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へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

戦時下の年鑑

2014-07-27 13:42:26 | 郷土史エピソード


今回はこちらから。


(写真①)


昭和17年の「旭川年鑑」です。
旭川商工会議所がこの年の7月に発行しています。


(写真②)


500ページ近い厚さで、沿革や地理といった旭川の紹介に始まり、交通、産業、教育などの現況を解説しています。
さらに官公庁の職員や各種団体、商工業者の名簿なども掲載されています。

特徴は何と言ってもこれ。



(写真③)


多色刷の広告ページがふんだんにあることです。
これは当時4条通り8丁目にあった「北海ホテル(現旭川グランドホテル)の広告ですね。
1泊が2円50銭~6円と書いてあります。



(写真④)


これは「旭川瓦斯(現旭川ガス」のページ。
社長は下村正之助。
旭川市の図書館のもととなった下村文庫の創設者としても有名な方です。



(写真⑤)


変わったところではこちら。
当時、常磐公園の正門脇にあった「保健牛乳」の広告です。
名前は変わりましたが、ここは戦後も同じ場所で営業を続けています(ワタクシも子供のころ、この場所に牛乳の店があったことを記憶しています)。


                        *****


この年鑑が発行された昭和17年はまさに戦時下です。
このため広告には当時の世相が反映されています。



(写真⑥)


こちらは丸井今井の関連会社である「今井醸造」の広告。
「進軍印ソース」と書いてあります。



(写真⑦⑧)


続いては「マルカツ」と「サカエヤ」の隣り合う2つのデパート。
ともに慰問袋をPRしています(ちょっと絵が怖い・・・)。



(写真⑨)


そしてこちらは、ずばり軍需用品店。
同じ師団通では、6条通にあった松村商店も軍需用品店として知られていました。

時代を感じさせるのは、年鑑の記事ページも同じです。
地元の交通事情についての紹介ページにあったこの表。



(写真⑩⑪)


いずれも旭川駅からの時間や旅費をまとめたものですが、行き先は「満州」に「樺太」など〝外地〟です。

そして折り込みの地図にも戦時下であることを示す特徴が。



(写真⑫)


今の市立病院が上島病院(かみがしま)となっているなど、見どころが多い地図なのですが、一番は現在の春光町付近です。
この一帯は、戦前、陸軍第七師団の一大拠点で、広大な敷地に様々な施設が設置されていました。
しかし地図上は全くの空白になっています。
機密扱いが徹底されているわけです。



(写真⑬)


ただこの時期、
あとあと巷を席巻することになる「贅沢は敵だ」といった風潮はまだ広まっていないようです。
もう一度、広告ページに戻ると、こんな内容のものも掲載されています。



(写真⑭)


これは人気の料理店だった「金子寿」のページ。
この店は正式には「寿」という名称ですが、同じ「寿」を名乗った料理屋がもう一軒あったため、経営者の名を付けて「金子寿」と呼ばれました。
料亭や食堂、ビヤホールなどを一つに合わせたお店で、場所は師団通の3条通7丁目。
いまの「おもちゃのたもちゃん」や「ヤマモトメガネ店」、「カラオケシダックス」のある一角にありました。
広告には神楽岡公園にあった支店も掲載されています。



(写真⑮)


こちらは今のサンロクにあった「三和見番」の広告。
見番は芸者の取次ぎなどを行ういわば事務所です。


               ******


最後に、年鑑に載っていた当時の旭川市内の写真を2枚、ご紹介します。



(写真⑯)


わかりますでしょうか。
4条通8丁目から7丁目方向を写した写真です。
手前は先日、閉店した辻薬局。
その向こうに「金子寿」と並んで人気を集めた食堂の「三日月」が写っています(今の中川ビルの場所)。



(写真⑰)


もう一枚はロータリーです。
画面中央は、駅前と師団司令部を結ぶ「旭川市街軌道師団線」の電車です。
その向こうに、この年鑑を発行した商工会議所が見えています。



(写真⑱)


この本が発行された前月にはミッドウェー海戦があり、開戦から破竹の勢いを見せていた日本軍は一転厳しい状況に追い込まれてゆきます。
こうした贅沢な作りの年鑑も、翌年には発行できなくなったと聞いています。





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ザ・ゴールデンエイジ(後編)

2014-07-26 07:00:00 | 郷土史エピソード


旭川の文化史における黄金期の出来事を振り返る「ザ・ゴールデンエイジ」の2回目。
今回は大正14(1926)年(昭和元年)と昭和2(1927)年の2年間の動きです。


               **************


暮れに大正天皇が崩御し、昭和に改元された大正15(1926)年も、旭川への著名文学者の来訪は続きます。

この年訪れたのは、歌人の若山牧水です。
10月2日、妻を同伴して旭川にやってきた牧水は、現在の春光町にあった斎藤瀏宅(参謀長官舎)に6日まで滞在します。
3日には講演会と歓迎歌会が開かれ、歌会には斎藤親子をはじめ、酒井廣治や小林昂、小熊秀雄も参加しています。
またこの短い滞在の際、牧水が当時17歳だった史に歌を詠むように勧め、史が本格的に短歌の道に進むきっかけとなりました。
さらに牧水の訪問は、旭川の歌壇にも大きな影響を与えました。
牧水が去った翌月には、斎藤瀏、酒井廣治、小熊秀雄らが中心となって「旭川歌話会」を結成、その後の旭川歌壇の発展に大きく寄与しました。


(参謀長官舎での斉藤親子と牧水夫妻)



ただこの大正15年は、旭川にとって、その後の暗い時代を予感させるような年でもありました。
牧水の来旭に先立つ5月24日、旭川に本店のあった糸屋銀行が経営破たんし、休業を発表。地元経済への影響はその後長く続きました。
また同じ日の午後には、十勝岳で噴火に伴う泥流が発生、死者行方不明144人の大惨事となりました。
旭川の人々は同じ日に起きた2つの災いに茫然自失、言葉も出せなかったと伝えられています。


(糸屋銀行・2条通7丁目 大正3年)



               **************


ゴールデンエイジの最終年、昭和2(1927)年は「別れの年」といえるでしょうか。

3月、短いながら旭川での濃密な時間を過ごしていた斎藤瀏、史親子が、瀏の転勤に伴い九州に向かうこととなりました。
「旭川歌話会」の第5回歌会は、2人の送別歌会でした。
多くの会員が出席し、別れを惜しんだと記録されています。


(送別歌会の記念写真 最前列左から4人目が史、隣が瀏。最後列右から2人目が小熊)


(史の離旭を伝える記事・昭和2年3月30日旭川新聞)



一方、2人を送り出した小熊秀雄も、翌年6月には上京。
短期間ですが、先行して旭川から東京に拠点を移していた詩人の今野大力、鈴木政輝との共同生活も行います。


(今野大力 1904-1935)


(今野大力の詩碑・常磐公園)



なお文化・芸術の分野ではありませんが、この時期(大正14年秋)には、のちの大投手、ビクトル・スタルヒンが、流浪の果て、ロシアを亡命した父母とともに旭川にたどり着いています。


(スタルヒン球場のスタルヒン像)



                **************


今回、ご紹介した旭川ゆかりの文化人の中には、今野大力や若山牧水など、この時期からほどなく短い生涯を閉じた人もいれば、斎藤史のように平成の時代まで活躍した人もいます。
ただ共通しているのは、若さゆえの強烈な輝きです。
そんな輝きに満ちていた時代があったことを多くの方に知っていただきたいし、いつまでも忘れずにいたいものです。


(大正時代の旭川・4条通)



                **************


最後に、文化史を中心にしたこの5年間の旭川の動きをまとめた年表を掲載します。
あの時代、旭川を舞台に、確かに彼らは生きていた!
当たり前なのですが、そんな思いがこみ上げてきます。


                **************




大正12(1923)年 ・ 4月 庁立旭川師範学校、仮校舎で初の入学式
            ・ 4月 小熊ら「舞台芸術研究会」(のち「旭川文化協会」)設立
            ・ 6月 町井楽器店が開店 
            ・ 6月 北修ら「旭川美術協会」設立
            ・ 7月 「旭川文化協会」、第1回演劇試演を錦座で行う
            ・ 8月 宮沢賢治来旭
            ・ 8月 知里幸恵「アイヌ神謡集」出版 
            ・ 9月 関東大震災発生(旭川からも多くの人員派遣)

                  
大正13(1924)年 ・ 1月 小熊らが第1回「チルチル童話会」開催
            ・ 5月 小熊、北修と上京、2か月で帰旭   
            ・ 6月 上川神社、神楽岡に遷宮、常磐公園には頓宮造営
            ・ 7月 加藤顕清、市村紙店で個展開催
            ・ 8月 乗合自動車「円太郎」運行開始
            ・10月 旭ビル百貨店開業
            ・10月 小熊の「犬に食われた絵」騒動
            ・10月 加藤顕清、帝展に入選
            ・12月 斎藤瀏、七師団参謀長に着任、史も旭川へ

          
大正14(1925)年 ・ 2月 小熊、崎本ツネコと結婚
            ・ 3月 東京放送局が初のラジオ試験放送開始
            ・ 4月 小熊、妻と上京、5カ月後旭川に戻る
            ・ 6月 速田弘、カフェーヤマニ2階でラジオ放送を公開
            ・ 6月 佐藤市太郎の第一神田館が焼失
            ・ 8月 北原白秋が来旭
            ・10月 第2回国勢調査、旭川市の人口7万2341人
            ・  秋 スタルヒン一家が旭川へ

大正15(1926)年 ・ 1月 小熊に長男生まれる
<昭和元年>      ・ 3月 渡辺錠太郎が第七師団長に着任
            ・ 5月 糸谷銀行破たん、経済界に甚大な影響
            ・ 5月 十勝岳が噴火、死者行方不明144人
            ・10月 若山牧水夫妻が来旭
            ・11月 「旭川歌話会」結成。斉藤親子、小熊、酒井廣治ら参加
            ・12月 大正天皇崩御、昭和に改元
            ・この年 松井梅太郎、旭川で初めて木彫り熊を制作
            ・この年 佐々木長左衛門、「佐々木豊栄堂」を近文に開店 
 

昭和 2(1927)年 ・ 1月 小熊、今野大力、鈴木政輝らと同人誌発刊
            ・ 1月 旭川電気軌道東川線の一部運航開始
            ・ 3月  斎藤親子の送別歌会。2人旭川を離れる
            ・ 8月  歌人、九条武子来旭






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ザ・ゴールデンエイジ(前篇)

2014-07-21 17:32:38 | 郷土史エピソード

新旭川市史の第6巻には、索引とともに詳細な年表が掲載されています。
この年表を眺めていて、地域の文化史を飾るビッグネームが次々と登場する一時期があることに気付きました。
旭川の文化史における「ゴールデンエイジ=黄金期」とも呼べるでしょうか。
大正12(1923)年から昭和2(1927)年までの5年間です。
この期間のさまざまな動き・出来事をたどってゆきますと、いまさらながらかつての旭川において、いかに優れた才能が育まれ、集まり、交錯してきたかがよくわかります。
今回は、前編と後編に分けて、そうした輝かしい軌跡の一端をご紹介します。


                 **************


まずは大正12(1923)年。
前年に旭川新聞社に入社し、新天地での生活をスタートさせた詩人、小熊秀雄が早くも大車輪の活躍を見せています。
4月には有志を募り、「旭川舞台芸術研究会」を設立。
7月14~15日には、「旭川文化協会」と名前を変えて第1回の演劇の発表会を銀座通の錦座で開きます。
出し物はイプセンの「人形の家」、シェークスピアの「ベニスの商人」など3作品です。
小熊は3本とも俳優として出演していますし、のちに旭川信用金庫理事長にして旭川歌壇の重鎮となる酒井廣治らもスタッフに名を連ねています。

 
(小熊秀雄 1901-1940)


(酒井廣治 1894-1956)


(発表会の開催を伝える新聞記事・大正12年7月15日旭川新聞)



その半月後、8月初めには、樺太に向かう旅の途中の宮澤賢治が旭川に立ち寄っています。
その時作った「旭川。」と題された詩は、旭川東高校前にある詩碑で忍ぶことができます。


(宮澤賢治の詩碑・旭川東高校前)



さらにその1週間後の8月10日には、知里幸恵の遺作「アイヌ神謡集」が東京で出版されています
(幸恵は前年に上京、神謡集のゲラ校正終了後、体調が悪化して19歳の短い生涯を閉じました)。


(知里幸恵 1903-1922)


(知里幸恵文学碑・旭川市立北門中学校)



またこの年は小熊と親交があった画家、高橋北修も活発に活動を繰り広げています。
▽絵の修行のため上京(時期不明)、
▽関東大震災に遭遇、九死に一生を得て旭川に戻る。体験談を旭川新聞に発表(9月)、
▽洋画研究会「赤輝社」を結成。第1回洋画展開催(10月)、
▽モデルを使ったデッサンの研究を開始(12月)。
小熊に負けないエネルギーの発散です。


(高橋北修 1998-1978)



このほか6月には、のちに音楽大行進の創設に尽力した町井八郎が、3条通8丁目に町井楽器店を開店させています。


                 **************


続く大正13年も旭川の文化活動の動きは盛んです。

まず5月、小熊と北修が連れ立って上京します。
ただすぐに行き詰まってほどなく帰旭。
10月には新装開店したばかりの旭ビルディングで絵画展を開きます
(その際、小熊が出したサケの尻尾付のコラージュ作品が犬にかじられたエピソードは、前々回のブログで紹介しました)。


(旭ビルディング・絵葉書)


(絵画展の開催を伝える新聞記事・大正13年10月14日旭川新聞)



一方、旭川ゆかりの彫刻家、加藤顕清は、7月に2条師団通にあった市村紙店で個展を開催。
さらに10月には帝展入選を果たします。


(加藤顕清「着衣」・7条緑道)



そして忘れてならないのは、12月に入っての斉藤瀏・史親娘の2度目の旭川生活のスタートです。
斉藤瀏は軍人歌人として知られ、このときは第七師団参謀長として2度目の旭川赴任でした。
娘の史もこの時代から本格的に短歌を始め、後年、日本を代表する歌人となります。


(斉藤瀏 1879-1953、史 1909-2002)



                **************


大正14(1925)年もいろいろな動きのある年ですが、まずはメインストリート師団通(今の平和通買物公園)で起きた2つのエピソードをご紹介しましょう。


一つはこの年3月、東京で試験放送が始まったばかりのラジオ放送が、いち早く旭川でも公開されたことです。
場所は、師団通4条にあったカフェー「ヤマニ」。
6月に旭川初の放送視聴の免許を取り、訪れた客に受信した東京の放送を無料で聴かせました。
ちなみにこの「ヤマニ」の経営者、速田弘は、当時旭川一のモダンボーイと呼ばれた人物です。
自ら「共鳴音楽会」というアンサンブルでチェロを弾き、札幌を拠点に活躍した気鋭の建築家、田上義也とも深い親交があったことでも知られています。
ヤマニは、小熊や北修ら文化人たちの溜まり場の一つでもありました。


(カフェーヤマニ・絵葉書)


(ヤマニの名物イベント「夜櫻デー」の広告・コピーは速田による。装置監督、高橋北州(修)の記載も・大正14年5月6日旭川新聞)


ラジオの無料公開を宣伝する記事・大正14年6月7日旭川新聞)



2つ目の出来事はヤマニでのラジオ公開が始まった3日後に起きました。
3条師団通に5階建ての威容を誇っていた「第一神田館」の火災です。
「第一神田館」は、北海道で2番目にできた常設の活動写真館です。
しかしこの日、試写中にフィルムに付いた火が燃え広がり、建物が全焼してしましました。
ちなみにこの「第一神田館」を経営していた佐藤市太郎は、「神田館の大将」と呼ばれ,全道各地に映画館「神田館チェーン」を持つ映画王でした。


(中央の建物が第一神田館・大正中~末期 絵葉書)



さらにこの年8月には、短歌や童謡で知られる北原白秋が、樺太旅行の帰りに旭川を訪れています。
旭川では、親交のあった前述の酒井廣治宅に宿泊しました。
夜の宴席では、入院中だった酒井の代役として、これも前述の斎藤瀏や、歌人で旭川新聞の記者だった小林昂が接待につとめました。


(北原白秋 1885-1942)


<後編に続く>




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