旅順戦で第三軍にいた第十一師団の将兵だったことが、判断を誤らせたと言われています。

ロシア側の対応を知った大山と児玉は、陽動は成功と判断。
3月1日、残る第一、第二、第四の各軍にも進撃を命じ、戦線の全域で双方が激突します。



画像24 北進する第三軍(「図説 日露戦争」より)


一方、第三軍は当初順調に北進を続けますが、奉天に近づくにつれ、そのスピードは緩みます。
特に5日以降は、敵の激しい反撃のためなかなか前進を図れない状況となりました。
我が祖父、吉次郎の屯田兵手帳には、この間の動きとして、「沙麗堡、後民屯、大石橋、高家屯、三台子で戦闘」と記されています。
いずれも第三軍の進撃路の途中にある街の名前です。
進むに連れ、吉次郎ら兵の消耗も日に日に増していったと思われます。

しかしこの時期、クロパトキンは、戦線中央の主力部隊を後退させることを決意します。
奉天に迫っているのが、乃木第三軍であることを知ったためです。
将軍は、旅順戦という困難な戦いに勝利した乃木軍を日本の最強軍と考えていました。
その乃木軍が奉天の北の鉄道路を抑え、自軍の退路を断つことを恐れたのです。
さらに足の速い秋山支隊がすでに鉄道路に迫っているのを、第三軍が驚異的な速さで進軍していると勘違いしたとも伝えられています。



画像25 撤退するロシア主力軍(「図説 日露戦争」より)


このクロパトキンの指示を受け、7日には一部部隊の後退が始まり、9日には全軍への撤退命令が出されます。
同時に、クロパトキンは、自軍の退路を確保し、後退を円滑に進めるため、特別部隊を編成して乃木軍の進行を全力で阻止するよう厳命します。

クロパトキンが察することはありませんでしたが、このとき第三軍の各部隊は第七師団同様、いずれも疲労の限界に近づいていました。
このためロシアの特別部隊の攻撃は、第三軍にとってさらなる打撃となりました。



画像26 奉天の市街(「図説 日露戦争」より)


(北稜の戦い)



画像27 奉天近くで小休止する第七師団の将兵(「図説 日露戦争」より)


こうした中、戦場は3月9日の朝を迎えます。
この日は激しい砂嵐が吹き荒れる一日でした。
それはさまざまな記録、手記、そして文学作品で触れられています。


「この日は未明から南風が強く、文字通りの黄塵万丈、太陽の光も被われて漏れず、天地暗澹として三、四間先の物さえ見えないほどであった。(中略)傷ついて力尽きた将兵たちは黄塵を浴びて随所に群がり横たわっており、死屍もまた黄塵に半ば埋もれて識別困難であった」(石光真清「望郷の歌」より)


この荒天の中、敵の撤退を知った満州軍総司令部は、全軍に追撃命令を出します。
これを受け、第七師団もなんとか前進を図り、奉天郊外の北陵(ほくりょう)の森に陣取るロシア軍への攻撃を開始します。



画像28 現在の北稜(「歴史群像シリーズ59 激闘 旅順・奉天」より)


北陵は奉天の北にある清の二代目皇帝、太宗の陵墓で、昭陵(しょうりょう)とも呼ばれています。
師団は突破を図りますが、ロシア軍の抵抗は激しく、砂嵐による視界不良もあって膠着状態に至ります。



画像29 村上正路大佐(「第七師団写真帖」より)


これを打開しようと、大迫師団長は、夜戦による奇襲作戦を立て、突撃隊を編成します。
隊長を命じられたのは、歩兵第二十八連隊の村上正路(まさみち)大佐。
先鋒として二〇三高地の奪取に成功したあの村上連隊長です。

村上は二十八連隊と二十六連隊の一部、工兵などを率い、10日未明、攻撃を開始します。
実は吉次郎の屯田兵手帳には、この北陵の戦闘で、彼が敵弾を受け、重傷を追ったことが書かれています。

調べたところ、参謀本部が編集した公式の日露戦史である「明治三十七八年日露戦史」に、北陵での第七師団の戦闘の詳しい図解が載っていることが分かりました。
それが画像30と、それを拡大した画像31です。



画像30 北陵の戦いの図解(「明治三十七八年日露戦史」より)


図の下の方にある四角で囲ったように描かれているのが北陵です。
「青」で描かれた特別隊は、最初、北陵の北西の位置(図の左上)にいます。
そして真っ直ぐに北陵に向かい、森林の前にいる「赤」のロシア軍(図の中央部分。ミユルレル大佐と書かれています)と交戦状態に入ります。
そして北陵の北東脇の位置まで敵を押し込み、最終的には北陵の占拠に成功します。



画像31 画像30の拡大(「明治三十七八年日露戦史」より)


「28」と書かれているのが歩兵第二十八連隊、「26」は二十六連隊です。
小さな数字は中隊の番号です。
これを見ると、吉次郎の第十二中隊は、最前列でミユルレル大佐の軍と戦闘しています。
そしてその後は、二手に分かれ、半分の部隊はそのまま前進を続け、敵を押し込んだ後、北陵の北門のあたりに進んだことが分かります。
また残りの半分の部隊は南に進行し、北陵の西門に達したことが分かります。



画像32 「明治三十七八年日露戦史」の記述


「明治三十七八年日露戦史」では、この戦闘の推移についても、7ページに渡って詳述しています。
それによりますと、本格的な戦闘が行われたのは北陵を囲う森林の中で、しかもこの日は朝6時半を過ぎてもまだ暗い状態でした。
このため各部隊は仲間がどこにどのようにいるのかさえ分からない状態で、林に潜む敵に狙撃され、死傷者が続出しました。

一部ですが、記述を抜いてみます。


「歩兵第二十八連隊第十中隊及同第十一第十二中隊の約半部は森林北縁に突入の後更に追撃中互に連携を缺(か)き各個に敵に衝突して死傷頗(すこぶ)る多く此間歩兵第二十八連隊第十一中隊の半部は其指揮官を失い・・・」(「明治三十七八年日露戦史」より)


実は、この戦闘では、指揮官の村上大佐も少数の部下とともに孤立したうえ、銃撃を浴びて重傷を負い、捕虜となってしまいます。
日露戦争では、約2000人の日本の将兵が捕虜となりましたが、村上は最も階級が上でした。

新旭川市史は次のように書いています。


「村上大佐は旅順攻略の最高殊勲者であったが、今回の失態で、旅順での殊勲と相殺され、帰国後は休職となり、そのまま大佐の定限年齢に至って後備役に編入されたという」(「新旭川市史」より)



画像33 屯田兵手帳の記載


一方、吉次郎も同じ様な状況の中で銃弾を浴びたようです。
屯田兵手帳の「公傷及び公病」の欄には、次のように書かれています。


「北陵の戦闘の際負傷(左肩上部より右肩部に至る貫通銃創兼左下腿貫通銃創(骨折)右側外踝(くるぶし)部貫通銃創)」


上半身と下半身に合わせて3発の銃弾を受けたようです。
このうち上半身は、左肩から右肩への貫通銃創。
少しでもずれていれば、頭を撃たれていました。

結局、3月9日と10日の戦闘で、日本軍はロシア軍の後退を阻止することはできませんでした。
暴風による視界不良に加え、長期の行軍を続けてきた両翼の2つの軍の足が止まったこと、中央の主力軍の弾薬も尽きかかったことなどが要因です。

「奉天会戦の目的は陣を進めることではなく、敵の殲滅だ」としていた大山総司令官が、ロシア兵の去ったあとの奉天に入城したのは、15日のことでした。



画像34 大山総司令官の奉天入城(「図説 日露戦争」より)


(講和成る)



画像35 血の日曜日事件(「図説 日露戦争」より)


この奉天会戦での撤退後も、ロシアは戦況の巻き返しは十分に可能だと自信を見せていました。
しかし国内では、相次ぐ陸海の敗戦に加え、物価の上昇や労働環境の悪化などで、労働者や農民の不満が募っていました。
1月には首都サンクトペテルブルクでデモ隊に軍が発砲する「血の日曜日事件」が発生。
これを機に革命の気運が高まっていきます。



画像36 決戦に向かうバルチック艦隊(「図説 日露戦争」より)


戦局の打開を期待されたバルチック艦隊も、5月の日本海海戦で、世界の海戦史上例のない大敗北を喫します、
皇帝ニコライも、ここに至りルーズベルト米大統領の講和の斡旋を受け入れます。

9月にアメリカ東海岸のポーツマスで両国は講和条約に調印。
10月に公布され、日露戦争は終わります。



画像37 ニコライ2世(「図説 日露戦争」より)


(吉次郎の帰還)



画像38 日露戦争の傷病兵(「図説 日露戦争」より)


さて吉次郎の屯田兵手帳には、負傷後の足取りについても書かれています。

大山総司令官が奉天に入城した翌日の3月16日、吉次郎は奉天に近い荘家屯の野戦病院に入り、手当てを受けます。
4月4日には、日本への帰還のために遼東半島の大連兵站病院に転院。
おそらく、行きには乗ることのなかった鉄道で運ばれたものと思われます。
翌5日に大連港を出港。
9日に宇品港(現在の広島港)に上陸し、戦傷者のために設置された広島予備病院に入院します。
さらに東京予備病院に転院した吉次郎は、5月23日、旭川に生還します。



画像39 「歩兵二十八連隊 征露記念帖」
 

こちらは、今回、日露戦争について調べる中で知った資料の一つ「歩兵二十八連隊 征露記念帖」です。
この中に二十八連隊の出征将兵の名簿がありました。



画像40 「歩兵二十八連隊 征露記念帖」記載の名簿


その中の第十二中隊の部分です。
中央下段に、秋山吉次郎の名前が見えます、

十二中隊の同じ剣淵兵村からの出征者は4人で、全員が一等兵。
うち一人は北陵の戦いで戦死したことが記されています。
他の地域からの出征者の中にも、何人かに「於二〇三戦死」の文字が見えます。

祖父、秋山吉次郎は、晩年になっても戦場で受けた傷が完全には癒えることがなかったようです。
特に足の傷は最後まで痛みが残っていたと聞いています。
ワタクシが直かに祖父と話をすることはありませんでした。
しかし生と死が紙一重だった戦場のことを忘れることは、終生なかったのではないかと思います。



画像41 吉次郎と家族(妻のとし、長女の直枝、次女の蔦子=ワタクシの母)




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日露戦争と旭川・前編

2022-02-20 10:46:24 | 郷土史エピソード



久々の原稿アップです。
今回は、旭川で昨秋から始めた連続歴史講座の準備や開催に加え、ブログネタの仕込みと執筆にもかなりの時間がかかってしまいました。
忘れずに覗いていただき、本当にありがとうございます。

ということで、新たに取り上げるのは日露戦争です。
今回から3回に渡り、旭川や陸軍第七師団との関わりについて見ていきます。
前編は、第七師団の出動と二〇三高地奪取までの旅順攻略戦についてです。



                   **********




画像01 旅順攻略などで使われた28センチ砲(「図説 日露戦争」より)


このブログで扱っているのは、ワタクシの好みもあって、大正から昭和にかけての話が多くなっています。
そんな中、明治、しかも日露戦争を扱うのは、以下のような理由があります。


◆その1…

日露戦争についてのこれまでのワタクシの知識ですが、実は以前熱中した司馬遼太郎の「坂の上の雲(小説とドラマ)」に多く依っていました。
ところが、実態は「坂の上の雲」で描かれたものといろいろと違っているようなんです。
史実に沿って書かれているとはいえ、「坂の上の雲」はやはり小説であること、またその後の歴史的な研究が一段と進んだためです。
なので、一度きちんと正しいところを押さえておきたいと考えました。
これが最大の理由です。

◆その2…

北海道の常備師団だった旭川第七師団は、乃木希典(まれすけ)大将率いる第三軍に途中から加わります。
そして以降、常に最前線で重要な任務を果たしました。
その具体的な動きを確認しておきたいと考えました。
合わせて第七師団の一兵士として従軍したワタクシの祖父が、どのような形で戦闘に関わったのかについても、分かる範囲で確かめたいと思いました。

◆その3…

日露の開戦は、札幌から旭川への第七師団の移駐が完了してわずか1年余りの時期の出来事です。
その後、旭川は国内有数の軍都と称されるようになりますが、部隊を送り出した当時の旭川の街にどのような動きがあったのか、これも押さえておきたいと考えました。



画像02 旅順攻略後、水師営で会見した乃木・ステッセルの両司令官(「図説 日露戦争」より)


画像03 バルチック艦隊の迎撃に向かう連合艦隊(「図説 日露戦争」より)



(日露戦争とは)


ここから本題です。
まず日露戦争とはどんな戦争だったのか、押さえておきたいと思います。



画像04 砲撃する奉天会戦の第三軍(「図説 日露戦争」より)


日露戦争は、明治維新後、近代国家として歩み始めた日本が、日清戦争に続いて戦った対外戦争です。
開戦は明治37(1904)年2月、講和の調印が翌年9月です。
日本が攻勢を保った中での講和でしたが、日本側の死傷者はおよそ12万人、費やした戦費はおよそ15億円の巨額に達しました。

一方、その位置づけについては、さまざまな見方があります。
基本的に日本という国家の存亡をかけた戦いだったという解釈。
韓国および南満州の支配権をめぐる日本とロシアの争いだったとする解釈。
この対立する2つの考えに代表されるようです。

前者は、南下の野望を持つロシア帝国の影響力が満州から朝鮮半島に及べば、やがて日本も危機に瀕することになる。
それに抗するための「祖国防衛」の戦争だったとする見方です。
「坂の上の雲」は、まさにこの立場で描かれています。
後者は、列強各国による帝国主義の時代に遅れて参入した日本が、その代表格であるロシアとの間で行った「朝鮮半島と満州の支配権をめぐる争い」とする見方です。
戦争で被害を受けた立場から見れば、当然このようになりますよね。

ともあれ、日清戦争後のいわゆる三国干渉を機に、日本とロシアは加速度的に緊張を高めていました。
そして国交断絶を通告した2日後の日本による旅順港奇襲攻撃により、戦端が開かれることになります。



画像05 旅順港奇襲攻撃に向かう連合艦隊(「図説 日露戦争」より)


(第七師団の出動)


こうして始まった日露戦争。
開戦以降、日本は陸軍、海軍とも総力戦を繰り広げます。
ただ旭川第七師団への動員命令は半年後の8月、さらに第三軍への編入は11月と大きく遅れます。
それは何故だったのでしょうか。

通常、戦争では、最初から全ての兵力を前線に投入するのではなく、戦況によって追加投入する予備戦力を置くそうです。
第七師団の動員の遅れについて、ワタクシは予備戦力として位置付けられたためと考えていました。
ただ詳しく見ていくと、そうした単純なものではないことが分かりました。
実は開戦直後、北海道がロシアによって攻撃される可能性があったことが背景にあったのです。



画像06 奈古浦丸撃沈を伝える記事(明治37年2月14日・函館新聞)


画像06は日本がロシアに宣戦布告した翌日の2月11日、津軽海峡にいた日本の商船がロシアの軍艦に撃沈されたことを伝える記事です。
実は開戦直後、ロシアの太平洋艦隊の一部は日本海に面したウラジオストックにいて、北海道近海に出動できる体制にあったのです。
これに対し、日本海軍はロシア太平洋艦隊の主力を、彼らが停泊していた遼東半島の旅順港に釘付けにするために全力を注いでいました。



画像07 ウラジオ艦隊の航跡図(児島襄「日露戦争」より)


画像07は戦史研究家で作家でもあった児島襄の大著「日露戦争」に掲載された当時のウラジオ艦隊の一部艦船の航跡図です。
津軽海峡はおろか東京近海にまで進出している様子が分かります。
このように、この時期、津軽海峡などの制海権はロシア側にあったわけです。

2月の商船への攻撃の意図は、あくまで日本の通商航路の妨害と見られます。
ただロシア軍による函館などへの艦砲射撃もありうるのではと、道民の中には動揺が広がったようです。



画像08 函館の状況を伝える記事(明治37年2月16日・北海タイムス)


画像08は当時の新聞記事です。
ロシアの軍艦と函館要塞との間で砲撃戦があったというデマが広がったこと、その結果、函館で住民が動揺し、多くの人が避難の準備を始めたことなどが書かれています。
また同じような状況は小樽でもあり、こちらは実際に札幌方面に避難しようと多くの人が駅に押しかけたと伝えています。

動揺する道民の様子も考えますと、予備兵力とはいえ、第七師団が北海道を離れることができなかったことが分かります。
こうした状況は、日露の新たな海戦の結果、ロシアが津軽海峡などの制海権を失うまで続きました。



画像09 黄海海戦での連合艦隊(「図説 日露戦争」より)


画像09はその海戦の一つ、8月にあった旅順沖の黄海海戦に臨む日本海軍の写真です。
詳しい内容は省きますが、この黄海海戦と、続く蔚山(うるさん)沖海戦でウラジオのロシア艦隊は打撃を受け、結果、北の制海権は日本側に移ります。
このため第七師団の出動がようやく可能となったわけです。

一方、陸の戦いでは、7月から始まった第三軍による旅順要塞の攻略が難航し、膨大な数の戦死者、戦傷者が出ていました。
このため陸軍は第七師団を第三軍に投入することを決め、10月下旬、戦地に派遣します。



画像10 旅順要塞を砲撃する第三軍(「図説 日露戦争」より)


(遼東半島上陸まで)



画像11 第七師団司令部(明治44年「東宮殿下行啓記念」より)


では第七師団の実際の出動の様子はどうだったのでしょうか。
8月の出動命令を受け、第七師団は戦地に赴く野戦師団と、北海道に残る留守師団に分かれます。
このうち野戦師団は、歩兵が12個大隊、騎兵が3個中隊、砲兵6個中隊、工兵3個中隊などの編成でした。
師団長は、そのまま第七師団長である大迫尚敏(なおはる)中将が務めました。



画像12 日露戦争に出征する第七師団(先頭は大迫師団長・旭川市立中央図書館蔵)


第1陣が旭川を発ったのは10月26日。
鉄道で室蘭に向かい、船で青森へ。
そこからまた鉄道に乗り、東京を経由して大阪に入ります。
そこでいったん待機をし、大陸に向かったのは11月13日から16日にかけてです。
そして第1陣が遼東半島の大連に上陸したのは20日。
まもなく全部隊が戦地に入りました。

画像13は、作家の半藤一利さんの「日露戦争史」に掲載された満州軍各軍の上陸地および進軍路です(第七師団の上陸地、進軍路は第三軍の先行部隊と同じ)。



画像13 日本軍の上陸地・進撃路(半藤一利「日露戦争史」より)


画像14 大連到着時の第七師団主力(「第七師団写真帖)より)



そして24日、いよいよ戦いに臨む将兵に大迫師団長は以下のように訓示します。


「顧うに、旅順の攻略は世界の耳目を一新し、我が帝国将来の作戦上至大の関係を有すべきものなり。即ち本師団をして特に此大攻撃に参与せしめらるる所以のものは、之が成功を需(もと)むるに急にして、時運は実に一日を緩うすべからざるを以てなり。是故に軍が我師団の将校下士卒は新来精鋭を以て自ら任じ、一歩も他に譲ることなく、率先健闘多年の教養を現実にし、誓て大勝を期せざるべからず。」


当時、いかに旅順攻略戦の成否が世界的にも注目を集め、日本の運命と直結していたのか。
それを戦いの当事者もよく認識していたことが分かります。



画像15 大迫尚敏師団長(「第七師団写真帖」より)


(旅順攻略)


ではその旅順戦です。
ここでは第七師団との関わりを中心に見ていきます。



画像16 乃木大将と東郷元帥(「図説 日露戦争」より)


日露戦争の序盤において、陸軍は満州と旅順という2つの場所で戦いを繰り広げました。
このうち旅順は、すでに書いたようにロシア太平洋艦隊の主力がいた場所です。
当時、ロシア海軍は、遠く本国からバルチック艦隊を極東に向かわせることにしていました。
日本としては、その到着の前に太平洋艦隊を壊滅する必要がありました。
2つの艦隊を相手に勝てるほどの力は、連合艦隊にはないからです。
このため海軍は、旅順港を守るロシア軍を攻めるよう陸軍に要請しました。
ロシアの守りを突破すれば、港にいる艦隊を殲滅することができるからです。
これが日露戦争の前半の大きな焦点となった旅順攻略の持つ意味です。



画像17 開戦直後の旅順港(「図説 日露戦争」より)


ただ旅順攻略は、思惑通りには行きませんでした。
港を囲う山々に設置されたロシア側の要塞は、20万樽ものセメントを使って作られた極めて堅固なものでした。
さらに要塞には、おびただしい数の重砲や最新鋭の機関銃が配備されていました。
これに対し乃木は8月と10月、2度に渡る歩兵の強襲を中心とした総攻撃をかけます。
もちろん先に重砲による砲撃を加えた上での突進です。
ただ日本の砲弾は壁の厚さが1点3メートルにも及ぶロシアの要塞には大きな打撃を加えることはできませんでした。
このため突進した歩兵はことごとく敵の機銃掃射や地雷、手榴弾などで撃退されてしまいます。



画像18 旅順のロシア軍堡塁要塞の位置図(「図説 日露戦争」より)


画像19 砲台を備えたロシアの要塞(「図説 日露戦争」より)



このうち1回目の総攻撃について、中尉として戦闘に参加した櫻井忠温(ただよし)がのちに書き、世界的なベストセラーとなった「肉弾」には、次のように書かれています。


「(敵の)砲台の上では我が砲弾が愛嬌よく砂煙を揚げているに過ぎなかった。流石の我が重砲、夜山砲、海軍砲を揃えて打っても、砲台のベトン(注=コンクリートのこと)は痛いとも痒いとも思っていなかったようである。守兵はしきりと機関銃の引鉄をいじって、いつでも御出なさいといった風に待っていた。(中略)その死骸は二重三重と重なり、四重五重と積み、ある者は手を敵の銃台にかけて斃れ、ある者は既に乗越えて、敵の砲架を握れるままに死したるあり。(中略)勇壮なるこの突撃隊が、味方の死屍を乗り越え踏み越え、近く敵塁に肉薄して、魚鱗がかりに突き入ると、たちまち敵の機関銃で、攻め寄る者ごとにいちいち撃殺されたため、死屍は数層のなだれをうって、敵塁直下にかくは悲惨なる死骸を積んだのである。」(櫻井忠温「肉弾」より)



画像20 第1回総攻撃の様子(「日露戦役写真帖」より)


この1回目の総攻撃は6日間続き、第三軍は戦死者5039人、戦傷者1万823人というおびただしい数の犠牲を出しました。
また10月の2回目の総攻撃では、工兵を動員して前進のための坑道を掘りましたが、坑道を飛び出した歩兵はやはりロシア側に狙い撃ちにされました。
この時の攻撃は1日のみで中止となりましたが、戦死者は1902人、戦傷者は2738人に上りました。



画像21 「白襷隊」の将兵(「図説 日露戦争」より)


こうした中、新たに第三軍に投入された北海道の第七師団。
乃木は、直後の11月26日に第三回の総攻撃の敢行を決めます。

この攻撃では、第三軍傘下の各師団から選び出された3000人余りの特別予備隊による夜襲部隊が組織されました。
彼らは、暗闇の中で敵味方を識別するために全員が白い襷をかけ、「白襷(しろだすき)隊」と呼ばれました。
第三回総攻撃で、戦地に入って間もない第七師団は、全軍の総予備隊とされました。
このためワタクシは「白襷隊」への第七師団の参加もなかったものと考えていましたが、実は主力であったことを知りました。



画像22 「白襷隊」の損害(児島襄「日露戦争」より)


これは児島襄の「日露戦争」に載っている「白襷隊」の損害です。
第七師団の4つの歩兵連隊のうち、唯一札幌にあった歩兵第二十五連隊の2つの連隊からの参加者が1565人、全体の半数以上を占めています。
また戦死者、戦傷者も全体も半数を超えています。

この表からも分かる通り、「白襷隊」の攻撃も失敗に終わります。
午後9時前に始まった戦闘では、早々にロシア側が探照灯を利用して要塞に近づく日本兵に銃火を浴びせます。
夜襲部隊はなおも前進を続けますが、目標には至りません。
指揮官(支隊長)である第二旅団長、中村覚中将が重症を負うなど、多数の死傷者を出した結果、未明には退却を始めます。
中村が戦線を離脱した後、指揮官を任された第二十五連隊長の渡辺水哉(みずや)大佐は、撤収後「中村支隊長以下将卒の死傷者算なく、携行の爆薬は已に尽き、如何ともなし難く、遂に攻撃中止命令を発したのである。生きてこの憂いを見たるは、一期の不覚なり」と述べています。

一方、この日の攻撃では、第七師団の残りの3つの連隊も苦戦する他の師団(白襷隊以外)の応援に回る形で前線に投入されました。
結果、第七師団はすべての連隊がこの第3回総攻撃に参加することとなりました。



画像23 児玉源太郎総参謀長(「歩兵第廿八連隊概史」より)


ドラマ「坂の上の雲」では、この後行われる二〇三高地の奪取戦の最中、高橋英樹演ずる児玉源太郎満州軍総参謀長が、品川徹演ずる大迫第七師団長に語りかけるシーンがあります。
児玉が「北海道の兵は強いそうだな」と言いますと、大迫は「さようでございます。強うございました。15000人の兵が1000人になってしまいました」と答えます。
品川さんは旭川出身の道産子。
台詞を語りながら、こみ上げてくるものがあったのではないでしょうか。



画像24 二〇三高地(保坂正康「最強師団の宿命」より)


その二〇三高地の奪取は、第3回総攻撃の後、乃木が自ら打ち出したものです。
二〇三高地は旅順の北にあって港を一望できる位置にありました。
ですから、もともと海軍や東京の大本営には、要塞を攻略せずとも、ここさえ押さえれば旅順艦隊への攻撃は可能であり、優先すべしとの意見がありました(つまり要塞越しに旅順港に砲撃を加えることは、日本の重砲の飛距離から可能であり、あとは二〇三高地からの目視による観測で、砲弾の軌道をコントロールすれば、命中させるのはたやすいということです)。

ただ第三軍の参謀たちはこれに耳を貸さず、あくまで正面突破に固執しました。
しかし3回の総攻撃はいずれも失敗。
それまで参謀が立てる作戦に異議を唱えなかった乃木も、さすがに方針の変更を指示したわけです。



画像25 二〇三高地を攻める第七師団の将兵(「第七師団歩兵第二十五連隊征露記念写真帖」より)


この二〇三高地奪取戦で中心を担ったのが、第七師団の将兵です。
11月29日、第三軍は第七師団を主力とした二〇三高地の新たな攻撃案を決めます。
翌30日、第七師団に東京第一師団の残存部隊を加えた攻撃隊が、二〇三高地に迫ります(第一師団は27日の二〇三高地攻撃で大きな打撃を受けていました)。
この日の攻撃では、まず130門の重砲による砲撃を加えた後、歩兵が突撃。
激しいロシア側の応戦に死傷者が続出しますが、なんとか頂上の一角の占拠に成功します。
ただ占拠した突撃隊はわずか数十人で、後に続くものはおらず孤立無援の状態でした。
このためたちまちロシア軍の反撃にあって奪還を許してしまいます。

実は二〇三高地戦では、27日の第一師団の攻撃でも、頂上の一角の占拠に成功したものの、同様の理由ですぐに失っていました。



画像26 二〇三高地への砲撃(「旭川市街の今昔 街は生きている」より)


これに激怒したのが満州軍総参謀長の児玉です。
12月1日、乃木と会った児玉は、作戦の不備を指摘し、矢継ぎ早に第三軍の参謀たちに変更を指示します。
実はそれぞれの軍の指揮権はあくまで司令官にあり、総参謀長といえども、直接、作戦を指示することはできません。
乃木と児玉の会見は2人だけで行われたため、実際のところははっきりしません。
ただ児玉が乃木に助力を申し出、乃木も一時的に第三軍の参謀に命令することを認めたのは間違いのないことのようです。
児玉と乃木は同じ長州藩出身で、古くからの友人でした。



画像27 日本軍による二〇三高地の攻撃(「第七師団写真帖」より)


このあと4日に再開された二〇三高地奪取戦。
児玉の指示により、以下のような作戦の変更がありました。
それまで他の要塞に向けられていた重砲を移動し、二〇三高地への集中砲撃が
できるようにしたこと。
3つに分けられていた突撃隊を一本にまとめ、一方向から厚く攻撃する体制に変えたこと。
そして高地の占拠に成功した際は、日本軍が持つ最大の重砲、28センチ砲で一昼夜山頂付近を砲撃し、ロシアによる奪還を阻止することです。



画像28 村上正路第二十八連隊長(「第7師団写真帖」より)


4日はまず威力を増した日本軍の砲撃が二〇三高地と周辺のロシア要塞に執拗に加えられ、翌5日朝、歩兵による突撃が始まります。
午前9時、先陣を切ったのは、第七師団歩兵第二十八連隊長である村上正路(まさみち)大佐率いる選抜隊です。
歩兵、工兵の180人がロシア軍の銃火を浴びつつ進撃し、何とか山頂に達したときは50人ほどになっていたそうです。
彼らはロシア軍の反撃に耐え、さらに後続の部隊が後に続きます。
このときの模様を、第七師団司令部編の「師団歴史」はこのように書いています。


「午前九時迄に突撃を準備し、一方には決死隊を四回に分つて二〇三高地西南角に向い突撃せしめ、次で歩兵第二十七連隊の一中隊、歩兵第二十八連隊の二中隊、歩兵第二十五連隊の一小隊、工兵第七大隊の大部を逐次高地上に攀登(はんと)せしめ、(中略)午後二時頃西南角は全く之を占領す。鞍部の敵は頑強に抵抗し、東北角頂も亦敵によりて妨げらる。偶々攻撃隊長の意見具申に依り東北角占領に決したり。此実行は意外に行われ、午後四時頃全く該地を占領せり。続て敵は数回逆襲を企てしも皆之を撃退せり」(「師団歴史」より)


なお余談ですが、このとき頂上にひるがえった二十八連隊の連隊旗は、のちの太平洋戦争のガダルカナルの玉砕戦で、敵の手に渡らぬよう焼かれたことが知られています。



画像29 日本軍奪取後の二〇三高地(半藤一利「日露戦争史」より)


さて、ドラマ「坂の上の雲」では、占拠した二〇三高地にすぐさま砲兵の観測班が有線電話を持って向かい、その観測班から第三軍司令部に連絡が入ります。
受話器を取った児玉総参謀長が「そこから旅順港は見えるか」と問いますと、しばらくののち「見えます。丸見えであります」と答えが返ります。
それまでの旅順攻略戦に大きな犠牲があっただけに、ついに目的を達したと感動を呼ぶ場面です。
史実でも、二〇三高地からの観測に基づき、第三軍はただちに28センチ砲による旅順艦隊への攻撃を行います。

ところがこの日露戦争の勝利に大きく貢献したと伝えられてきた二〇三高地の戦い。
実は戦いの前に旅順港のロシア太平洋艦隊の主力はすでに壊滅状態にあったことが、近年の研究で明らかになっています。



画像30 日本の砲撃を受けた旅順港のロシア艦隊(「第七師団写真帖」より)


そのきっかけとなったのが、二〇三高地奪取のはるか前、9月の攻撃での日本軍による海鼠山(なまこやま)の占領でした。
海鼠山は二〇三高地に近い海抜170メートル余りの高地です。
海軍がここに高倍率の望遠鏡を持ち込んだところ、旅順港内の大半を見ることができたというのです。
このため海軍はここに観測所を設け、9月末から海軍陸戦重砲隊、および設置されたばかりの28センチ砲による攻撃を行っていました。



画像31 28センチ砲による砲撃(「図説 日露戦争」より)


この結果、港にいたロシア艦隊の軍艦はいずれも砲撃を受け大破し、沈没こそしなかったもののほぼ廃艦状態になっていたというのです。
しかしそのことを陸軍は知りませんでした。

作家、半藤一利さんは、その著書「日露戦争史」の中で、次のように書いています。


「旅順艦隊が浮かべる鉄屑となっている事実を、日本の大本営も満州軍総司令部も察知することはなかった。あるいは遠くにあるゆえやむを得ないこととしても、第三軍司令部がぜんぜん認識していなかったことは、いまとなると不可思議としかいいようがない。」
「歴史というものは、人間の必死の思いや知能や努力を嗤(わら)うかのように、皮肉な事実を用意するものである。とくり返しかくわけはここにある。この時点で敵艦隊が浮かべる鉄屑になっていたとは!? さらにつづく旅順要塞攻略作戦とはいったい何であったのか。ほとんど言葉を失ってしまう。」(半藤一利(日露戦争史」より)

 

半藤さんの感慨は、至極もっともです。
さらにワタクシは、状況を把握していたはずの海軍からなぜ陸軍に情報が入らなかったのか、と思います。
そもそも旅順攻略が海軍の要請によって始まり、攻撃には前述した海軍陸戦部隊や軍艦による艦砲射撃も加わるなど、陸海が共同で行っていました。
さらに海鼠山の海軍の観測に基づく砲撃には、陸軍の28センチ砲も使われていました。
それなのになぜ、このようなことが起きたのでしょう。
海軍は砲弾を当てたものの、敵艦を壊滅したとは思っていなかったのでしょうか。
不可解の極みです。

北大の前身である札幌農学校の出身で、外交顧問や通訳として第三軍に同行した志賀重昴(しげたか)は、日本軍占拠のあとの二〇三高地の様子について次のように書いています。


「二〇三高地は元来素直なる二子(ふたご)山なりしに、二子の上に幾百の極小なる山が出来て、凹凸の多い醜い山となり、その形を一変した。もっとも初め七日間はこの凹凸も判然と見えたるが、味方の屍の上に敵の屍が累なり、その上に味方の屍が累なり、その上に敵の屍が累なり、その上に味方の屍が累なり、敵味方の屍が五重になって赤毛布(げっと)を敷き詰めたる様になり、(中略)味方が山の西南嘴(し)を占領して陣地を作らんとせし時は、土嚢がなくなりたる故、屍を積みに積みて累々と高く胸墻(きょうしょう=壕壁のこと)を築きたるなど、ほとんど小説を読むの感がする」(志賀重昴「日記」より)


旅順攻略戦で、第三軍が投入した兵力は約6万4000人。
戦死者は5052人、戦傷者は1万1884人に達しています。
このうち第七師団の戦死者は2081人、戦傷者は4676人とそれぞれ約4割に及んでいます。
第三軍の主力は、第七のほかは、第一(東京)、第九(金沢)、第十一(善通寺=香川)の各師団でした。
ドラマに出てきた1万5000人が1000人になったというのは、原作の小説にそうした記述があるにしろ誇張に過ぎますが、第七師団の死傷者はやはり突出しています。
一方、旅順攻略戦では、ロシア軍の損害も戦死者615人、戦傷者3837人に及んでいます。

日本側は戦いの途中ですでに作戦の目的を達していることに気づかず、ロシア側もすでに守るものは失っていたなかでなおも続いた皮肉な戦い。
亡くなった多くの魂の悲痛な叫びが聞こえてきそうです。




画像32 双方の戦死者の遺体が散乱する二〇三高地(「図説 日露戦争」より)


画像33 203高地奪取後の七師団の兵士たち(「歩兵第二十五連隊史」より)


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