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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

「旭川歴史市民劇」解説⑨ トピックその2

2019-01-29 19:00:00 | 郷土史エピソード
2020年公演予定の歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の解説編。
今回は、物語の中盤〜幕、ACT4から7にかけて登場するトピックです。



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<糸屋銀行倒産と十勝岳噴火>

1926(大正15)年5月24日、旭川および上川地方は、地元銀行の経営破たんと火山の噴火という2重のショックに見舞われる。
このうち経営破たんしたのは、旭川に本店を持ち、道北地方を中心に店舗を拡大していた糸屋<いとや>銀行。
もともとは1891(明治24)年に兵庫県で創業した銀行だが、10年後、開拓景気に沸く北海道に注目して旭川に支店を開設。
さらに本店を旭川に移し、営業範囲は、上川、留萌、宗谷、空知の各地方に広がっていた。  
しかし1920年代に入ると、第一世界大戦の大戦景気の反動で不況が深刻化。
糸屋銀行も一気に不良債権が増えて経営を圧迫し、この日、営業を停止して事実上の経営破たんに陥った。
一方、上川の美瑛町、上富良野町、十勝の新得町にまたがる十勝岳は、この日の正午すぎと午後4時すぎに相次いで爆発的な噴火を起こす。
噴火は山頂付近にあった残雪を溶かして大規模な泥流が発生。
死者・行方不明者144名、建物の被害372棟という未曽有の大災害となった。
これら被災地の主力金融機関は糸屋銀行であり、住民は家屋や耕作地に加え、金融資産までも失う事態に直面した。



旭川の糸屋銀行本店(大正4年・旭川市街の今昔 街は生きている)


糸屋銀行の経営破綻を伝える旭川新聞の記事



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<若山牧水の来旭と旭川歌話会>

「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅行く」で知られる歌人、若山牧水<わかやま・ぼくすい>が旭川を訪れたのは、1926(大正15)年10月のこと。
歌人としても知られ、当時、第七師団参謀長として旭川に赴任していた齋藤瀏を頼っての訪問だった。
牧水は、妻、喜志子<きしこ>とともに参謀長官舎に4泊し、市内で講演会を開いたり、色紙や短冊に揮毫して売ったりして過ごした。
この頃すでに牧水の名は全国に知られていた。
到着の翌日には、常磐公園の上川神社頓宮を会場に、歓迎歌会も開かれている。
参加したのは、瀏を始め、旭川の短歌界の重鎮である酒井廣治<さかい・ひろじ>、当時は旭川新聞にいた小熊秀雄や同僚の小林昴<こばやし・こう=すばるとも>ら約70人。
これらの人々は、この牧水の来訪などをきっかけに、翌月結成された短歌の研究会「旭川歌話会」の主要メンバーとなった。
なおこの牧水の旭川訪問で、両親とともに夫妻をもてなしたのが、当時17歳だったのちの歌人、齋藤史だった。
齋藤家の人々とすっかり打ち解けた牧水は、感性の鋭さを感じさせる史に歌を詠むことを勧め、史はその言葉をきっかけに本格的に短歌の創作の道に入る。後年、史は繰り返し書いている。
「『君が歌をつくらないのはいかんよ』(中略)あのときの牧水の言葉がなかったら私は歌をやっていたかどうか。」



若山牧水


牧水夫妻と斎藤一家(大正15年)




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<二・二六事件と旭川>

二・二六事件は、1936(昭和11)年2月26日に起きた陸軍青年将校らによるクーデター未遂事件。
事件をきっかけに、軍部の政治的発言力が強まった。
旭川は陸軍第七師団が駐屯する「軍都」であったことから、ゆかりのある多くの人が事件に関わっている。
このうち決起部隊側では、指揮を取った青年将校の中に、旭川生まれの村中孝次<むらなか・たかじ>(事件は免官後の発生)、ともに父親が第七師団への配属経験のある将校で、幼い頃、北鎮小学校で学んだ栗原安秀<くりはら・やすひで>と坂井直<さかい・なおし>がいる。
その栗原、坂井と幼馴染だったのが歌人の齋藤史<さいとう・ふみ>。
2度に渡り幹部将校として旭川に勤務した史の父、瀏<りゅう>は、栗原らを支援したとして、事件後、禁固刑に処されている。
一方、青年将校に襲撃された重臣や軍幹部のうち、陸軍教育総監だった渡辺錠太郎<わたなべ・じょうたろう>は、事件の7年前まで第七師団の師団長を務めていた。
渡辺が師団長だった当時、参謀長だったのが齋藤瀏である。
年月を経て2人は襲撃する側とされる側に分かれた。
なお、渡辺は私邸を決起軍に襲われて殺害されたが、当時同じ部屋にいてその模様を目撃したのが次女で9歳だった和子。
和子は渡辺が師団長だった時に旭川で生まれており、その後、18歳でカトリックの洗礼を受けてシスターとなって長く岡山県のノートルダム清心学園に勤めた。
多数の著書があり、2012(平成24)年の「置かれた場所で咲きなさい」は200万部を超えるベストセラーとなったが、2016(平成28)年、89歳で死去した。
した。



栗原安秀


渡辺錠太郎一家(左端が和子)




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<美術研究会「赤耀社」<せきようしゃ>>

1923(大正12)年、高橋北修が画家仲間の関兵衛<せき・ひょうえ>、坂野孝治(孝児とも)<さかの・こうじ>と作った組織で、のちに小熊秀雄も加わった。グループ展を開くとともに、同年11月には北海ホテルを会場に美術講演会も開催している。
またその翌月には、旭川では初めての女性モデルを起用したヌードデッサン会を始めている。
参加者からは1か月2円の会費を取ったという。
小熊秀雄の小説「裸婦」はこのデッサン会の模様をもとに書かれている。
なお劇の中では、このデッサン会の開催を昭和2年の出来事として描いている。



高橋北修



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<木彫り熊>

北海道の熊の木彫りは、1923(大正12)年、道南の八雲町にあった旧尾張藩藩士らが入植して作った農場、徳川農場の農民たちが、尾張徳川家19代当主の徳川義親<とくがわ・よしちか>がスイスから持ち帰った木彫り熊を手本に作り始めたのが始まりとされる。
旭川では、1926(大正15)年に、近文コタンに住む熊撃ちの名人、松井梅太郎<まつい・うめたろう>が木彫り熊の製作を始め、やがて仲間の多くも熊彫りを手掛けるようになった。
その後、旭川ゆかりの彫刻家、加藤顕清(かとう・けんせい)の指導を受けたこともあって彫りの技術は徐々に高まり、土産品として店頭に並び始めた。
松井梅太郎は、このようにアイヌ民族による木彫り熊の先駆者であるとともに、名工としても知られており、1963(昭和38)年には、嵐山公園にその功績を讃えた顕彰碑が建てられた。
この戯曲では、架空の人物として、アイヌの少年、トージ=松井東二が登場するが、彼は松井梅太郎をモデルとしている(裏設定では、彫刻家として活躍した砂澤ビッキの生涯も参考とした)。
木彫りの熊を制作するところ、コタンの仲間とともに楽隊を組んでいるところは同じだが、年齢は梅太郎が1901(明治34)年生まれであるのに対し、トージは1910(明治43)年生まれに設定してあり、9歳の差がある。



松井梅太郎顕彰碑



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<嵐山>

「旭川八景」のひとつにも数えられている市郊外の景勝地。
展望台からは、大小の川が流れる肥沃な上川盆地と、川の源に当たる大雪の山々を一望することができる。
ただ展望台や北方野草園を含む現在の嵐山公園が整備されたのは、1965(昭和40)年のこと。
なので、脚本にあるように、一般の人が気軽に登って景観を楽しめたかは分からない。
隣接する近文山<ちかぶみやま>には、1885(明治18)年、上川開拓に功績のあった岩村通俊<いわむら・みちとし>(初代北海道庁長官)や永山武四郎<ながやま・たけしろう>(初代第七師団長・二代目北海道庁長官)らが、山頂から「国見(上川盆地を一望)」をしたことを祈念する石碑が建てられている。



嵐山


近文山の石碑




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<「パリジャンクラブ」>

カフェー・ヤマニの2代目店長、速田弘<はやた・ひろし>が1933(昭和8)年に開店した飲食店。
純喫茶、レストラン、カフェー、バーを合わせたような新しいコンセプトの店。
3〜4条の仲通り7丁目にあった。
設計は、速田と親交のあった名建築家、田上義也(たのうえ・よしや)が手掛け、正面左手にガラス張りのらせん階段、その上に装飾塔が付くという斬新な建物だった。
翌年、速田はヤマニを閉店して新店舗「パリジャンクラブ」にすべてをかけるが、時代は戦時色が次第に強まってきており、経営は低迷。
まもなく多額の負債を抱えて速田が自殺を企てたことから(命は取り留める)、店舗は人手に渡り、間もなく閉店した。



パリジャンクラブ(昭和8年・旭川市街の今昔 街は生きている)



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<知里幸恵(ちり・ゆきえ)と「アイヌ神謡集」>

知里幸恵は、1903(明治36)年、登別生まれのアイヌ民族の女性。
6歳の時に旭川の近文コタンに住んでいた祖母と叔母に預けられ、尋常小学校から旭川区立女子職業学校に進む。
1918(大正7)年、アイヌ語研究のためコタンを訪れた東京の言語学者、金田一京助<きんだいち・きょうすけ>と出会い、祖母や叔母らが伝承していたアイヌ民族の叙事詩、カムイユカラの日本語訳を始める。
1922(大正11)年5月、幸恵は、金田一の勧めで上京し、のちに「アイヌ神謡集」となる原稿を書き上げるが、持病の心臓病が悪化し、9月、出版の直前で急逝してしまう。
幸恵の遺稿は、翌年、金田一によって刊行された。
「アイヌ神謡集」は、アイヌ語の原文(原音)をローマ字で表記、さらにその日本語訳を併記しており、文字のないアイヌ語による文学をアイヌ民族自身が初めて紹介した画期的な業績と称されている。



「アイヌ神謡集」




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「旭川歴史市民劇」解説⑧ トピックその1

2019-01-28 19:00:00 | 郷土史エピソード
2020年公演予定の歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の解説編。
今回から、劇中に登場したり、触れられたりする出来事、トピックについて解説していきます。
今日は、物語の序盤、ACT1から3にかけて登場するトピックです。



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<師団通>

開村当時は「近文街道」、「常盤道路」などと呼ばれ、村はずれの田舎道に過ぎなかった現在の平和通。
その道路が「師団道路」と呼ばれ始めたのは、今の場所に旭川駅が設けられ、メインストリートとなった1898(明治31)年頃から。
その後、大正末期からは「師団通」とも呼ばれ始めた。

今回、舞台で描いた時代の直前まで、通りを走っていたのが馬鉄=馬車鉄道。
陸軍第七師団の旭川移駐に伴って運行が始まり、最盛期には客車20台、貨車4台、馬38頭、御者17人の体制で運行された。
当時の1日平均の利用者は1200人に上ったという。


馬鉄が通る師団通 明治44年・旭川市中央図書館蔵

一方、大正から昭和にかけての通りのシンボルだったのは、駅前の通りの入り口に狛犬のように並んでいた2つの旅館。
7丁目の洋館風の三浦屋と、8丁目の城郭風(和風)の宮越屋だった。


三浦屋と宮越屋が建つ駅前 大正末期・絵葉書

このほか、大正末~昭和初期の師団通には、スズラン型の街灯が飾られるなか、今のショッピングセンターに当たる「勧工場<かんこうば>」や、「神田館」などの活動写真館、丸井今井百貨店や旭ビルディング百貨店といったビルが建ち並んでいた。
東京銀座を散策する「銀ブラ」にちなんで、師団通をブラブラ=「団ブラ」という言葉もこの頃使われていた。


大正後期の師団通・旭川市中央図書館蔵



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<第一神田館と火災>


第一神田館と師団通 大正9年・絵葉書

第一神田館は、「神田館の大将」と呼ばれた実業家、佐藤市太郎<さとう・いちたろう>が、1911(明治44)年、旭川のメインストリート、4条師団通8丁目に開館した活動写真館(映画館)。
常設の施設としては、函館の錦輝館<きんきかん>に次ぐ北海道では2館目の活動写真館だった。
1917(大正6)年の改築後は、一部5階建ての威容を誇った。


第一神田館と師団通 大正中〜末期・絵葉書

この師団通のシンボル的な建物が炎に包まれたのは、1925(大正14)年6月10日の正午前。
3階の映写室から出た火が瞬く間に広がって、白亜の建物は塔部分から焼け落ちて全焼してしまう。
次回の上映作の試写をしていた際、フィルムに火が着いたのが原因とされる。
舞台のオープニングは、この時のイメージで描かれている。
当時のフィルムは極めて燃えやすく、また光源には、高温になりやすく、火花を発することもあったアーク灯が使われていたため、多くの活動写真館の火災の原因となった。


炎上する第一神田館 大正14年・目で見る旭川の歩み



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<旭ビルディング>

かつて4条通7丁目の師団通(現在の平和通買物公園)にあった石造りのビル。
戯曲の第1幕ACT2に描かれた美術展の会場でもある。


旭ビルデング 大正13〜14年頃・絵葉書

この場所にビルが建設されたのは1922(大正11)年11月。
同じく1条通7丁目にあった丸井今井呉服店旭川支店が、改築して旭川初のビル、丸井今井百貨店旭川支店に生まれ変わった1か月あとのことだった。
このためビルとしては旭川で2番目となったが、高さでは丸井今井が一部3階建て、旭ビルディングが4階建てと、こちらの方が高かった。


旭ビルデングから見た旭川市外 昭和5年・宗谷線全通記念写真帖

開業当時は「二番館」という名称だったが、その後経営者が変わって「旭ビルディング百貨店」、さらに「三好屋呉服店」と変遷。
その後も数度改築され、経営者も変わったが、いずれも定着しなかった。
郷土史家の渡辺義雄<わたなべ・よしお>は、著書の中で、「このように移り変わりの激しいビルは旭川でも珍しい」と書いている。


建設中の旭ビルディング(画面左側) 大正10年頃・絵葉書



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<旭川美術協会作品展と〝犬事件〟>

「旭川美術協会」は、画家、高橋北修らが結成した「ヌタップカムシュッペ画会」が発展解消して1923(大正12)年に結成された組織。
芝居の第1幕ACT2の舞台になっている作品展は、協会が翌年10月、同じく北修らが作った美術研究会「赤耀社<せきようしゃ>」と合同で開いた美術展をモデルにしている。


旭ビルディングと師団通 昭和3年・旭川写真帳

会場は、この年4条通7丁目に新装開店したばかりの「旭ビルディング百貨店」。
当時の旭川ではもっとも高い4階建ての建物で、大勢の市民が眺望を目当てに詰めかけた。
ところが屋上に上るには10銭の入場料を払って美術展の会場を通らなければならず、北修らにとっては予想外の収益となったはずである。


小熊の作品「土と草に憂鬱を感じたり」 大正13年

また舞台では、小熊秀雄の出展作品が会場に紛れ込んだ野良犬に齧られるという意外な展開が描かれているが、これも歴史的事実。
小熊の作品は「土と草に憂鬱を感じたり」と題した奇抜な油絵+コラージュで、絵の中央に本物の鮭の切身が貼りつけてあったため、こうした〝珍事件〟が起きたという。


〝事件〟を伝える旭川新聞の記事

なお美術展については、会場で撮影された参加メンバーの写真が残されている。
後列、左端の洋装の男が北修、一人置いた和装の男が小熊である。
当時、北修は26歳、小熊は23歳だった。


美術展会場での記念写真 大正13年



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<北修の震災避難記>

この芝居の主要人物の一人、高橋北修は実際に旭川で活躍した画家だが、青年期に2度、立て続けに九死に一生を得るという体験をしている。
それは1923(大正12)年9月、北修24歳の時。
東京で絵の修業をしていた北修は、隅田川に近い向島寺島町<むこうじまてらしまちょう>の借家で関東大震災の激しい揺れに見舞われる。
同居していた画家仲間とともに慌てて外に飛び出すと、すぐに建物が倒壊したという。


関東大震災で被害を受けた東京 大正12年

この頃、北修は脚気を患っていたため、故郷旭川に戻る決意を固め、列車に飛び乗る。
しかし仙台の手前、白石という駅で、思いがけぬ災難に遭う。
長髪で着の身着のままの北修を、東京から逃れてきた朝鮮人と疑った群衆に取り囲まれ、袋叩きに遭う寸前に追い込まれたのである。


20代の北修・旭川新聞

実は当時、被災地では、混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こしているといった流言飛語が飛び交い、それがもとで多くの人が殺される事件が起きていた。
そうしたデマは、被災地の外にも広がっており、北修が何度「自分は日本人だ」と訴えても疑いは晴れず、群衆は「殺してしまえ」とエスカレートするばかり。
結局、連行された警察署で持っていた日記帳を見せ、旭川を出てからのことを説明すると、ぴったり記載と符合していたため、なんとか窮地を脱することに成功した。
なお北修が日本人と分かると、地元の人たちは態度を一変させ、医者を呼んだり、食べ物や土産をくれたりと、いたせりつくせりの対応をしてくれたという。


北修の避難記が載った旭川新聞 大正12年



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<ヤマニと旭川のカフェー事情>

郷土史家、渡辺義雄<わたなべ・よしお>氏の著作によると、旭川のカフェー第一号は、1919(大正8)年に3条通7丁目に開店した「カフェー・ライオン」である。
そして1923(大正12)年、明治時代に創業した4条通8丁目の食堂「ヤマニ」が改装してカフェーとしての営業を開始。
この芝居では、この「ヤマニ」が主な舞台となっている。
さらに翌年には、「ヤマニ」と並んで当時の旭川の文化人が集ったカフェー「ユニオン・パーラー」が3条通8丁目に開店、いずれも人気を呼んだ。


カフェーヤマニ 昭和4年・絵葉書

ただ旭川のカフェーが最盛期に入るのは1930(昭和5)年頃からで、安価でスピーディーなサービスが受けて店が乱立し、ピーク時には70~80軒ものカフェーが師団通や錦座(3条通15丁目)界隈、中島遊郭界隈で営業していたという。


ユニオンパーラー 昭和4年・旭川新聞

当時のカフェーの代名詞となったのは、和服にエプロン姿の女給さんである。
旭川ゆかりの小説家、木野工<きの・たくみ>の「旭川今昔ばなし」には、1935(昭和10)年の統計データとして、旭川のカフェーで働く女給の数325人と紹介されている。
しかしこうした盛況ぶりも昭和12~3年頃までで、次第に戦時体制が強化されて廃業する店が相次ぎ、1944(昭和19)年には一斉停止命令で姿を消した。


大正時代の旭川のカフェー・旭川市街の今昔 街は生きている



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<旭粋会と黒色青年連盟>

旭粋会と黒色青年連盟は、ともに昭和初期に旭川にあった右翼と左翼の団体。
芝居に登場する極粋会と黒色青年同盟のモデルでもある。
劇では、2つの団体が対立を深め、ついには常盤橋で乱闘事件を起こすが、実際の旭粋会と黒色青年連盟も、1927(昭和2)年6月24日に常盤橋上で衝突、検挙者19名を出す大騒動を起こしている。


常盤橋 大正時代か・絵葉書

発端は、劇と同じく市内の飲食店で酌婦として働かされていた少女が店を逃げ出して黒色青年連盟の関係者だった労働組合員のもとに駆け込んだこと。
これを機会に、双方は小競り合いを繰り返していた。


かつて常盤橋があったロータリー 

常盤橋では、双方が角材や鉄棒、さらには日本刀まで持ち出しての渡り合いとなったが、旭川新聞はその様子を「怒号と負傷者の悲鳴とが凄惨に闇に漏れて乱闘場が展開されたが、双方土手を這い上がって常盤橋上に現れたので黒山のような野次馬が物凄い白刃の閃めきに驚いて逃げまどい、付近は大変な騒ぎであった」と伝えている。


事件を伝える旭川新聞 大正12年

ただ双方の動きは警察も察しており、衝突が始まるや次々とメンバーを検挙したことから30分ほどで騒ぎは鎮まり、けが人はわずか3人におさまった。



常盤橋から見た常盤通り 大正期・旭川町勢一班




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「旭川歴史市民劇」解説⑦ 劇中歌

2019-01-22 19:00:00 | 郷土史エピソード
2020年公演予定の歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の解説編。
今回は、劇に登場する歌についてです。



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はじめに

今回の劇では、たくさんの伝えたいことがありますが、まずは実際に観ていただいた方々を飽きさせない舞台にしたいと考えています。
このためカフェー・ヤマニのシーンなど、いくつかのシーンには、歌や踊りを入れています。
できれば舞台脇にバンドを入れて、生で伴奏してもらいたいと考えていますが、どうなるでしょうか。
今のところ舞台に登場する曲は4曲で、いずれも原曲は大正時代に一世を風靡した流行歌です。
このうち3曲は、劇に合わせて歌詞をアレンジ、いわゆる替え歌にさせてもらっています。
もう1曲、第1幕ACT4に登場する「宵待草」は、原曲のまま使う予定です。
あと、演出班の皆さんとは、この劇のオリジナルのテーマ曲も作って随所に活用しようという話もしています。
どんな曲が出来上がるのか、これも楽しみです。



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劇中歌解説

「旭川行進曲」=原曲「道頓堀(浅草)行進曲」 

劇中歌「旭川行進曲」は、この舞台のために作った替え歌。
原曲は、昭和初期に全国的に大ヒットした「道頓堀(浅草)行進曲」。
「道頓堀行進曲」は、昭和3(1928)年、関西の映画館、松竹座チェーンで、映画の幕間に演じられた女優、岡田嘉子<おかだ・よしこ>一座の音楽劇「道頓堀行進曲」の主題歌。
「赤い灯、青い灯、道頓堀の~」で始まる軽快なタッチで、舞台とともに人気を呼んだ。
このヒットを受けて、松竹は、舞台を東京浅草に替えて映画「浅草行進曲」を制作。
さらに「道頓堀行進曲」のメロディーに新たな詩を付けて主題歌「浅草行進曲」を作り、レコード化した。
このため同じメロディーの曲が、「道頓堀行進曲」と「浅草行進曲」の2つの流行歌としてそれぞれ親しまれるという異例のヒットとなった。
劇で歌われる「旭川行進曲」は、「浅草行進曲」の歌詞をベースに、地名を「浅草」から「旭川」に替えてある。


岡田嘉子 (1902〜1992)(毎日新聞社「昭和史 第8巻」)


「ヤマニのテーマ」=原曲「ベアトリ姉ちゃん」 


「ヤマニのテーマ」もこの劇のために作った替え歌。原曲は、大正中期に人気を集めた「ベアトリ姉ちゃん」。
「ベアトリ姉ちゃん」は、オーストリア人作曲家、フランツ・フォン・スッペのオペレッタ「ボッカチオ」に登場する歌。
「ボッカチオ」はまず大正4(1915)年9月、帝国劇場で邦訳による初演があり、その後、浅草オペラで繰り返し上演され、人気を博した。
この舞台からは「恋はやさしい野辺の花よ」と「ベアトリ姉ちゃん」の2つのヒット曲が生まれている。
このうち「ベアトリ姉ちゃん」は桶屋、床屋、雑貨屋の中年男3人が歌い、三馬鹿の歌とも呼ばれる。
訳詩は日本のオペラの振興に尽力した小林愛雄<こばやし・あいゆう>が手掛けた。
ベアトリーチェという娘に呼びかける歌だが、和訳ではベアトリ姉ちゃんと変わるのが面白い。
戯曲では、第1幕ACT4で「ヤマニのねえちゃん編」が、第2幕ACT5で「そこ行く兄さん編」が歌われる。



浅草オペラ(画報 近代百年史)


「宵待草」 


大正7(1918)年に発表された竹久夢二<たけひさ・ゆめじ>作詞の流行歌。
夢二は、明治17(1884)年、岡山県生まれ。数多くの美人画を残した大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」とも呼ばれた。
また詩や童話など、文筆家としても活躍した。
「宵待草」は房総で出会った20歳の女性への思いを綴った3行詩で、まず雑誌や詩集に掲載、その後曲が付けられ、大衆歌として一世を風靡し、今も歌い継がれている。
なお、もともと宵待草という植物はなく、夢二が詩の語感を良くするため、実際にある待宵草の待と宵の字を入れ替えたとされる。
待宵は陰暦の8月14日を指し、翌日の満月を待つ宵という意味。



竹久夢二(1884〜1934)(「画報日本近代の歴史8」より)


「旭川節」=原曲は「東京節」 

これも舞台のために作った替え歌。
原曲は、大正7(1918)年~8年にかけて大流行した「東京節」。
演歌師の添田知道<そえだ・ともみち>が、アメリカ南北戦争時代の「ジョージア行進曲」のメロディーに詩を付けた流行歌で、「パイノパイノパイ」の名前でも知られる。
演歌師は、明治から昭和にかけて活動した芸人で、通りや座敷、寄席などでバイオリンやアコーディオンを弾きながら歌を披露し、歌の本を売った。
地元の様々な名所や名物が出てくる「東京節」にちなみ、舞台版の替え歌では、大正~昭和初期の旭川の名所、名物を紹介している。



大正時代の演歌師(「演歌師の生活」添田知道著)






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「旭川歴史市民劇」解説⑥ 当時の街並み

2019-01-21 19:00:00 | 郷土史エピソード
2020年公演予定の歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の解説編。
今回は、作品に描いた大正末から昭和初期の旭川中心部の街並みを、絵葉書や古写真で紹介します。
正確に言いますと、今回の芝居は、大正13年から昭和3年までの5年間の旭川を舞台にしています
紹介する画像の中には、カフェー・ヤマニや旭ビルディングなど、舞台に登場する場所や建物も写されています。
ワタクシは、この時代を中心としたレトロモダンな旭川の街並みが大好きです。
皆さんもしばしタイムトリップしたつもりでお楽しみください。



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旭川駅前(大正後期)


画像1・旭川中央図書館蔵

大正後期の駅前。
師団通入り口に狛犬のように構えるのは、三浦屋と宮越屋の2大旅館。
明治、大正、昭和の3つの時代に渡り、旭川駅前のランドタワーのような存在だった。
7丁目にある三浦屋は、洋風の外観が特徴。
8丁目の宮越屋は和風(城郭宮)の建物だった。
宮越屋は、明治41(1908)年、釧路に向かう途中の石川啄木が一泊したことで有名だ。
また三浦屋関係では、2代目経営者の立野庄市が、スタルヒンを支援した人物として知られている。
師団通はまだ舗装されておらず、人力車や馬車が行き交っている。
通りを歩く人の多くも着物姿だ。


画像1のアップその1 三浦屋旅館(左)と宮越屋旅館(右)

三浦屋の左に、大正5(1916)年にできた駅前交番が見える。


画像1のアップその2 駅前交番

宮越屋の手前に、大きな木の切り株が見えているが、明治時代の駅前の写真に度々出てくるヤチハンノキの大木のなれの果てかもしれない。


画像1のアップその3 ヤチハンノキの切り株?


明治時代の駅前 左端の大木がヤチハンノキ・旭川市中央図書館蔵


小さくて見にくいが、師団通りの奥に大正14(1925)年に焼失した活動写真館「第一神田館」が見えている。
ひときわ高い塔のような外観。
舞台では、この「第一神田館」の火事が、オープニングのシーンとなっている。


画像1のアップその4 奥の塔が第一神田館



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1条師団通付近(昭和2年)


画像2・絵葉書

昭和に入ったばかりの師団通1条である。
1条本通の交差点に立って北方向を写している。
左側、7丁目にある大きな建物は丸井今井百貨店の本館と新館。
丸井のマークの入った白い建物が大正11(1922)年に完成した3階建ての新館である。
右端(8丁目)は、同じ丸井今井が経営する丸井金物店。
2つの建物の間を、自動車が疾走しているのが目新しい。
遠くに「イサミタビ」の大きな看板のあるビルが見えるが、丸井の新館と同時期に、4条通7丁目に建った旭ビルディング百貨店。
このビル、芝居ではオープニングに続き、小熊秀雄や髙橋北修、それに主人公格の5人の若者のうちの3人が登場する美術展のシーンの舞台になっている。


画像2のアップ イサミタビの看板があるのが旭ビルディング百貨店




                   **********



2条師団通付近(昭和2年)


画像3・絵葉書

同じ時期の師団通2条。
右端は薬問屋の山形勉強堂。
明治39(1906)年の創業で、昭和6(1931)年までここで営業した。
昔から旭川の中心部は、角ごとに薬屋があるのが特徴になっているが、この場所もその一つ。
その右、奥に目を移すと、画像3でも紹介した旭ビルディング百貨店がよりはっきり確認できる。


画像3のアップその1 中央が旭ビルディング

さらに左に目を移すと、様々な店舗が並んでいる。
2〜3条仲通りに面した福助足袋の看板のある店は、山口洋品帽子店。
その右、トモエヤの看板はトモエヤ洋品店。
その横は今も同じ場所にある明治27(1894)年創業の江川堂小林印舗。
さらにその隣は大橋時計店(眼鏡の看板もあるので、眼鏡も扱っていたのかも)。


画像3のアップその2 左から大橋時計店、小林印舗、トモエヤ、道路挟んで山口洋品



                   **********



3条師団通付近(大正末)


画像4・絵葉書

画像2と3に登場した旭ビルディング百貨店の上から南東方向を見ている。
画面を斜めに走っているのは大きな通りは師団通、まだ舗装はされていないようだ。
左下の一番手前の建物は、共盛館勧工場(きょうせいかんかんこうば)。
勧工場は、多くの小売店が集まった市場形式の集合店舗で、当時はこの横にもう一つ、旭勧工場という店もあり、多くの人で賑わった。
その隣は書店の博進堂。
さらに秋野保全堂薬局が建っている(ここも角地!)。
秋野保全堂は、今も札幌市中央区で店を構える創業明治5(1872)年の秋野薬局の系列店で、店先の大きな看板には「一の」の屋号が確認できる。


画像4のアップその1 左から共盛館勧工場、博進堂書店、秋野保全堂

ちなみにこの「一の」の屋号、秋野薬局のトレードマークで、現在の札幌の秋野薬局の看板にもあしらわれている。


札幌中央区にある秋野薬局

さらに3条本通りを挟んで3条通7丁目の角に建っているのが、創業明治38(1905)年の赤松靴店。
現在、カラオケ店になっている場所。


画像4のアップその2 赤松靴店



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4条師団通以北の景観(昭和2年)


画像5・旭川市博物館蔵

今度は、旭ビルディング百貨店屋上から北方向を写した写真。
手前は4条本通の交差点。
中央を走る師団通では、舗装工事が進んでいるように見える。
また画面上部には、切り替え工事前で今より中心部に近いところを流れていた牛朱別川の姿が見える。
画面右、一番手前の黒っぽい建物は、旭川を代表するカフェーだったヤマニ。
ヤマニは、旭川の文化人のたまり場でもあった場所で、今回の芝居の主要な舞台になっている。


画像5のアップ カフェー・ヤマニ



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4条師団通付近(昭和5年)


画像6・絵葉書

こちらはカフェー・ヤマニのある4条師団通の交差点付近を旭ビルディング百貨店前から写した一枚。
右端が辻薬局(ここも角地!)。
通りを挟んでその向こうがヤマニ。
画像5にはなかったスズラン街灯は、前年に整備された。

ヤマニのところを拡大すると、やはり前年に運行が始まった旭川市街軌道四条線の電車が見える。
その奥のキリンビールの看板がかかっているのがヤマニ。


画像6のアップ 右から辻薬局、電車、ヤマニ


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常磐公園付近の空撮(昭和4年頃)


画像7・日本地理体系第10巻

最後は、昭和初期の旭川の貴重な空撮の写真である。
左下は、大正5(1916)年に開園したご存知常磐公園。
その右側を流れているのは画像5でも触れた牛朱別川。
牛朱別川は、この翌年の昭和5(1930)年から7(1932)年にかけ、洪水対策を目的とした大規模な切り替え工事が行われ、今のように旭橋下で石狩川と合流することになる。
画面中央からやや左下、牛朱別川にかかっている橋は常盤橋。
川の切り替え後、橋のあった場所はロータリーとして整備された。
常盤橋は、昭和2(1927)年、旭川始まって以来という大乱闘事件があった場所として知られている。
お芝居の中では、この事件をめぐって登場人物たちが予期せぬ事態に捲き込まれる。



画像7のアップその1 常磐公園の右上すぐが常盤橋


常盤橋(大正時代か・絵葉書)


一方、画面右下に目を向けると大きな建物が2つある。
今も同じ場所にある日章小学校(上)と、西高の前身である庁立旭川高等女学校(下)である。
庁立高女の場所には、今はときわ市民ホールなどが建っている。


画像7のアップその2 日章小(上)、庁立高女(下)

もう一度、常盤橋の辺りに目を戻すと、橋から旭橋方向に向かって、常盤通がまっすぐ伸びているのがわかる。
その常盤通から2本、画面上方向に向かっている道路がある。
そのうち右側の道路がいわゆる大門通り(大門は遊郭の門の意味)。
その名の通り、この通りの先、今の東1〜2条1〜2丁目あたりの建物が固まっている一角が明治40(1907)年に営業を始めた中島遊郭である。
解説の人物編でも紹介したが、今回の芝居では、この中島遊郭で働く女性たちを救う活動に奔走した佐野文子(実在の人物)が主要キャストとして登場する。



画像7のアップその3 常盤通と大門通り、中島遊郭


大門通りの入り口(洪水時・大正8年・旭川市中央図書館蔵)



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お知らせ 歴史市民劇関連イベントを3月に開催!

2019-01-16 19:00:00 | 郷土史エピソード

2020年公演予定の歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の解説編でスタートした2019年のこのブログ。
今回は、3月に開催する関連イベントのお知らせです。



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先日出来上がったばかりのチラシです。

イベントのタイトルは、「『語り』捲くれ!小熊と北修」。
詩人、小熊秀雄の作品「しゃべり捲くれ」に引っ掛けて、旭川歴史市民劇の主要な登場人物でもある小熊と、同じく小熊の友人で旭川を代表する画家である高橋北修(ほくしゅう)について、①朗読、②歴史語り、③対談の3つで、「語り」尽くそうという内容です。

出演は、劇団「河」の主宰者で、演出家、俳優でもある星野由美子さんと、不肖ワタクシです。
①を星野さん、②をワタクシ、③を2人で担当します。

このうち①は、イベントのハイライト。
現在、91歳ながらすこぶるお元気な星野さんが、小熊の詩と散文を朗読します。
中でも今回初披露するのが、小熊が当時の旭川新聞に掲載したアイヌ伝説の朗読です。
長年の俳優経験に裏打ちされた唯一無二の朗読と、詩人が描いたアイヌ伝説の融合がどんな効果を生むのか、今からワタクシも楽しみです。

②の歴史語りは、市民劇の舞台にもなっている大正末から昭和初期の小熊と北修について、2人の交流ぶりを中心にお話ししたいと思っています。
当時からいわば「ぶっ飛んだ」存在だった2人。
抱腹絶倒なエピソードがたくさん残されています。
当時の貴重な写真などを交え、楽しくお伝えします。

③はワタクシがインタビュアーになって、星野さんにお話を伺います。
実は、星野さんは旧姓高橋由美子。
そう、北修の長女さんなんです。
小熊に引けを取らず破天荒な生き様でしたが、その飾らない人柄で市民に愛された北修。
その思い出をたっぷりと語っていただきます。

日時と場所は以下の通りです。
興味を持たれた方は是非いらしてください。

日時 2019年3月23日(土)開場17:30 開演18:00
場所 まちなかぶんか小屋 旭川市」7条通7丁目右10(買物公園)
料金 500円(事前申し込み不要。直接会場にお越しください)

     




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