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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

昔は〝島〟&常盤橋乱闘事件

2015-04-01 09:02:44 | 郷土史エピソード


今は旭橋の下で石狩川と合流している牛朱別川。
しかし昭和初期までは今よりも市の中心部に近い場所を流れ、常磐公園の一帯は中州でした。
旭川の発展に大きく寄与した大工事とは、どのようなものだったのでしょう。
そして、かつて牛朱別川にかかっていた橋を舞台にした事件とは。


            *************


<中心部を変えた大切替工事>

まずは、こちらの写真を。



牛朱別川切替前の常磐公園付近(昭和4年・「日本地理大系」より)


昭和4年、旭川市上空から撮影した写真です(左端の黒い三角は飛行機の翼)。
右下の円形の緑地は常磐公園です。
その縁に沿って流れているのが、かつての牛朱別川、さらに公園の北側には石狩川が流れているのが確認できます。



旭川上空からの撮影


同上(一部拡大)



もう一枚、同じころに撮影された空撮写真です。
この写真でも牛朱別川が常磐公園の南側を流れている様子がよくわかります。

このようにかつての常磐公園の一帯は、石狩川と牛朱別川にはさまれた中州=中の島でした。
それが現在のような姿になったのは、昭和5年から7年にかけて行われた牛朱別川の切り替え工事後のことです。



10条通13丁目付近での工事(昭和6年頃・「牛朱別川切替工事概要」より)


今よりも町の中心部に近い所を流れていた牛朱別川、流路が定まらず曲がりくねっていたことから何度も氾濫を繰り返していました。
このため現在のJR宗谷線の鉄橋付近から旭橋までの約1.7キロを人工的に掘削して川の流れを変え、もとの川は埋め立てて宅地などにしたのです。
当時は今のように重機などはありません。
工事のすべてが人力と馬力で行われました。



同じく切り替え工事の様子(昭和6年頃・「牛朱別川切替工事概要」より)


現在のロータリーを含む公園の南東側が昔、川だったと聞くと、旭川市民でも驚く方が少なくありません。
治水対策として行われたこの牛朱別川の切り替え工事が、その後の旭川の発展に大きく寄与したことは言うまでもありません。


<橋がいっぱい!?>


さて、切り替え工事の前、牛朱別川には中心部から常磐公園側に渡るいくつかの橋が架けられていました。
その代表が常盤橋と相生橋です。
このうち常盤橋のあった場所は、埋め立てられて現在のロータリーになっています。
常盤橋には6本の道路が集中しており、通常の交差点にするのは難しかったのです。

次の写真は、切り替え工事前と工事後のロータリー付近を同じアングルから撮影した写真です。



切替前のロータリー付近・橋は常盤橋(昭和4年頃・「牛朱別川切替工事概要」より)


同じ場所の切り替え後(昭和7年頃・「牛朱別川切替工事概要」より)



実は、当時、旭川のような地方都市にロータリーなど必要ないのではないかと国からの指導があったそうです。
ただ市は将来の中心部の交通の流れを考えるとロータリーの設置は不可欠だと強く主張し、建設を認めさせたと伝えられています。



戦後のロータリー=音楽大行進のパレード中(旭川市博物館蔵)


一方、もう一つの橋、相生橋は、渡り切るとちょうど今の道立美術館のところに出る位置にかかっていました。



切替前の相生橋付近(昭和4年頃・「牛朱別川切替工事概要」より)


なお相生橋のさらに下流には、今の新橋方面に至る蓬莱橋という橋がありました。
ここも現在は埋め立てられていますが、ロータリーと同じく6本の道路が集まる変わった交差点になっていて、かつて川だった頃の面影が残っています。
このためこの場所を「第2のロータリー」と呼ぶ方もいます。



かつて相生橋があった5条通2丁目付近=第2のロータリー


さらに現在の8条通の辺りには、牛朱別川支流の小川(八条川)が流れ、小さな橋が2本かけられていました。
川の町、橋の町と呼ばれている旭川ですが、かつてはもっとたくさんの川や橋があったのです。


<常盤橋と乱闘事件>


ところで、切り替え前の牛朱別川のうち、現在のロータリーの場所にかかっていた常盤橋ですが、かつての住民にはたいへんなじみの深い橋だったようです。
このため写真もたくさん残されています。
次の写真は、常盤橋の上から撮影された1枚です。
奥に小さく見えているのは初代の旭橋です。



常盤橋(絵葉書・大正時代か)


水害に見舞われた常盤橋(常盤橋の脇に作られていた馬鉄用の橋が流されている・絵葉書・大正時代か)



ここからは、この常盤橋で起きたある事件についてご紹介しましょう。

事件があったのは昭和2年6月24日。
血気盛んな数十名の男たちが、角材や鉄棒、さらには日本刀まで持ち出して渡り合うという旭川始まって以来の大乱闘が起きました。

事件を起こしたのは、地元のアナキストグループ「黒色青年連盟」と、右翼団体「旭粋会」です。
きっかけは、借金のかたに市内の飲食店で働かせられていた十代の少女が店を逃げ出したことでした。
少女は市内に住む兄のもとに匿われますが、店からの要請を受けた「旭粋会」が押しかけて少女は連れ戻されます。
警察が動いて少女は親元に戻されましたが、「旭粋会」の襲撃の際、居合わせた「黒色青年同盟」のメンバーが袋叩きにあったことで(少女の兄も「黒色青年同盟」の活動家でした)、双方の対立が深刻化していたのです。

当時の模様を伝える旭川新聞によりますと、騒動は24日の夜、「黒色青年連盟」のメンバー約30人が、今の3・6街にあった「旭粋会」の事務所を襲ったことから始まります。
石を投げるなどして玄関や窓を破壊した「黒色青年連盟」は看板を奪って意気揚々と引き揚げますが、「旭粋会」も体制を整えて反撃、「黒連」本部のある常盤橋脇に集まり、ついには橋を舞台に双方の大衝突となったわけです。



旭川新聞より(昭和2年6月26日)


「怒号と負傷者の悲鳴とが凄惨に闇に漏れて乱闘場が展開されたが双方土手を這い上がって常盤橋上に現れたので黒山のような野次馬が物凄い白刃の閃めき驚いて逃げまどい付近は大変な騒ぎであった」(旭川新聞より)


結局、事態に素早く対応した旭川警察署の判断で、双方の関係者を次々と検挙したことから死者は出ず、30分ほどで騒ぎはおさまりました。
負傷者は3名、検挙者は合わせて19名だったそうです。

なお、この騒動、警察の仲立ちで2日後に和解の手打ちが行われたのですが、その場所が、なんとこのブログでたびたび紹介しているカフェー「ヤマニ」。
下は、その模様を伝える旭川新聞です。



旭川新聞(昭和2年6月27日)


この乱闘事件があった昭和2年は、詩人の小熊秀雄や今野大力が同人誌の活動を活発化させた年で、事件の1か月ほど前には芥川龍之介と里見惇が講演のために旭川を訪れています(芥川は帰京後、まさに事件のあった24日に自殺)。
また事件の5日後には、大休寺で大雪山夏期大学というイベントがあり、旭川とゆかりの深い詩人、野口雨情が講師役を務めています(以前のブログ記事を参照)。

アナキストや右翼が闊歩し、高名な文学者が行き来した昭和初期の旭川。
そんな当時に思いをはせることができるのも、郷土史研究の楽しみの一つです。



常盤橋(絵葉書・大正時代か)


現在のロータリー