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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

北修の震災避難記

2016-04-17 20:47:35 | 郷土史エピソード


大雪山の北修として知られる旭川生まれの画家、高橋北修(たかはし・ほくしゅう)。
このブログでは何度か紹介していて、すっかりおなじみですよね。
この北修、青年時代に東京で絵の修業をしていますが、その際、とんでもない体験をしているんです。


                   **********



高橋北修


こちら、高橋北修の晩年の写真です。
長女であり、長く旭川の劇団「河」の主宰者として活躍した星野由美子(ほしの・ゆみこ)さん所蔵のものを接写させていただきました。



同上


そしてこちら、20代の北修です。
1923(大正12年)9月8日の旭川新聞の記事に合わせて掲載された写真です。
実はこの日のちょうど1週間前の大正12年9月1日、日本の歴史に残る未曾有の災害がありました。
お分かりになりますよね。
そう関東大震災です。



関東大震災で被害を受けた東京(大正12年)


震災の時、北修は絵の修業のため東京にいました。
住んでいたのは隅田川に近い向島寺島町(むこうじま・てらしまちょう)、同郷の画家仲間と一緒でした。
当時の事を、本人はこう語っています。

「私は寺島に間借りをして、当市出身の画家坂野多佳春君と同居していたのですが、脚気をわずらい歩行も十分でない有様でした。(中略)正午少し前と思います。家が少し揺すれ出したのですが、始終あることですから『また地震だな』などと言い合っておりましたが、揺れ方がなかなか止みそうもなく、其のうち揺れ方が益々激しく瓦の落ちる音や恐ろしい物音が聞こえ始めたので「斯うしては居られない」と坂野君の肩にもたれ、丹前を着たり座布団を被ったりして外へ逃れ空き地に出ますと、直ぐ私達の借家の付近が土煙を上げて崩壊しました」

こうして九死に一生を得た北修ですが、3日になり、友人坂野と別れて廃墟と化した首都を脱出し、北海道に戻る決心をします。
列車と連絡船を乗り継いで旭川に到着したのは3日後の6日。
実は旭川新聞の記事は、故郷に着いたばかりの北修に取材をして掲載されたものだったんです。



北修の談話が載った旭川新聞


この旭川新聞掲載の体験談、当時、市民の注目を集めたのですが、それはある意味、地震そのものよりもいっそう北修に身の危険を感じさせた出来事があったためです。
その出来事は、仙台の手前、白石という駅で起きました。

「私は長髪の上、脚気で顔の青黒く痩せている上、顔は洗わず且つ衣類も泥まみれと言う姿ですから、同乗者が猜疑の目で見るようになり、遂には『鮮人(朝鮮人のこと)だ鮮人だ』と言うものがあり、提灯を顔へ押し付け甚だしい侮辱を与えるのでしたが、脚気のため元気が出ず黙って居ますと、遂に鮮人にされてしまい、仙台の二三駅前の白石で乗客や警官に引き摺り下され、停車場に入ると、竹槍を手にして警戒の民衆に取り囲まれ『殺してしまえ』とひしめきあうのに私は全く生きた心持はありませんでした」

当時、被災地では、災害の混乱に乗じて、朝鮮人が暴動を起こしているといった流言飛語が飛び交い、それがもとで多くの朝鮮人が殺される事件が起きました。そうしたデマは、被災地の外にも広がっていたようです。



浅草の被害(大正12年)


殺気立った群衆に取り囲まれる中、北修は「自分は日本人だ」と訴えますが、なかなか疑いは晴れません。

「私はアイウエオを読まさせられたり、大津絵(大津絵節=都都逸のような俗謡)をふるえながら歌ったのです。処が文字を書けというので書きますと、俳画などに書く癖で六朝(中国の楷書の字体の一種のこと)じみた文字、しかも下手なのですから『朝鮮の字の書風に似ている』というので益々『鮮人だ』という声が高まり・・・」

ついに北修は警察署に連行されてしまいます。
ところが、そこでふところに日記帳があったことを思い出したことで事態は急変します。

「それを差し出して旭川を出発する当時からの事を喋ると、日記にすっかり符合して居たので、此処で始めて疑いが晴れ・・・」

なぜ地震の混乱の中で日記帳を持ち出していたのかはわかりませんが、これが窮地を脱出する決め手となりました。
それから白石の人たちは、打って変って北修を手厚く歓待します。

「警察では気の毒だというので、医師に診察をさせ、脚気に対する注射を施され、杖を拵えてくれたうえに、その頭では仙台が非常に警戒が厳重だから髪を刈れと署員がバリカンで丸坊主にしてくれ、非常にいたわられて休憩の上に警官に護衛されて車掌室に乗せられて帰旭の途に着いた」

またその後の行程でも、被災地からの避難民であることを知ると、周りの人々はみな一様に親切な対応をしてくれたと北修は話しています。

「沿道各駅では避難民に対して芋を煮たのや握り飯、果実、牛乳等を窓から供給してくれるので、何れも涙を流して喜んでいた。(中略)青函連絡船では、避難民を優待してくれ、疲れているだろうからと一番動揺の少ない上等の室に入れ、ライスカレーや其の他の食物をどしどし供給してくれた」



放送劇の収録の際の北修(後列中央列)と佐藤喜一(後列左 端)(昭和13年)


この北修の震災と避難の体験談、旭川ではかなり有名になったようで、親交のあった小説家、文芸評論家の佐藤喜一(さとう・きいち)はこのように書いています。

「北修は旭川へ帰る途中仙台のあたりで韓国人、北鮮系人と間違えられ留置される。いくら正真正銘の日本人だと名のっても許されない。貧乏暮らしのひげぼうぼうの風来坊、やけのやんぱちで、「君が代」から「おけさ」「清元」「かっぽれ」まで唱い、日記を見せてやっと放免に及んだ」<佐藤喜一「高橋北修展図録」掲載「高橋北修・人と芸術」・1989年>

旭川新聞の記事に比べ、歌ったものの数が随分増えているようですね。
佐藤が尾ひれを付けたのか、それとも北修からこのように聴いたのかは分かりませんが、北修は折に触れこの時の体験を面白おかしく語っていたようです。
ひょうひょうとした風貌で「北修さん」と親しまれた彼ですが、一歩間違えれば悲惨な結果となったこのエピソードがほほえましく感じるのは、その人柄のゆえかも知れません。
なお旭川新聞に載った北修の写真は上京前に撮影した写真であると、記事に断りが載っていました。せっかくなら東北で丸坊主になされた姿の写真を見たかったと思うのは私だけでしょうか。




自宅アトリエでの北修



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