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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

「旭川名所風景写真帳」

2019-07-28 22:07:12 | 郷土史エピソード

今回はワタクシの集めた郷土資料の中から、明治末年か大正元年の撮影と思われる「北海道旭川 名所風景写真帳」をご紹介します。


                   **********



「北海道旭川 名所風景写真帳」


この写真帳、横が19.5センチ、縦が13センチのコンパクトサイズで、合わせて33枚の写真が収められています。
発行は「旭川三条通 有泉堂」。
有泉堂は、旭川の絵葉書の版元として知られています。
ですので、この写真重の中には、いくつか絵葉書にされたものもあります。
ただ発行年はどこにも書かれていません。
ということで、主なところを紹介しながら、なぜこの写真帳の撮影が明治末年か大正元年と判断したか、説明していきたいと思います。



旭川翠香園


まずは、かつて曙の鉄道線路沿いの一角にあった私設の花園、翠香園(すいこうえん)です。
写真で分かるように、築山や池があり、牡丹や芍薬など様々な花を楽しめました
また温室には熱帯の植物も栽培されており、最盛期には1日4〜5000人の見物客があったそうです。
この翠香園が開園したのは明治33年ですから、写真もそれ以降の撮影です。



旭川偕楽園


同じく私設の花園、偕楽園(かいらくえん)です。
こちらは8条通9丁目にありました。
当時、このあたりは暴れ川だった切り替え前の牛朱別川に近く、小川や池がたくさんあってデコボコした土地だったそうです。
偕楽園はそうした地形を利用して作られ、園内には滝まであったそうです。
また園内では、鯉やドジョウなどの料理を楽しむこともでき、人気を博していました。
偕楽園の開園は明治34年か35年とされています。



師団道路の雪景


続いてはこちら。
前回のブログでも紹介しましたが、師団通(今の買物公園)の1条を行く馬鉄=馬車鉄道です。
旭川の馬鉄は、明治39年に運行が始まり、大正7年には廃止されています。
当然、この写真の撮影年もこの間です。



神楽岡離宮


続いては旭川離宮建設に関わる建物です。
旭川離宮とは、明治時代にあった旭川に天皇の離宮(別荘?)を建設しようという構想です。
今、上川神社のある神楽岡が候補地になっていました。
この建物は、明治44年、まだ皇太子だった大正天皇が旭川を訪れた際、離宮予定地を視察するための休憩施設として作られました(現存せず)。
なので、撮影は明治44年以降ということになります。
これで撮影年は、明治44年から大正7年までの間と、かなり絞られてきました。



旭川町役場


今の6条通9丁目(OMO7のあるところ)に建っていた役場庁舎です。
竣工は明治44年。
写真からは、建って間もない雰囲気を感じますが、いかがでしょうか。
ちなみに旭川に区制が敷かれ、旭川町から旭川区になったのが、大正3年4月です。
写真のキャプションを信じれば、撮影は明治44年から大正3年とさらに絞られます。



旭川招魂場


今の護国神社の前身、旭川招魂場です。
旭川に司令部のあった陸軍第七師団の施設として建てられました。
落成は明治の最後の月、明治45年6月です。



旭川停車場


続いては、旭川駅。
当時は停車場と呼ばれていました。
駅舎は今に至るまで何度も改築や建て替えが行われていますが、写真は明治37年に改築された初代の駅舎です。
ですが、この場所には大正2年7月に2代目の駅舎が竣工しています。
2代目駅舎がいつ工事を始めたかは不明ですが、写真には片鱗もありません。
なので、写真が撮影されたのは、遅くとも大正元年の秋までと推測しました。

長々と書いてきましたが、招魂場の写真から、撮影は早くても明治45年6月、そして停車場の写真から、遅くとも大正元年秋、というのがワタクシの見たところです。
大正元年は明治45年6月の次の月から始まっていますので、期間で言いますと、明治45年6月、大正元年7月、同じく8月、同じく9月、同じく10月の5か月間ということになります。
ただし掲載された写真があくまで同じ時期に撮影されたと仮定しての話です。

撮影年をどのように判断したかを説明したところで、続いては「写真帳」の中にある特にご紹介したい写真を3枚。



中島遊郭の遠景


まずはこちら。
「中島遊郭の遠景」と題された写真です。
中島遊郭は今の番地でいうと、東1〜2条の2丁目あたりにありました。
当時、牛朱別川は切り替え工事の前で、今よりもかなり南、市街地寄りを流れていました。
写真では、川と建物の間にある程度距離があるように見えますので、当時の牛朱別川の脇(今の東高の前身、上川中学の校庭のすぐ北では?)から川越しに遊郭の妓楼を写したものと思われます。
街の中心部からはやや離れたところに設置された遊郭。
写真はその特徴をよくとらえています。



中島の全景


その中島遊郭の入り口、大門が置かれていた今の常盤通を写した写真です。
当時はこの辺りから遊郭までの一帯を中島と呼んでいました。
先ほど書いたように、かつては牛朱別川が今のロータリーから常盤公園の南を通って流れていて、あたりはいわゆる「川中島」状態だったためです(このため常盤通から中島遊郭まで牛朱別川を渡らずに行くことができました)。
写真は、その牛朱別川にかかっていた常盤橋から旭橋方向を写しています。
画面中央やや左を通っているのは馬鉄=馬車鉄道です(その少し奥の右手に、中島遊郭の大門がありました)。
常磐公園が開園するのは、この写真の少し後ですが、開園当初は中島公園と呼ばれていたこともよく知られています。



旭橋の全景


最後はおなじみ初代旭橋です。
手前に見えるのは、馬鉄のための専用橋です。
旭橋の上には、何頭もの馬に乗った人たちが一列に並んで進んでいます。
おそらく第七師団の関係ではないでしょうか。
当時は、こうした光景が日常のものだったと思われます。


                   **********



最後に旭川歴史市民劇関係の情報です。
7月20日(土)に、待望の稽古場開きがありました。
多くの関係者が集まって、まずは自己紹介。
その後、刷り上がったばっかりの台本を手に、制作班は初めての本読みを行いました。



本読みに当たるキャストたち


稽古場は、関係者の提案と投票で「スタジオ スクラッチ」という名前が付きました。
4条本通りに面してガラス張りなので、通りをゆく人たちが興味深そうに覗いていきます。
公演のPRになるという意味でも良い場所です。



外から見た稽古場


稽古場では、7月27日(土)に1回目のワークショップが、8月10日(土)に同じく1回目の歴史市民劇セミナー(今回の劇の登場人物や出来事について学ぶ講座)が予定されています。
このうちセミナーは一般の市民も参加可能ですので、興味のある方は是非お越しください。




歴史市民劇セミナーのチラシ



旭川歴史市民劇のPRチラシ(表)



旭川歴史市民劇のPRチラシ(裏)








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旭川・雪の絵葉書

2019-07-11 19:00:00 | 郷土史エピソード

今のように便利な除雪車などなかったかつての旭川。
長い冬の間、街や人の様子はどうだったのでしょうか。
今回は、そんな疑問に答えてくれる冬の旭川を捉えた絵葉書をご紹介します。



                   **********



絵葉書①


まずはこちら。
大正末期の撮影と推測される絵葉書です。
カメラは、旭川駅前から今の買物公園=師団通方向(画面右)に向けられています。
師団通の入り口の、向かって左に建っている立派な建物は三浦屋旅館、左にわずかに見えているのが宮腰屋旅館です。
左端、今のイオンモールのあたりに見えているのは、鉄道関係の施設です。
その前に並ぶ黒い影は人力車。
夏の間だけかと思っていましたら、このように雪の積もった時期にも営業していたんですね。
雪道を細い車輪の人力車を引くのはさぞかし大変だったと思います。
その後ろの樹々は、樹氷のようにすっかり白くなっています。
旭川の冬の厳しさを感じさせる1枚です。



絵葉書②


同じ時期の絵葉書です。
「市役所正門前」と書かれていますが、画面、左端の雪のかぶった2つの門柱のさらに右奥に、当時、6条通9丁目(今のOMO7のあるところ)にあった市役所庁舎があると思われます。
ということで、少し分かりづらいのですが、画面手前の道が6条本通、門の向こう側が緑橋通と思われます。
道路脇の雪山が結構な高さになっているのがわかります。



絵葉書③


続いては、常盤通です。
馬鉄=馬車鉄道が写っていることとハガキの形態から、明治40年から大正7年の間に撮影されたものであることがわかります。
通りの奥には、初代の旭橋が見えているはずですが、白く飛んでいて確認できません。
手前に積もり重なった雪はかなりの高さになっているようです。
かろうじて馬鉄の線路は除雪をしてありますが(もちろん人力!)、それ以外は雪が積もり放題といった感じ。
建物の軒先まで雪が迫っているところもあります。
ちなみに最後の屯田兵だったワタクシの母方の祖父が、兵村の廃止に伴い、剣淵から旭川に移り住んだのが明治41年。
当時の番地などを参考にしますと、画面左端の家の裏あたりに家があったと推測されます。
こんな様子の通りを祖父たちも歩いていたと思うと、感慨深いものがあります。
 


絵葉書④


通りが雪でいっぱいの状況は、中心部でもあまり変わりません。
写っているのは、師団通の3条周辺です。
蜂屋時計店の時計塔が見える画面右の特徴的な建物のあたりには、今オクノが建っています。
よく見ると、通りの中央付近の雪が盛り上がっていて、店側に向かって緩やかに傾斜しているのが分かります。
おそらく降った雪を踏み固めているうちに、自然とこういう状態になったのではないでしょうか。
左手前の店は、傾斜のあるところを削って階段のようにしています。
このころはまだ車は普及していない時期。
なので人々は傾斜のない通りの中央部分を選んで歩いているように見えます。



絵葉書⑤


もう1枚。
3条通8丁目あたりから東方向を写しています。
こちらは通りの中央部分が盛り上がりすぎて、もう通れない状態です。
人や馬車はその脇にできた狭いスペースを縫うようにして行き交っています。
それと歩いている人の服装。
何枚重ね着をしているんだと思ってしまいます。



絵葉書⑥


続いては路地の様子です。
玄関のところだけ、穴を掘るように雪を退けてあって、まるで雪版の竪穴式住居のような装いです。
よく平屋の木造住宅が雪の重みに耐えていたなと驚きます。
そういえば、私の子供時代(昭和30〜40年代)も、ここまでではありませんが、屋根の高さ近くまで雪が積もった小路があった記憶があります。
絵葉書屋さんは、写真を撮るために子供達に声をかけて外に出てきてもらったのでしょうか。
先人は、こうした苦労を乗り越えて、郷土を築いてきたのだなと、改めて感じる1枚です。

(追加)

絵葉書ではありませんが、雪の中を走る馬鉄が写った写真がありましたので、追加でご紹介します。



画像①


まずは絵葉書にもあった常盤通です。
今のロータリー(当時は常盤橋という橋があった場所です)あたりから旭橋方向を写しています。
馬鉄とすれ違っているのは馬そりでしょうか。
これだけの荷物をよく運んでいるものだと思います。



画像②


大きな橋は初代の旭橋。
馬鉄が通っているのは木造の専用橋です。
この専用橋、大水の際には度々流されました。
再建されるまでの間は、旭橋上に線路を敷いて、馬鉄を通したそうです。



画像③


そしてこちらは一条師団通。
右端に写っているのは丸井今井です。
馬鉄の線路のところだけ、しっかりと除雪されているのがよくわかります。





                   **********


<お知らせ>



オーディションの様子



稽古場



宣伝美術担当のワダタワーさん(俳優・イラストレーター)が作ってくれたビジュアル=バックは芝居に登場する「カフェー・ヤマニ」。その前にいるのは小熊秀雄ら主な登場人物。



このブログでも度々お伝えしている旭川歴史市民劇ですが、6月30日にキャスト・スタッフのオーディションを行い、新たに20人の仲間が加わりました。
7月20日には、専用の練習場所(「スタジオ・スクラッチ」と名付けました)の「稽古場開き」(4条通8丁目)、27日には第1回のワークショップを行うなど、いよいよ本格始動します。
また8月10日には、ワタクシが講師となって市民劇に登場する実在の人物や出来事について解説する「旭川歴史市民劇セミナー」もスタートします(今のところ、今年〜来年で10回程度開催予定)。
こうした市民劇関連の情報も随時、お伝えしていきたいと思っています。





市民劇PRチラシ

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