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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

● シリーズ「劇団『河』の軌跡」④ 企画展「旭川・劇団『河』と『河原館』の20年」リポート

2016-12-29 17:38:57 | 郷土史エピソード

本の出版に合わせてお伝えしているシリーズ「劇団『河』の軌跡」。
今回は、特別編です。
20日から旭川で始まった企画展と、23日に会場で行われたトークショーの模様についてお伝えします。


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企画展の入り口


企画展は文学資料館の一角で開催



今回の企画展「旭川・劇団『河』と『河原館』の20年」は、ご紹介している私の著書「〝あの日たち〟へ~旭川・劇団『河』と『河原館』の20年~」の出版に合わせて開いています。
本では紹介できなかった舞台写真やポスター、当時の台本、それにチラシやパンフレット、チケットなど、貴重な資料およそ200点を展示しています。



資料の中には、当時のポスターも


こちらは初期のパンフレット類



会場では、「劇団創設とリアリズム劇の追求」、「清水邦夫作品との出会い」、「『河原館』開設と多彩な交流」など、全部で11のテーマごとに資料を展示し、それぞれに解説も添えてあります。



下段は当時の台本や手書き原稿


祝日だった23日には、会場でトークショーを行いました。
出演は、司会役の私と、「河」の主宰者である星野由美子さん、看板女優だった伊東仁慈子さん(旧姓池の内)、河村直人の名前でやはり俳優をしていた細川泰稔さんの4人です。



トークショーの模様


星野さんは、今月満89歳になりましたが、さすがは元女優。張りのある声で、マイクは全く必要なし。
「芝居とは、身銭を切った客と役者との真剣勝負」というモットーを始め、今も変わらぬ舞台哲学の一端を披露してくれました。
また伊東さんは、身振り手振りで当時の舞台について振り返り、初舞台の「かさぶた式部考」や、ヒロインを演じた「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」についての話では、立ちあがって当時の台詞を語ってくれました。



星野由美子さん


芝居を見せてくれた伊東さん



この日は、全道的に風雪が強まるあいにくの天気でしたが、会場には50人もの方が詰めかけ、我々の話に耳を傾けてくれました。
終了後、何人かの方とお話ししましたが、仁慈子さんの演技まで見ることが出来てとても楽しかったとのこと、いろいろと準備をした立場としてはいっぺんに疲れが吹き飛びました。
またこの日は、NHKをはじめ、北海道新聞、旭川ケーブルテレビ・ポテト、それに雑誌の北海道経済が取材に来てくれました。
このうちポテトは、トークショーの模様を収録。
後日、そのまま放送してくれることになっています。
ポテトの契約者の方は、ぜひご覧ください。



塔崎さんの思い出も語ってくれた細川さん


企画展は、2017年1月28日(土)まで、旭川市の常磐公園の中にある旭川文学資料館で開かれています。
ただ年末年始や日曜と月曜、祝日はお休みですので、事前にご確認を。



会場は満席状態


それともう一つ、ご報告が。
日本を代表する詩人で、ノーベル文学賞の候補とも目される吉増剛造さんが、井上靖記念館主催のエッセーコンクールの表彰式と講演のため、18日に旭川を訪問されました。
実は吉増さんはかつて劇団「河」と交流のあった方で、「河」の舞台についての文章を新聞に載せたり、「河原館」で自ら詩の朗読のイベントをしたりしたことがあります。
その縁で、今回は会場で星野由美子さんとひさびさの対面を果たしたほか、私も著書に吉増さんの文章を引用させたいただいたお礼を言いました。写真はその時のものです。



久々に再開した星野さんと吉増さん


で、感激したのは、講演の冒頭で星野さんが会場に来ていることを紹介したうえで、「こうした本が出版されました」と言って、お渡しした私の本について、会場に集まった皆さんに紹介してくれたことです。
本をお渡ししたのは、一連のイベントが始まる30分ほど前、そのわずかの時間でざっと目を通してくれたのですね。
その優しい人柄に魅了されてしまいました。
ちなみに引用させていただいた「河原館」についての吉増さんの文章は、以下のようなものです。

雪をふみ、土蔵に入ると一瞬暗闇(やみ)に包まれる。白雪の輝く旭川の街路から一歩ふみこむと小さな、だが深い闇がある。しかも蔵の土間は(そこが舞台になるのだが)半地下の位置にあって入るとすぐに急な階段を降りて行かなければならない。(中略)
ここに一歩ふみこみ私は不思議な奈落にひきこまれるような体験をした。つまり劇的なものに不可欠の闇の垂直性が感じられて、その入り口に立っていたのだといいなおしてもよいだろう。(中略)
大地に根ざすといったり、土着、土俗、民俗といういい方を私達はすることがある。(中略)しかし土間に坐ってみた「河」の舞台の印象はそうしたいい方がもたらすものと異なっていて、地中深く埋蔵された穀物類を掘り出す作業に似ていた。その声もしぐさも舞台の底へ底へと、引きこまれてゆく。<北海タイムス・1978年3月28日付>



かつての「河原館」のあの空間が、詩人の言葉によって、目の前に浮かんでくるようです。
こうした優れた文化人をも魅了する力が、当時の「河」にはあったのだと、改めて感じます。




札幌の書店に並ぶ「〝あの日たち〟へ~旭川・劇団『河』と『河原館』の20年~」








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シリーズ「劇団『河』の軌跡」③ 「詩と劇に架橋する13章」

2016-12-21 20:00:00 | 郷土史エピソード

本の出版に合わせてお伝えしているシリーズ「劇団『河』の軌跡」。
今回は、現在詩と劇の融合を目指し、「河」のオリジナル作品のなかでも異彩を放つ舞台「詩と劇に架橋する架橋する13章」についてご紹介します。


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「詩と劇に架橋する13章」左から小森思朗、北門真吾、山口正利、室谷宣久


1970年代に入り、劇団「河」が、清水邦夫作品や唐十郎作品の上演と並行して取り組んでいたのが、オリジナル脚本を使った劇団独自の舞台創りです。
その初期の成果として上げられるのが、1974(昭和49)年から78年にかけて、複数のバージョンの舞台が演じられた「詩と劇に架橋する13章」です。
「詩と劇に架橋する13章」は、日本の近現代の詩人の作品を素材に、さまざまな場面と登場人物を独自に設定し、俳優がそれぞれの詩を台詞として語るユニークな作品です。



「詩と劇・・・」池の内にじ子


この作品、劇団の記録を見てゆきますと、改訂によってパート1から7まで作られたようです。
ただ、現在、ト書きも含めた完全な上演台本の形で残されているのは「パートⅣ」のみで、ほかに台詞(使用した詩と童話)のみが載せられた「パート7」の資料があります。
このうち「パートⅣ」は、サブタイトルが「ある晴れた日に 草野心平詩集より」となっていて、蛙の詩人として知られる草野心平の17編の詩の全編、及び一部が台詞として使用されています。



「詩と劇・・・」の台本(1978年)


一方、「パート7」は、「パートⅣ」の内容を取り込んだ形で、以下のような3部構成となっています。

 1部・・・構成劇「或る晴れた日に」草野心平詩集より
 2部・・・詩朗読「長長秋夜(じゃんじゃんちゅうや)」小熊秀雄
 3部・・・詩と童話の錯綜による≪変容≫の試み

1部は、「パートⅣ」とほぼ同じ内容・構成です。
2部は、旭川にゆかりの深い詩人、小熊秀雄の長編叙事詩「長長秋夜」を俳優たちが群読する舞台。
そして3部では、小熊の童話「焼かれた魚」をベースにしたうえで、9人の詩人(登場順に、吉増剛造、佐藤春夫、飯島耕一、金子光晴、田村隆一、石原吉郎、鮎川信夫、黒田喜夫、吉本隆明)の作品を台詞として使った舞台が繰り広げられます。



「詩と劇・・・」の札幌公演(1978年)


「詩と劇・・・」の札幌公演チケット(1978年)



この「詩と劇に架橋する13章」は、1978(昭和53)年に札幌でも上演されています。
札幌演鑑や北海道演劇財団の中心メンバーとして活躍し、現在は札幌市内でイベントスタジオを主宰する飯塚優子さんは、このように当時の舞台を回想しています。

 同年(筆者注=1978年)九月十五~十七日の三日間、当時私が勤務していた4丁目プラザの小さなフリースペースでの劇団河公演が実現し た。「詩と劇に架橋する13章」である。
 タイトルのとおり、これは文字に書かれた詩が肉声を得ることによって限りなく劇的な世界を獲得する、そのありさまを観客の前に現出させる試みだった。選ばれた十三編の詩を、朗読というより詩を台詞として演じるのである。小熊秀雄の「長長秋夜」はいわゆる群読スタイルで、ひとり、ふたり、全員、かけあい、と変化するスピーディーな運びが緊迫した世界を創りあげた。
 一方、佐藤春夫の「秋刀魚のうた」は全く趣を異にする。北原ミレイの「石狩挽歌」ひとしきり、池の内虹子演ずる襤褸の狂女が現れて「哀れ秋風よ」とつぶやく。七輪からたちのぼる本物の秋刀魚の煙がご愛嬌。それは詩句としては紛れもない「秋刀魚のうた」でありながら、しみじみと秋を詠嘆する一般イメージとはかけはなれた独自の世界だった。<「旭川・劇団河の芝居と黙っている塔崎さんの思い出」・「塔崎健二を追む 時間の焔-無神の空」掲載・1997年>




「詩と劇・・・」右から小森思朗(松井哲朗)と山口正利


戯曲や詩、エッセイ、歌の歌詞など、いわゆる既存のテキストを素材に全く新しい舞台作品を生み出す取り組みは、60年代から70年代にかけて行われたいくつかの試みがよく知られています。
もっとも有名なのは、1969年から70年にかけは、「早稲田小劇場(現SCOT)」を主宰する演出家、鈴木忠志が、歌舞伎や新派の戯曲、小説、エッセイ、流行歌の歌詞などを素材に構成した「劇的なるものをめぐって」というシリーズです。
このうち「劇的なるものをめぐってⅡ」は、長屋に住む精神を病んだ芝居好きの女が、記憶にある舞台の断片を次々と演じていく〝仕立て〟で、当時「早稲田小劇場」の代表作として海外でも上演され、主演した女優、白石加代子の名を不動のものにしたことで知られています。
「河」の作品は、こうした舞台に刺激を受けて制作されたと思われますが、ただ詩のみ(小熊の「焼かれた魚」は童話作品ですが)を素材にした「劇のコラージュ作品」の舞台化を長期間にわたり追求した劇団は、おそらく他にはないのではないでしょうか。
「河」の独自の取り組みは高く評価されるべきだと思います。





度々ご紹介している私の本ですが、きょうから道内の主な書店で販売が始まったようです。
旭川での企画展もきょうから始まりました。
なお、あさって23日には、企画展の会場である旭川文学資料館でトークショーを行います。出演は、私と「河」主宰の星野由美子さん、中心俳優だった伊東仁慈子(旧姓池の内)さんらで、時間は午後1時半からです。
会場には、当時のポスターやパンフレット、台本のほか、貴重な舞台写真などおよそ200点の資料を展示しています。ぜひ足をお運びください。












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シリーズ「劇団『河』の軌跡」② 「・・・将門」初演

2016-12-16 20:00:00 | 郷土史エピソード

本の出版に合わせ、前回からお伝えしているシリーズ「劇団『河』の軌跡」。
今回は「河」の名を一躍全国に知らしめた伝説の公演、清水邦夫作「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」の初演についてです。


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「・・・将門」の舞台 左から塔崎健二と北門真吾


「河原館」という劇団の拠点を確保し、清水邦夫、唐十郎作品に加え、オリジナル脚本による舞台創りを行っていた「河」は、1976(昭和51)年春、それまでの蓄積の成果を問う大きな機会を手にします。
それが清水邦夫の名作「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」の上演です。



「・・・将門」塔崎健二


この作品は、清水が蜷川幸雄の勧めで1975(昭和50)年に書き上げ、妻の松本典子や山﨑努、石橋蓮司、緑魔子らと結成した新しいグループ、「風屋敷」で上演する予定だった作品です。
ところが「風屋敷」は、松本、山﨑といった新劇出身のメンバーと、石橋、緑ら小劇場出身のメンバーとの衝突によって空中分解。
公演は初日の10日前に中止という異例の展開をたどります。
宙に浮いた状態になった新作戯曲については、多くのプロ劇団から上演許可を求める声が相次ぎましたが、清水はなんと地方のアマチュア劇団である「河」に初演を託します。



「・・・将門」左から小森詩朗、北門真吾、勝又三郎、華乱々


背景には、4年前に「河」が清水作の「鴉(からす)よ、おれたちは弾丸(たま)をこめる」を上演した際、清水自身が旭川に赴いて助言をした経緯がありました。
その際、清水は粗削りながら熱気あふれる「河」の舞台に衝撃を受け、以来、たびたび旭川を訪れるなどして交流を深めていたのです。
第一線で活躍する劇作家の新作を、地方のアマチュア劇団が初演するのは、いまも昔もきわめてまれなことです。
しかもこの舞台では、清水本人が演出に当たることとなりました。



「河」による「・・・将門」のポスター


同じくチラシ



こうして「河」による全国初演が決まった「・・・将門」ですが、内容はといえば、敗走する平安の反逆児、平将門とその一行を描いた群像劇といえるでしょう。
朝廷から派遣された藤原秀郷らの追撃から逃げる途中、頭にけがを負った将門は、自からが将門をつけ狙う武士であると思い込む狂気に取りつかれます。
将門の幼馴染でもある参謀役の豊田郷ノ三郎と、将門の妻、桔梗の前は、次々と影武者を立てては捨て駒にし、窮地からの脱出を図ります。
作品の舞台は平安時代ですが、書かれた時代背景を考えると、連合赤軍に代表される70年代前半の政治闘争の行き詰まり、敗北を下地にした戯曲と見ることが可能な作品です。



「・・・将門」塔崎健二と星野由美子


「・・・将門」左から中津川慎、武蔵野恵理、池の内にじ子、四季咲美砂、紅小路旭



「河」による「・・・将門」は、1976(昭和51)年5月15日に旭川市民文化会館小ホールで、22日に札幌市のSTVホールで上演され、全国の演劇人がその成果に注目しました。
旭川での公演を観た朝日新聞記者で演劇評論家の扇田昭彦は、七段組みという劇評としては異例の長文記事で、この舞台を紹介しています。
少し長くなりますが、この項の締めとして一部を紹介したいと思います。


北海道旭川市の劇団「河」(星野由美子代表ら十四人)が、劇作家清水邦夫の戯曲「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」を、作者自身の演出により、このほど地元で初演し、なかなかすぐれた舞台成果をあげた。他の文化ジャンルと同様、東京中心主義が根強い演劇界だが、この〝異変〟は注目に値する。(中略)「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」は昨年五月、書き下ろし新潮劇場として刊行された新作で、同年六月、作者自身の演出で東京で上演されるはずだったが、集団内の内紛のため公演直前に上演中止になったといういわくつきの作品でもある。上演中止後、作者のもとに東京のいくつかの劇団からこの戯曲の上演申し込みが相ついだが、作者はいずれも断った。しかし、旭川市の劇団「河」から申し込みがあったときは、「この劇団ならやってもらいたい」と了承し、さらにみずから旭川に飛び、約十日間滞在して演出するほどの熱意を見せた。(中略)しかも、旭川で見た初演の舞台は、スピーディーな緊迫感にとみ、演技レベルもかなり高く、初演の名に値する充実した成果を示していた。<朝日新聞夕刊・1976年5月22日付>



「・・・将門」カーテンコール


最後に、もう一度、本と企画展の紹介です。
本はきょう手元に届きました。
できたてのほやほやです。
前回もお伝えした通り、21日には書店に並びます。



出来上がった本


企画展は、明日から会場の設営が始まります。
19日の月曜日までに準備をして、20日(火)のスタートに間に合わせるつもりです。
本、企画展ともよろしくお願いします。




企画展のチラシ





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シリーズ「劇団『河』の軌跡」① 土蔵利用の小劇場 

2016-12-09 20:00:00 | 郷土史エピソード

このブログでは、たびたび紹介している旭川の劇団「河」。
かつて劇作家、清水邦夫の作品を、作者本人の演出により初演するなど、地方のアマチュア劇団としては特筆すべき足跡を残した〝伝説〟の劇団です。
実は、この2年余り「河」の関係者に取材し、その軌跡を追った本が、今月中旬に刊行されることになりました。
それに合わせ、今回から改めて劇団「河」についてシリーズでご紹介したいと思います。
1回目の今回は、「河」の本拠地であり、当時の地域の文化発信の拠点となっていた「河原館」についてです。


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まずはこちらの写真、かつての「河原館」です。



オープン間もない頃の「河原館」(1974年)


どこにあったかというと、7条通4丁目。
永山武四郎像のある常磐公園正門の向かって右。
いまライオンズマンションが建っているところの並びに数件の住宅が並んでいますが、その中に比較的小ぶりな土蔵があります。
この建物がかつての「河原館」です。
何年か前までは「電気猫」の名前で、バンドの練習場所に使われたり、時にはライブなども行われたりしていたようです。

1970年代に入り、劇団「河」は当時、新しい潮流となっていた清水邦夫や「紅テント」で知られる「状況劇場」の唐十郎らの作品の上演に挑み、それまでのリアリズム劇中心のオーソドックスなスタイルから大きく変貌していました。
演出方法も大胆になり、それまで使っていた公会堂のような、舞台と客席に〝距離感〟のある空間では物足りなさを感じていました。
そんな時に見つけたのが、この常磐公園脇の小さな土蔵です。



「河原館」の看板


メンバーはいわゆるチリ紙交換をして資金を貯め(当時はオイルショックの影響で、古紙の価格が高騰していた時期でした)、土蔵の賃貸契約を結ぶとともに床に板をはるなどして改装を行い、74年6月には、喫茶&シアター「河原館」としてオープンにこぎつけました。
こけら落し公演に選ばれたのは清水邦夫作の「ぼくらが非情の大河をくだるとき」。
道内では70年代後半以降、拠点となる自前の小劇場を設ける劇団が現れますが、「河原館」はその草分けと言えます。



「河原館」の内部


「河原館」は、日中は喫茶店として営業し、夜は劇団の稽古や公演、さらにはさまざまなイベントの開催スペースとして活用されました。
芝居を上演するときは、椅子とテーブルを外に出し、半地下の空間に降りる5段の階段に客を座らせました。
通常、舞台として使う空間の一部まで客席として利用し、ぎゅうぎゅうに詰めると50人ほどが観劇することができました。



「河原館」こけら落し公演・「ぼくらが非情の大河をくだるとき」(1974年)



こけら落し公演のチケット(1974年)



関係者に送った「河原館」開設のお知らせ(1974年)



空間の狭さは織り込み済でしたが、困ったのは建物が石造りのため新たな出入り口が作れないことでした。
役者が出入りできるのは、もともとの出入口1か所のみ。
このため建物奥の天井部分に穴をあけ、そこに梯子をかけて屋根裏への通路を作りました。
屋根裏には脇に小さな窓があったため、そこから屋根をつたって表に出る事が出来ました。
通常の出入口へは〝客席〟である階段の真ん中にスペースを空けておいて、そこを役者が通路として使用しました。
この〝簡易花道〟と天井の穴、この2か所が舞台のそで代わりでした。
苦肉の策でしたが、この独特なそでを使った役者の登退場は、思わぬ劇的な効果を生みました。
演出家、蜷川幸雄とのコンビで知られ、「河」とも深く関わった清水邦夫は、以下のように書いています。


 一番奥が舞台。上手の方に梯子に近い階段がついていて屋根裏の方に伸びている。つまり屋根裏が楽屋というわけで登場退場はその階段を使っておこなわれる。さもなければ、客席の背後の出入口を使う。(中略)しかし屋根裏から降りてきてまた屋根裏に消える登場退場は、実際そこでの芝居を見るとなかなか悪くないことに気づく。ある充分な<溜め>をもって劇的世界へとびこむことが出来るし、消え方にしてもくっきりとひとつのイメージを放電する。脱出なら脱出、逃亡なら逃亡。考えてみるに、人物の登場退場はつきつめてみるとたいていいまあげたどっちかの意味をもつ。そういったことをぼくはこの劇場であらためて発見した。<「旭川の演劇集団『河』」・「芸術新潮」1980年10月号>



劇団「河」公演・「楽屋」


また半地下の土蔵という空間は、観客の目前で芝居が行われるという小劇場ならではの臨場感だけでなく、劇空間として独特の存在感がありました。
やはり「河」と交流のあった詩人の吉増剛造は、「河原館」での観劇体験(78年の清水作「楽屋」)についてこう綴っています。


 雪をふみ、土蔵に入ると一瞬暗闇(やみ)に包まれる。白雪の輝く旭川の街路から一歩ふみこむと小さな、だが深い闇がある。しかも蔵の土間は(そこが舞台になるのだが)半地下の位置にあって入るとすぐに急な階段を降りて行かなければならない。(中略)ここに一歩ふみこみ私は不思議な奈落にひきこまれるような体験をした。つまり劇的なものに不可欠の闇の垂直性が感じられて、その入り口に立っていたのだといいなおしてもよいだろう。(中略)大地に根ざすといったり、土着、土俗、民俗といういい方を私達はすることがある。(中略)しかし土間に坐ってみた「河」の舞台の印象はそうしたいい方がもたらすものと異なっていて、地中深く埋蔵された穀物類を掘り出す作業に似ていた。その声もしぐさも舞台の底へ底へと、引きこまれてゆく。<北海タイムズ・1978年3月28日付>


私は「河原館」での「河」の公演を実際に見ていますが、清水、吉増両氏の感想には素直に頷けます。
石造の半地下の空間は、建物ごと地中に突き刺さっているような印象を与え、さまざまな情念がうずまく当時のアングラ・小劇場の作品にはぴったりの空間でした。



ある日の「河原館」(1979年)


一方、「河原館」は、当時の旭川にあって貴重な文化・芸術の発信拠点でもありました。
「河」の公演も含めて、「河原館」では、毎週末ごとに、映画の上映会やライブ、詩の朗読、落語会、講演会といったイベントが行われ、多くの人でにぎわいました。
こうした「河原館」からの文化発信は、私を含む地元の若者にとって、思いがけず、そして大きな〝恩恵〟でした。
当時は、インターネットはおろか、ビデオでさえ一般には普及していない時期です。
このため地方の若者が、東京を中心に日々発信される新しい文化に直に触れる機会はまずありませんでした。



「河原館」でのイベント上演の記録(1974~1975年)



吉増剛造のイベントチケット(1978年)



当時の記録を見てみますと、「河原館」では、現在は俳優としても活躍する舞踏家の田中泯やフォークシンガーの友川かずき(現在はカズキ)、前述の吉増剛造らがイベントを行っています(「河原館」での田中泯の舞踏は、私も見ています)。
こうしたイベントに足を運び、集まった仲間と感想を言い合う。
こうした様子について、旭川北高校出身で、アニメ「ONE PIECE」シリーズなどで活躍する脚本家の上坂浩彦は次のように書いています。


 振り返れば私の高校時代は、将来の夢を育んだ時代でした。原点は、当時在旭の劇団「河」がホームグラウンド兼喫茶店として経営していた常磐公園入り口横の「河原館」とそこに集う仲間達。クラスも違う十人ほどの同級生と共に、時に取るに足らないバカ話しに花を咲かせ、時に劇団員のお姉さん達も交え、つげ義春に鈴木翁二、別役実に唐十郎、寺山修司、大島渚に長谷川和彦、今村昌平、ボブディランにサザン、ボブマリィ・・・etcと、映画・演劇・漫画・音楽を見、聞き、話し、大いに刺激を受けたものです。私にとって、もうひとつの学校でした。
<「旭川北高同窓会ニュース North Wind 第20号」・2013年>



私は彼よりやや年上ですが、同じような感想を抱いています。
さらに学生劇団や映画鑑賞団体など、地元の様々な文化活動を行う団体や個人にも「河原館」の空間は解放され、地域文化のインキュベーター(孵卵器)としての役割を果たしたことも「河」の大きな貢献といえるでしょう。



本のチラシ


最後に、本と企画展の紹介です。
まず本の書名は「〝あの日たち〟へ ~旭川・劇団『河』と『河原館』の20年~(中西出版)」。
「河」の軌跡を、その独自性を発揮し始めた70年代から80年代を中心に追ったノンフィクションです。
定価は、税込で1620円。
今月21日までには道内の主な書店に並びます。
もちろんアマゾンでも注文できます。
発刊に踏み切ってくれた出版社を赤字にさせないためにも(!?)、1冊でも多く買い求めてもらいたいと思っています。
なにとぞよろしくお願いします。
ちなみに表紙と帯をカラーで紹介すると、こんな感じです。



本表紙



企画展チラシ



続いて出版に合わせた企画展のお知らせです。
期間は、今月20日(火)から年末年始をはさみ、新年の1月28日(土)まで。
場所は、常磐公園にある旭川文学資料館です。
名称は「旭川・劇団『河』と『河原館』の20年」です。
こちらは、多数の舞台写真に加え、ポスターやチラシ、台本など貴重な資料で「河」の足跡をたどります。
文学資料館の開館時間は午前10時から午後4時までで、日・月・祝と年末年始(12月30日~1月45日)は休館日です。
ただし12月23日(金・祝)は開館し、この日は午後1時半から会場でトークショーを行います。
トークショーでは、元劇団員の方々をお招きし、当時を振り返っていただきます。
企画展、トークショーとも入場は無料ですので、こちらも興味があれば、足をお運びください。




「河原館」(1979年)




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