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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

神谷バーと旭川

2016-07-19 19:19:13 | 郷土史エピソード

先日、用事があって東京に行った際、1年ぶりに浅草に寄ってきました。この浅草の観光名所になっている場所の一つに、旭川とゆかりの深いところがあります。


                   **********


その場所とは、こちら。



浅草にある神谷バー


地下鉄の浅草駅を出てすぐのところにあるここ。ご存じの方も多いのではないでしょうか。
明治13(1880)年創業と100年を超える歴史を誇る「神谷(かみや)バー」です。
では、この「神谷バー」の名物といえば?これも知っているという方がたくさんいるのではないでしょうか。
浅草名物としても知られる飲み物、そう「電気ブラン」です。



電気ブラン


「電気ブラン」は、ブランデーに薬草などをブレンドしたカクテルです。
太宰治や萩原朔太郎などの文学者にも愛され、多くの小説や詩にその名が登場します。
なぜ電気かというと、当時はモダンなもの、目新しいものには、「電気館(映画館)」など、頭に電気と名付けたからだそうです。
痺れるほど美味しい、という意味ではないのですね。
で、この「電気ブラン」、誰が考案したかというと、この方。



神谷傳兵衛(1856-1922・初代神谷伝兵衛伝より)


「神谷バー」の創始者でもある神谷傳兵衛<かみや・でんべえ>さんです。
傳兵衛氏は、酒の引き売りから商売を始めたたたき上げの実業家で、その後ワインの醸造などで財を成しました。
そして、彼がワインの醸造とともに情熱を傾けたのが、当時輸入に頼っていた酒精=アルコールの製造です。
明治33(1900)年、傳兵衛氏は、新会社「日本酒精製造株式会社」を設立しますが、なんと工場は旭川に建てました。
理由は、原料としたのがジャガイモとトウモロコシだったから。
傳兵衛氏は農業の近代化が進み始めていた北海道に目を付け、安値で原料が手に入る旭川に工場を建てたのです。
この旭川工場、日本初の本格的な酒精製造工場だったそうです。



神谷酒造の旭川工場(大正元年・旭川名勝より)


実は、この「日本酒精製造株式会社」、酒税上の不利益を被ったことなどから2年余りで解散に追い込まれてしまいます。
しかし新事業にかける傳兵衛氏の意志は固く、明治36(1903)年には「神谷酒造合資会社」として会社を再建。
その後、他の焼酎メーカーとの合併で誕生したのが、いまも旭川で操業する「合同酒精」です。



合同酒精旭川工場(昭和2年・合同酒精社史より)


現在、浅草の「神谷バー」で販売されている「電気ブラン」は、「合同酒精」が製造していますが、その背景にはこうした歴史があるのです。
なお旭川工場では、当時、製造過程で出る残滓(酒精粕)を飼料にした養豚を傳兵衛氏の指示で行っており、これがその後の旭川の養豚業の隆盛につながったとされています。
さらにこの養豚業の発展が、豚骨に煮干しなどを加えたスープにラードをたっぷりと使う、のちの旭川ラーメンの隆盛を支えたという説もあります(そういえば、旭川は道内でも室蘭と並ぶ、豚肉文化地ですよね)。
明治の昔、遠い浅草の地で活躍した実業家が築いた旭川工場、その影響が今も残っていると思うと、ますます郷土史の面白さにのめり込んでしまいます。




神谷酒造旭川工場と養豚施設(手前)(大正2年・目で見る旭川の歩みより)




コメント (2)
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弥彦神社の写真

2016-07-06 18:10:00 | 郷土史エピソード

「アンコール・私の好きな旭川」のシリーズの中で、以前触れた、かつて常磐公園にあった弥彦神社、かなり不鮮明なのですが、写真が見つかりましたのでご紹介したいと思います。


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その写真とは、こちら。
真新しい鳥居が確認できます。



昭和11年7月8日・旭川新聞


昭和11年7月の旭川新聞に載った記事に添えられていたものです。
記事の見出しは「常磐の森に又名物 伊夜日子(=弥彦)神社完成 けふ遷座式挙行」となっています。



同上



写真はもう1枚。
こちらは同じ年の6月末の記事に付いていました。



昭和11年6月30日・旭川新聞


同上



こちらは建設中の神社を写したものですね。
左側手前に社殿があるのがわかります。
そして奥の一段高い所にもう一つ社殿があって、中央手前からそちらに向かって4枚の板が渡してあるように見えます。
おそらく土などを運ぶいわゆるネコと呼ばれる一輪の運搬車用に敷いたものと思われます。



弥彦神社、桃太郎神社があった常磐公園の一角



この神社、おさらいをしますと、弥彦神社と付属の桃太郎神社といって、かつて道立旭川美術館のとなりにある駐車場の、向かって左にあるスペースにありました(その一角だけ〝へそ〟のように住宅地に飛び出た場所です)。



同上


造営したのは、当時、近くに住んでいた実業家の長谷川石太郎さんという方です。
昭和7年、公園の一角にあるこの土地を借り、自身の出身地である新潟ゆかりの弥彦神社旭川分社と子ども向けの桃太郎神社を建てたのだそうです。
そしてその後、昭和50年代に市から土地の明け渡しを求められ、御神体を鷹栖神社内の六号神社に移し、社殿は取り壊されました。



神社のあった場所


今回見つけた新聞記事には、長谷川さんが私財を投じ、「以前庁立旭川高女の傍らにあった弥彦神社を移して祭り・・・」と書かれています。
わたしは新潟の弥彦神社の分社を作ったので「遷座式」を行ったと理解していましたが、分社はすでに存在していて、この時期に常磐公園に移したことがわかりました。



神社の基礎の一部か


また「ほかに白木の可愛らしい桃太郎社の社殿が作られ、入り口には青銅四尺五寸の二宮金次郎の銅像が飾られるなど、子供の遊園地にふさわしい神社が飾られているが・・・」とあり、子供の遊び場として桃太郎神社が位置づけられていたこともわかりました。
一方、記事には、長谷川氏の談話として「一生の思出にすると共に、子供たちのために清潔な遊び場を作り合はせて敬神の念が養へればよいと思って計画しました」とあり、神社造成の目的も明らかになりました。



当時の神社で使われていた獅子頭


なお旭川の文学史に詳しい詩人、東延江さんの著書「旭川詩壇史」には、弥彦神社の境内で、白楡詩社という詩人グループが詩歌展を開いたことが書かれています。
神社の大木に詩歌を貼り、欲しい人には作品をあげるという趣向で、希望が殺到して抽選になるなど盛況だったと書かれていますが、よく見ると開催されたのは1回目が大正13年7月21~22日、2回目は同年10月2日となっています。
とすれば、この詩歌展は、常磐公園に移される以前の弥彦神社で開かれたことになります。
東さんの本にも、「旭川・牛朱別川畔、弥彦神社」となっていて、弥彦神社が庁立高女(現旭川西高校・切り替え前の牛朱別川はこの学校のすぐ裏を流れていた・庁立は道立の意味)の傍らにあったという旭川新聞の記事とも合致します。



切替前の牛朱別川と庁立高女 常磐公園(左下)の脇を流れるのが牛朱別川。そのさらに右に庁立高女(右下)と日章小学校(その上)の校舎が見える。(昭和4年・日本地理体系より)


今回の件は、図書館にお勤めの司書さんから、こんな記事があったよと声をかけていただいたことがきっかけでわかりました。
ひとつの記事からいろいろな事実を知ることが出来る、これも郷土史を調べるだいご味です。

コメント (2)
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