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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

劇団「河」公演情報&初代旭橋の絵葉書あれこれ

2018-01-23 20:00:00 | 郷土史エピソード

年末年始、少々バタバタしていまして、なかなかブログの更新ができませんでした。
ということで、遅くなりましたが、皆さま、あけましておめでとうございます。今年もなにとぞよろしくお願いします。
で、新年1回目の今回は、2題話をお届けします。
まずはお知らせ。
ワタクシの取材対象であり、いまはかなり深く関わらせていただいている旭川の劇団「河」が、来月、活動再開第2弾の公演を予定しています。
そして郷土史エピソードは、初代旭橋について。
今回もコレクションしている絵葉書の中から、いくつかご紹介したいと思います。



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「河」の公演チラシ


まずは「河」の公演です。
名付けて「劇団『河』×小熊秀雄」。
旭川ゆかりの詩人、小熊秀雄の長編叙事詩を劇団「河」のメンバーが群読します。
小熊は詩のほかに、童話や漫画の原作などを手がけましたが、物語性の豊かな長編の詩というか、かなり散文に近い作品も残していて、代表作に上げられています。
今回は、その長編叙事詩のうち、「長長秋夜(じゃんじゃんちゅうや)」と「飛ぶ橇(そり)」の2本が披露されます。



小熊がスイカの皮で作ったお面


このうち「長長秋夜」は、日本による植民地支配のもと、名前や言葉、伝統習慣などの自由を奪われたかつての朝鮮民族の苦しみが描かれています。
迫害を受けた朝鮮の老婆(ロッパ)達は、悲しみをこらえながら川で伝統の朝鮮服を洗濯台(パンチヂリ)に置き、洗濯棒(パンチ)で打ちます。
その音「トクタラ、トクタラ」に代表されるように、小熊はリズミカルに言葉を紡いでいて、まるで群読(音読)を想定したような作品です。



かつての「河」の「長長秋夜」の群読


実は、劇団「河」にとってこの「長長秋夜」の群読は、1970年代の主要なレパートリーの一つでした。
演出は、劇団の中心俳優で、塔崎健二さん(平成7年に死去)が担い、旭川や札幌で披露されました。
平成24年に亡くなった旭川出身の詩人、江原光太さんは、このように書いています。


劇団<河>の群読は塔崎健二が主演であり演出家だったから、いつも感心して聴いていた。とくに小熊秀雄の「長長秋夜」のような長篇叙事詩は、老婆、面長、村人たちの声が響かなくては面白くないから、聴衆は飽きて席を立ってしまうだろう。ところが俳優全員による<河>の群読は演劇的効果があった。「長長秋夜」は詩というよりもドラマそのものなのだ。<「劇団<河>の『長長秋夜』群読」・「塔崎健二を悼む 時間の焔-無神の空」掲載・1997年>



詩集「飛ぶ橇」に添えられた小熊自作のカット


もう一本の「飛ぶ橇」は、小熊が少年期を過ごした樺太(サハリン)が舞台です。
この酷寒の地で一人暮らしをする初老のアイヌの男と、和人である若い山林官との友情の物語です。
差別故、心を閉ざしがちなアイヌの男のもとに、久々に訪ねてきた友人の山林官。2人は心を通わせて語らいますが、その夜、大規模な雪崩が、2人が休む小屋を襲います。
壊れた梁に腕を挟まれた山林官を救うために、アイヌの男が取った行動とは。
小熊は常に抑圧された民衆の側に立った作品を作り続けたため「民衆詩人」とも呼ばれました。



「飛ぶ橇」を群読する「河」のメンバー


この「飛ぶ橇」も、かつての「河」のレパートリーでした。
劇団は、昭和43年、旭川市の文化奨励賞を受賞します。
この写真は、その披露パーティーの席で「飛ぶ橇」を群読した時の模様です。


今回の公演のチケット

今回の「河」の公演は、去年7月、劇団が約30年ぶりに芝居を上演し、活動を再開して以来の舞台です。
演出は、劇団の主宰者の星野由美子さん。
去年暮れに90歳になりました。
出演は、呼びかけに応じて去年の公演に参加した男女4人の若手です。
皆、舞台経験は少ないものの、かつて「女蜷川」と呼ばれた星野さんの厳しい指導のもと、稽古を進めています。
この「飛ぶ橇」については、ワタクシも、上演台本の作成(群読用に、全体の3分の2程度に圧縮し、一部脚色を加えました)を担当させていただきました。



小熊秀雄


かつての「河」による詩の群読は、舞台の訓練を受けた俳優が、作品から受ける劇的な衝動を内面に持って詩を語る、という意味で、いわゆる朗読とは違うオリジナリティが高く評価されました。
今回、どこまでの表現ができるかは未知数ですが、ぜひ興味のある方はご観覧いただけると幸いです。


  劇団「河」×小熊秀雄 群読 長編叙事詩 「長長秋夜」&「飛ぶ橇」
  演出 星野由美子
  出演 荒木脩 亀井紳之介 柴田睦美 山本美妃
  場所 まちなかぶんか小屋(旭川市7条通7丁目右10・買物公園)   
  日時 2018年2月20日(火) 開場18:30~ 開演19:00~
          2月27日(水) 開場1330~ 開演14:00~
  料金 1000円(中高生500円、小学生以下無料)
  チケット まちなかぶんか小屋、こども冨貴堂、冨貴堂市内各店、ジュンク堂で取扱い
  問合せ 090-9437-4088(山本)




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続いては郷土史エピソード。



絵葉書①大正期か


大正の撮影と思われる絵葉書です。
写っているのは、明治37年に架けられた初代の旭橋ですね。
雪が欄干の上の方まで積もっています。
その上を馬車で運ばれているのは氷のようです。
初代旭橋は、それ以前の鷹栖橋と名付けられた時代の木橋と違って鉄製の橋ですが、とんでもない重さになっていたんではないでしょうか。
かつての旭川では、今のような重機もなく、除雪といっても人力が主です。
ですから、建物の入り口や馬鉄(馬車鉄道)の軌道など、どうしても除雪が必要な場所以外は、基本的に積もるにまかせていたようです。
とはいっても、よく耐えたものだと感心してしまいます。



絵葉書①アップその1


よく見ると、写真の右端に橋の欄干のようなものが写っています。
もしかしたら橋の下流側に設けられていた馬鉄の専用橋かもしれません。
ただここも雪に埋もれています。
欄干も壊れているように見えます。
実はこの絵葉書、おもて面の体裁から、大正7年~昭和7年の発行であることが分かっています。
旭川の馬鉄が廃止されたのが大正7年ですから、馬鉄専用橋も放置されてこのような姿になっているのかもしれません。



絵葉書①アップその2


大きな氷ですね。
記録によりますと、今の大町から花咲町にかけての石狩川沿いには沼があって、冬には凍りついた沼から天然氷を切り出していたそうです(なので、沼の名前は「氷沼」だったとか)。
この大きさと厚さ、時代から考えますと、運んでいるのは天然氷であるのは間違いありません。
石狩川沿いの「氷沼」から切り出した氷を中心部に運んでいるところ、というのが、ワタクシの見立てですが、いかがでしょう。



絵葉書②昭和前期


同じようなアングルの雪のない時期の絵葉書です。
撮影時期は昭和8年~19年。
歩いているのは、第7師団の軍人さんのようですね。
奥に馬車が3台連なって走っています。
比較すると、さきほどの雪の厚さが推測できます。



絵葉書②アップその1


画面左側には、特徴的な屋根のある大きな建物が写っていますね。
中常盤町にあった映画館「中央座(前『公園館』)」と思われます。
その手前に写っているのは、電線でしょうか。
何本も張られているのが分かります。



絵葉書③明治末~大正初期


先ほど、馬鉄専用橋の話が出ましたので、その姿がよく分かる絵葉書をいくつかご紹介しましょう。
1つはこれ。
白黒写真に彩色した絵葉書です。
小さくですが、右側に専用橋を走る馬鉄の姿が確認できます。



絵葉書④


これも撮影時期は、明治末から大正初期のいずれかです。
奥に写っているのは、本町~旭町の街並みです。
やはり軍人さんが目立ちますね。

以前にも書きましたが、この馬鉄専用橋。
簡易な木製の橋でしたので、大雨によって度々流出し、何度も架け替えられたそうです。
このため馬鉄は通常は専用橋を通りましたが、専用橋がない時期は旭橋の上に軌道を敷いて運行しました。
馬鉄が写った写真で、専用橋を通る写真と旭橋を通る写真の2種類があるのはそれが理由です。




専用橋を走る馬鉄その1


専用橋を走る馬鉄その2


旭橋を走る馬鉄





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