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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

お知らせ 歴史市民劇の本出版記念イベントの延期について

2021-08-25 21:21:40 | 郷土史エピソード


先日、このブログでお知らせした旭川歴史市民劇の本の出版記念イベント=8月28日(土)13:00〜・旭川まちなかぶんか小屋=ですが、延期が決まりました。
27日から、国の緊急事態宣言が北海道にも拡大されることに伴い、まちなかぶんか小屋でのイベントが、9月12日まで、延期か中止されることになったためです。
参加をご検討いただいていた方には、ご迷惑をかけますが、何卒ご容赦下さい。

なお新たな開催日は、9月25日(土)16:00〜 を予定しています。
内容は、演出の高田学さんをゲストに迎えてのトーク、休憩を挟んで市民劇のDVDの上映ということで、変わりはありません。

何卒よろしくお願いいたします。




市民劇 関連地図・実在の登場人物生没年比較表

2021-08-15 17:30:00 | 郷土史エピソード



前回、ページ数の関係で、旭川歴史市民劇の本に掲載できなかった原稿(架空の登場人物の裏設定)をアップしましたが、今回も引き続き、同様の資料を見ていただきます。
今回掲載するのは、市民劇の関連地図(郊外・中心部の2種類)と、実在の登場人物の生没年の比較表です。
それではどうぞ!



                   **********



◆市民劇関連地図(郊外)



画像01 市民劇関連地図(郊外)


まずは関連地図(郊外)です。
ベースにしたのは、旭川市が作成した大正15年の市全図です。
その上に、市民劇の関連スポットを書き込んであります。
まず目に付くのは、激しく蛇行し、流路も一定していない川の様子です(このため流域にはおびただしい数の川の中州が存在しています)。
このうち牛朱別川は、昭和5年からの切替工事の前ですので、今より市の中心部よりを流れています。



画像02 市民劇関連地図(郊外)拡大その1


北側の拡大図です。
ここではまず第七師団の敷地の広さが目に付きます。
このうち「第七師団練兵場」と書かれている部分が、今の自衛隊の駐屯地に当たります。
軍の施設はその周りに建ち並んでいます。
劇の中で齋藤史が通ったと語る北鎮小学校は、今と同じ位置にあります。
瀏と史が住んでいた参謀長官舎はその少し南です。
冬の撮影ですが、参考に官舎があったと思われる場所の写真を載せておきます。



画像03 参謀長官舎の跡地と思われる場所


そしてそのさらに南、ヨシオとタケシが通った師範学校も、今の教育大学がある場所と同じところにあります。
佐野文子が廃娼運動のため乗り込んだと語られる中島遊郭は、今の東1〜2条2丁目にありました。



画像04 市民劇関連地図(郊外)拡大その2


南側の拡大図です。
ヨシオとタケシは、オリジナル脚本では師範学校の生徒ですが、上演台本では商業学校に通っているという設定です。
なので、商業学校の位置も表示しておきました。
師範学校も商業学校もゴールデンエイジの直前、それぞれ大正12年と11年の開校です。



画像05 市民劇関連地図(郊外)拡大その3


画像03・04と一部重なりますが、東側の拡大図です。
中心部から師団や師範学校のあった近文地区に行くには、今のロータリーの位置で牛朱別川に架かっていた常盤橋、さらに旭橋を渡る必要があったことがよく分かります。
さらによく見ると、旭橋の下流に新橋ができているのが分かります。
新橋はこの地図が作成された前年、大正14年に誕生しています(その詳細については、近くこのブログでも紹介する予定です)。
常盤橋下流の牛朱別川には、常磐公園に通じる相生橋、そしてさらにその下流の蓬莱橋の2つの橋がありました。
ですので、このうちの蓬莱橋を通って今の新町辺り、さらに新橋を通って近文地区に行くルートも、大正14年以降はあったわけです。



画像06 旭川歴史市民劇の舞台その1


◆市民劇関連地図(中心部)


続いては、中心部の関連地図です。



画像07 市民劇関連地図(郊外)


これも大正末〜昭和初期の地図に、市民劇の関連スポットの位置を書き入れてあります。
駅前から北に延びるのは今の平和通にあたる師団道路(師団通)です。
多くの関連スポットがこの通りの周辺にあることが分かります。



画像08 市民劇関連地図(郊外)拡大その1


北側の拡大図です。
4条通8丁目に、劇の主な舞台であるカフェー・ヤマニがあります。
オープニングで炎上する第一神田館、ヨシオ、タケシが美術展準備のアルバイトをした旭ビルディング百貨店、北修が齋藤瀏、史親子を見かけたと話した北海ホテルは、いずれもヤマニのご近所です。
佐野文子や酒井廣治、高橋北修も街なかの住人ですね。
北海タイムス旭川支局はアクト3に登場した竹内武夫の勤務先です。



画像09 市民劇関連地図(郊外)拡大その2


南側です。
小熊が勤めた旭川新聞社は3条通9丁目にありました。
同じ3条通の6丁目に事務所のある旭粋会は、劇に登場した極粋会のモデルにした団体です。
神田館の大将こと、佐藤市太郎も街なかに住んでいました。



画像10 市民劇関連地図(郊外)拡大その3


東側です。
小熊秀雄は旭川では複数の場所に住みましたが、この地図には、9条通15丁目右8号の借家の位置を示してあります。
昭和3年6月に、小熊が妻子とともに3度目の上京をする直前まで住んでいた家です。
少し前のものですが、この場所のいまの様子を撮影した写真がありますので、掲載しておきます。



画像11 小熊が住んだ住宅があった場所


切替工事前の牛朱別川のほとりにあったこの住宅ですが、以前紹介した小熊の友人、小池栄寿(劇の登場人物でもあります)の手記「小熊秀雄との交友日記」にも度々登場します。


(昭和2年)5月8日。日曜。小熊秀雄氏を初めて九条十五丁目の自宅に訪れる。眼鏡の奥さんにも息子の焔さん(オンリー二歳)にも初めてお目にかかる。十一時半すぎ辞して牛朱別川の堤防に出ると、小熊氏が髪をふり乱して追ってきた。俺の持っていった「白山詩人」を持って来たのだ。(中略)二人は牛朱別川ぶちを鉄橋の向ふまで歩き養鯉場の所から日の出橋に出て堤防を歩きまだ芽を出さぬ天をつくポプラ林を通り、氏の家の前で別れる。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


手記に出てくるポプラ林。
昔ワタクシが通った常盤中学校(現在の中央中学校)の周辺にもポプラの林がありましたが、同じものかもしれません。



画像12 旭川歴史市民劇の舞台その2


◆実在の登場人物の生没年比較表


最後は、劇に登場する実在の人物の生没年をグラフ化した表です。
人物名の後の()内の数字は、劇に初めて登場したときの年齢です。
また没年の後ろは亡くなったときの満年齢です。



画像13 実在の登場人物の生没年比較表


こうしてみると、やはり小熊(39歳)、今野大力(31歳)、スタルヒン(40歳)という上京組の死亡時の年齢の若さが目立ちます。



画像14 小熊・大力・スタルヒン


これに対し、旭川に残ったり、戻ったりした北修、鈴木政輝、町井八郎らは、いずれも70代後半まで生きています。
特に長寿だったのは前述の小池栄寿ですね。
晩年は本州で暮らしたと聞いていますが、2003年に97歳で亡くなっています。



画像15 小池栄寿


長寿と言えば、劇のヒロイン、齋藤史もそうです。
栄寿没年の前の年に93歳の人生を終えています。
三浦綾子は1999年に亡くなっていますので、市民劇の実在の登場人物のうち2000年代を経験したのは栄寿、史の2人だけです。



画像16 齋藤史・三浦綾子


この比較表、以前、講演の際に、参加者から「こうした資料もあったら良い」と提案をいただいた事を受けて作成しました。
ともに平成の世も生きた齋藤史と三浦綾子がもし対談したとしたら、どんな話になっただろう、などと想像するだけで楽しくなります。




画像17 旭川歴史市民劇の舞台その3


画像18 旭川歴史市民劇の舞台その4


画像19 旭川歴史市民劇の舞台その5


*舞台写真提供 ㈱アイディアサンタ 竹内正樹(でじたるパパ)








市民劇 人物裏設定

2021-08-10 16:00:00 | 郷土史エピソード


先日、出版した旭川歴史市民劇の本ですが、実は制作の過程でページ数が予定を大幅に超過してしまいました。
このため用意した原稿のうち一部について、泣く泣くですが、掲載を見送りました(それでもページ数は予定より30ページほど多くなりましたが・・・)。
掲載を見送ったのは、市民劇の記録の一部、脚本に付ける注釈、架空の登場人物の裏設定、それに歴史解説のうち関連の年表や地図などです(このほか、上演台本や、予告編=プレ公演の台本も載せることができればと思っていました)。

このうち架空の登場人物の裏設定ですが、劇では直接描かれていない生い立ちや境遇、性格、嗜好などについてまとめたものです。
特に主要な人物については、劇のあとの時代をどう生きたのか、亡くなるまでの経過についても設定を決めました(もちろんあくまで架空の登場人物についてのものなので、すべてフィクションです)。
こうした裏想定は、作者にとって物語を作る上での土台となりましたし、実際の舞台の創作では、それぞれの人物を演じるキャストに示し、役作りをする際の手がかりとしてもらいました。

ということで、本掲載の替わりと言ってはなんですが、今回は、この架空の登場人物の裏設定をブログ記事として載せたいと思います。
本を読んでいただいた方、舞台を見ていただいた方は、「この登場人物はこんなバックグラウンドを持っていたんだ」、「劇の後にはこんな運命が待っているんだ」など、さまざまに楽しめる内容かと思います。
また本を見ていただいていない方でも、このブログには初稿のオリジナル脚本を掲載してありますので、そちらを見ていだだければやはり楽しめるかと思います。

なお本への掲載ができなかった他の原稿についても、機会を見てこのブログに発表していきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。

*舞台写真提供 ㈱アイディアサンタ 竹内正樹(でじたるパパ)



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◆ 渡部義雄 ワタベ・ヨシオ・・・物語の主人公2人のうちの1人

*1909(明治42)年6月1日旭川町生まれ。初登場時15歳(旭川師範学校1年)。 

①その生涯

*劇に登場するまで

・父親は岡山県生まれの内科医。1907(明治40)年、ヨシオの生まれる2年前に友人の妹(5歳下)と結婚。すぐに開拓医として来道、旭川で開業する。ヨシオは長男。下に弟2人と妹2人。
・ヨシオの将来について、父親は医学の道に進み、自らの跡を継ぐことを望んだ。このためヨシオは尋常小学校卒業後、旧制旭川中学に進んだが、「自分より弟たちの方が医者には向いている。別の道を歩きたい」と考えるようになり、父親と対立した。
・結局、中学2年から3年に進む際に、授業料免除の師範学校へ進むことを決意。父親もやむなく認めた(のち弟2人はいずれも医学の道に)。


*劇の後の人生

・嵐山登山のあと、ほどなく師範学校を中退して上京、明治大学文学部に編入する。東京では、学業の傍ら文学修行を続けるも目立った作品を生み出すことはできなかった。
・1932(昭和7)年、大学を卒業し、毎日新聞社の前身である東京日日新聞社に入社、記者生活を始める。5年後、27歳の時に新聞社の庶務係だった東京出身の女性と結婚。翌年には長女が誕生した。
・社会部記者として多忙な毎日を送っていた中、1944(昭和19)年5月、36歳の時に従軍記者として半年間マニラに派遣される。現地で戦争の実態を知り、戦時体制の強化に加担してきた自らの記者人生を振り返り、深く苦悩する。
・翌年8月、焼け野原の東京で終戦を迎える。これを機に、新聞社を退社。妻と子を疎開させていたふるさとの旭川に戻り、知人の紹介で市役所に勤める。
・この後、新聞社時代には行っていなかった創作活動を再開する。1955(昭和30)年、自費出版により小説集を発刊。さらに旭川の郷土史についての文章を様々な雑誌等に発表する。
・1964(昭和39)年4月、56歳の時に旭川市博物館長に就任。60歳の定年まで務める。その後も創作や郷土史研究の活動を続け、65歳のときには、郷土史研究の成果をまとめた著書を出版する。
・2001(平成13)年1月、すい臓がんにより、91歳の人生を閉じた。


②性格・嗜好など

・表面上は優等生タイプで冷静・沈着に見えるが、実は感情の起伏が激しい。内面の感情の高ぶりを理性で押さえ込んでいる。感情の激しさは、史に一目惚れしたところなどで表に出る。しかも普段抑えているので、一旦表に出た時はかなりのインパクト。
・一方、素直に自分の感情を表に出せる友人のタケシには、密かに羨望の思いを持っている。またタケシの前では、比較的自分の感情に素直になることができる自分に気づいている。
・血液型はO型。趣味は読書。幼い頃から剣道を続けている(父親が旭川にできた道場に通っていたことから、子どもたちにも習わせた)。
・文学を志したきっかけは、小学生の時に書いた作文について、先生から褒められたこと。






◆ 塚本武 ツカモト・タケシ・・・ヨシオの相棒

*1909(明治42)年7月10日、旭川町生まれ。初登場時15歳(旭川師範学校1年)。 

①その生涯

*劇に登場するまで

・父親は徳島県出身で、東旭川兵村に入植した屯田兵。予備役終了後、農作業中のケガのため離農し、旭川市内で代用教員となる。
・タケシは徳島生まれの姉と5つ違いの長男、さらに2つ違いの妹がいる。
・代用教員は薄給のため、母親と姉は農家の出面(でめん)(アルバイト)に出て家計を支えた。
・タケシが師範学校に進んだのは、教師を志望したというより、授業料が免除されるという経済的な理由が大きかった。
・師範学校に入学後、同期のヨシオと友人となった。ヨシオは入学後すぐに文芸部を創設。タケシは文芸にはあまり興味がなかったが、ヨシオが誘うので入部した。


*劇の後の人生

・1929(昭和4)年4月、19歳になったタケシは、嵐山での決意表明の通り、師範学校を卒業して教師となり、旭川市内の小学校に勤務する。入学当初は教職への強い思いはなかったタケシが、結局教師の道を選んだのは、入学後のさまざまな経験に加え、多くの子供に慕われていた父親への尊敬の気持ちがあったことが大きかった。
・1935(昭和10)年5月、25歳の時に同じ学校の2歳下の同僚教師と結婚。ところが1年後、肺結核を発症。以後、入退院を繰り返し、職場も休職状態となる。
・1938(昭和13)年4月、28歳になったタケシは、症状が回復し、職場復帰を果たす。しかし半年後には体調が悪化、再び入院を余儀なくされる。
・1940(昭和15)年7月、危篤状態となったタケシは、家族に見送られて死去。31才の若さだった。


②性格・嗜好など

・タケシは、一見フラフラしているように見えるが、性根は正義感が強く、真面目な性格。ただそれを表面に表すのは格好が悪いと感じており、あえて浮ついた感じのキャラを演じている。おしゃべりなところは生まれつき。
・明るい性格の反面、子供の頃から病気がちで体は強くない。実際に結核のため夭折するが、本人も自分は長生きする人ではないという予感めいた思いがあり、それが逆に明るさを裏支えしている。
・そうしたいわば屈折した心境の持ち主だが、ヨシオと同じように2人でいるときは素直な自分が出せる。
・血液型はA型。趣味は父から習った詩吟。スポーツは苦手。手先が器用で、工作が得意。






◆ 松井東二 マツイ・トージ・・・近文コタンで生まれ育った少年

*1910(明治43)年9月4日、旭川町生まれ。初登場時14歳。

①その生涯

*劇に登場するまで

・父は熊撃ちの名人、母はカムイユカラの伝承者。2つ上の兄と3つ下の妹がいる。1917(大正6)年4月、近文コタンでアイヌの子ども達が通う豊栄(ほうえい)尋常小学校に入学。
・1922(大正11)年、11才の時、コタンの仲間とバンド活動を始める(担当はラッパ)。
・1923(大正12)年、小学校を卒業後、父親に付いて狩りを始める。父親は画家、高橋北修の絵のモデルを務めたこともあった。その関係でトージと北修は顔見知り。また北修の紹介により、小熊秀雄は、トージの母親からアイヌ伝説を聞き取り、旭川新聞で発表した。
・1923(大正12)年11月、父親が狩りの際、崖から落ちて急死する。以降、トージは家計を支えるため、様々な仕事に就く。また優れた熊撃ちだった父親の鎮魂のため、木彫りの熊の制作も始める。


*劇の後の人生

・1931(昭和6)年12月、21歳になったトージは、旭川で開かれたアイヌ給与地返還運動の決起大会に参加。以降、運動の中心メンバーとして活動する。運動の資金には、トージがコタンの仲間に教えて盛んになった木彫り熊の売上げが充てられた。
・1935(昭和10)年、陸軍第七師団に入営。2年後、予備役となる。1938(昭和13)年4月、26歳で予備役召集。満州に派遣され、奉天市の守備業務に就く。8月、戦闘により左足に銃弾を受けるも大事には至らず。帰国後、除隊となる。
・終戦後の1945(昭和20)年9月、34歳の時に幼なじみだったアイヌ民族の女性と結婚。
・1946(昭和21)年1月、美術グループ「北海道アンデパンダン」の創設に参加。芸術作品としての木彫りへの挑戦を開始する。
・1950(昭和25)年には嵐山にアトリエを構え、数多くの作品を制作。東京でも個展を開き、高く評価される。
・1980(昭和55)年10月、肺がんにより死去。70才だった。


②性格・嗜好など

・幼い時から差別を受けながら様々な仕事を行ってきたため、トージはアイヌに生まれたことを憎んでいた時期があった。しかし佐野文子から知里幸恵の功績について教わり、幸恵の残した「アイヌ神謡集」を読む事で、アイヌ民族であることに誇りを持つようになり、より強く生きたいと思うようになった。
・もともとアーティストとしての資質を強く持っており、コタンの仲間とバンドを結成して稼ぐなど、独創的で器用。
・血液型はB型。基本、マイペースで無口なたちだが、親しくなった人にはよく話す。
・除隊後、好きになったのがジャズ。戦時中は隠れてレコードを聴いていた。戦後は天才肌であるマイルス・デイヴィスに熱中。個展では、会場にマイルスの曲を大音量で流し、それに合わせて彫刻作品を即興で作るパフォーマンスをしたことも。
・一方で、親しい仲間を誘ってカラオケに行き、歌謡曲を歌いまくる俗な一面もあった。






◆ 江上ハツヨ  エガミ・ハツヨ・・・逃亡中の酌婦の少女

*1910(明治43)年7月1日、旭川町生まれ。初登場時16歳。酌婦。

①その生涯

*劇に登場するまで

・両親は兵庫県出身で、永山の屯田兵だった親戚を頼って旭川に移住。市内で雑貨商を営む。2人とも商才あり、店は順調だったが、ハツヨが15の時、父親が病気で急死。通夜の席に複数の高利貸しが現れ、父親が多額の借金をしていたことがわかる。
・父親は真面目な人柄だったが、商売がうまく行き、余裕ができていることに目をつけた友人(高利貸しの仲間)が博打に誘い、本人がハマった結果だった。
・この多額の借金により、店は人手に渡り、さらに母親もショックのため伏せがちに。女学校(市立高等女学校)に通っていたハツヨは学校を辞めて働き始める(同時期に兄のエイジも商業学校を退学)。
・ハツヨは最初、市内の料理屋で仲居として勤めたが、高利貸しが「もっと稼げる仕事でないと、いつまでも借金を返せない」と言い出し、酌婦として4条通15丁目の歓楽街にあった「たまや」に送り込まれた。


*劇の後の人生

・勤め先の繊維商社でのハツヨは、当初は事務・雑用が主な仕事だったが、親譲りの商才と努力で営業職に抜擢されるとたちまちトップクラスの業績を挙げ、会社の太い柱となる。
・1938(昭和13)年、28歳の時に、旭川信用金庫の理事長になっていた酒井廣治の後押しを受け独立。市内で洋品店を始める。戦時中は物資不足から厳しい経営を強いられ、閉店を余儀なくされるが、戦後、再開。同時期、仕入れ先の会社のある札幌で知り合った戦争孤児の姉弟(12歳と10歳)を養女、養子に迎える。この時、ハツヨは35才。
・2人を育てながら店の経営にも力を入れたハツヨは、1950(昭和25)年4月、酒井の支援を受け、洋品店を閉めて幅広く生活雑貨を扱う店を立ち上げる。3年後には2号店をオープン、店を会社法人化して、社長に就任。以後、札幌をはじめ全道各地にチェーン展開する。
・1967(昭和42)年9月、57歳の時に「北海道女性起業家大賞」を受賞、北海道を代表する女性実業家となる。受賞の主な理由は従業員に戦争未亡人を数多く採用したことだった。
・5年後、経営の右腕とし、40歳と38歳になっていた養女と養子を、それぞれ社長と専務取締役の座に就け、自らは会長職に。さらに会長職からも退く。
・1995(平成7)年7月、心不全により家族に見守られながら死去。85歳の生涯を閉じた。


③性格・嗜好など

・血液型はA型。もともとは物怖じせず、社交的な性格。弁も立ち、気もきく事が、のちの商売に役立った。
・会長職を退き、会社経営から引退した後は、長年やりたいと思いをつのらせていた園芸に没頭。自宅の庭に様々な草木、花々を植え、楽しんだ。
・後年、恩人の佐野文子が重い認知症になったときは、入院していた病院を度々訪れるとともに、経済的な支援も行った。






◆ 江上栄治  エガミ・エイジ・・・ハツヨの兄

*1909(明治42)年2月10日、旭川町生まれ。初登場時18歳、黒色青年同盟旭川支部活動員。

①その生涯

*劇に登場するまで

・両親は兵庫県出身で、屯田兵だった親戚を頼って旭川に移住。市内で雑貨商を営む。2人とも商才あり、店は順調だったが、エイジが17の時、父親が急死。年子の妹ハツヨとの2人兄妹。
・通夜の席に複数の高利貸しが現れ、父親が多額の借金をしていたことがわかる。父親は真面目な人柄だったが、商売がうまく行き、余裕ができていることに目をつけた友人(高利貸しの仲間)が博打に誘い、本人がハマった結果だった。
・この多額の借金により、店は人手に渡り、エイジは通っていた商業学校を辞めて働き始める(ハツヨも女学校を辞めて働き、仲居を経て酌婦に)。
・エイジは、旭川市内のいくつかの工場で工員として働いていたが、1927(昭和2)年4月、市内の食品加工の工場にいた時、黒色青年同盟のウメハラにオルグされ活動員となる。当時、起きていた労働争議に関係し、工場に出入りしていたウメハラが、組合の役員をしていたエイジの先輩工員を通して彼の境遇について知ったことがきっかけだった。


*劇の後の人生

・佐野文子の紹介で働き始めた造り酒屋にいたが、1930(昭和5)年1月、召集を受けて第七師団第二十八連隊に入営。2年後に除隊し、仕事に戻る。さらに2年修行をして杜氏となる。
・真面目な仕事ぶりで将来を嘱望されたが、1938(昭和13)年、27歳の時に召集を受け、再び第七師団に。
・翌1939(昭和14)年6月、満州とモンゴルとの国境地帯で勃発したノモンハン事件で現地に出動。ソビエト軍との交戦中、戦車の砲撃を受け死亡した。29歳の若さだった。


②性格・嗜好など

・血液型はO型。ハツヨが商売人だった両親の特質を強く受け継いでいるのに対し、エイジは人付き合いが苦手で、口下手。反面、コツコツと地道に努力することができるタイプであり、それが真面目な仕事ぶりを認められて杜氏となる決め手となった。
・ただ本人としては、言われたことは手を抜かずにやるが、自ら積極的にことを進めるタイプではない自分に嫌悪感を持っており、同じように見えたカタオカに挑発的な発言をすることにつながった。






◆ 片岡愛次郎  カタオカ・アイジロウ・・・右翼組織の現場責任者

*1901(明治34)年5月19日、旭川町生まれ。初登場時24歳、旭川極粋会行動部長。

①その生涯

*劇に登場するまで

・父親は島根から新天地を目指し、旭川に定着した腕の良い建具職人。旭川で知り合った地元出身の妻との間に、3男3女を儲ける。カタオカは次男。兄1人と姉2人、妹が1人。
・父親は料亭の建築工事の仕事で、のちに旭川極粋会会長となる辻川源吉と知り合う。辻川は腕の良さを買って彼を贔屓にした。
・カタオカは1916(大正5)年、14歳で高等小学校卒業すると、父親の仲間の建具職人のところに修行に出される、しかし緊張するとパニックに陥ることから、これではモノにならないと返されてしまう。
・このため父は辻川に頼みこみ、カタオカは辻川が経営する土建会社で給仕の仕事を始める。会社でも焦るとパニックになるのは治らなかったが、もともと頭は良く、言いつけに逆らわず、時には汚れ仕事もいとわなかったため、次第に責任ある仕事を任されるようになる。
・こうした姿を見た辻川は、1924(大正13)年9月、23歳になったカタオカを、急死した極粋会行動部長の後釜に抜擢する。ただ会社と違い、行動部長はあれこれと指示してくれる上司がいないポストだった。自ら判断し行動することが苦手だったカタオカは、以後ストレスを溜め込む毎日を過ごすようになっていた。


* 劇の後の人生

・1927(昭和2)年、エイジを撃ったことで刑務所に入るが、模範囚であったことから2年後には仮出所。辻川の世話で、元いた土建会社に復帰するも周囲にうまく溶け込めず、3年後に退社。
・その頃、3歳年下の看護助手の女性と知り合い、1932(昭和7)年、31歳の時に結婚。妻となった女性は、砂漠のようだったカタオカの内面を愛情で潤し、カタオカは劇的に生きる希望を蘇らせる。
・結婚の翌年、カタオカは、市議会議員になっていた佐藤市太郎が理事長を務める旭川の老人福祉施設で働き始める。
・施設では、入居者や家族の話を粘り強く聞き続けるなど、献身的な姿勢で支え、終戦の年に44歳で施設長となる。
・70歳で施設長を退任。子供はなかったため、その後は妻とともに穏やかな老後を過ごす。1981(昭和56)年8月、風邪をこじらせて肺炎となり、80歳で死去。


③ 性格・嗜好など

・血液型はA型。頭が固く柔軟性に乏しいため、創意工夫ができないたち。また子供の頃から焦るとパニックになって過呼吸のような状態になることが、自信の弱さを生み、自ら判断し行動することが苦手となった。反面、コツコツと粘り強いタイプで、施設ではこれがじっくりと入居者や家族の話を聞くことにつながった。
・コワモテを気取っているのは、内面を見透かされないようしているため。なので、常に緊張感を漂わせているように見える。






◆ 梅原竜也 ウメハラ・タツヤ・・・旭川に流れてきたアナキズム活動家

*1901(明治34)年5月20日、横浜市生まれ。初登場時24歳、黒色青年同盟旭川支部長。

①その生涯

*劇に登場するまで

・横浜の食料品問屋の3男に生まれる。地元の商業学校に通うも、父親の商売が傾き(大手商社の進出で、次第に取引先が少なくなり、赤字が膨らんだ)、1919(大正8)年、店は倒産する。このため18歳だったウメハラは学校を中退、工場労働者として働き始める。
・勤め始めた工場では、激しい労働争議が起きており、ウメハラは弁が立つことを見込まれて組合活動に参加、次第に中心メンバーとして活動する。
・1921(大正10)年4月、思想家でアナキストの三田秀三と知り合う。ウメハラは次第にその思想に感化され、三田に誘われてアナキストの全国組織である黒色青年同盟の結成に参加する。
・1923(大正12)年9月、1年前の関東大震災の際に殺害されたアナキスト、大杉栄と伊藤野枝の追悼集会を三田らとともに開催するも、現場に踏み込んだ特高警察に一時検束される。これがきっかけで工場を解雇されたことから、地下に潜って組織の専従活動家となる。
・1年後、治安維持法により、やはり地下に潜っていた三田が逮捕されたことから、首都圏を離れ、黒色青年同盟の活動家の多かった旭川に移動、偽名を使って支部長となる(実は梅原達也は特高警察の追及から逃れるための偽名。本名は畠山喜実男=はたけやま・きみお)。
・組織の拡大を狙い、オルグ活動を活発化させるとともに、市内各所の労働争議に介入。市内の鉄工場の賃金未払いを契機とした労働争議では、連日に及ぶ激しい吊し上げに社長が自殺。この頃から旭川極粋会に狙われるようになる。


*劇の後の人生

・1927(昭和2)年6月の常盤橋での乱闘では、多くのメンバーが検挙されるもウメハラは現場から逃走。しかし事件により、東京の特高警察に居所がばれたことから、旭川からの脱出を決意。関西方面に移動して身を隠す。
・2年後、隠れていた大阪のアジトを特高に急襲される。追い詰められたウメハラは、アジト裏の川に飛び込んで逃亡を図るが、溺れて死亡。28年の短い生涯だった。


③性格・嗜好など

・血液型はB型。幼い時から人の気持ちを図るのが苦手で、無口。転機は組合活動に関わったこと。そうした場に立つと、ウメハラは人一倍弁が立ち、たちまちリーダー格となった。完膚なきまでに人を言い負かすことができる自分を知り、驚くほどだった。以来、左翼思想は彼のバイブルとなり、その実現には他者の犠牲も厭わないという考えに染まる。
・その一方、関わった労働争議では、ウメハラらの奮闘のおかげで解雇を免れたといった労働者も多く、彼らからの感謝の言葉はウメハラの気持ちをなごませた。
・普段、ウメハラが慇懃無礼な話し方なのは、人と心を通わせることが苦手と感じているため。無意識にそうした態度をとることで、自分の内側に人を招きいれぬようにしている。



*その他の架空の人物

・その他の架空の登場人物についても、簡素なものだが、名前や生い立ちなどの裏設定を作った。





<カフェー・ヤマニの女給たち>

◆ 女給① サクラ(本名・原田とみ) 初登場時22歳

・秋田の小作農の娘(長女)、家の食い扶持を減らすために支度金をもらって北海道へ。最初、旭川の芸者置屋に身を置くも馴染めず、カフェー勤めに。3軒目でヤマニに。
・しっかり者だが、やや控えめで前面に立つタイプではない。最初に勤めたカフェーでいじめに遭いそうだったところを、当時その店にいたスミレに助けてもらったことがあり、彼女を尊敬している。またヤマニでは、年長者のスミレを補佐するサブリーダーの位置づけ。


◆ 女給② スミレ(本名・高橋郁子) 初登場時24歳 

・札幌の呉服屋の次女だったが、18歳の時に知り合った料理人と大恋愛の末、駆け落ち。ところが男は1年後に売られた喧嘩が元で急死、1か月泣いて暮らしたが、実家には戻れないと、旭川に出て水商売の道に。カフェーはやはり3軒目。
・情に厚く、姉御肌で、ヤマニでは女給のリーダー格。店長の速田も彼女が女たちをまとめてくれているので助かっている。


◆ 女給③ ユリ(本名・吉田ハナ) 初登場時19歳 

・士別の農家の次女。少々トロいところがあるが、性格がよく、いつもニコニコしている。女給グループのマスコット的存在でもある。
・最初、旭川に出て商店に勤めたが、不器用なためなかなか仕事を覚えられずクビに。その後、カフェー勤めに。


◆ 女給④ アカネ(本名・伊藤珠子) 初登場時21歳 

・小樽の乾物問屋の長女だが、病気がちだった母親と幼くして死別。その後、後妻となった義理の母親との折り合いが悪く、非行少女状態に。17歳で男を誘って家出し、札幌ススキノを経て旭川に。いわゆるフェロモン全開タイプ。

◆ 女給⑤ モモ(本名・小野チエ) 初登場時18歳 

・旭川で芸者をしている母親が私生児として産んだ子供(一人っ子)。父親については詳しく聞かされていない。自分もいずれは芸者になろうと思っているが、母親は堅気の仕事に就かせたいと思っている。悩んだ母親が知り合いの速田に相談し、速田がとりあえずヤマニで水商売を経験させ、その上で進路を決めたらと提案。店で働き始めたばかり。
・頑張り屋で、素直なため、先輩たちに可愛がられているが、まだ仕事には慣れていない。






<右翼組織「極粋会」の男たち・・・カタオカの部下>

◆ 極粋会の男① サルタ(猿田市蔵 サルタ・イチゾウ) 初登場時21歳

・近郊の農家の3男坊。建設現場で力仕事をしていたが、賭場に出入りするようになり、ヤクザともめて窮地に。その際、顔見知りだったカタオカが間に立ってくれたため救われる。このためカタオカを尊敬している。
・腕っぷしに自信あり。また一本気で単純。はんかくせーが口癖の武闘派。


◆ 極粋会の男② カメイ(亀井金治 カメイ・キンジ) 初登場時19歳

・同じく近郊の農家の4男坊。父親が旭川極粋会会長の辻川源吉と知り合いで、息子を鍛えてやってくれと頼まれた辻川が極粋会の仕事をさせる。
・チンピラっぽいが、度胸はない。虚勢を張っている感じ。


◆ 極粋会の男③ ツルオカ(鶴岡保 ツルオカ・タモツ) 初登場時20歳
 
・旭川の左官屋の次男。いろいろな職人の修行をするが、コツコツと努力するのが苦手でどの仕事も長続きせず、カメイと同様、親のつてで極粋会に関わるようになった。
・あまり物を深く考えないたちなので、サルタらに従っているが、実は面倒くさいことは嫌いで、一日中、活動写真や芝居を観たいと思っている。頭は回る方なので、カタオカからは重宝がられている。






<活弁士・演歌師・金魚売り>

◆ いずれも年齢、名前等不詳。


<ヨシオ・タケシの同級生>

◆ 熊谷孝一 クマガイ・コウイチ 15歳

・幼児の頃、職人の親と一緒に富山県から旭川へ。近くに住んでいたタケシが誘う形で、幼なじみに。その後、旭川の別の場所に引っ越したので疎遠になっていたが、師範学校で再会。ヨシオに誘われて文芸部に入ったタケシが、やはりあまり文学に興味のないこの同級生も引き入れた。へたれキャラだが、抜け目のないところも。