旭川歴史市民劇の本番まで、あと1か月を切りました。
度々お伝えしていますが、この劇には、大正末から昭和初めにかけてのゴールデンエイジの旭川で活躍した実在の人物が多数登場します。
その中でヒロイン的な役割を持たせているのが、旭川で2度暮らし、のちに日本を代表する歌人となる齋藤史です。
今回は、彼女に関して、新たに入手した興味深い資料をご紹介します。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/de/55bfbea4caa205bf8425a3a3a3fea7ba.png)
齋藤史(1909−2002・齋藤宣彦氏蔵)
齋藤史は、1909(明治42)年、東京生まれ。
陸軍将校で、佐々木信綱門下の歌人でもあった父、瀏の転勤に伴い、幼少期の5年間と、十代の2年余を旭川で過ごしました。
1度目の旭川滞在では、当時将校の子供が通っていた北鎮小学校で学びますが、のちに二・二六事件で決起する栗原安秀は同級生、坂井直は1級下の幼馴染でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/e7/4b2e682b14a6d631183faa2a8acbdaf4.png)
酒井廣治(旭川市文学資料館蔵)
その史や瀏については、何人かの地元文化人が書き残しています。
その一人、歌人で実業家でもあった酒井廣治は、短歌の研究会、旭川歌話会で齋藤親子と親しく交流しました。
(瀏は)斗酒辞せず酒豪で人に隔てを置かない人だったが我の強いところもあつた。然し歌会などで人の意見は意見としてよく聴くといふ寛容さを持つていた。奥さんが病身のため女学校を出たばかりのお嬢さんの史子さんが万事家事を切り回しておられた。史子さんは後東京毎日新聞社募集でミス日本になつたので有名だつたが齋藤さんに似て丸顔の可愛らしいお嬢さんだつた。(歌誌「あさひね」昭和28年7月号「齋藤瀏さんのこと」より)
この頃、史は自ら「史子」と名乗ることが多かったようです。
子を付けたほうがモダンな名前の印象が強かったことに加え、実際に、出生届には「史子」としてあったのを、係が間違えて「史」としてしまったという事情もありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/f3/2cf42d4343e771e6f5e2c305ad62d3a4.jpg)
「旭川夜話 その裏面史―」(佐藤喜一著)
一方、旭川市立図書館の館長などを歴任し、小熊秀雄の研究でも知られる佐藤喜一は、旭川と二・二六事件との関連について触れた文章で、次のように書いています。
斎藤瀏が旭川師団の参謀長当時、栗原勇(筆者注・栗原安秀の父親)は連隊付中佐で官舎が隣接し(二区二条)、安秀と瀏の長女史とは幼馴なじみだった。北鎮小学校は同級生として通って居り、瀏の家にも遊びに来ていた。
若山牧水夫妻が旭川にきて、酒井広治、斎藤瀏らを交え歌会があった頃(大正十五年)、師団官舎には評判の三美人がいた。井上久子、国友澄子、斎藤史(彼女は後に「アサヒグラフ」の表紙で全国に紹介さる)らだった。
史は五尺二寸五分(筆者注・約160センチ)、ハンチングをあみだに冠り白いスェーターに乗馬ズボンといったモダンスタイル。「若草」や「少女画報」に投稿していた文学少女、後に前川佐美雄らと「短歌作品」を発行、第一歌集「魚歌」「暦年」「朱天」を刊行、戦後長野に疎開、小説、短歌に活躍し、長野県文化功労賞や、短歌部門では「釈迢空賞」を得た。(「旭川夜話 その裏面史ー」より)
酒井廣治は、東京毎日主催のコンテストでミス日本、佐藤喜一は「アサヒグラフ」の表紙と、それぞれ書いていますが、史の年譜などにはそれらしい記述はありません。
一方、旭川文学資料館の齋藤史の展示コーナーの掲示写真に、「アサヒグラフ」募集の「現代の女性美」で最高点を取った、といった内容の記載があることがわかりました。
その写真がこれです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/73/eaf9fb43d3ffb2aa362c125a4d40317e.jpg)
断髪・洋装姿の史(旭川文学資料館蔵)
史は、明治生まれにしては晩年にいたるまで洋服を好んだ人です。
この写真は、その好みがよく出ている上、当時の流行りだった断髪のモガ(モダンガール)姿が印象的です。
さらに「アサヒグラフ」の「現代の女性美」という企画を調べていくと、昭和4年の3月27日号にこのような記事がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/fc/dda39decde2b159d3494c77046adff32.jpg)
募集記事が掲載されたアサヒグラフ(「アサヒグラフ」昭和4年3月27日号より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/29/4b6b3b21f0e5c5535fafff815e885d3f.jpg)
「現代の女性美」募集記事(下段、「アサヒグラフ」昭和4年3月27日号より)
「現代の女性美大募集」、いわば雑誌上のミスコンですね。
記事には「この昭和新時代の女性美がどのような標準のもとに変化しているでしょうか。ここに左記要領と規定で読者諸君の推薦によって最も現代を代表する女性美を全日本から求めようといたします」とあります。
説明によりますと、企画では、推薦者が写真と経歴を編集部に送り、各方面の権威とされる審査委員が入選者を選定して雑誌に掲載します。
さらにその入選者の中から「現代の女性美」の代表8名が選ばれるという趣向でした。
ちなみに審査委員は、画家の藤島武二、鏑木清方、彫刻家の朝倉文夫、彫刻家で文学者でもあった高村光太郎、民俗学者の柳田国男、劇作家、演出家の村山知義などそうそうたるメンバーです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/dd/796a518ced745cdd6f28ba11552e7df1.jpg)
1回目の入選者発表記事(「アサヒグラフ」昭和4年5月15日号より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/e9/b2f9495874fcb3b10fad91887d47e170.jpg)
アップ(「アサヒグラフ」昭和4年5月15日号より)
そして5月15日号で、1回目の入選者が発表されるのですが、ご覧のように文学資料館に掲示されているものと同じ史の写真が載っています。
推薦者として応募したのは山田三郎という熊本の人物と書いてありますが、史との関係は不明です。
ただ写真を添えての応募なので、本人や瀏も承知してのことと思われます。
入選者の発表は順次行われ、全部で90人の写真が紹介されました。
そして8月になっていよいよ代表8人の発表となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/9a/b9f878b9f87b8b238e07d676082ea900.jpg)
代表8名の発表1回目(「アサヒグラフ」昭和4年8月7日号より)
こちらが1回目の発表です。4人が掲載されていますが、史はいません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/ec/92abff946fd4b19fddd4cd16f30c7746.jpg)
代表8名の発表2回目(「アサヒグラフ」昭和4年8月14日号より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/c7/b84f1a305dc79ec152b467c34d8d12c7.jpg)
アップ(「アサヒグラフ」昭和4年8月14日号より)
2回目の発表です。
史がいます。
入選発表では胸から上だけでしたが、こちらは上半身全体が紹介されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/21/e239ff211ea5508e658f270378813bf9.jpg)
史の紹介文(「アサヒグラフ」昭和4年8月14日号より)
写真には、紹介文も添えられています。
齋藤史子さん
史子さんは(二一)は熊本第六團第十一旅團長齋藤瀏少将の令嬢、小倉第一高等女学校を出られた方で、今度の女性美代表の審査會で各審査委員が口を揃へて、どこにも不自然なところがない、全く均整のとれた顔形と最高點で折紙をつけられただけに、至って圓満なタイプの持主です。
実は発表された代表8人に序列は付けられていません。
ただ史の紹介文に、「最高點で折紙をつけられた」とあることから「ミス日本」などの記述につながったと思われます。
ちなみにこの企画では、入選者90人のうち、誰が女性美代表8人になるかを当てるという賞品付きの読者投票も行われ、なんと23万6000もの投票があったと書かれています。
一人で何回も投票できたようですが、それにしてもものすごい数。
この時代の史は、まだ歌人として有名になる前ですが、多くの人の記憶に残ったに違いありません。
一方、記事では、史を21歳としていますが、生年月日からみるとこの時点ではまだ20歳です。
さらに写真も雑誌掲載の前年に撮られたものである可能性が高いことが分かってきました。
その根拠となるのがこちら。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/68/aa627e69c5b0a15ac52b1b98a0135c6d.jpg)
昭和3年撮影の写真(齋藤史記念短歌文庫蔵)
長野市にある齋藤史記念短歌文庫に所蔵されている写真です。
撮影は昭和3年。
史は19歳と裏書きされています。
「アサヒグラフ」に掲載された写真と比べますと、服装や髪型などまったく同じ。
2枚は同じ日に撮られた可能性が高いと思われます。
「現代の女性美」応募のため、1年前に撮影した写真を、応募者が借りて送ったと思われますが、いかがでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/6d/8981516fbc77c8362670db6d6a392a46.png)
18歳の史(昭和2年3月・旭川新聞)
史は、短歌を始めるきっかけとなった若山牧水との出会いや、二・二六事件との関わり等、「物語を持った最後の歌人」と呼ばれた方です。
この誌上ミスコンの件も含め、本当に数奇な人生を生きた人だったと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/9e/fc0264bfa46dbde8876e2803272cc14f.jpg)
小熊秀雄(「新版小熊秀雄全集」より)、小池栄寿(旭川文学資料館蔵)、鈴木政輝(旭川文学資料館蔵)
なおこの話を書いていて、今回の市民劇に登場する実在の人物に美男美女が多いと改めて思いました。
小熊秀雄、小池栄寿、鈴木政輝の3詩人は、以前にもこのブログで書いたように皆イケメンですよね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/44/ec08eb5605b03cd10b67c3f623f4afd4.jpg)
佐藤市太郎(札幌市文化資料室蔵)、スタルヒン(ナターシャ・スタルヒン氏蔵)
第一神田館の佐藤市太郎も、若い頃の写真は渋い感じのいい男です。
スタルヒンもハンサムぶりには定評があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/5e/adcc3da6bd661c0587bce344aee6b2ea.jpg)
齋藤史(齋藤宣彦氏蔵)、佐野文子(「シリーズ福祉に生きる 18 ピアソン宣教師夫妻/佐野文子」より)
さらに社会活動家の佐野文子も、史に負けずきれいな方でした。
旭川のゴールデンエイジに躍動した美男美女。
こうした点も、当時の旭川が光り輝やいて見える一つの要素なのかもしれません。
度々お伝えしていますが、この劇には、大正末から昭和初めにかけてのゴールデンエイジの旭川で活躍した実在の人物が多数登場します。
その中でヒロイン的な役割を持たせているのが、旭川で2度暮らし、のちに日本を代表する歌人となる齋藤史です。
今回は、彼女に関して、新たに入手した興味深い資料をご紹介します。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/de/55bfbea4caa205bf8425a3a3a3fea7ba.png)
齋藤史(1909−2002・齋藤宣彦氏蔵)
齋藤史は、1909(明治42)年、東京生まれ。
陸軍将校で、佐々木信綱門下の歌人でもあった父、瀏の転勤に伴い、幼少期の5年間と、十代の2年余を旭川で過ごしました。
1度目の旭川滞在では、当時将校の子供が通っていた北鎮小学校で学びますが、のちに二・二六事件で決起する栗原安秀は同級生、坂井直は1級下の幼馴染でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/e7/4b2e682b14a6d631183faa2a8acbdaf4.png)
酒井廣治(旭川市文学資料館蔵)
その史や瀏については、何人かの地元文化人が書き残しています。
その一人、歌人で実業家でもあった酒井廣治は、短歌の研究会、旭川歌話会で齋藤親子と親しく交流しました。
(瀏は)斗酒辞せず酒豪で人に隔てを置かない人だったが我の強いところもあつた。然し歌会などで人の意見は意見としてよく聴くといふ寛容さを持つていた。奥さんが病身のため女学校を出たばかりのお嬢さんの史子さんが万事家事を切り回しておられた。史子さんは後東京毎日新聞社募集でミス日本になつたので有名だつたが齋藤さんに似て丸顔の可愛らしいお嬢さんだつた。(歌誌「あさひね」昭和28年7月号「齋藤瀏さんのこと」より)
この頃、史は自ら「史子」と名乗ることが多かったようです。
子を付けたほうがモダンな名前の印象が強かったことに加え、実際に、出生届には「史子」としてあったのを、係が間違えて「史」としてしまったという事情もありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/f3/2cf42d4343e771e6f5e2c305ad62d3a4.jpg)
「旭川夜話 その裏面史―」(佐藤喜一著)
一方、旭川市立図書館の館長などを歴任し、小熊秀雄の研究でも知られる佐藤喜一は、旭川と二・二六事件との関連について触れた文章で、次のように書いています。
斎藤瀏が旭川師団の参謀長当時、栗原勇(筆者注・栗原安秀の父親)は連隊付中佐で官舎が隣接し(二区二条)、安秀と瀏の長女史とは幼馴なじみだった。北鎮小学校は同級生として通って居り、瀏の家にも遊びに来ていた。
若山牧水夫妻が旭川にきて、酒井広治、斎藤瀏らを交え歌会があった頃(大正十五年)、師団官舎には評判の三美人がいた。井上久子、国友澄子、斎藤史(彼女は後に「アサヒグラフ」の表紙で全国に紹介さる)らだった。
史は五尺二寸五分(筆者注・約160センチ)、ハンチングをあみだに冠り白いスェーターに乗馬ズボンといったモダンスタイル。「若草」や「少女画報」に投稿していた文学少女、後に前川佐美雄らと「短歌作品」を発行、第一歌集「魚歌」「暦年」「朱天」を刊行、戦後長野に疎開、小説、短歌に活躍し、長野県文化功労賞や、短歌部門では「釈迢空賞」を得た。(「旭川夜話 その裏面史ー」より)
酒井廣治は、東京毎日主催のコンテストでミス日本、佐藤喜一は「アサヒグラフ」の表紙と、それぞれ書いていますが、史の年譜などにはそれらしい記述はありません。
一方、旭川文学資料館の齋藤史の展示コーナーの掲示写真に、「アサヒグラフ」募集の「現代の女性美」で最高点を取った、といった内容の記載があることがわかりました。
その写真がこれです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/73/eaf9fb43d3ffb2aa362c125a4d40317e.jpg)
断髪・洋装姿の史(旭川文学資料館蔵)
史は、明治生まれにしては晩年にいたるまで洋服を好んだ人です。
この写真は、その好みがよく出ている上、当時の流行りだった断髪のモガ(モダンガール)姿が印象的です。
さらに「アサヒグラフ」の「現代の女性美」という企画を調べていくと、昭和4年の3月27日号にこのような記事がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/fc/dda39decde2b159d3494c77046adff32.jpg)
募集記事が掲載されたアサヒグラフ(「アサヒグラフ」昭和4年3月27日号より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/29/4b6b3b21f0e5c5535fafff815e885d3f.jpg)
「現代の女性美」募集記事(下段、「アサヒグラフ」昭和4年3月27日号より)
「現代の女性美大募集」、いわば雑誌上のミスコンですね。
記事には「この昭和新時代の女性美がどのような標準のもとに変化しているでしょうか。ここに左記要領と規定で読者諸君の推薦によって最も現代を代表する女性美を全日本から求めようといたします」とあります。
説明によりますと、企画では、推薦者が写真と経歴を編集部に送り、各方面の権威とされる審査委員が入選者を選定して雑誌に掲載します。
さらにその入選者の中から「現代の女性美」の代表8名が選ばれるという趣向でした。
ちなみに審査委員は、画家の藤島武二、鏑木清方、彫刻家の朝倉文夫、彫刻家で文学者でもあった高村光太郎、民俗学者の柳田国男、劇作家、演出家の村山知義などそうそうたるメンバーです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/dd/796a518ced745cdd6f28ba11552e7df1.jpg)
1回目の入選者発表記事(「アサヒグラフ」昭和4年5月15日号より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/e9/b2f9495874fcb3b10fad91887d47e170.jpg)
アップ(「アサヒグラフ」昭和4年5月15日号より)
そして5月15日号で、1回目の入選者が発表されるのですが、ご覧のように文学資料館に掲示されているものと同じ史の写真が載っています。
推薦者として応募したのは山田三郎という熊本の人物と書いてありますが、史との関係は不明です。
ただ写真を添えての応募なので、本人や瀏も承知してのことと思われます。
入選者の発表は順次行われ、全部で90人の写真が紹介されました。
そして8月になっていよいよ代表8人の発表となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/9a/b9f878b9f87b8b238e07d676082ea900.jpg)
代表8名の発表1回目(「アサヒグラフ」昭和4年8月7日号より)
こちらが1回目の発表です。4人が掲載されていますが、史はいません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/ec/92abff946fd4b19fddd4cd16f30c7746.jpg)
代表8名の発表2回目(「アサヒグラフ」昭和4年8月14日号より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/c7/b84f1a305dc79ec152b467c34d8d12c7.jpg)
アップ(「アサヒグラフ」昭和4年8月14日号より)
2回目の発表です。
史がいます。
入選発表では胸から上だけでしたが、こちらは上半身全体が紹介されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/21/e239ff211ea5508e658f270378813bf9.jpg)
史の紹介文(「アサヒグラフ」昭和4年8月14日号より)
写真には、紹介文も添えられています。
齋藤史子さん
史子さんは(二一)は熊本第六團第十一旅團長齋藤瀏少将の令嬢、小倉第一高等女学校を出られた方で、今度の女性美代表の審査會で各審査委員が口を揃へて、どこにも不自然なところがない、全く均整のとれた顔形と最高點で折紙をつけられただけに、至って圓満なタイプの持主です。
実は発表された代表8人に序列は付けられていません。
ただ史の紹介文に、「最高點で折紙をつけられた」とあることから「ミス日本」などの記述につながったと思われます。
ちなみにこの企画では、入選者90人のうち、誰が女性美代表8人になるかを当てるという賞品付きの読者投票も行われ、なんと23万6000もの投票があったと書かれています。
一人で何回も投票できたようですが、それにしてもものすごい数。
この時代の史は、まだ歌人として有名になる前ですが、多くの人の記憶に残ったに違いありません。
一方、記事では、史を21歳としていますが、生年月日からみるとこの時点ではまだ20歳です。
さらに写真も雑誌掲載の前年に撮られたものである可能性が高いことが分かってきました。
その根拠となるのがこちら。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/68/aa627e69c5b0a15ac52b1b98a0135c6d.jpg)
昭和3年撮影の写真(齋藤史記念短歌文庫蔵)
長野市にある齋藤史記念短歌文庫に所蔵されている写真です。
撮影は昭和3年。
史は19歳と裏書きされています。
「アサヒグラフ」に掲載された写真と比べますと、服装や髪型などまったく同じ。
2枚は同じ日に撮られた可能性が高いと思われます。
「現代の女性美」応募のため、1年前に撮影した写真を、応募者が借りて送ったと思われますが、いかがでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/6d/8981516fbc77c8362670db6d6a392a46.png)
18歳の史(昭和2年3月・旭川新聞)
史は、短歌を始めるきっかけとなった若山牧水との出会いや、二・二六事件との関わり等、「物語を持った最後の歌人」と呼ばれた方です。
この誌上ミスコンの件も含め、本当に数奇な人生を生きた人だったと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/9e/fc0264bfa46dbde8876e2803272cc14f.jpg)
小熊秀雄(「新版小熊秀雄全集」より)、小池栄寿(旭川文学資料館蔵)、鈴木政輝(旭川文学資料館蔵)
なおこの話を書いていて、今回の市民劇に登場する実在の人物に美男美女が多いと改めて思いました。
小熊秀雄、小池栄寿、鈴木政輝の3詩人は、以前にもこのブログで書いたように皆イケメンですよね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/44/ec08eb5605b03cd10b67c3f623f4afd4.jpg)
佐藤市太郎(札幌市文化資料室蔵)、スタルヒン(ナターシャ・スタルヒン氏蔵)
第一神田館の佐藤市太郎も、若い頃の写真は渋い感じのいい男です。
スタルヒンもハンサムぶりには定評があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/5e/adcc3da6bd661c0587bce344aee6b2ea.jpg)
齋藤史(齋藤宣彦氏蔵)、佐野文子(「シリーズ福祉に生きる 18 ピアソン宣教師夫妻/佐野文子」より)
さらに社会活動家の佐野文子も、史に負けずきれいな方でした。
旭川のゴールデンエイジに躍動した美男美女。
こうした点も、当時の旭川が光り輝やいて見える一つの要素なのかもしれません。