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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

アンコール・私の好きな旭川 VOL.6 劇団「河」と河原館

2014-10-13 09:59:54 | 郷土史エピソード

「アンコール・私の好きな旭川」ももう6回目。
今回は、以前の記事「舞台は常磐公園」にも登場したあの劇団のお話です。


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<私の好きな旭川~劇団「河」と河原館>(2013年11月15日掲載)

まずはこちら。


「河原館」(昭和60年) 

1970年代から80年代にかけて、旭川の芸術・文化の発信拠点だったスポット「河原館(かわらかん)」です。

「河原館」は、昭和49年、常磐公園脇にある土蔵を改造してオープンした喫茶兼劇場です。
30人ほどでほぼいっぱいになる小さなスペースでしたが、週末ごとに演劇やライブ、朗読やダンスのパフォーマンス、講演会などさまざまな催しが行われてにぎわいました(建物は今も健在で、バンドの練習場などに利用されているようです)。

この「河原館」を開設、運営していたのが、この時期、北海道の演劇界に大きな影響を与えた旭川の劇団「河(かわ)」でした。


唐十郎作「二都物語」(昭和49年・星野由美子と北門真吾)


清水邦夫作「鴉よおれたちは弾丸をこめる」(昭和47年)

「河」は、昭和33年の結成。
当初はオーソドックな舞台公演を続けていましたが、70年代に入ると、唐十郎の「状況劇場」や、鈴木忠志、別役実の「早稲田小劇場」、寺山修二の「天井桟敷」など、東京を中心とした小劇場運動の高まりに刺激を受け、唐らの戯曲を連続して上演して高い評価を受けました。


清水邦夫作「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」(昭和51年)

上の写真は、昭和51年に「河」が上演した「幻に心もそぞろ狂おしの我ら将門」の舞台です。
この作品は、在京劇団の内部分裂により公演が中止となり、一度も上演されていなかった作品で、作者であり、「河」と親交のあった劇作家、清水邦夫の勧めで「河」が初演しました(こうしたプロの劇作家の作品を地方のアマチュア劇団が初演するのは極めて異例です)。


「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」(塔崎健二と池ノ内にじ子・昭和51年)

その後も「河」は、創設メンバーで役者兼演出家として劇団を支えた星野由美子や、テレビドラマ「北も国から」にも出演した塔崎健二(平成7年に、筋萎縮性側索硬化症のため死去)を中心に精力的に活動し、その存在は在京演劇人からも注目を浴びました。


清水邦夫作「楽屋」

また質の高い舞台とともに、「河」が果たした大きな功績は、当時の東京の最先端の文化の〝紹介者〟でもあったことです。
当時の劇団関係者からお借りした資料をもとに、この時代、「河」が受け入れて旭川で行われたイベントをざっと上げてみますと・・・

舞台では、前述の「早稲田小劇場」や「黒テント」現在は俳優としても活躍している田中眠のダンス、女優吉行和子の1人芝居、等々。
さらには「竜馬暗殺」「サード」などの名作映画の上映もありました。


当時のイベント一覧が載せられたチラシ

インターネットの発達などで今は文化面でも東京と地方の距離は短くなっていますが、70年~80年代は情報も少なく、ましてや実際に体験する機会はごくごく限られていました。
だからこそ当時「河原館」や周辺でのさまざまな文化・芸術のイベントに大きく触発された若者は数多く(当時高校生だったワタクシもその一人でした)、その功績は計り知れないと考えます。

劇団「河」と河原館、当時の旭川の若者の可能性を引き出してくれた存在でした!


唐十郎作「鉄火面」(昭和48年・常磐公園での野外公演)


「火のようにさみしい姉がいて」のチラシ(昭和54年)




コメント (2)
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アンコール・私の好きな旭川 VOL.5 「母の鐘」と佐野文子

2014-10-12 14:11:04 | 郷土史エピソード

好評の「アンコール・私の好きな旭川」。
5回目の今回は、小説の主人公のような人生を歩んだこの女性について書いたこの記事です。


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<私の好きな旭川~「母の鐘」と佐野文子>(2013年10月16日掲載)


まずはこちら。


(旭川市中央図書館蔵)


かつてロータリーにあった大平和塔です。
以前に紹介しましたよね。
さらにこちら。



こちらもお分かりですよね。市役所の屋上部分です。
では、この2つに共通するものと言ったら?

分かった方は旭川のかなりの歴史通。
答えは「母の鐘」です!

以前、このブログでも触れましたが、「母の鐘」は、夕方、外で遊んでいる子供たちに時刻を知らせ、家に帰るよう促したメロディーです。
昭和27年に始まって最初は大平和塔から、その後は市役所屋上から流されました。

で、きょうはこの旭川での母の鐘の提唱者、佐野文子(さの・ふみこ)のお話です。


佐野文子(「国防婦人会記念写真帳」より・昭和12年)

NHKの朝の連続テレビ小説には、過去、さまざまな分野で活躍した女性をモデルにした主人公が登場しましたが、佐野文子は、まさに小説のような人生を送りながら数々の社会貢献を果たした人です。

文子は、明治26(1893)年、島根県生まれ。
明治42(1909)年に旭川で医師していた義兄を頼って来旭、小学校の教師になりました。
3年後、実業家と結婚しますが、ほどなく夫は病死、24歳にして未亡人となります。


文子が勤めた中央小学校(旭川市中央図書館蔵)


キリスト教の信仰を持っていた彼女が、さまざまな社会活動を行うようになったのはこのころからで、中でも廃娼運動には命をかけて取り組みました。

当時旭川にあった遊郭に単身乗り込んでビラをまき、助けを求めて駆け込んできた女性をかくまい、市外に逃がすなどした文子。
脅迫や嫌がらせにも屈せず、文子に救い出され、新たな人生を歩み始めた女性は10余名にのぼったといいます。


中島遊郭の大門(旭川市中央図書館蔵・大正時代)


そんな彼女、もう一つ「へー」と驚くエピソードがあります。
昭和17(1942)年、文子に「上京してある職務についてほしい」と、旭川の陸軍第七師団の幹部から依頼がありました。
言われて訪ねた先は、何と時の首相、東条英機邸!
役目は東条の私設秘書兼子供の家庭教師で、夫人の相談相手も務めました。

当時、軍は東条の命令で、自宅で秘書役を務める有能な女性を探していて、
国防婦人会旭川支部長をつとめ、全国的にもその精力的な活動ぶりが知られていた文子に白羽の矢が当たったと伝えられています。

文子は、首相本人からも「佐野先生」と呼ばれたそうで、戦後すぐに旭川に戻りましたが、東条が戦犯として処刑されたあとも一家との親交は続き、遺児の成長をわが子のことのように喜んだといいます。


第7師団司令部


なお「母の鐘」は、以前に書いたように、昭和27年に、保護司の集まりで大阪を訪れた文子が、当地で子供の帰宅を促すメロディーが流されているのを知って旭川でも導入しようと取り組んだのがきっかけと伝えられています。

またさらに付け加えますと、文子はわずかな蓄えを崩して、旭川の若者に奨学資金を提供したことでも知られ、その一人にのちにNHK会長となる前田義徳(まえだ・よしのり)がいました。


前田義徳(旭川の100人)

佐野文子、旭川の歴史を語るときには、欠かせない女性です。



コメント (3)
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