もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

カラー動画でよみがえる30年代

2015-11-24 08:30:00 | 郷土史エピソード


写真の町として知られる東川町に、戦前から戦後にかけてのフィルム映像が保存されています。
ほとんどは東川の人や出来事を写した映像ですが、その中に昭和30年代初頭の旭川中心部や周辺観光地の映像があるのが見つかりました。
しかも当時としては珍しいカラー映像。
そこには生き生きとした当時の様子が記録されています。


                   **********


「保存映像と飛弾野数右衛門」



東川町文化ギャラリー


東川町にある文化ギャラリー。
写真の町として知られる東川の文化活動の拠点です。
ここに、戦前から戦後にかけて地元のある写真家が撮影した4340フィート(2時間弱)の16ミリフィルム映像が保存されています。



飛弾野数右衛門さん


飛弾野数右衛門(ひだの・かずえもん)さんです。
飛弾野さんは、14歳の時から80年に渡って生まれ故郷の東川の写真を撮り続け、高く評価されたアマチュア写真家です。
役場職員でもあった飛弾野さんは、当時、地元の公共機関が共同で購入したフィルムカメラを使い、地域の出来事を動画で記録する活動も続けていました。
町に保管されているのはその映像です。



「観光旭川」のタイトル


そのひとつ「観光旭川」と題された映像です。
保管映像の中では珍しく、一部が隣町である旭川で撮影されています。



クレジット①


クレジットには、「制作 旭川電気軌道株式会社 後援 東川村観光協会、旭岳温泉湯駒荘」とあります。
映像は、前半は旭川駅前と市内の観光地、後半は東川の2大景勝地、天人峡と旭岳を紹介する内容になっています(音声はなし)。
当時、旭川電気軌道は、旭川と東川を結ぶ路面電車や、観光バスを運行していました。
このため自社がらみの観光地のPRを目的に、東川の人たちと協力してこの映像を制作したものと思われます。



クレジット②


もう一枚のクレジットには、「撮影 飛弾野数右衛門」となっています。
PR動画の製作に当たり、腕を見込まれて駆り出されたものと思われます。
企画者として名前が出ている中屋義長さんは当時の電気軌道の重役です。


「カラーで記録された旭川」


それでは、どんな様子が記録されているのか、動画を静止画に落した画像を使いながら紹介していきましょう。



「観光旭川」静止画1


まずはこちら、旭川駅前ですね。見えているのは、大正2年竣工の2代目駅舎です。
映像はカラーで記録されています。
電気軌道の製作映像ということで、当時は高価だったカラーフィルムを使用したものと思われます(他の保管映像にカラーはありません)。



「観光旭川」静止画2


駅前広場に停まっているのは、もちろん旭川電気軌道のバスです。
昔なつかしいボンネット型のバスですね。



「観光旭川」静止画3


こちらは駅前の宮下通に昭和29年11月に完成したばかりのアサヒビルです。
窓にJOHE(HBC旭川放送局)の表示が見えています。


「観光旭川」静止画4


アサヒビルの並びの宮下通沿いの店舗です。
パチンコ店や食堂、荷物の一時預かり所などが見えています。



「観光旭川」静止画5


平和通をはさんだ宮下通7丁目側。
3階建ての建物は、長く旭川駅前のランドマークだった三浦屋旅館です。



「観光旭川」静止画6


ここから平和通を北に向かうバスの車内からの撮影映像です。
まずは平和通に入ったところ。
右側(8丁目側)に見えるのはスズラン街灯。
右側(7丁目側)の高い建物は丸井今井デパートです。



「観光旭川」静止画7


もう少し進んだところですね。
5階建ての丸井デパートの姿がはっきり見えてきました。
車の数がまだ少ないせいか、自転車が道路の真ん中を我が物顔で走っています。



「観光旭川」静止画8


1条通の丸井前です。
かなり人通りがあるのがわかります。



「観光旭川」静止画9


4条交差点の名物だった男山のアーチ型広告塔が見えています。
前を行くバスとちょうどすれ違っているのは昭和レトロのオート三輪です。



「観光旭川」静止画10


平和通を抜けたバスはロータリーへ。
見えているのは旧商工会議所。
当時、館内にあった映画館(三階小劇場)の宣伝用看板があちこちに掲げられています。



「観光旭川」静止画11


ロータリーを抜けようとするところですね。
旧北島製粉所など常盤通の様子がわかります。



「観光旭川」静止画12


そしてバスは旭橋へ。
手前に見えているのは、昭和31年6月に廃止された路面電車=旭川市街軌道の線路です。
この線路、旭橋の上では撤去されていて、この映像が市街軌道廃止後の撮影であることがわかります。
また駅前のシーンで、昭和32年に廃業した三浦屋旅館がまだ営業中ででしたので、撮影は31年の秋ではないかと推測されます。


「観光旭川」静止画13


もう少し映像の説明を続けましょう。
こちらは北海道護国神社。
終戦後間もないころの映像ですので、参拝客も多かったと思われます。



「観光旭川」静止画14


こちらは上川神社ですね。
右端を歩いているのはバスガイドさんです。



「観光旭川」静止画15


東川線と東旭川線があった旭川電気軌道。
こちらはその旭川四条駅です。
右端に写っているのが電車の車両、左側の建物が駅です。
旭川市街軌道が今の札幌や函館の市電と同じいわゆりチンチン電車のサイズだったのに対し、旭川電気軌道の電車は当時の国鉄と同じで、一回り大きなサイズでした(もちろん線路幅も国鉄と同じ)。
東川線と東旭川線ともこの旭川四条駅を出発し、途中で二又に分かれて東川と東旭川(東旭川線の終点は旭山公園駅!)に向かいました。



「観光旭川」静止画16


せっかくですので、映像の後半に登場する東川の観光地も少し紹介しましょう。
まずは天人峡のホテル街ですね。



「観光旭川」静止画17


こちらは羽衣の滝。
現在は残念ながら滝に向かう遊歩道ががけ崩れの影響で通行止めになっています。



「観光旭川」静止画18


湯駒別(ゆこまんべつ=今の旭岳温泉)に向かう電気軌道のバスです。
危険な香りいっぱいの道!に驚きます。



「観光旭川」静止画19


湯駒別の温泉街です。
やはり旭岳温泉よりも湯駒別の名前の方がしっくりきます。



「観光旭川」静止画20


最後は旭岳。
この姿はこのフィルムが撮影された時代も今も変わりはないようです。


「宮下通の貴重な映像」


ところで、東川町に保管されている飛弾野数右衛門さんの映像には、もう一つ、白黒ですが「観光旭川」とほぼ同じ趣旨で作られた映像があります(昭和30年前後の撮影と時期もほぼ同じ)。
その中に非常に興味深いシーンがありますので、最後に紹介したいと思います。



「白黒PR動画」静止画1


まずはこちら。どこか分かりますか。
後に写っているのは鉄道管理局(いまイオンが建っているところです)。
なので駅前宮下通ですね。
左手前と右奥に塔のようなものが建っていて、上に架線が見えています(左手前の塔には「旭川紡績」の文字)。
これ、旭川市街軌道の停留所なんです。
映像では、乗り場が少し高くなっているのが分かります。



「白黒PR動画」静止画2


動画では、この停留所に電車が入ってきます。
それがこの静止画です。
旭川市街軌道の電車の動画映像はいくつか確認されていますが、停留所の映像はこの映像しかないと思われます。
ちなみに旭川市街軌道はいくつかの路線がありましたが、この映像は近文線(戦前は師団線)の電車です。
また市街軌道が走っていますので、当然この映像の撮影は31年6月以前ということになります(ほかのシーンの分析から、我々は30年秋の撮影と見ています)。



「白黒PR動画」静止画3


もう一つ、静止画にするとやや分かりにくいのですが、とても面白いシーンなのでご覧いただきます。
同じ宮下通。
右端はカラー動画のところでも出てきたアサヒビルです。
画面の下、4分の1のところをよく見ていただきたいのですが、新旧4つの乗り物が一つの画面にいっしょに写っています。



「白黒PR動画」静止画4


まず一番左が前の写真でも紹介した旭川市街軌道の電車です。
画面、右から左(8丁目から7丁目方向)に向かって走っています。
続いて電車のすぐ脇。
荷物をいっぱいに積んだ馬車が同じく7丁目方向に向かっています。
その右、逆方向に向かっているのは、おなじみオート三輪です。
よく見ると、運転席のドアがなく、運転している人の姿が丸見えです。
最後に画面の一番左に停車中なのが、この後、電車に替わって交通の主役となるバスです。
この静止画ではわかりませんが、ボンネット型のバスです。
この4種類の乗り物、いずれも時代時代に庶民の暮らしを支えた欠かせないものでした。
それがワンカットにおさめられたフィルム。
時代の動きまで記録した貴重な映像と言えます。




「白黒PR動画」静止画⑤・・・ドアのないオート三輪




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佐々木座と第一楼

2015-11-12 08:36:25 | 郷土史エピソード


鉄道の開通や陸軍第7師団の移駐決定を契機にした人口の急増を背景に、一気に発展した明治30年代の旭川。
歌舞伎の上演も可能な本格的な劇場や舞台付の大広間を備えた料亭が早くもお目見えし、好景気に沸く人々を癒しました。
今回はそんな開拓期のお話です。



                   **********


「最初の劇場」



佐々木座開業広告(明治32年7月1日・北海道毎日新聞)


明治32年の新聞に載った広告です。
「旭川本町六町目ニ於テ劇場新築中ノ処来ル七月十四日落成ニ付佐々木座ト称シ同日舞台開キ仕候間当日ヨリ賑々シク御来観ノ程伏テ奉希候」とあります。
この「佐々木座」(「マルサ座」とも)、場所は現在の1条通6丁目、今の「スマイルホテル旭川」(旧ワシントンホテル)裏手の駐車場のところにありました。
回り舞台など歌舞伎を上演できる設備を備えた旭川初の本格的な劇場で、東京から歌舞伎の一座を呼ぶなど開業当初から人気を集めたほか、政党による演説会など各種の集会にも利用されました。



佐々木座(明治35年・上川便覧)


「大親分、佐々木源吾」



佐々木源吾


この劇場を建てたのは、当時、地域の顔役だった博徒の親分、佐々木源吾(ささき・げんご)です。
佐々木は幕末の1847年に現在の岩手県水沢市に生まれ、江戸に出た後、旧幕府軍の榎本武揚(えのもと・たけあき)に従って函館に渡った人物です。
その後、函館を拠点に全道に勢力を広げていた博徒の丸茂(まるも)派一家(親分は森田常吉)の盃を受けて幹部となり、明治25年頃、旭川に進出して自身の一家、丸佐(丸サ)派を作りました。



「昇る旭川」(大正6年3月4日・北海タイムス)


大正6年に連載された「北海タイムス」の記事「昇る旭川」です。
急成長する旭川の様子を確かめようと、札幌から派遣された記者が書いた今でいうルポルタージュ記事です。
その中に当時、賭博場はもとより花柳界、興業界を仕切っていた佐々木のことが詳しく紹介されています。
少し紹介しましょう。

「佐々木源吾の旭川村へ落ち着いたのは明治二十五年頃で同地が漸やく拓けかかる時であつた(中略)間もなく三十一年八月には瀧川旭川間の轍道が開通 三十二年には鷹栖村字近文へ第七師團が起工され三十三年八月には旭川町と改稱(かいしょう)さるるに至り僅か七八年の間に旭川も驚くべき進歩を来たした 源吾は此間に土工夫を相手に賭博を開帳し一面旗亭妓楼を開業 第一楼(今の)第二楼、妓楼は中島遊郭で開新楼と命名し營業も次第に繁昌し追て見番を設け劇場佐々木座を経營するに至り丸サの親方親方と立られ、一面には賭場の部屋が設けられ部屋には乾兒(こぶん)百人斗(ばか)り置れ(中略)旭川附近一圓には四百八十人斗(ばか)りの乾兒を有し丸サの親分といへば飛ぶ鳥落す勢ひであつた」。

「日の出の勢ひだつた丸サの親分佐々木源吾は一方博徒の首領として町民を戰慄せしめたが一方旭川のため功勞も多い 又當時同町第一の納税者で明治二十七年頃火防の必要上私立消防を組織した 當時の人員は六十名だつたが三十一年に旭川署に返上し町有となつてからは十有二年間消防組頭の公職を勤め貸座敷取締を五年間も勤続した男だ」。


「本格料亭『第一楼』」



第一楼(大正4年・北海の礎)


この佐々木が、劇場に先んじて経営していたのが記事にもある料亭「第一楼」でした。
明治30年頃、のちに「佐々木座」を建てる1条通6丁目に店を移し、本格料亭として経営を始めます(開業当初の店は別名)。
明治32年10月7日の「北海道毎日新聞」には「第一楼は一条通り六丁目にあり真に旭川に於ける第一楼にして百人以上の宴会には此楼を措て他に求むべからず」とあります。
北海道ではまだ珍しい舞台付の大広間を備える本格料亭で、札幌の「幾代(いくよ)」、旭川の「第一楼」と並び称されることもあったようです。
また同じ記事には「当地に足をいるるもの官吏たると商人たるを問わず一度は必ず昇るものとせり」とあり、賑わっていたことをうかがわせています。
鉄道の延伸や第七師団の移駐で人口が急増した明治30年代の旭川。
ゴールドラッシュに沸くアメリカ西部のような昼夜を問わぬ喧噪のなか、各地から集まった人々を癒したのは、源吾がいち早く建設した劇場や料亭だったようです。



第一楼の内部(昭和3年・旭川新聞)


「佐々木から辻広へ」



辻広駒吉


さて飛ぶ鳥を落とすと形容された佐々木源吾ですが、明治37年、突然、興業界及び博徒渡世からの引退を表明し、当時の朝鮮に渡ってしまいます(本人は「開明の世にいつまでも賭博を生業にするのは大きな間違いと思い至った」と話したとされています。その後、いったん旭川に戻るも今度は樺太に渡り、昭和3年、当地で死去)。
この時「佐々木座」や「第一楼」などを引き継いだのが、配下の辻広駒吉(つじひろ・こまきち)でした(賭場は別の人物が引き継ぐ)。
辻広は明治元年、福井県の生まれで、明治12年に函館に移住。さらに旭川に拠点を移したのは明治30年頃とされています。
興業関係の才覚は佐々木をしのぎ、明治30年代には、東京相撲の招へいで手腕をふるったほか、大正2年には中村芝雀(なかむら・しばじゃく)、大正7年には尾上菊五郎(おのえ・きくごろう)一座を旭川に招き、地元住民の喝さいを浴びました。
その後は、もともとの生業である建設請負に加え、典礼関係の会社を興すなど事業を拡大、町会議員や市会議員としても活躍しました。


「続く名興行主の系譜」



佐藤市太郎


ところで、旭川の興業界は、ご紹介した佐々木、辻広のほかにも、大正から昭和にかけて活動映画館の全道チェーン「神田館チェーン」で一世を風靡した佐藤市太郎(さとう・いちたろう)や、戦後、日本を代表する興行主と言われ、名優、長谷川一夫(はせがわ・かずお)との深い親交などで有名な本間誠一(ほんま・せいいち)など、異才を輩出したことで知られています。
地理的には日本の最北端に近い場所に位置する旭川。そこがこのように実力ある名興行主を輩出した背景はなんだったのだろうかと考えずにはおられません。


「旭川に来た須磨子と貞奴」


なお、このブログでは何度も触れている北けんじさんの著作に、大正時代に「佐々木座」で公演した在京の2つの著名な劇団について詳しく書かれています。
ワタクシも読んで驚いた一人でありますが、多くの人に知っていただきたい事実なので、最後に紹介させていただきます。



芸術座公演を伝える新聞記事(大正3年9月13日・北海タイムス)


一つは抱月(ほうげつ)、須磨子(すまこ)で有名な「芸術座」です。
北さんはこう書いています。

「坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)が主宰する文芸協会が、島村抱月と松井須磨子の恋愛問題に端を発してあっけなく解散となり、抱月は須磨子を擁して芸術座を組織したのが大正2年9月である。松井須磨子は島村抱月という演出家を得て粗削りな演技にもかかわらずその野生美と大衆が受け入れやすい感傷性を兼ね備えていたので、新劇女優として成功した。(中略)今では伝説となった『復活』の主題歌カチューシャの唄は全国に普及して流行り歌となっていたのである。その絶頂期にある松井須磨子を擁する芸術座が旭川にやって来た」。

公演は札幌、小樽に続き、大正3年9月13日と14日に、旭川「佐々木座」で行われ、「復活」など2本が上演されました。



松井須磨子(1886-1919)


もう一つは、川上貞奴(かわかみ・さだやっこ)の一座です。
貞奴は、「オッペケペ節」で知られる壮士芝居の雄、川上音二郎(かわかみ・おとじろう)の妻ですが、夫の急死を受けて貞奴一座を作り、全国を巡演していました。
「佐々木座」での公演は大正4年2月1日の開幕。演目は「八犬伝」でした。これは当時の新聞に載った劇評です。

「嘗て新しいと云ふ寝耳に水の様な声に驚かされて芸術座のカチューシャを観た時は多くの顔が失望の色を浮かべてゐた。正月の芝居沈み勝に過ぎた今日、早くも雪解けの長閑さを味ふかの様も待ち侘びていた貞奴一座が佐々木座に来ての初日は素晴らしい人気であった。マダムの指は未だ痺れるには間がある。夫れに時代劇の八犬伝墨田高楼は旭川唯一の観劇趣味に投ずるに足るもので女装の犬坂が凛として決心を見せる処は拍手喝采。(後略)」

この評について、北さんは「須磨子の芸術座は旭川の観客には高尚に過ぎて退屈してしまったようだが、マダム貞奴一座の『八犬伝』の大立回りは旭川の観客には理屈抜きで面白い芝居に映ったということのようである。新劇のもってまわったような科白にはついてゆけない、正直な観客層だったといえる。しかしこんな演劇もあるのだという認識を植え付けられたという意味で画期的な公演だった」と書いています。
ワタクシもさもありなんという感想です。




貞奴(1871-1946)


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市街に鳴り響いた「母の鐘」

2015-11-08 14:01:07 | 郷土史エピソード

かつて旭川の街に鳴り響いていた「母の鐘」。
これについては、何度かブログの中で触れてきました。
これまでの調べで新たに分かったことも出てきましたので、改めてここでまとめたいと思います。




                   **********


「『母の鐘』鳴り響く」



(写真①)ロータリーと大平和塔(昭和26~27年・絵葉書)


昭和33年5月12日、旭川の街に時を告げる鐘の音が響き渡りました。
その名は「母の鐘」、夕方5時と夜10時の2回、街で遊ぶ青少年に帰宅を促す合図です。
「母の鐘」が設置されたのは、昭和25年の「北海道開発大博覧会」のシンボルタワーとしてロータリーに建てられた「大平和塔」です。
記録によりますと、鐘の音を発生させる装置を隣接する商工会議所の建物内に置き、そこからコードを伸ばして塔の先端部に取り付けたスピーカーから流していたようです。



(写真②)完成直後の大平和塔(昭和25年・「北海道開発大博覧会誌」より)


「ルーツは『みおつくしの鐘』」



(写真③)佐野文子


この「母の鐘」、設置のきっかけは、命をかけた廃娼運動などで知られる社会活動家の佐野文子の働きかけでした。
佐野は、大阪市で開かれた保護司の大会に出席した際、地元の婦人団体の提唱で始まった「みおつくしの鐘」(夜間、鐘の音で青少年に帰宅を促す活動)を知り、旭川でも同様の試みを行いたいと提唱したのです。
反響は大きく、直ちに建設期成会が結成されて寄付集めが始まり、婦人団体を中心に建設に必要な90万円余りが集まりました。
この「母の鐘」の活動は、その後、道内の他の都市にも広がったそうです。



(写真④)8条斜通りから見た大平和塔(昭和34年・旭川市博物館蔵)


(写真⑤)塔の先端のスピーカー(同上)



「平和塔から市役所屋上へ」


こうして始まった「母の鐘」ですが、その後、いくつかの変遷をたどります。
まず一つは鐘の音を流す時間です。
当初は午後5時と10時でしたが、市内の小中学校からの要望があり、昭和33年、午前5時(のちに6時に変更)、午前8時、正午を加えた5回に増やされます(このあたり、どちらかというと時報がわりの意味合いが強まってきたように思えます)。
2つ目は場所です。
昭和33年11月、新しい市役所庁舎が竣工したのに合わせ、「母の鐘」は庁舎の9階屋上に移設されました。
より広い範囲に鐘の音を届ける事が出来、メンテナンスもしやすいというのが移設の理由と考えられます。
これ以降、「母の鐘」は1日5回、市役所屋上から流されますが、いつ頃まで続けられたのかは定かではありません。
ちなみにワタクシは、昭和30年代から40年代にかけて、市役所の隣にあった(今の市民文化会館の場所)中央小学校に通っていました。
なのでこの鐘の音は日常的に聞いていました(もっとも「母の鐘」という名前があったことは子供の頃は知りませんでした)。



(写真⑥)新築工事中の旭川市役所(手前は旧庁舎・昭和32年か・旭川市中央図書館蔵)


「大阪では今も」


旭川の「母の鐘」の元となった大阪の「みおつくしの鐘」ですが、始まったのは旭川の3年前、昭和30年です。
市役所庁舎の屋上塔に鐘が置かれ、毎夜10時に鳴らされました。
その後、昭和61年に市役所は新築されますが、屋上塔はモニュメントとして鐘ごと新庁舎の屋上に移設され、今も大阪の街に音を響かせているということです。
また毎年の成人の日に、新成人がこの「みをつくしの鐘」を突くのが、大阪市の恒例行事となっているそうです。




(写真⑦)旧大阪市役所庁舎で行われた「みおつくしの鐘」の設置式(昭和30年・「写真集おおさか100年」より)


(写真⑧)現市役所庁舎にある屋上塔モニュメントと鐘


(写真⑨)旭川市役所と旭川市街(昭和38年・旭川市中央図書館蔵)




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