もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

戦前のグーグルマップ!?・前編

2017-04-27 20:00:00 | 郷土史エピソード

郷土史の研究にあたり、かつての街の様子を写した航空写真は、情報量が多く、街並みの変遷の様子が詳しく分かる貴重な資料となっています。
旭川にも大正時代以降に撮影されたいくつもの航空写真が残されていますが、きょうはその中でもユニークな写真をご紹介します。
題して「戦前のグーグルマップ!?」、きょうはその前編です。



                   **********



「戦前のグーグルマップ!?」とタイトルを付けたのは、ご紹介する写真が測量用に飛行機の真下方向に向けて撮られているからです。
撮影したのは旧日本軍、旭川市中央図書館の所蔵資料です。
詳しい撮影年は不明ですが、おそらく昭和10年代の撮影。
冬の旭川中心部が写されています。
一面雪景色の街並みは、未着色の建築模型の都市のようで、不思議な印象を与える写真です。
それでは詳しく写真を見てゆきましょう。


◆写真①・・・曙1~2条周辺



(写真①-1)全景


曙1~2条付近を上空から写しています(他の写真との関係で、上下をひっくり返して掲載しています。ちなみに右側が北方向)。
その画面右側に2本の太い線が交わっているように見えますよね。
下から上に向かってやや左斜めに走っているのが1条通、同じく右斜めに走っているのが国鉄函館線の線路です。
ちなみに昭和17年の旭川の地図を見ると、この辺りの地番は今と微妙に違っているようです。
なので地番は現在のものでご紹介してゆきます。



(写真①-2)1条通と函館線の交差点


ここからは写真をクローズアップで見ていきます。
通りと鉄道の交点が曙1~2条の3丁目辺りですね。
その少し下。
函館線の線路には、ちょうど旭川駅に向けて走行中の蒸気機関車が写っています。



(写真①-3)函館線を走るSL


この日は風がなかったようですね。
線路をなぞるようにSLの黒煙が長くたなびいている様子が分かります。



(写真①-4)旭川商業高校


今度は蒸気機関車の左を見てみましょう。
大きな建物がありますね。
旭川商業高校です。
調べてみると、旭川商業は戦前の昭和19年に工業高校に転換して、旭川第二工業学校と改称されています(戦争の影響でしょうね)。
昭和23年には、もとの商業高校に戻されていますが、その前年の22年に校舎が全焼しています。
なので、この写真は校舎が焼ける前の姿を上空からとらえた貴重な写真です。



(写真①-5)青雲小と日赤病院


今度はSLの右側です。
やはり大きな建物が見えますね。
青雲小学校です。
昭和17年の地図では青雲国民学校と表記されています。
その下の半分だけ写っている建物は日赤病院です。
同じく17年地図では日本赤十字社北海道支部病院と表記されています。



(写真①-6)忠別川


最後は画面の左端。
流れているのはもちろん忠別川ですが、今よりもうねりが大きいように感じます。


◆写真②・・・曙地区・1~4条通1~3丁目周辺



(写真②-1)全景


写真①と一部重なっていますが、曙地区から1~4条通の1~3丁目周辺にかけて写されています。



(写真②-2)青雲小と日赤病院


画面上部やや右寄りに、写真①にもあった青雲小と日赤病院が写っています。
日赤は、今度は全体が見えます。



(写真②-3)日本醤油工業


1条通をはさんで日赤の向かいには、今も同じ姿のキッコーニホン、日本醤油工業の工場が見えています。



(写真②-4)1条通と富良野国道の交差点


その下の大きな通りが交わる交差点は、1条通(縦)と富良野国道(現237号線)(横)の交点です。



(写真②-5)大谷別院


交差点から左下方向に視線をずらすと大谷別院があります。
ここも現在と位置は変わっていません。



(写真②-6)旧牛朱別川


面白いのは画面左端に写っている川です。
これ実は牛朱別川なんです。
今は旭橋の下で石狩川と合流している牛朱別川ですが、昭和5年から7年にかけての切り替え工事の以前は、現在のロータリーから常磐公園の南側を通って新町の方にかけて流れていました。
この写真が撮られた時期には、すでに切り替え工事は終わっていたと思われますが、この辺りはまだ埋立てが完了していなかったようです。



(写真②-7)4条通と富良野国道の交差点


この埋立ての遅れが影響しているのが、写真左端を上下方向に走る4条通です。
「(偵)佐川大尉」の文字と重なって見ずらくなっていますが、4条通は富良野国道と交わる1丁目の交差点のその先がまだ整備されていません。
なので、中心部から来た車の轍は、ここで大きく左にカーブしています。
4条通りの1丁目の西となると、いまはコープさっぽろの店舗や新町小学校のある付近ですよね(写真で言いますと「西川特曹長」と書いてある辺り)。
埋立て前は、川沿いのこんな谷地のような状態だったことが分かります。


「戦前のグーグルマップ!?」、今回はここまで。
次回はあと2枚の航空写真をご紹介します。





最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
旭川商業高校の隣にあるもの (やきそば)
2018-12-15 21:39:53
はじめまして、旭川の郷土史を個人的に調べている者です。
ブログの記事楽しく読ませて頂いております
ところでこの空撮写真では商業高校の隣に大きな庭園のようなものが写っています
これは荒井建設の創業者が作った日本庭園の翠香園ではないでしょうか?
北方資料デジタル・ライブラリーには1933年の曙地区の地図がアップされておりますが
それを見るとそのような表記になっております。
あと、キッコーニホンの辺りは番香園という庭園だったようなのですが、
こちらの方は全くわかりません
コメントありがとうございます (那須敦志)
2018-12-18 16:34:32
「やきそば」様
コメントありがとうございます。
確かにご指摘の場所にあるのは、翠香園ですね。
新旭川市史には、開設者は池田菊次という方で、新井初一さんが譲り受けたと書かれています。
番香園については、私もよくわかりません。