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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

ブログ版「写真と古地図で見る旭川130年展」昭和編

2020-05-17 18:00:00 | 郷土史エピソード



前回から掲載しているブログ版の「写真と古地図で見る旭川130年展」。
旭川の開村130年に合わせ、その歴史を古地図や貴重な写真で振り返っています。
後半の今回は激動の昭和です(ただし50年代まで)。


                   **********



③昭和(戦前)・・・


昭和に入り、旭川は、市街電車の相次ぐ開通や、都市の大改造と言われた牛朱別川の切替工事、街のシンボルである旭橋の架け替え、ガスの供給開始など、大規模なインフラ整備が急速に進みました。
その一方で、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、軍国主義のもと戦時体制が強化され、陸軍第七師団を擁する軍都旭川からは多く若者が戦地へと赴きました。



(パネル3−1・旭川市地図 昭和17年)




昭和17年の中心部の地図です。
牛朱別川の切替工事も昭和7年には完了していて、街並みは現在と変わらない状態になっています。
戦時色に覆われた時代で、小学校は国民学校と改称されています。
旭川市街軌道、旭川電気軌道の2社の電車の路線が示されているのが目を引きます。
旭川市街軌道は、昭和4年開業で、一条線、四条線、師団線の3路線を、旭川電気軌道は、昭和2年開業で、東川線と東旭川線の2路線を運行していました。


(パネル3−2・1条師団通 昭和2年)




中央の通りが師団通です。
左手前の建物は丸井今井百貨店の本館と新館、右手前は同じく丸井今井の金物部です。
師団通には歩道の縁石があり、舗装工事が済んでいることが分かります。
その通りを、自動車、馬車、大八車、自転車とさまざまな乗り物が行き交っています。
師団通の舗装は、大正14年8月に宮下〜2条間で始まり、翌年には2条以北でも整備が進められました。


(パネル3−3・4条からの展望 昭和2年)




旭ビルディング百貨店からの撮影です。
手前は4条師団通の交差点です。
大正14年に始まった師団通の舗装化で、こちらはまだ工事が行われているようです。
交差点に面した右手前の黒っぽい建物は、当時、人気店だったカフェーヤマニです。
画面右上に、牛朱別川沿いにあったポプラ並木が見えています。


(パネル3−4・中心部の空撮 昭和初期)




昭和初期の旭川中心部を写した貴重な航空写真です。
牛朱別川は切替工事直前で、常磐公園の南側を流れています。
その牛朱別川に、今のロータリーの場所で架かっているのが常盤橋です(画面右上)。
川の近くには、日章小学校や庁立旭川高等女学校(今のときわ市民ホールの位置)などがあります。
その下、5条通りには、真久寺、大休寺、慶誠寺の3つの寺が建ち並び、寺社通りと呼ばれた様子が伺えます(慶誠寺はその後豊岡に移転)。
画面右端の縦の道路は師団通です。
通り沿いに4階建てのビルが見えていますが、前回掲載のパネル2−12で紹介した旭ビルディング百貨店です。


(パネル3−5・4条師団通 昭和5年)




舗装やすずらん街灯の整備が終わり、近代化された4条師団通周辺です。
度々触れている右のカフェーヤマニも改装されてパネル3−2の写真から大きく変わっています。
ヤマニは明治44年に4条通8丁目に開店した食堂が前身で、大正末にカフェーに転身、2代目店主の速田弘の才覚で人気を集めました。
斬新な外見のこの改装は、北海道を代表する建築家として知られる田上義也の手によるものです。
弘も田上も本業の他に音楽家としても活動した人物で、交流がありました。


(パネル3−6・4条師団通 昭和5年)




「大正時代」のパネル2−8と同じアングルの写真です。
10年経っていますが、建物の配置はほぼ変わっておらず、旭川市街の発展もいわば安定期に入ってきたことを示しています。
ただ画面中央のカフェーヤマニや、その並びの北海ホテルなど、いくつかの建物は街の近代化に合わせ、外装をリニューアルしています。


(パネル3−7・牛朱別川切替工事 昭和6年)




これまで度々触れてきた牛朱別川の切替工事の現場写真です。
このように基本、人力で作業が行われたことが分かります(トロッコの運搬には馬を使ったようですが)。
この写真は、現在のJR宗谷線鉄橋付近から旭橋までの新流路の掘削の様子です。
切替工事の起工は昭和5年5月で、旧流路の埋め立てが終わったのが昭和7年10月、埋立地での道路や下水道の整備など、一切の付帯工事が終わったのは昭和15年で、都市の大改造と称されました。
この切替工事により、市内中心部の出水被害は大幅に少なくなりました。
ただこの写真に写っているかはわかりませんが、工事にはいわゆる「タコ」と呼ばれる劣悪な条件下で働かされた土木作業員も多数動員されていたそうです。
今の安全・安心な暮らしの陰には、そうした社会の底辺で苦しんだ人たちの存在があったことも忘れるわけにはいきません。


(パネル3−8・満州事変出征 昭和6年)




昭和6年9月、満州事変の発生を受け、旭川の陸軍第七師団にも部隊編成の命令が下りました。
師団通に詰めかけた市民の見送りを受け、部隊が現地に向かったのは26日のことです。
戦前、軍都旭川では、こうした光景が幾度となく繰り返されました。
写真は3〜4条の師団通で、中央やや左上にカフェーヤマニの看板が見えています。


(パネル3−9・中心部の空撮 昭和7年)




斜めに走る2つの大きな通りは、緑橋通(右)と師団通(師団通=左・現平和通)です。
左下に駅前のシンボルだった宮越屋と三浦屋の2つの旅館が、1条師団通の両脇に丸井今井の2つの店舗が見えます。
また中央やや上に4階建ての旧旭ビルディング百貨店のビルも確認できます。


(パネル3−10・慰霊音楽大行進 昭和19年)




旭川の初夏を彩る音楽大行進が始まったのは昭和4年です。
当時の北海タイムス旭川支社長だった竹内武夫と、楽器店店主、町井八郎が、戦没者を慰霊する護国神社の招魂祭に新たな趣向を加えようと発案したのがきっかけでした。
写真は、隊列が8条師団通を右に曲がり、ロータリー方向に進むところをとらえています。


②戦後〜昭和30年代・・・


敗戦のショックからの立ち直りが急務だった戦後の旭川。
ですが、戦前に築いていた経済の基盤が下支えして急速な発展を見せます。
昭和25(1950)年には、戦後初の北海道の一大イベント「北海道開発大博覧会」を、道との共催で常盤公園会場を中心に実施。
全道各地から50万人を超える来場者が集まりました。
終戦時に9万人弱だった人口も、昭和30年には20万人、36年には20万人を突破するなど、順調に成長を続けました。



(パネル4−1・旭川市街案内図 昭和28年)




(拡大その1)


(拡大その2)


昭和28年発行の広告入りの中心部の案内図です。
日章小学校の隣に旭川西高校、旭川東高校の隣に刑務所と裁判所があるなど、施設や建物の位置が今とは大きく違っています。
郵便局やNHK、上川支庁(現在の総合振興局)、男山酒造なども今とは違った場所にあります。
また中央小学校や日新小学校、大成小学校、常盤中学校など、統廃合された学校も、この頃は健在です。


(パネル4−2・平和マーケット 昭和23〜24年)




極端に食料や物資が不足した戦後、旭川でも他の都市と同様、複数の場所に闇市が出現しました。
このうち今の緑橋通は、終戦前の昭和19年、防災のために8丁目の8号から10号までの建物が強制疎開されていたため、その跡地に自然発生的にマーケットと称する闇市ができました。
これらの店は、当初は道路使用許可を得た露店でしたが、次第にバラック建てに移行。
これに対し市は強制退去の方針を打ち出し、反発する業者と対立して裁判に持ち込まれました。
その後、業者は共同で集合店舗となるビルを建設しましたが、この時建てられたのが現在も続く緑橋ビル1〜2号館です。


(パネル4−3・道博の正門 昭和25年)




昭和25年夏、旭川は戦後初の北海道の一大イベント、道博=北海道開発大博覧会に沸きました。
会場はメインの常磐公園など3会場。
道内外の物産など多彩な展示に加え、東京上野の移動動物園や岐阜長良川の鵜飼、京都島原の太夫道中など道外から呼んだイベントも人気を呼び、40日間の会期中の来場者数は50万人に上りました。
また体育館や天文台など、博覧会に合わせて多くの施設が整備され、のちの文化・スポーツの発展に寄与しました。
写真は会期中に選ばれたミス道博と常磐公園会場の正門です。


(パネル4−4・駅前平和通 昭和20年代)




戦後、旭川の駅前通りは師団通から平和通と改称され、新たなスタートを切ります。
画像は駅前広場から見た平和通の入り口です。
宮下8丁目にあった宮越屋旅館の場所は雑居ビルになり、派手な看板が掲げられています。
その手前、やや見づらいのですが、下が白、上が黒の大きな花瓶のような形のものが見えます(青白の車の向こう側)。
旭川市街軌道(昭和31年廃止)の電車のプラットフォームです。
平和通り入り口のアーチの下には、ボンネット型のバスが走っています。


(パネル4−5・ロータリー付近 昭和20年代後半)




見えているのは、左から体育館、商工会議所、道博=北海道開発第博覧会のシンボルタワーだった大平和塔です。
ロータリーを通っているのは旭川市街軌道の電車です。
商工会議所には、中にあった映画館とダンスホールの看板が掲げられています。
大平和塔は、道博の終了後も広告塔として活用されたもので、昭和31年からは塔上に設置されたスピーカーから、青少年に帰宅を促す「母の鐘」のメロディーが流されました。


(パネル4−6・1条平和通 昭和32年)




市民で賑わう1条平和通の様子です。
左の大きな建物は丸井今井デパートです。
「初大売出し」の看板や門松が見えますので、正月の撮影です。
雪が積もっていて、車道と歩道の境が見えなくなっています。
すずらん街灯の下には傷痍軍人と思われる人が立っていて、募金を集めています。
昭和40年代までは、こうした光景がよく見られました。


(パネル4−7・建設中の市役所と旧庁舎 昭和33年)




新旧の市役所庁舎が一枚におさまった貴重な写真です。
画面中央の旭川市役所旧庁舎は明治44年に竣工し(竣工当時は町役場)、以来47年間に渡って利用されました。
新庁舎はこの年10月に完成し、2年後、優れた建築物に対して贈られる日本建築学会賞を受賞しました。
旧庁舎の左奥には、今の市民文化会館の位置にあった中央小学校の校舎の一部が見えています。


(パネル4−8・市役所屋上から 昭和30年代)




昭和33年竣工の市役所庁舎屋上で撮影された写真です。
画面上に見える三角屋根の建物はパネル4−5でも紹介した体育館です。
その右に商工会議所、さらにその右に道博=北海道開発大博覧会のシンボルタワーとして建てられた大平和塔と旭橋が重なって見えています。
このうち体育館ですが、もともとは道博の際に、美幌町にあった旧海軍飛行場の格納庫の鉄骨を利用して建設された展示施設でした。
格納庫、展示館、そして体育館と、3度違った目的で使われた建物です。


(パネル4−9・市街地上空から 昭和34年)




4条通8〜9丁目付近上空から北東方向を撮影しています。
画面中央の大きな通りは緑橋通です。
4条通8丁目の高い建物はニュー北海ホテル、4条通9丁目の大きな建物は旭川郵便局、5条通8丁目のビルは旭川電話局です。
市役所の旧庁舎が、まだ取り壊させずに残っています。


(パネル4−10・常磐公園とその周辺 昭和35年)




昭和30年代の常磐公園とその周辺を撮影した貴重な航空写真です。
ロータリーにあった大平和塔は、市立病院裏に移設されて、その姿はありません(移設直後で痕跡が残っているように見えます)。
常磐公園に目を向けますと、体育館の脇に、33年に竣工した公会堂と図書館が見えます。
興味深いのは、千鳥ヶ池と自由広場です。
ともにスケートリンクが作られています。
常磐公園でのスケートについては、凍りついた千鳥が池で滑ったという思い出がある人と、自由広場に水を撒いて作ったリンクで遊んだという人がいるのですが、2か所同時ににリンクが作られたこともあったようです。


(パネル4−11・旭川民衆駅の完成 昭和35年)




旭川駅は平成22年に竣工した現在の駅舎が4代目です。
写真は昭和35年竣工の3代目駅舎の完成直後の姿です。
駅前広場ではまだ整備が続いているようです。
この駅、地元の企業体と共同で出資して建設されたいわゆる「民衆駅」で、地下に商業施設である「ステーションデパート」がありました。
「ステーションデパート」の奥には地下通路に通じる改札があり、ここからもホームへの行き来ができました。


(パネル4−12・旭橋付近 昭和36年)




旭川のシンボル、旭橋は、明治37年に誕生した初代の後を受け、昭和7年に現在の2代目旭橋が完成しました。
鉄製の橋としては、当時、東京以北では最大規模の橋でした。
その美しいアーチは今も市民の誇りとなっています。
写真は、旭川上流の河原で魚取りに興じる子供たちを捉えた一枚です。
当時、この辺りでは、ウグイやカジカ、ドジョウなどがとれ、メダカすくいも楽しめました。


(パネル4−13・ロータリー上空から 昭和39年)




ロータリー上空から駅方向にカメラを向けています。
中央や右の大きな通りが昭和通、その左が平和通です。
6条昭和通の大きな建物は、完成したばかりのNHK旭川放送局新会館です。
平和通の5条から先にはアーケードが設けられているのが見えます。
戦後開発が進んだとはいえ、まだ圧倒的に平屋〜2階建ての木造建築が多いことが分かります。


③昭和40年代以降・・・


昭和40年代の旭川を象徴する出来事といえば、やはり昭和47年の全国初の恒久歩行者天国「平和通買物公園」のオープンがあげられます。
このほか旭川空港の開業(41年)、国鉄函館線の複線・電化・一部高架化の完成(44年)など公共交通網の整備が一段と進んだのもこの時期でした。
その一方で、高度成長の終焉に伴う産業構造の変革の波にも洗われた時代でもありました。



(パネル5−1・冬まつり 昭和41年)




旭川冬まつりは、昭和35年に始まりました。
今は旭橋下の石狩川河畔を中心に行われていますが、以前は常磐公園がメイン会場でした。
この写真は、昭和41年の冬まつり会場で冬の国体の開会式が行われた時のものです。
後に巨大なヤカンがありますが、これは五十嵐広三市長らが参加していた美術家グループ「北海道アンデパンダン」が制作した雪像です。
「北海道アンデパンダン」では、このようなユニークな雪像を毎年制作していました。


(パネル5−2・旭山動物園の開園 昭和42年)




日本最北の動物園、旭山動物園が開園したのは昭和42年7月のことです。
開園1か月の来場者は、予想を大きく上回る15万人に上りました。
その後も施設の整備などで順調な運営を続けましたが、昭和の末頃からレジャーの多様化などで〝冬の時代〟に突入、平成6年には園内でのエキノコックス症の発生により、来場者は大幅に落ち込みました。
しかし平成9年から始まった独自の取り組み「行動展示」の実戦により人気が爆発、北海道を代表する観光スポットとなったのは周知のところです。


(パネル5−3・国劇ビルの内部 昭和42年)




映画が娯楽の太い柱だった時代、旭川にも街のあちこちに映画館がありました。
中心部だけでも、国劇=国民劇場、旭川東宝、スカラ座、旭映=旭川映画劇場、旭劇=旭川劇場、旭川日活などが、競うように客を集めていました。
写真は、昭和42年に撮影された国劇ビル(本間興業経営)の内部です。
ここは今のシネコンの走りのような場所で、5つの映画館や遊戯施設、レストラン、「国劇デパート」と称した小売施設などがありました。
このうち旭川国民劇場は、1700人を収容することができ、当時、東北・北海道では初めての回り舞台を完備した本格劇場でもありました。


(パネル5−4・アサヒビルデパート 昭和42年頃)




宮下通8丁目にあったアサヒビルデパートの売り場です。
所狭しと並べられた商品のガラスケースが時代を感じさせます。
ガラスケースの上にも様々な方法で商品が陳列されています。
このように、昭和40年代までの小売店は、大型、中小を問わず、過剰ともいえるほど大量の商品を陳列して売るのが一般的でした。
「物がある=豊か・幸福」という高度成長時代ならではの意識が前面に出ていたと言えるかもしれません。


(パネル5−5・お祭りの露店 昭和46年)




今も昔もお祭りの期間中に出る露店を楽しみにしている人は多いはずです。
今は常磐公園が中心の露店ですが、かつては昭和通や緑橋通などにも出ていました。


(パネル5−6・七条交番 昭和46年)




7条8丁目にあった七条交番は、愛らしい姿で市民に親しまれた存在でした。
旭川は1条、4条、7条の通りが、他の通りよりも広いのが特徴です。
7条も幅が広いため、交番裏のスペースは一時期、駐車場として活用されていました。
その交番も昭和47年の買物公園のオープンに合わせ、姿を消しました。
画面上に見えているのは、中央小学校のグラウンドです。


(パネル5−7・買物公園オープン 昭和47年)




旭川のメインストリート平和通は、昭和47年6月、大きく変貌しました。
全国初の恒久歩行者天国、買物公園の誕生です。
1日のオープン初日、当時の五十嵐浩三市長は「平和通は道路から公園にただ今生まれ変わりました」と宣言。
8条から宮下まで、ブロック毎に趣向を凝らしたセレモニーが行われました。
また1年後には、市役所前と常磐公園を結ぶ七条緑道もオープンし、街の新たな出発となりました。


(パネル5−8・手の噴水 昭和47年)




買物公園のオープン当初は5条通に設置されていた「手の噴水」。
平成10年から始まったリニューアルに伴い、現在は8条通に移されています。
買物公園や七条緑道には、彫刻の街と呼ばれる旭川らしく、様々な野外彫刻が置かれていますが、この作品も通りのシンボルとして親しまれています。
指の形など、デザインには、画家でもあった五十嵐広三市長が深く関わりました。


(パネル5−9・氷割り 昭和48年)




今のようにロードヒーティングなどなかった時代。
春が近くなると、硬く氷状になった道路の雪を割る光景が、平和通のあちこちで見られました。
割った雪(氷)をトラックに積むのは重機の役割ですが、雪割そのものはやはり人力による作業。
1シーズンに一体何度ツルハシを振るったものなのでしょう。
写真は5条通での作業の様子です。


(パネル5−10・とうきびワゴン 昭和50年代か)




ワゴン売りのとうきびと言えば、札幌の大通公園の名物ですが、旭川の平和通でもかつてはこのように販売されていました。
このほか、リニューアル前の買物公園には、子供が自由に落書きできる大きな本の形をしたオブジェや滑り台などさまざまな遊具や施設が各ブロックに置かれていました。
文字通り公園らしい空間が演出されていたのが、この時代の買物公園の特徴です。


(パネル5−11・七条緑道 昭和50年代)




長さ500メートル弱の七条緑道は、昭和48年、買物公園オープンの1年後に造成されました。
当初、市はここも歩行者専用の道路としたい意向でしたが、商店街との調整で結局、中央に歩道、両脇に車道を配した形となりました。
この通りのスタイル、鎌倉にある鶴岡八幡宮の参道をモデルにしたと伝えられていて、近年のリニューアルの際も変えられていません。


(パネル5−12・駅前買物公園 昭和52年)



昭和52年の駅前買物公園の姿です。
今はない金市館、長崎屋、丸井今井デパート、西武デパートなどの大型小売店が建ち並んでいて、時代の移り変わりを感じさせます。
のちに撤去されるアーケードも、この時期は健在です。


さてブログ版の「写真と古地図で見る旭川130年展」。
2回にわたって掲載しましたが、お楽しみいただけたでしょうか。
このブログでは、他にも旭川130年の歴史について知っていただく取り組みを進めていきたいと考えています。
引き続きよろしくお願いいたします。


<写真及び地図の所蔵先・出典> 

(所蔵先)
*旭川市中央図書館・・・3−1、3−6、4−1〜2、4−6〜12 、5−1〜7、5−9〜12
*旭川市博物館・・・3−3、3−10
*那須敦志(写真・絵葉書)・・・3−2、3−5、3−9、4−3〜5、5−8

(出典)
*3−7・・・・・・牛朱別川切替工事概要
*3−8・・・・・・旭川年鑑(昭和7年)







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ブログ版「写真と古地図で見る旭川130年展」明治・大正編

2020-05-14 18:00:00 | 郷土史エピソード



まずはお知らせです。
ワタクシが関わっている「旭川歴史市民劇」、8月末に本公演を予定していましたが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で延期することになりました。
来年2021年の1〜3月に行いたいと考えていますが、まだ具体的な日程は未定です。
日時場所等決まりましたら、またお知られしたいと思います。
公演を楽しみにしていただいた方には、ご迷惑をかけますがご容赦ください。
そして引き続きご支援いただけると幸いです。

さて、明治時代、上川開発の促進を目的に、旭川、永山、神居の3つの村が設置されてから、今年で130年になります。
「旭川歴史市民劇実行委員会」では、旭川の歴史を振り返る関連行事を行っていて、その一つとして予定しているのが、明治〜昭和の歴史を振り返るパネル展「写真と古地図で見る旭川130年展」です。
公園まで時間が空くことになったこともあり、今回は一足早く、その内容をこのブログでご紹介したいと思います。
先人たちが旭川の地に残してきた足跡に思いを馳せながら見ていただければ幸いです。
パネル展は、明治・大正編と昭和編の2回に分かれています。
まず前半の今回は明治・大正の二つの時代を振り返ります。


                   **********


①明治時代・・・


ペニウンクル(川上にいる人々)と呼ばれた上川アイヌの拠点だった上川盆地。
明治の世となり、そこに和人の進出が始まります。
旭川など3つの村が設置されたのは明治23(1890)年。
遅れていた北海道内陸部の開拓を進めることが目的でした。
翌年には永山、次いで東旭川に屯田兵が入植、彼等は上川開拓の礎を築きます。
札幌と結ぶ住民待望の鉄道が開通したのは開村から8年後の明治31年です。
さらに32年には、当時札幌にあった陸軍第七師団の本拠地を旭川に移すことが決まります。
北方に控えるロシアの脅威に備えるためでした。
師団の建設には今の価値に直すと1000億円もの巨額の資金が投入され、8000人もの作業員が動員されました。
当然、食料などあらゆるものの需要が高まります。
それを見込んだ商人たちも札幌や小樽などから次々と集まり、旭川は空前の賑わいを見せました。



(パネル1−1・明治23年旭川地図)




最初は開村時の旭川の地図です。
碁盤目の区画は、当初計画された市街予定地です。
しかし実際の建物となると、まだ数えるほどしかありません。
石狩川をはじめとする河川は原始の状態のままうねるように蛇行していて、あちこちにいわゆる川の中洲があります。
そのうちの一つ、旭川に最初に定住した和人、鈴木亀吉の名前がある左側の中洲には「亀吉島」の名がつけられています。
今の番地「亀吉」の由来です。
鈴木亀吉は、本名亀蔵。
秋田県出身で、明治10年、26歳の時に現在の石狩川と忠別川の合流地点付近に店を兼ねた小屋を建て、アイヌの人たちとの交易を始めました。


(パネル1−2・曙地区 明治23〜24年)




曙地区は、文字通り旭川開拓の最初の拠点となった場所です。
まだ鉄道はなく、人々は現在の神居に当たる忠別太(ちゅうべつぶと)から、はじめは徒歩や渡し船、のちに土橋を使って忠別川を隔てた曙に渡り、集落を作りました。
屯田兵村の建設のための資材を作る木挽所なども、ここ曙に設けられました。


(パネル1−3・1条通5丁目付近 明治20年代)




今の1条通5丁目にあたる付近から曙方向を写した写真です。
左手前に立っている人の向こうに2階建の建物が見えています。
明治24年に建てられた「12号駅逓」、旅行者の宿泊や休憩などのための施設です。
田舎の風景のようにも見えますが、旭川駅の開業に伴って師団道路(師団通)がメインストリートとなる以前は、このあたりが街の中心部でした。


(パネル1−4・鷹栖橋渡橋式 明治28年)




今の旭橋の場所を含む近文原野の開拓が始まったのは明治20年代です。
当初、川を挟んだ移動には渡し船が使われていました。
ただ往来が増えるにつれ、不便さを訴える声が高まり、明治25年、石狩川に設けられていた渡船場の近くに簡易な木の橋が架けられました。
さらに3年後に本格的な橋が完成、鷹栖橋と命名されました。
これが旭橋の前身となりました。


(パネル1−5・1条通2丁目付近 明治30年代初期)




旭川市街地では、明治25年に一般住民への土地の払い下げが本格的に始まります。
これに伴い、曙に近い1〜2条通周辺には、次第に住宅や雑貨店などの商店が建ち始めます。
写真は、1条通2丁目付近から南東方向を撮影しています。
中央やや右に三角屋根のやや高い建物が見えていますが、パネル1−2で紹介した「12号駅逓」です。


(パネル1−6・開業時の旭川駅 明治31年)




当時の住民にとって、鉄道の開設は開村以来の悲願でした。
札幌も巻き込んでの粘り強い請願運動が実ったのは明治29年。
2年後には空知太(今の滝川と砂川の間)〜旭川間が開通し、札幌・小樽方面との鉄路が結ばれました。
写真は記念すべき開業日の旭川駅舎です。
当時の駅前は半ば湿地のような状態で、小さな沼や小川まであったと伝えられています。


(パネル1−7・1条通9丁目付近 明治33年頃)




旭川駅の開業以来、栄え始めた師団道路(師団通)付近の明治30年代前半の写真です。
カメラは、1条通9丁目付近から7〜8丁目方向に向けられています。
右にある多くの看板を掲げた建物は薬局です。
中央やや右にある建設中の大きな建物は丸井今井呉服金物店の倉庫です。
遠くに見える山並みは嵐山付近です。
電柱が見えますが、これは電信(電報)用の電柱です。


(パネル1−8・2条師団道路付近 明治33年頃)




右上に向かって斜めに走っているのが師団道路(師団通)、交差しているのが2条本通りです。
この時期になると、師団道路はかなり賑やかになっています。
右端の交差点に面している店は篠原菓子店、師団道路を挟んだ向かいの店は陶器などを扱っていた河合商店(左端)です。
篠原菓子店の後方に、旭川初の公立小学校、忠別小学校の白っぽい校舎が見えています。


(パネル1−9・丸井今井呉服金物店 明治35年頃)




同じく師団道路(通)が栄え始めた頃の1枚です。
1条師団通から2〜3条方向を撮影しています。
右手前、現在のフィール旭川の位置にあるのは丸井今井呉服金物店です。
明治30年に札幌の丸井今井の旭川支店である呉服店が開業、34年には金物部が併設されました。
大きな看板や提灯などが配された店舗は、ひときわ賑やかです。
この後丸井今井は、通りを挟んだ1条7丁目側に洋品雑貨(のちに百貨店化)、8丁目側に金物部の二つの店舗を持つ形態となります。


(パネル1−10・東旭川兵村の水田 明治35年頃)




明治24年、永山兵村に、翌年、東旭川兵村に、それぞれ屯田兵が入植しました。
2つの兵村では、まもなく米の栽培に取り組み、後に上川百万石と呼ばれた稲作地帯の礎を築きました。
写真に見えている人の背丈以上の木の切り株は、運搬の効率性を考え、雪が高く積もった冬に伐採が行われたための産物です。
つまり伐採された時、切り株の部分は雪の下にあり、春になり雪が解けたためその部分があらわになったという訳です。


(パネル1−11・第七師団の建設 明治30年代)


建設工事(明治32〜33年)


完成直後の第七師団(明治35年)


北鎮部隊と呼ばれた陸軍第七師団の建設工事が近文地区で始まったのは、明治32年夏のことです。
完工したのは明治35年秋、総工費は現在の価格で1000億円にものぼりました。
当時地方に置かれた師団は、それぞれの府県内に分散して配置されましたが、第七師団は部隊の大部分が旭川に配置されました。
ロシアの脅威に備えるため、北海道中央部に位置し、宗谷〜留萌方面、オホーツク海側、千島方面のいずれにも部隊を展開できる旭川に戦力の集約を図ったのです。


(パネル1−12・日露戦争の出征と凱旋)


日露戦争出征(明治37年) 


日露戦争凱旋(明治39年)


日露戦争に動員された第七師団の出征と凱旋を記録した写真です。
師団道路(師団通)を行く出征部隊の先頭の馬上の人は、薩摩藩出身の大迫尚敏師団長です。
凱旋を祝うアーチが設けられたのは2条師団道路(師団通)です。
パネル1−8で紹介した篠原菓子店がアーチの左側に見えています。
当初、第七師団は北方の守りを固めるため、北海道に据え置かれましたが、旅順港攻略で第一師団など派遣部隊に死傷者が続出したため、8月になって動員命令が下りました。
乃木将軍率いる第三軍に編入された第七師団は、激しい攻防戦の上、203高地の占拠に成功、日露戦争勝利への突破口を開きました。


(パネル1−13・初代旭橋 明治38年頃)




明治30年代に入ると、師団の開設や中心部の発展で、市街地と近文地区を結んでいた鷹栖橋の架け替えの機運が高まりました。
中央部が鋼鉄製、前後が木製の近代橋が完成したのは明治37年5月のことです。
日露戦争で第七師団を率いることになる大迫尚敏師団長が旭橋と名付け、橋の正面には、彼の揮毫による額が掲げられました。
なお橋の手前に見えているのは、当時市街地と師団司令部を結んでいた馬鉄=馬車鉄道の専用橋です。


(パネル1−14・旭川駅車両工場付近 明治42年頃)




明治31年に開業した旭川駅は、その後も天塩線(明治36年)、十勝線(明治34年)、釧路線(明治40年)と各路線の整備・開設に伴い、その重要性もいっそう高まりました。
写真は様々な機能が拡張された車両工場付近(今の北彩都地区付近)の様子です。


(パネル1−15・2〜3条師団道路 明治44年)




2条通から3〜4条方向を撮影した写真です。
右端と中央やや左寄りに人型の大きな看板が写っています。
ともに薬局で、右端は山形勉強堂、奥は秋山薬局です。
看板はともに胃薬の「ヘルプ」(山形勉強堂)、胃活(秋山薬局)の広告です。
通りに目を向けますと、馬鉄=馬車鉄道と馬車が並ぶようにして走っています。
もちろんまだ舗装はされていません。
馬鉄は、上りと下りがすれ違うことができるよう、一部複線化された軌道のあたりに差しかかっています。


(パネル1−16・常盤通 明治45年頃)




現在の常盤ロータリーは、かつて切替工事前の牛朱別川が流れていた場所で、常盤橋という橋が架かっていました。
写真は、その常盤橋付近から常盤通を見ています。
中央奥に見えているのは初代旭橋です。
旭橋方向から走ってきたのは馬鉄=馬車鉄道です。
その馬鉄がカーブしているのは、常盤橋の下流に並行して架かっていた馬鉄用の専用橋に向かっているためです
旭橋も常盤橋も、ともに橋に向かって道路がかなりの傾斜で上っているのが分かります。
洪水時に橋が流されないよう、できるだけ高い位置に橋が架かるよう設計されていたことが伺えます。


②大正時代・・・


明治末から発展の速度をあげた旭川は、大正3(1914)年、北海道独自の制度である区制を施行します(北海道の都市で4番目でした)。
さらに大正11年には市政に移行し、旭川市となりました。
この後、日本社会は、大正12(1923)年の関東大震災や金融不況、世界恐慌と暗い影に覆われていきますが、樺太まで伸びた商圏を背景に、旭川は北海道の中核都市としての地位を固めてゆきます。
さらに街づくりの中心も開拓1世から2世へと次第に受け継がれ、特に芸術文化分野では活発な活動が展開されました。



(パネル2−1・旭川市全図 大正15年)




大正末年の旭川の地図です。
まだ川は原始河川の面影を残したままです。
このうち牛朱別川は昭和に入ってからの切替工事の前ですので、今よりも市の中心部よりを流れています。
一方、開校間もない師範学校や商業学校、移転したての上川神社等の表示があるのが確認できます。
画面左にある近文駅から線路が分岐して、今の春光町方面にある第七師団の練兵場まで伸びています。
これは師団建設のために設置され、その後も長く利用された支線「大町岐線」の線路です。


(パネル2−2・区制施行の祝賀 大正3年)




大正3年、旭川では地元悲願の区制の実現が実りました。
区は市に準じる北海道に限った行政単位で、札幌、函館、小樽に次ぐ4番目の区の誕生でした。
写真は、6条通9丁目にあった明治44年竣工の役場庁舎をイルミネーションやアーチ、万国旗で飾った祝賀の模様です。
この時の人口は約5万6000人。
9月13日に行われた祝賀行事では、花火大会や仮装行列、夜には提灯行列など旭川始まって以来の華やかな祝いの催しが繰り広げられました。


(パネル2−3・中島遊郭の大門 大正初期)




旭川の遊郭は、明治31年、まず初期の市街地だった曙で営業が始まり、曙遊郭と称されました。
続いて第7師団の開設に伴い、より師団に近い現在の東1〜2条2丁目付近にも遊郭の設置が計画されました。
ここは旧制上川中学の近接地でもあったため反対運動が起こり、国会でも論議される事態となりましたが、計画は実施され、明治40年に中島遊郭が開設されました。


(パネル2−4・5条師団道路 大正4年)




大正初期の冬の5条師団道路(師団通)です。
走っているのは、馬鉄=馬車鉄道。
明治39年から大正7年まで旭川駅前と近文の師団司令部を結びました。
馬鉄の軌道部分、そして店の前は除雪してありますが、その間にかなりの量の雪が積み重なっているように見えます。
今のように便利な機械がなかった時代、排雪などはほとんどできなかったはず。
車の往来もありませんので、よけた雪を積んでいたのだと思います。
この時期の他の写真を見ますと、軌道と店先の間の雪が人の背丈ほどになっているものもあります。


(パネル2−5・出水時の1条師団道路 大正4年)




大雨による川の氾濫で一帯が水浸しになっています。
師団道路1〜2条の仲通付近から駅方向を写した写真で、奥に駅舎が見えています。
画面、中央付近に見えているのは丸井今井呉服金物店の看板です。
丸井は通りの両側に店舗を持っていましたので、間を針金か何かで渡し、そこから吊り下げているようです。   
河川改修が進むまで、旭川ではこうした出水被害が頻繁に起きていました。


(パネル2−6・開園間もない常磐公園 大正中期)




旭川初の都市公園、常磐公園は、大正元年に整備が始まり、大正5年に開園しました。
以来、市民の憩いの場所として愛され続けています。
開園当初は牛朱別川が切替工事前で、いわゆる川の中島にあったため、中島公園と呼ばれていました。
大正7年には、料理屋や茶店の設置許可が下り、貸しボートの営業も始まりました。


(パネル2−7・旭川駅周辺航空写真 大正8年)




大正中期の貴重な航空写真です。
中央に見えているのは大正2年竣工の2代目旭川駅舎です。
大雨の後でしょうか、その裏を流れる忠別川はかなり増水しているように見えます。
画面右下を斜めに走る1条本通沿い(8丁目)に建設途中の大きな建物は北海道銀行旭川支店です。


(パネル2−8・第一神田館と師団道路 大正9年)




第一神田館は、明治40年に4条通8丁目に開業した北海道で2番目の常設活動写真館です。
経営者は、札幌で始めた理容業で成功し、のちに旭川に本拠地を移すとともに興行の世界に進出した佐藤市太郎です。
最盛期には道内各地に10館もの活動写真館を持ち、「興行王」、「神田館の大将」と称されました。
写真は、師団道路(師団通)で行われた第七師団の観兵式を写した一枚です。
神田館5階の望楼のところまで見物客がいるのが見えます。
威容を誇った第一神田館ですが、大正14年、試写中のフィルムが発火したことが原因で火事となり、全焼してしまいます。


(パネル2−9・駅前の2大旅館 大正10年頃)




大正から戦後にかけての旭川駅前のランドマークは、狛犬のように鎮座した2つの大きな旅館でした。
宮下通7丁目にあった洋館風の三浦屋、8丁目の城郭風の宮越屋です。
宮越屋は、明治41年、釧路新聞社に就職する途中の石川啄木が旭川に一泊した際に泊まった旅館でもあります。
また三浦屋の経営者だった立野庄吉は、旭川の野球の普及に尽くした人物で、のちの大投手、スタルヒンの旭川時代の後援者として知られています。
画面中央奥にパネル2−8で紹介した第一神田館が小さく見えています。


(パネル2−10・4条師団道路組写真 大正11年)




4条通7丁目にあった二番館ビルの屋上から撮影された写真です。
画面手前に写っているのは4条本通りの交差点です。
このうち8丁目角にある黒っぽい建物は、ヤマニ食堂。
1年後にカフェーに転身し、人気店となります。
そのさらに右手の白い建物は、大正9年創業の北海ホテルです。
ヤマニとホテルの間の奥の方に、やはり白っぽい大きな建物が見えますが、明治44年に完成した役場(市役所)庁舎です。


(パネル2−11・消防望楼から見た市街地 大正末期)




3条通9丁目にあった消防の望楼から撮影した写真です。
右端の白壁の建物は、パネル2−10でも紹介した4条通8丁目の北海ホテルです。
少し分かりづらいかもしれませんが、左端の上の方に高い建物が2棟重なって写っているところがあります。
手前がパネル2−8で紹介した活動写真館の「第一神田館」(4条通8丁目)、奥が4条通7丁目にあった二番館ビル(のち旭ビルディング百貨店)です。
3〜4の仲通りも4条本通りも、多くの人が道の真ん中を歩いています。
時代を感じさせますね。


(パネル2−12・旭ビルディング百貨店 大正末期)




大正11年に4条師団道路7丁目に建設された石造り4階建てのビルです。
旭川では最も高い建物でしたが、経営者や名称が頻繁に変わったのが特徴で、一時期は長く休業状態が続き、「幽霊塔」と称されたこともありました。
写真は、大正13年、「旭ビルディング百貨店」として新装開店した時期のものです。
ここでは、旭川初の本格的な美術展が開かれるなど、文化芸術のイベントなども開かれました。


(パネル2−13・新橋建設現場 大正14年)




大正14年9月、旭川市の要請を受けた陸軍は、工兵隊の特別演習として、全国6つの師団の工兵隊などを動員し、旭橋下流の石狩川に新たな木製橋「新橋」を建設しました。
橋は9月3日からわずか15日間で完成し、18日には渡橋式が行われました。
画像は作業の様子を紹介した絵葉書セットの一部で、遠くに初代旭橋も写っています。
軍の協力により完成したこの橋も大雨による増水で度々流され、戦後、永久橋である現在の新橋が架けられました。


ということで、今回はここまで。
次回は、昭和編をお届けします。


<写真及び地図の所蔵先・出典> 

(所蔵先)
*旭川市中央図書館・・・1−1〜2、1−6〜8、1−10、1−12、1−14、2−1、2−3、2−5、2−9〜10
*旭川市博物館・・・1−3〜4、1−9、1−12
*那須敦志(写真・絵葉書)・・・2−4、2−6〜8、2−11〜13

(出典)
*1−5・・・・・・北海道官設鉄道開通式記念写真帖
*1−11・・・・・旭川回顧録、上川便覧
*2−2・・・・・・旭川区制実施記念写真帖





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「小熊秀雄との交友日記」に見る旭川ゴールデンエイジ・その2

2020-05-06 19:00:00 | 郷土史エピソード


前回から、旭川や名寄などで教員生活を送りながら詩や短歌の創作を続けた小池栄寿(よしひさ)の手記「小熊秀雄との交友日記(以下「交友日記」)をテキストに、大正末〜昭和初期=ゴールデンエイジの旭川について紹介しています。
後半は昭和3年の正月の記述からです。


                   **********

<昭和3年1月>


 一月三日。円筒帽新年詩会を午後六時から北海ホテルで開く。(中略)
例により塚田君の酔っぱらいの詩に会は始まる。十時少し前だったろう。塚田君の歌に鈴木君のギター。小熊君が裸踊りをしたが。その後で僕が「詩人のうぬぼれ」について話し出した。それは塚田君の僕に贈る詩に原因する。所が僕大いに酔いがまわり立っておれないので中止、塚田君の膝に倒れる。二人で廊下に出たまではおぼえている。気がつくと倒れていて流汗淋滴、汗をぬぐうと血だ。廊下で倒れる時、鼻のあたりを打ったらしい。塚田君自動車を読んでくれて唐沢病院へゆくと休んでいる。竹村病院へゆき手当てして貰い再びホテルへ。散会していた。
(註、この夜の小熊君の裸踊は妖怪な面をつけ、痩せた肋骨もあらわな上半身裸体で、危機の迫るものがあった。)(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


*「バカ男子」・・・
「交友日記」には、こうした若者らしいハメを外した場面もたくさん登場します。いわゆる「バカ男子」というところでしょうか。今は馬鹿げたことをやってSNSなどで発信し、叩かれる若者のことをたまに耳にしますが、我々の若い頃は、もう少し社会全体が寛容だったように感じます。ゴールデンエイジの若き詩人たちも、同じような環境でかなり伸び伸びと行動させてもらっていたのではないでしょうか。実はワタクシも栄寿や小熊とほぼ同じ年頃だった時代、似たような流血騒ぎを経験したことがあり、このくだりを初めて目にした時は、思わず苦笑したものです。
文中の唐沢病院は、大正15年に4条通9丁目に開業した病院ですね。今も同じ場所にあります。竹村病院は明治32年、1条通5丁目に開業した歴史ある病院で、2年後、4条通12丁目に移転、昭和に至るまで長く旭川の医療を支えました。建物のシンボルだった六角堂は、現在、旭川市彫刻美術館脇に移設されています。
それにしても小熊の裸踊り、興味を惹かれます。



画像22・竹村病院(明治30年代・頃旭川市中央図書館蔵)


<昭和3年3月>


 三月四日。日曜。塚田武四君が淳三氏と二人でビールにスルメ桜餅をもって来訪。銚子五本ビール一本あけて五時近く家を出る。酔っているので向うから来た酔っぱらいに衝突する。ウイスキー一本求め小熊氏の所へよろめきながらゆく。子供らが面白がってついて来る。小熊氏と四人家を出る。武四外套なし。俺と二人でかぶってゆく。ユニオンパーラーでホットオレンヂ。初めておぢいさんの食堂に入り、電気ブラン一杯、湯どうふ、ライスカレー。次にヤマニへ。ホットオレンヂ。変な髭の男が皮肉を云う。携帯したビールを一本やりウイスキーを征服。(中略)。再びユニオンでコーヒー。十一時帰宅する。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


<閑話休題その③・よく飲み!よく食べ!>


これもバカ男子の部類ですね。ここにもある通り、栄寿たちはとにかくよく飲み、よく食べています。どんなものを飲み、食べているか、イベントのこうと同じく、リストアップしてみました。店名、栄寿たちが飲食したもの(かっこ内は「交友日記」に出てきた回数)の順で書いてあります。


(カフェー)
・「ユニオンパーラー」 コーヒー(9)、ホットレモン、牛乳(4)、生ビール、ビール、スイトポテト(3)、紅茶(2)、日本酒(4)、ハヤシライス、カツ(2)、ホットオレンヂ(2)、ランチ、黒ビール
・「ヤマニ」 コーヒー(5)、生ビール(4)、紅茶、アイスコーヒー、日本酒(2)、牛乳、汁粉(2)、ココア、ホットオレンヂ(2)
・「2条8丁目仲のカフェー」 生ビール
・「喜楽」 紅茶
・「当八軒」 日本酒

(喫茶)
・「ジュエル」 コーヒー(2)、冷たいレモン、生ビール、チキンライス、野菜サラダ

(料理店)
・「旭川局前(おそらく電話局の前の店の意味)」 支那そば
・「国技館近くのそば屋(国技館は3条通7丁目の映画館) 日本酒、そば
・「平野(洋食屋)」 日本酒(2)、コーヒー、ホットオレンヂ(2)、汁粉
・「ちよだ」 日本酒、リンゴ
・「国技館横の家」 日本酒、そば
・「百足屋」 日本酒、そば
・「おぢいさんの食堂」 電気ブラン、湯豆腐、ライスカレー
・「よしのや(おでん屋)」 日本酒、焼き鳥
・「よしや」 焼き鳥

(その他)
・「ニコニコ」 コーヒー(3)、生ビール、アイスコーヒー
・「第二神田館前(第二神田館は3畳通8葉目の映画館)」 ソーダー水
・「三浦屋待合(三浦屋は駅前の旅館・食堂)」 コーヒー


まずは飲み物。やはりお酒では、生ビールと日本酒。ノンアルコールでは、コーヒー、紅茶といったところが中心です。ホットオレンジ、ホットレモンというのも目立ちます。寒い旭川ならではなのでしょうか。旭川にゆかりの深い電気ブランも登場しています。
食べ物では、ライスカレーにハヤシライス、カツにチキンライスと、この時代すでに洋食が定着している様子が窺えます。
それにしても甘いものから辛いもの、和食に洋食。
よく飲み、よく食べてエネルギーを補充しながら、街を闊歩していた若者たちの姿が目に浮かびます



画像23・カフェーや飲食店の多かった4条師団通界隈(昭和2年・絵葉書)


<昭和3年5月>


 五月四日。小熊秀雄氏、四時頃秋山君と二人で来る。今朝帰旭せる由。一緒に氏の所へ。夕食を共にす。母上の来旭前に上京する由。(中略)。
 五月六日。塚田君が今夜半大阪に行くと云ふ。夕食して小熊氏を訪えば野島淳介、黒杉佐羅夫、森川、黒崎の諸君が来ていた。丁度鉄橋の向うのゴミ捨て場に火がつき大騒ぎしていた。僕は氏を訪れる前に橋の上まで行って水に反射する壮観を眺めた。十一時、小熊氏と停車場にゆく。塚田大人は娘さん達と自動車で武四君を送りすぐ帰られた。(中略)。
 五月十九日。塚田武四、彼れ酔っぱらいではあるが彼の居るうちは力強かった。然るに彼は大阪に去り、小熊氏また東京に近きうちに去らむとす。ひとり旭川に残される円筒帽詩人  淋しいとも淋し。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)



*「別れの季節」・・・
昭和3年春、大正末から続いていた旭川の若き詩人たちの〝狂騒〟の季節も終わりが近づいてきたようです。
この時期、日記にある「小熊の帰旭」とは、父親の死去にともない、樺太に行っていた小熊が戻ったことを指しています。これをきっかけに、折り合いの悪かった継母が旭川に転居するつもりであることを知った小熊は、その前に妻子と共に上京することを決意、栄寿に伝えたわけです。
そして塚田武四もまた、故郷を去ることを栄寿に告げます。この頃、今野大力や鈴木政輝は東京在住です。一人残される形となった栄寿の切ない思いが文章に現れています。
なお文中にある森川は森川武義、黒崎は黒崎信と思われます。ともに旭川の黒色青年同盟のメンバーで、小熊の家にいたということは、どの程度かはわかりませんが、交流があったことは間違いないと思います。前半で彼らがヤマニで小熊に因縁をつけたエピソードが登場しましたが、そのことで縁ができたのかもしれません。


<閑話休題その④・ダダイスト塚田武四>


ここで地元詩人である塚田武四についてまとめておきたいと思います。彼については、小熊の研究家でもある佐藤喜一の「中家金太郎像 露悪と諧謔の詩人(旭川叢書第七巻)」と、北けんじの「じゃっく・ないふの閃き-鈴木政輝の詩精神」に詳しく触れられています。
2冊を参考にしながら紹介します。


 塚田は旭中出身(卒業年次、生年月日とも不明、鈴木(注・鈴木政輝のこと)とは同年代)で、『円筒帽』創刊時の同人であり、大正十五年から昭和3年にかけては旭川詩人仲間ではリーダー的存在であったらしい。(「じゃっく・ないふの閃き-鈴木政輝の詩精神」より)


続いて、武四が旭川を去る事になった経緯や、その後の足取りについてです。


 ダダイズムの詩人、塚田武四の父は市長派の市会議員で、禿頭太鼓腹、策謀家、その四男武四は十八歳の中学四年時学校を飛び出し芦別岳山麓の山部村で代用教員となり、三千枚の長編叙事詩をかきつづけ、夕方は芸者小桃と逢曳、女児を流産、村の指弾の的となる。実家に呼びもどされて禁足、だが一切の道徳、正義、真理、美、権威を否定してかえりみない武四は料亭湖月で二人芸者をあげ層雲峡に流連荒芒三日に及び、三百円のツケを従兄のA市の富豪大川家にSOSの電報をうちそのご大阪にのがれ姉婿の弟の家財を留守中にきれいさっぱり売り払って東京へ。(中略)
 そのごは北樺太の木材積取船の帳場にすみこんだり、少女歌劇の座付作者兼人夫、田舎廻りストリップまがいのレビュウ団にあぶな絵式の脚本をかいたかと思えば、遊郭の妓夫を一ヶ月つとめ最期の住み家を、郷里A市の文学団体の事務所に寝泊りを始めたのが四月頃か、不健康のため胸も悪疾化し、呼吸づかいもひどかった。(「中家金太郎像 露悪と諧謔の詩人」より)



という事で、武四の大阪行き(親戚の家?)は、実家からの追放という側面が強かったようです。そして病を抱えて旭川に戻ったのは、8年後の昭和11年春。文中の「文学団体の事務所」は、東京から戻った鈴木政輝が中心となり、この年1月に旭川で結成された北海道詩人協会の事務所の事です。おそらく市会議員として紹介されている武四の父親は放蕩息子の帰還を許さず、実家にいることはできなかったのでしょう。この後、武四は、詩人協会の事務所や近くの映画館の従業員部屋、旅館などを転々とし、翌年秋、市立療養所(今の私立病院)に入院するも、まもなく亡くなります。
詩人仲間だった中家金太郎は、武四をモデルにした小説の中で、こう書いています。

 洋吉(注・武四の事)はゴミ箱へ放り込まれたように焼かれ彼の遺構も、友人には何の相談もなく焼却された。(中略)
 軈て十二月下旬、私は仲間の忘年会に招かれて帰省した(注・中家は当時札幌在住)。忘年会は詩人協会の会旗入魂式と洋吉の追悼を併せ行った。(中略)追悼には亦、余湖清六(注・詩人仲間)の文になる弔辞を述べ生前洋吉の愛飲したるジンを乾杯したのである。弔辞も甚だ滑稽極まる一文であったが、ひしひしと洋吉を悼む気持になれたのである。兎も角、宴会の席上にふさわしくない奇妙な一刻であった。何れにせよ私は滂沱たる涙をふりまき、げらげらと笑いたい悲喜混淆の気持で一杯であった。
 しかしリーダー宗谷蕃(注・鈴木政輝の事)が、<兄順三(注・武四の兄、淳三の事)は北支に奮戦中に顔面に手榴弾をうけ半日にして戦死、順三の葬式は市長候補の叔父市会議員の父を擁し盛大なる弔葬で執り行われた。洋吉は余計者として死し、まだ貧弱な葬儀さえ行われない。余計者として葬り去り得ない擬直な詩人は、茲に生前洋吉の愛したジンを乾杯して彼を追悼しよう>と弔辞を述べた時、私は詩人の光栄に身うち熱くなり涙がまかれそうであった。(中家金太郎「死者生者」より)



遺稿は焼かれたとされる武四ですが、絶唱とされる詩が残されています。


「ふるさと」        塚田武四

ふるさとは馬追帽子に
垢じみたつづれをまといて帰るところ
無骨な靴の底は裂け
沓下ちぎれて素足に土をなつかしみ
飢渇(か)わけば草に聞いて
田園近き清水に遠き日を想へ
ふるさとは古き友に嘲(あざ)けり追われ
花と変りし幼馴染に恐れられ
子供らの礫の的となるところ

ふるさとは昔の家の
冷たく扉をとざせるところ
酔いつぶれて酔いつぶれて
盗人の酒場に酔いつぶれ
悪しき旅人の群れと唄いて
悪魔の娘子の肌に戯れよ

ああふるさとは帰りきて帰りきて
路傍の秋草に涙するごと
言葉失いて 唯にすぎ去るところ




画像24・円筒帽詩会での4詩人(昭和3年・全列左より小熊、塚田武四、1人置いて鈴木政輝、小池栄寿)


画像25・北海道詩人協会の詩人たち(昭和11年・前列左から3人目=鈴木政輝、同じく5人目=小池栄寿、後列左から5人目=中家金太郎)



<昭和3年5月〜6月>


 五月三十一日。三十八度を越えた暑さ。午後七時から小熊秀雄氏送別歌会酒井広治氏宅に催うさる。七時小熊氏を訪れ、小林昴氏を誘い八時酒井氏へ。会するもの十七名。宮本吉次、秋山辰巳氏らも参会。ビール一本にサラダ。「夜」「皿」「菜」の三題を小熊氏より提出。即詠する。榎本氏総てを朗詠し、更に座興の為、小熊氏に集りたる歌をも朗詠して散会。僕を小熊氏の代りに幹事たらしめむとの議あり。散会後。酒井、小熊、小林、榎本の四氏と共によしやに行きて焼鳥で飲む。関兵衛氏来る。午前二時帰宅。
 六月二日、小熊秀雄氏を七時半頃、夜学が終るとすぐ訪れる。丸本輝子氏来たり居れり。十時頃、家を出る。ジュエルで生ビール一本、チキンライス、野菜サラダを御馳走される。夏蜜柑五十銭とキャラメル五十銭を選別とする。揖尾、丸本、小林、昇の諸氏に見送られて夜半十二時十二分、旭川を発つ。前途に祝福あれ。
(註・夜十時、奥さんは戸じまりをし、焔さんを背負い裏口から出られた。暗い小路の奥で裏口に施錠されている奥さん。何となく心の中まで暗くなる様なさびしさを感じたものだった。)
 六月三日、日曜。午後局にゆき次の電報を打つ。鈴木、今野両君宛。
四ヒユフ三ヂハンウヘノツク ヲクマ。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)



*小熊の出立・・・
さあ長々と「交友日記」に描かれたゴールデンエイジの旭川とそこに生きた若者たちの様子を見てきましたが、いよいよ小熊の旅立ちです。
先に述べましたように、父親の死から上京まで1か月ほどのバタバタとした様子が窺い知れます。
上京中の政輝、大力に電報を打っているのは、小熊一家が東京巣鴨の一軒家で彼らと同居する予定になっていたからです(ただ間もなく小熊は別の場所に間借りして、彼らとは別れます)。
上京後の小熊は、念願だった中央詩壇での地位を確立するものの、経済的な困窮を深めるとともに健康を損ない、昭和15年11月、39歳の若さで亡くなります。
つね子夫人も筆舌に尽くせない苦労を負いますが、栄寿が書き留めた退去時のエピソード、一家の行く末を予感させているようです。
なお「夏蜜柑五十銭とキャラメル五十銭を選別とする」とありますが、栄寿は小熊から上京の旅費を融通してほしいと頼まれ、貯金してあった30円を選別として渡しています(小熊はあくまで借金と考えていたとも書いています)。

最後に小熊が栄寿に贈った色紙をご紹介します。



画像26・小熊が栄寿に贈った色紙(昭和13年・旭川文学資料館蔵)


これは昭和13年、10年ぶりに旭川を訪れた小熊が、当時、栄寿が教員をしていた名寄市まで足を伸ばし、滞在した際に描き残したものです。
色紙には、晩酌をやりながら旧交を温める2人、そして栄寿の6歳の長女、そして自作の詩が記されています。
栄寿は旭川に戻る小熊を子供とともに見送りますが、それが生前の小熊を見る最後となったそうです。
ちなみに今年は小熊の没後80年の節目の年でもあります。


「自分の路、他人の路」より  小熊秀雄
        ――小池栄寿氏のために――

素晴らしい哉、
私は好むとほりの生活を
ここまで、やり通して来た、
そしてここに誰に遠慮なく怒り、泣き、歓喜し、
虚偽を憎むことが出来る。
片意地な奴等のために
階級的片意地をもつて答へてやれるし
潔白な友へは、
開つぴろげて魂を売り渡してやる、
潮のさし引きよりも
もつと移り変りの激しい
感情の使ひ跡をはつきりと私は知つた
人間へも、また猫へも、犬へも
花へも、樹木へも
あらゆる人間以外のものにも
彼等の希望を代弁してやらう。




画像27・小熊秀雄と小池栄寿







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「小熊秀雄との交友日記」に見る旭川ゴールデンエイジ・その1

2020-05-03 19:00:00 | 郷土史エピソード

今回も旭川ゆかりの文化人が残した文章から、2回に分けて大正〜昭和の旭川=ゴールデンエイジについて見ていきます。
テキストとするのは、旭川や名寄などで教員生活を送りながら詩や短歌の創作を続けた小池栄寿(よしひさ)の「小熊秀雄との交友日記」です。
それでは1回目は大正15年から昭和2年までの日記です。
しばしお付き合いください。


                   **********



画像1・小池栄寿


<小池栄寿と「小熊秀雄との交友日記」>


旭川文学資料館館長の東延江さんの著書「続・旭川詩壇史」によりますと、小池栄寿は、明治38年、鷹栖町生まれ。旧制旭川中学時代から文芸に親しみ、学友でつくる同人誌に参加しました。卒業後、1年間の代用教員生活を経て東洋大学に進学。その後、旭川に戻り、旭川実科女学校(旭川大学高校の前身)で教鞭を取ったのを皮切りに、旭川や名寄で教員生活を送りながら詩や短歌の創作を続けました。また昭和2年には、小熊秀雄に誘われて詩誌「円筒帽」に参加しています。
「小熊秀雄との交友日記」(以下「交友日記」と記す)は、昭和34年に旭川の詩誌「情緒」に掲載され、その後、加筆されたものが創樹社刊の「小熊秀雄研究」に収められています。自身の日記をもとに、小熊との交友の日々の記録を綴った手記で、ゴールデンエイジの旭川の文化人の様子を知ることができる歴史資料としても貴重です。
それでは「交友日記」の一部を引用しつつ、登場する人や場所、出来事等について見ていきましょう。



画像2・小熊秀雄


<大正15年8月>


 八月七日、詩の朗読会が明夜あるから出て朗読したり講演したりしないかと鈴木(政輝)君が云ってきた。
 八月八日。日曜。午後六時家を出てジュエルに於ける詩の朗読会にゆく。塚田、鈴木両君がいた。会場が出来ていず、電燈に青ペンキを塗っていた。三人は精華女学校へ椅子を六脚かりにゆく。沢井女学校へも行ったが皆んな留守だった。八時ころから「象徴派の詩を中心とした詩の朗読会」出席者、小熊、鈴木、野口、塚田、大谷、今野、中村、阿部、土屋、原田等計十四人、会費五十銭、土屋君が旭川文芸雑誌の名前の郷土的でないこと、塚田君が突然の来客たる僕が椅子運びを手伝ったことを喜び語った。最後に野口君が「俳優の笑い」と云う豊富な知識と経験による面白い話をし、これについて赤十字病院の人が動物の笑いについて語った。塚田君の挨拶で始った会は十一時近く小熊君の挨拶で閉会。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)



*鈴木政輝(まさてる)・・・
明治38年、旭川市生まれで、栄寿とは上川第二小学校(のちの大成小学校)と旭川中学(のちの東高)で同級生の間柄です。中学時代から詩作を始め、昭和11年に旭川で「北海道詩人協会」を設立するなど、戦前戦後を通して地元詩壇の中心人物として活躍しました。大正14年には、小熊秀雄らと詩誌「円筒帽」を創刊。また東京での日大生時代に、若き日の詩人の萩原朔太郎や、のちのノーベル賞作家、川端康成らと親しく交流したことでも知られています。
「交友日記」冒頭に出て来るこの詩の朗読会のエピソードは、大学生で上京中ながら地元詩人グループの中心的な存在だった政輝が、旧知の栄寿を皆に紹介すべく誘ったものと思われます(栄寿もこの時点ではまだ大学生で、夏休みを利用して帰省中でした)。
なお出席者の中にある「今野」は、プロレタリア詩人の今野大力のことです。栄寿は、会の中で大力が独特の節をつけて自作の詩を朗読したこと、その様子に小熊がしきりに感心していたことを書き留めています。


*塚田・・・
旭川の地元詩人、塚田武四(たけし)のこと。円筒帽同人の一人で、「交友日記」には、小熊、政輝と並んで頻繁に登場します。ダダイストと称された破天荒な人生を送り、昭和12年に30代の若さで病死します。彼については、後半で詳述します。



画像3・鈴木政輝


画像4・今野大力



*ジュエル・・・
5条通12丁目にあった喫茶店です。開店は大正14年7月で、旭川初の喫茶とされています。中心部からは若干離れていますが、このエピソードにもあるように当時の文化人のたまり場の一つでした。軽い食事もできたようで、「交友日記」では、ジュエルでチキンライスや野菜サラダを食べたという記載があります。
当時の旭川新聞に店内の写真が掲載されていますので、荒い画質のものですが、ご紹介しておきます。



画像5・喫茶ジュエル(昭和4年・旭川新聞)


*精華(せいか)女学校・沢井女学校・・・
精華女学校は、明治41年、宮城県出身の高平幸世が創設した和洋裁女学校が前身です。始めは仮校舎での授業でしたが、3年後、4条通11丁目に校舎を新築し、校名も精華女学校と改めました。
沢井女学校は、明治31年、旭川初の中等学校として発足した旭川実家高等女学校のことです(今の旭川大学高校の前身)。高平幸世と同じ宮城県出身の沢井兵次郎が共同出資して創設した学校で(のち沢井が単独経営)、沢井は校長でもあったため栄寿は沢井女学校と書いていると思われます。また栄寿は翌年からこの女学校に教師として勤務します。
ちなみに、この年、大正15年は、暮れに大正天皇が崩御して改元されたため、昭和元年はわずか一週間のみ。なので、翌年は昭和2年となります。



画像6・精華女学校(昭和3年・北海の礎)


画像7・旭川実科高等女学校(昭和3年・写真旭川)



<昭和2年4月>


 四月二十三日。午後七時、ヤマニ階上での文芸座談会(北海日日主催)へ、三十名位集まる。松崎豊作、藤田みはる等の猛者と鈴木、小熊君との間に激論つづく。帰旭以来、初めて小熊氏に逢ふ。記念撮影、詩の朗読、短歌朗詠、寄せ書きなどして散会。三条のパラー(新築)へ小熊、鈴木君と行きコーヒーとホットレモン。円筒帽の健康を祝す。(中略)
 四月二十六日。午後七時半から北海ホテルで円筒帽詩人祭が催うされる。十二、三人の予定のところへ二十二名も来る。タイムス支局長竹内武夫氏、画家村田丹下氏、弁護士鈴木重一氏、実科高女主事沢井一郎氏等も出席され盛会裡に十時半閉会。小熊、鈴木、塚田の三君とヤマニでコーヒー、喜楽で紅茶、ニコニコでコーヒー、生ビール皆意気軒昂一時に及ぶ。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)



*ヤマニ、パラー・・・
ヤマニはこのブログで度々紹介しているカフェーヤマニのことです。明治44年、速田仁三郎が4条通8丁目に創業した食堂が前身で、大正12年にカフェーに転身、2代目店主の弘の才覚で旭川を代表するカフェーとなりました。
パラーとあるのは、3条通8丁目にあったカフェー、ユニオン・パーラーのことです。この店も旭川のカフェーを代表する名店で、実は栄寿が、小熊や政輝らと訪れ、コーヒーやホットレモンを味わったこの日記記載の日が、まさに開店初日でした。
なお後の方に出て来る喜楽はカフェー兼料理屋。ニコニコは不明ですが、3条通14丁目にあったニコニコ倶楽部(撞球場)かもしれません。北海日日は、当時旭川にあった地元紙(昭和12年に旭川新聞と合併)。松崎豊作、藤田みはるは、ともに地元詩人です。



画像8・カフェー・ヤマニ(昭和5年頃・絵葉書)



画像9・カフェー・ユニオンパーラー(昭和4年・旭川新聞)



*円筒帽・・・
鈴木政輝、小熊秀雄、小池栄寿、今野大力らにより、昭和2年1月に創刊された詩誌です。この年3月、東洋大学を卒業して旭川に戻った栄寿は、旭川実科高女で教壇に立つかたわら、積極的に地元文芸グループとの交流を深めていったようです。
詩人祭の会場である北海ホテルは、大正9年、4条通8丁目に北海屋ホテル旭川支店として開業し、すぐに北海ホテルと名前が変わりました(現在の星野リゾートOMO7まで、その系譜は続いています)。
なお円筒帽詩人祭の参加者として名前が上がっている人々のプロフィールは以下の通りです。
・竹内武夫・・・札幌本社の新聞社、北海タイムスの旭川支局長で、のちに富良野市選出の道議会議員となる。音楽大行進の発案者の一人として知られる。
・村田丹下・・・旭川で少年期を過ごした洋画家。著名人の肖像画を数多く描くとともに、大雪山を中心とした山岳の絵を数多く残した。
・鈴木重一・・・旭川地裁の判事として赴任したのち、退職して市内で開業した弁護士。大正12年6月、旭川初の〝市民劇〟を上演した旭川文化協会では会長を務めた。
・沢井一郎・・・前述した旭川実家高等女学校の経営者である沢井兵次郎の長男。のちに父親の後を継いで校長になった。



画像10・詩誌「円筒帽」創刊号(昭和2年)



画像11 ・北海ホテル(昭和3年・写真旭川)



<昭和2年5月(その1)>


 五月八日。日曜。小熊秀雄氏を初めて九条十五丁目の自宅に訪れる。眼鏡の奥さんにも息子の焔(ほのお)さん(オンリー二歳)にも初めてお目にかかる。十一時半辞して牛朱別川の堤防に出ると、小熊氏が髪をふり乱して追って来た。俺の持って行った〝白山詩人〟を持って来たのだ。そして〝地上楽園〟四月号をくれた。二人は牛朱別川ぶちを鉄橋の向ふまで歩き養鯉場の所から日の出橋に出て堤防を歩きまだ芽を出さぬポプラ林を通り、氏の家の前で別れる。
(註、牛朱別川は切りかえられる前で、氏の家の前を流れていた)。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)



*九条十五丁目の自宅、眼鏡の奥さん、息子の焔さん・・・
旭川に来てからの小熊秀雄は4か所で暮らしています。一つ目は3条通6丁目の姉ハツの家、次は旭川新聞社に勤め始めて引っ越した6条通7丁目の下宿です。
その後、小熊は、大正13年、前の年に美術展の会場で知り合った神居小学校の教師、崎本つね子と結婚し、彼女が住んでいた公宅に移ります。
そして旭川の最後の棲家だったのが、栄寿が訪ねた家、大正15年に入居した9条通15丁目右8号の住宅(つね子の実家が持っていた貸家)です。
公宅からこの貸家に移るまでに、つね子を伴っての上京と帰旭、一人息子である焔の誕生などの出来事がありました。



画像12・小熊つね子と一人息子の焔


*牛朱別川・・・
栄寿は、小熊の家の前を牛朱別川が流れていたと書いています。これも度々このブログで書いていますが、当時の牛朱別川は今よりも中心部を流れていたため、幾度も氾濫の被害があり、昭和5年から7年にかけ、宗谷線鉄橋から旭橋にかけて掘削による新流路を作り、元の川は埋め立てる工事が行われました。栄寿が「切りかえられる前」と言っているのは、その工事の前のことという意味です。



画像13・牛朱別川切替工事一覧図(昭和7年・牛朱別川切替工事概要)


地図は工事の概要を示したもので、緑っぽく示されているのが新流路、オレンジっぽいのが旧流路です。小熊と栄寿が歩いたのはもちろん旧流路沿いの堤防です。
工事が始まった当時の空撮写真もありますので、載せておきます。星印をつけたあたりが小熊の家のあった場所と思われます。



画像14・工事中の流路付近(昭和5年・牛朱別川切替工事概要)


<昭和2年5月(その2)>


五月二十一日。映画鑑賞会の発会相談会が夜七時からあるといふので行く。然るに九時半過ぎ十時近くなって閉会。(中略)。
小熊さんと俺は四条師団通りに出た。香具師の一団がいた。「お前この頃評判悪いぞ」と小熊さんに云った。「結構々々」と云ふと「何が結構だ」と来た。三条までゆくと香具師後を追って来て「一寸」と小熊さんを八丁目の方へ誘った。十一時過ぎの街は物騒だった。小熊さんは香具師に取りまかれて飄々としていた。五分位でやって来た。「あんな連中に脅かされてゐては商売にならん」と小熊さんは云った。香具師連の決闘のことを新聞に書いたので、うらんでゐるのだといふ。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)




画像15・師団通の街並み(昭和2年・写真集旭川)


*師団通り、香具師・・・
師団通(道路)や香具師については、前回、前々回のこのブログで紹介しました。師団通はもちろんですが、「交友日記」にはこのように香具師も幾度か登場します。何やら剣呑な話ですが、さすがに少年時代から社会の荒波に揉まれて来た小熊、肝の座った一面を見せています。
このほか栄寿は、昭和3年1月の「交友日記」で、カフェー・ヤマニに「アナの香具師が革命歌を歌いながら入って来る」と書いています。「アナ」とは先のブログでも取り上げましたが、アナキスト(無政府主義者)のこと。彼らの中には、香具師稼業で生計を立てていた者もいたそうですから、その一人だったのかもしれません。
実は小熊は翌月も飲食中、記事をめぐって因縁をつけられています。



画像16・4条師団通で香具師の口上に集まる人々(大正9年頃・絵葉書)


<昭和2年6月>


 六月二十八日。永井郁子女史の邦語歌詞独唱会、七時から商業会議所、九時終わり。小熊氏、沢井一郎氏と師団通りへ。第二神田館前でソーダー水「ヤマニ」で生をやってゐると黒色青年連盟の連中が入ってゐて、新聞を悪く云ったがすぐ小熊さんと仲良くなる。十一時、六条十五丁目で別れて帰る。
(註、旭粋会と言う右翼団体と黒色連盟が衝突し、今は埋め立ててないが常盤橋上で切りあったりした頃だ。黒色連盟の大たすきをかけた連中で、ビールのコップを床にたたきつけたりして意気昂然たる有様だったが、小熊氏を見つけると「新聞はうそを書く」と云って怒り出した。小熊氏はニコニコとしていた。そこへ首領格の人が出て来て皆をしづめ、「何れゆっくりお話しましょう」と小熊の手を握って丁重に挨拶して行った。)(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


*第二神田館・・・
2〜3条仲通8丁目にあった活動写真館です。館主の佐藤市太郎は、理髪業から興業の世界に転身した人物で、4条通8丁目にあった第一神田館を筆頭に、最盛期には全道で10館もの活動写真館を経営していました。



画像17・佐藤市太郎(旭川功労者伝)


*黒色青年連盟・・・
前回のブログ記事でも紹介しましたが、当時の旭川は北海道のアナキストの拠点でした。そのグループの一つが黒色青年連盟です(黒はアナキズムを象徴する色)。黒色青年連盟は、大正14年、理論的指導者である八田舟三らが東京で結成したアナキスト組織です。旭川の黒色青年連盟はその地方組織と思われますが、詳細はわかりません。
旭川の郷土史で、彼らがクローズアップされたことは2回あります。1回目は、栄寿も書いているように、昭和2年6月、右翼団体の旭粋会と常盤橋(今のロータリーの場所にあった)周辺で乱闘事件を起こしたこと、そして2回目は、その2か月後、師団通の飲食店で、第七師団の軍人に対し過激な演説をしたとして、幹部の山下章二らが検挙されたことです(旭川黒色青年同盟不敬事件)。
「北海道社会運動史」によりますと、山下はロシア・中国の国境付近をしばしば放浪した経験があり、英語、ロシア語、中国語など5か国語を操る秀才ということです。栄寿が書いている首領格の人は、もしかしたらこの山下なのかもしれません。
なお記者なので当然かもしれませんが、彼らの事件には小熊も関心を持っていたようで、「交友日記」の8月31日の記載には、小熊が事件のことを調べるため、近文方面(第七師団のことか)に行くと栄寿に話したことが書かれています。


<昭和2年9月>


 九月二十一日。円筒帽詩会が夜ユニオンパーラーである。鈴木君を訪れると、詩稿清書中だ。上って待っていると小熊君が来た。塚田君は都合が悪くて駄目。七時会場へ行けば入江、近江両君会場を出た所だ。下村君も長く待たしてしまった。六時からと発表してあったので、酒井広治氏も出席されて全部で十二名、持ち寄りの一篇を各自朗読。雨来って少々気がめいったが現代語の問題、朗読法、音楽との関係など仲々議論して十時半終る。小熊、鈴木両君とヤマニへ行きコーヒー、ビール二本、鈴木君のお得意の所でコーヒー二杯。何処の飯焚という酔っぱらいがいて初め僕の手を出し、次に小熊氏に、最後に鈴木君、ビールを飲まされたり鼻をつままれたり。雨あがりの夜半に濃霧こめ冷気きびしい。帰宅すれば一時。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


*入江、近江両君、下村君・・・
入江は入江好之、近江は近江勲夫で、ともに旭川師範学校卒業生の地元詩人。下村は同じく地元詩人の下村保太郎です。旭川商業学校時代から旭川新聞に詩を投稿し、地元詩壇の中核として活躍しました。昭和60年に亡くなるまで、喫茶「チロル」の経営者・店主であったことでも知られています。


*酒井広治氏・・・
旭川の文化人のリーダー格でもあった人です。旧制上川中学卒業後、東京歯科専門学校に進みますが、勉学のかたわら歌人でもあった北原白秋に師事しました。旭川に戻ってからは、実業家と歌人の二足の草鞋を履き、大正15年には、若山牧水の旭川訪問をきっかけに短歌結社「旭川歌話会」を結成しています。実業家としては、昭和12年に旭川信用組合理事、昭和28年に初代の旭川信用金庫理事長となるなど、こちらも地域のリーダーとして活躍しました。



画像18・酒井広治


<閑話休題その①・3人のイケメン>


ここでワタクシが「交友日記」を読んで特に興味を惹かれた点について、触れておきたいと思います。まずはこちらの写真を!



画像19・小池栄寿・小熊秀雄・鈴木政輝


どうでしょう。皆イケメンと思いませんか。小熊が木村拓哉ばりのルックスなのはよく知られていますが、栄寿と政輝もなかなかのもの。「交友日記」には、3人が師団通のカフェーや喫茶でつるんでいる姿が度々登場しますが、さぞ女性たちの目を引いたのではないでしょうか。


<昭和2年10月>


 十月十六日。日曜、旭川師範学校の音楽会へ午後ゆく。秋山、陽炎君に逢ふ。入江好之君独唱、四時半頃終る、詩歌展会場で小熊さんに逢ふ。小熊さんとユニオンパーラーでスイトポテトとミルク。小雨。氏の家へ。ビール一本、サイダー一本、明日神居古潭で社の観楓会だと云うので、僕のレインコートを貸してやる。(中略)。
 十月三十一日。小熊秀雄氏を放課後訪れるカムシュッペ画会が旭ビル楼上で明日からあるといふ。行くと幕張りやっていたので手伝ふ。平野で銚子三本、ヤマニで銚子四本。もうすっかり酔っていた。ユニオンパーラーでコーヒー。開陽軒にゆく。「小熊のをぢさん」の話を小学校時代に聞いて覚えている女給がいて小熊さんに話しかけた。小熊さんの嬉しそうな顔。
(註、小熊は童話会に小熊のをぢさんと云う愛称で子供らにすかれていた。彼の肩まであるちぢれた長髪、白い広い額、黒曜石の様な瞳、鶴のような痩躯――その風貌が、子供たちには神秘に見えたろう。)(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)



*カムシュッペ画会・・・
大正7年、高橋北修、関兵衛らによって結成された旭川初の画会です。正式名称はヌタップカムシュッペ画会。ヌタップカムシュッペはアイヌの言葉で大雪山を意味します。
「旭川の美術家たち–珠玉の宝庫(新名英仁著)」によりますと、画会は、大正12年に発展解消し、旭川美術協会が発足しますが、昭和2年には再びヌタップカムシュッペ画会に改称し、公募展主体の活動を行なったということです。


*旭ビル・・・
4条通7丁目にあった旭ビルディング百貨店のことです。大正11年に完成した石造り4階建てのビルで、当初は二番館という名前でしたが振るわず、大正13年に旭ビルディング百貨店として新装開店しました。ヌタップカムシュッペ画会(当時は旭川美術協会)では、この新装開店時にもビル内で作品展を開催しています。


*小熊のおじさん・・・
「焼かれた魚」など優れた童話の書き手でもあった小熊ですが、大正13年に、藤田越生らとともに「チルチル童話会」というグループを結成、童話の読み聞かせの活動もしていました。評判が良かったことは、この栄寿の記述からも窺えます。



画像20・旭ビルディング百貨店


<閑話休題その②・多様な文化イベント>


栄寿や小熊が旭川の文化芸術活動に深く関わっていたこともありますが、「交友日記」には、実に多くの文化イベントや催しが登場します。紹介していない文章も含め、どれくらいあるか、書き出してみたのが以下のリストです(イベント名・開催日・場所の順)。


(大正)
・象徴派の詩を中心とした詩の朗読会 15・8・7 ジュエル
・文芸講演会 15・8・14 農会楼上

(昭和)
・文芸座談会 2・4・17 ヤマニ階上
・円筒帽詩人祭 2・4・26 北海ホテル
・山崎政一追悼座談会 2・5・12 ユニオン
・芥川・里見文芸講演会 2・5・19 錦座
・映画鑑賞会発会相談会 2・5・21 場所不明
・旭中オーロラ画会展覧会 2・6・5(栄寿が見に行った日)場所不明
・師範学校詩歌展覧会 2・7・10(栄寿が見に行った日)師範学校
・野馬会詩歌展覧会 2・7・17(栄寿が見に行った日)丸井楼上
・大衆夏季大学 2・7・30(栄寿が見に行った日)大休寺
・円筒帽の会 2・8・6 北海ホテル
・円筒帽詩会 2・9・21 ユニオン
・小川千亀・楠部南崖歓迎歌会 2・10・2 一正亭
・生田蝶介歓迎歌会 2・10・12 酒井広治宅
・旭川師範学校音楽会 2・10・16 師範学校
・詩歌展 2・10・16(栄寿が見に行った日)場所不明
・旭川師範学校画展 2・10・23(栄寿が見に行った日)商業会議所
・ヌタップカムシュッペ画会展? 2・11・1〜 旭ビル楼上
・バザー 2・11・13(栄寿が行った日)北都高女
・音楽会 2・11・23 北都高女
・円筒帽新年詩会 3・1・3 北海ホテル
・大黒北大教授講演会 3・5・27 市役所?
・小熊秀雄氏送別歌話会 3・5・31 酒井広治宅


全部で24ありました!
大正末から昭和初めのゴールデンエイジの旭川は、開拓の激動期がやっと落ちつきを見せ、街づくりの中心も小熊や栄寿ら開拓2世に移り変わってきた時代です。
経済的にも少し余裕ができ、そこに2世たちの若いエネルギーが合わさったことが、こうした多種多様な文化活動の背景になったのではないでしょうか。時代そのものに熱気を感じます。
リストのイベントのうち、歌人生田蝶介の歓迎歌会は、その場で撮影された集合写真が伝えられています。前列左から2人目に小熊、最後列の左端に栄寿が写っています。



画像21・生田蝶介歓迎歌会での記念写真(昭和2年)


今回はここまで。
次回は旭川ゴールデンエイジのラストイヤー、昭和3年の「交友日記」について見ていきます。






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