約半年ぶりの更新となります(スミマセン)。
歴史上の人物や著名人のお墓を訪ねて巡る人のことを、最近は「墓マイラー」というそうです。
わたくしも先日、にわか「墓マイラー」となって、旭川開拓の功労者、岩村通俊のお墓を訪ねてきました。
きょうはそのご報告です。
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岩村通俊(1840-1915)
岩村通俊、「つうしゅん」と書いて「みちとし」と読みます。
幕末の天保年間に、土佐藩士の長男として生まれ、青年時代は人切り以蔵の異名で知られる岡田以蔵に剣を習ったそうです。
その後、倒幕運動に参加し、戊辰戦争では官軍の軍監(司令官?)として活躍しました。
維新後は新政府で様々な役職に着きますが、特に深くかかわったのが北海道の開拓です。
明治4年には、初代、島義勇の後を受けて開拓大判官となり、札幌本府の開発に尽力。
いったん北海道を離れますが、北海道開拓の重要性を政府に説き、明治19年には、初代北海道庁長官に任命されて再び北海道の発展に尽くします。
「国見の碑」
旭川の玄関口、嵐山のすぐそばにある近文山の「国見の碑」です。
この碑は、岩村が、今の次官にあたる司法大輔を務めていた明治18年に初めて旭川を訪れ、上川原野を見渡したことを記念し、翌明治19年に建てられました。
「国見の図」
北鎮記念館に飾られている「国見の図」は、この時の一行を描いた油絵です。
丸い帽子をかぶって上川平野を指しているのが岩村、その左の軍服姿の男性は、当時、屯田本部長だった永山武四郎です。
大雪の山なみのもと、広大な原野に石狩川、忠別川、美瑛川などがとうとうと流れる雄大な景観に目を見張った岩村は、すぐに政府に対し、京都、東京に続く第3の都「北京(ほっきょう)」をこの地に置くべしとする建白書を送りました。
今から見ると、荒唐無稽な話ですが、それほどまでに岩村が旭川の地勢にほれ込み、可能性を信じたということなのでしょう。
北海道庁長官時代の岩村は、その後も数回旭川を訪れ、市街区画の整備や道路の設置など、開拓の礎を築きました。
国見の碑に続く山道
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明治21年、ともに「国見」をした永山に北海道庁長官の重責を託した岩村は東京に戻り、農商務大臣や貴族院議員などを歴任し、大正4年に亡くなります。
その彼が葬られたのが、東京台東区にある谷中(やなか)墓地です。
今回は、墓地に近い上野で用事があったため、上野公園から、幕末に彰義隊が陣取った徳川家の菩提寺、寛永寺を経由して、ぶらぶらと歩いて向かいました。
上野公園
寛永寺根本中堂
谷中墓地
結構な広さのある谷中墓地ですが、岩村家のお墓は一番上野公園よりの一角にあります。
東京都のホームページにあった地図(谷中墓地は都営墓地)を頼りに探しますと、すぐに見つかりました。
この一角が岩村家の墓所
立派なつくり
真ん中が通俊のお墓
旭川生まれの一人として、功績に感謝の思いを込めてお参りさせていただきました。
裏には、開拓大判官、北海道庁長官などの役職名が
実は谷中墓地の上野公園よりの一角には、一部寛永寺の墓所が含まれています。
地図を見ると、その中に徳川最後の将軍、慶喜のお墓がありましたので、寄り道をして、お参りをさせていただきました(岩村家のお墓から2~3分)。
せっかくですので、その写真も少し。
徳川慶喜のお墓(中には入れません)
石碑の左、円墳状のものが慶喜のお墓
帰り道、猫が一匹現れて、墓石の横で涼んでおりました。
これも1枚。
「墓地猫」
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お墓は東京ですが、旭川にも手軽に岩村通俊をしのぶことができる場所があります。
お分かりの方も多いですよね。
常磐公園、千鳥ヶ池のほとりに、岩村の功績をたたえた銅像が置かれています。
常磐公園の岩村像(現在)
同上
優しい顔立ちと立派なあごひげが印象的です。
前にこのブログにも書きましたが、実はこの像は3代目。
初代の像は、戦時中の金属供出で撤去されたため、昭和26年に、地元出身の画家、高橋北修の手によって復元されました。
ただこれは戦後の物資不足でコンクリート製だったため、劣化が早く、平成2年に再度、銅像として復元されました。
これが現在の像です。
同じ人物の像が、3度も建て直されるのは珍しいことですよね。
それだけ岩村が旭川の人々に尊敬されていることに表れと言えるかもしれません。
初代の岩村像(昭和13年建立)
近文山から見た旭川