明治42年に建物の大部分を焼失した北海道庁を巡り、「旭川に移すべし」、「いや札幌に据え置くのが当然」という論争が持ち上がりました。
この争い、「へそか、頭か論争」と呼ばれ、北海道を2分する激しさだったと伝えられています。
当時の旭川、勢いがあったのですね。
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火災前の北海道庁(明治22年頃・北大付属図書館蔵)
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炎上する北海道庁(明治42年・絵葉書)
明治42年1月11日、札幌の北海道庁庁舎内から火の手が上がり、外壁を残して屋根や内部が焼失しました。
意気消沈する道都の人々。
ところが、この事態に思わぬ気勢を上げる人たちがいました。
当時、まだ町だった旭川の町会議員たちです。
「道庁庁舎の復旧には、多大な費用と労力が必要だ。ならばこれを機に北海道の中心に位置する旭川に道庁を移転させるべきである。もともと札幌は西に偏している」。
彼らの主張を要約すれば、こんなところでしょうか。
さっそく運動が開始され、道北、道東、道南の各地に手分けして人を送り、道内世論の掻き立てに走ります。
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道庁の火災を伝える新聞(明治42年1月13日・北海タイムス)
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初代旭川戸長、初代町長を務めた本田親美
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移転運動について伝える新聞(明治42年1月21日・北海タイムス)
火災から1週間後には、旭川中心部の劇場、佐々木座を満席にして道庁移転を祈念する決起大会が開催されます。
合わせて期成会の幹部が上京し、中央政界や官公庁に対する陳情活動を展開します。
「火事という窮状に付け込んで」と、いささか眉をひそめさせかねない行動ですが、旭川に第七師団の本拠地を持つ陸軍省内に移転賛成の意見が多かったことも追い風となり、なんと運動は急速な盛り上がりを見せます。
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佐々木座(明治35年・「上川便覧」)
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北海道会の議事堂(明治末期・北大付属図書館蔵)
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復旧工事中の道庁(復明治43年・北海道大学付属図書館蔵)
これに危機感を抱いたのが札幌勢です。
地元道央はもとより、小樽や函館などの市町村の支援を得て強力に巻き返しを図りました。
道庁当局も「札幌で復旧を図るのが適当」と、移転を好まなかったことから、結局、道会議員の過半数の支援を得て移転論を葬ります。
当時、旭川を中心とした移転派が「道庁は、北海道の〝へそ〟にあたる場所に位置する旭川に置くのが妥当」と主張したのに対し、反対派は「人の体で大切なのは頭であってへそではない。札幌は北海道の〝頭〟である」と反論、「へそか頭か」論争と呼ばれたと伝えられています。
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道庁移転運動が起きた当時の旭川(明治42年・旭川市中央図書館蔵)
ただ移転派が勢いづいたのは、札幌と旭川の位置関係だけではなく、当時の鉄道事情も関係していると思われます。
石勝線で直接札幌と道東方面が結ばれている現在とは違い、当時は稚内や北見方面と同じく、札幌から釧路・根室や帯広に行くも旭川を経由しなければなりませんでした。
道東の人たちにとっては、旭川に道庁があった方が便利だったのです。
また人口も、明治40年では、札幌は6万6千人に対し、旭川はちょうど半分の3万3000人。
札幌が旭川の5倍以上の人口を持つ現在ほど差はありません。
さらに、▼ロシアの脅威に備えるには札幌より旭川の方が位置的に優れているという理由で、明治33年に第七師団が札幌から旭川に移転していること、▼道庁の開庁から20年余りとまだ歴史が浅かったことも、旭川移転論を後押ししました。
いずれにしろ、このエピソード、師団の移転などで急速に発展をとげていた当時の旭川の勢いを示すものと言えそうです。
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再建された道庁(明治45年・北海道大学付属図書館蔵)
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現在の道庁赤レンガ庁舎