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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

画像でたどる「ヤマニ」の変遷

2014-11-29 08:37:18 | 郷土史エピソード

 
前回の記事「『ヤマニの兄貴』速田弘」を書くために、関連の画像や絵葉書を改めて調べたのですが、店舗の変遷について、いくつか気づいたことがありました。
今回は、そうした点について、「ヤマニ話」の続編としてまとめてご紹介したいと思います。

前回書きましたように、旭川のモダンボーイ、速田弘が率いた「ヤマニ」は、大正12年に食堂からカフェーに転身します。
ただその前後についても、何回か改築されていることが、今回、画像から確かめることができました。

ここからは、食堂時代もふくめ具体的なヤマニ店舗の変遷を見ていきます。


<食堂時代>


食堂時代の「ヤマニ」の画像で、現在、私が確認しているのは5枚です。



(写真)№1(大正4年「御大典記念北海の礎」より)


№1は大正4年発行の冊子に掲載されたもっとも古い時代の「ヤマニ」の写真です。
雪が降っていて、屋根にもうっすら積もっています。
大きなのれんには「天どん」「一品洋食」などの文字があり、和洋どちらの料理も出していたことが分かります。
2階の軒下には「山二」の屋号が見えます。



(写真)№2(大正8~9年か・絵葉書)


(写真)№2(拡大)


№2は4条通の7丁目から8丁目側を写しています。
たくさんの人に取り囲まれている左端の建物が「ヤマニ」です。
手前(左1号側)が食堂部分、奥(左2号側)が「ヤマニ旭館」と呼ばれた仕出し&催事場部門です。
№1に比べますと、どちらも立派になっていて、改築されたことがわかります(№2、№3の写真だとよりはっきり分かります)。
2階の角には「サッポロビアホール」の看板が掲げられています。

ちなみにこの絵葉書について、郷土史家の渡辺義雄さんは次のように書いています。

「7丁目左角と8丁目左1号角ヤマニ食堂前に群がる人々、荷馬車、自転車、荷車を一時休めて見いる人もいる。祭典にしては飾りつけが見当たらないところから大正9年の開基30周年の祝日でもあろうか。大道芸人や物売りの香具師(テキ屋)の口上に引きつけられた群衆で一杯である」

ただこの記述、大正9年の撮影だとすると、この年に「ヤマニ」の並びに開業した「北海屋ホテル(のちに北海ホテル)」の姿がまだ見えていないのが気になります。
もしかしたら大正8年かそれ以前の写真かもしれません。




(写真)№3(大正9年~11年・絵葉書)


(写真)№3(拡大)



№3は、№2と同じアングルですが、「ヤマニ」の奥に「北海屋ホテル」が建っています。
なので昭和9年以降の撮影です。
「ヤマニ」の外観は、№2とほとんど同じに見えます。
師団通をはさんで「ヤマニ」の手前(7丁目側)は「松浦呉服店」ですが、店の前に植え木の露店が出ているのでしょうか、品定めをする客でにぎわっています。




(写真)№4(大正9~11年・絵葉書)


(写真)№4(拡大)


(写真)№4(同上)


№4は、当時3条通9丁目にあった消防の望楼から見た旭川市街です。
画面の右、白壁の「北海ホテル」の奥にあるのが「ヤマニ」です。

ちなみにこの写真、右上(3条通8丁目)に大正14年に焼失する活動写真館「第一神田館」の姿が見えます(3条通7丁目の『2番館ビル』と重なって映っている三角屋根の建物)。
「第一神田館」は師団通に面し、5階建ての威容を誇ったことから様々な写真が残されていますが、建物の裏側から撮影した写真はあまりなく、貴重な一枚です。




(写真)№5(大正11年・旭川市中央図書館蔵)


(写真)№4(拡大)


№5は前回も紹介した写真、「2番館ビル(のちの『旭ビルディング』)」からのパノラマ(2枚に分けています)です。
撮影年は大正11年、カフェーへの転身直前の姿です。
食堂部分と旭館部分の2棟で構成されていることがよくわかる1枚です。

ちなみに「ヤマニ」の右奥にある白壁の建物は「ピアソン聖書館」、右奥に見える大きな建物は市役所庁舎です。


<カフェー時代(前期)>


さて「ヤマニ」は大正12年5月にカフェーに転身しますが、写真で見ると、カフェー時代も複数の改築が行われているようです。
まずは昭和3年までの前期です。



(写真)№6(昭和2年・旭川市博物館蔵)


(写真)№6(拡大)


№6は、師団通の4条以北も舗装が行われていることなどから、昭和2年の撮影と判断できる写真です(№5と同じ場所<旭ビルディング>からの撮影)。
なので「ヤマニ」はすでにカフェーとしての営業を始めています。
ただ店舗の見た目は№5とほとんど変わりありません。
内装だけ変えるなどしていたのかもしれません。



(写真)№7(昭和3年・絵葉書)


(写真)№7(拡大)


№7は翌昭和3年の撮影。
撮影場所は№4と同じ消防望楼です。
分かりづらいのですが、2階に後で紹介する大きな看板が掲げられています。
1階部分はどうなっているかはよく分かりません。

ちなみに№4にあった「第一神田館」は大正14年の火災により無くなっています。


<カフェー時代(中期)>


ここからは中期。
いよいよ店舗も改築されて外観、内容ともに旭川を代表するカフェーとなる時代です。



(写真)№8(昭和4年・絵葉書)


(写真)№8(拡大)


№8は翌昭和4年の写真です。
ある程度ですが、この写真ではじめてカフェー時代の店舗の様子が明らかになります。
電車や看板に隠れていますが、1階がカフェーらしく改築されています。
2階は食堂時代と変わらないようですが、№7でふれた「キリンビール カフェーヤマニ」と書かれた大きな看板が置かれています。



(写真)№9(昭和4年?・絵葉書)


(写真)№9(拡大)


№9はアングルが違いますが、建物の外観は№8と同じです。
同時期の撮影と思われます。



(写真)№10(昭和5年・絵葉書)


(写真)№108(拡大)


№10になると、店舗は大きく様変わりします。
この間行われた建築家、田上義也の設計による大規模改装の結果です。
2階は斬新なデザインのファサード(外壁)や飾り塔が取り付けられ、いかにも時代の最先端を行くたたずまいとなっています。
1階も角の柱?や半円形の飾りなど、微妙に手が加えられています。

興味深いのは「キリンビール」の看板です。
字体や大きさは№8の写真と同じように見えます。
使っていた看板をそのままファサードに組み込んだのかもしれません。




(写真)№11(昭和5年・旭川市中央図書館蔵)


(写真)№11(拡大)


№11は同じく昭和5年の撮影。
おなじみ「旭ビルディング」からのパノラマ写真(これも2枚に分けて掲載)です。
上からのアングルのため、2階部分の改装が外壁を付け足しただけの工事であることが分かります。
また左2号の旭館だった部分は食堂時代のままであることも分かります。



(写真)№12(昭和6年・絵葉書)


(写真)№12(拡大)


同じ時期に消防望楼から撮影された写真です。


<カフェー時代(後期)>


最後は、昭和9年の閉店に至るカフェー時代の後期です。
ここでも「ヤマニ」の店舗は大きく変化しています。



(写真)№13(昭和7~8年・絵葉書)


(写真)№13(拡大)


(写真)№13(同上)


№13は、昭和7~8年ころの撮影と思われる絵葉書です。
「ヤマニ」の外観は再び大きく変わり、外壁には「赤い風車 ニューグランドヤマニ」の文字が見えます。
ただよく見ると、2階の窓の奥に、№10~12の写真にあった「キリンビール カフェーヤマニ」の看板が見えています。
ファサード(外壁)のさらに外側に新たなファサードを重ねたものと思われます。



(写真)№12(昭和7~8年・絵葉書)


(写真)№14(拡大)


(写真)№15(昭和9年2月以降・絵葉書)


(写真)№15(拡大)



その見方を裏付けるのが№14と№15の写真です。
№13の写真では上に見切れていますが、従来からある飾り塔の部分(「旭高砂」「酒」の文字入り)が改築後もそのまま残されています。
№14は、№11と同時期の写真。
№15は「ヤマニ」が閉店した昭和9年2月以降の撮影です。
店は「小原金物店」に変わり、1階は間口が広げられるなどしていますが、2階の外壁は「ニューグランドヤマニ」そのままの姿です。


<最後に>


「ヤマニ」のあった4条通8丁目左の角地は、その後、「たぬきや陶器店」などに変わり、現在は「アピスビル」になっています。
向かいにあった老舗の「辻薬局」も去年閉店しましたし、№5・6・11の写真の撮影に使われたビルのあった場所(「二番館」、「旭ビルディング」、「まるせんデパート」などと変遷)も現在は更地になっています。

変わりゆく街並みの中で、様々に変遷しながら人々に愛された店「ヤマニ」があったことを今後も忘れないでいたいと思います。



◎速田弘関係年表

• 明治39(1906)年  速田弘、生まれる
• 明治44(1911)年  速田仁市郎、食堂「ヤマニ」を創業
• 大正10(1921)年  「旭川共鳴音楽会」結成される
• 大正11(1922)年  旭川市制施行(8月)
•              師団通に「丸井今井百貨店」開業(10月)
•              「旭ビルディング」の前身、「2番館」開業
• 大正12(1923)年  「ヤマニ」改装し、カフェーに(5月)
•              「町井楽器店」が開店(6月)
•              関東大震災(9月)
• 大正14(1925)年  「ヤマニ」で旭川初のラジオ受信公開(6月)
•              「第一神田館」焼失(6月)
•              旭川新聞の演芸大会に「共鳴音楽会」が出演(10月)
• 大正15(1926)年  「糸屋銀行」破たん、十勝岳噴火(5月)
• 昭和 2(1927)年  小熊秀雄ら出席し、「ヤマニ」で文芸座談会(4月)
• 昭和 3(1928)年  「ヤマニ」に社交舞踏研究所(3月)    
•              田上義也が「ヤマニ」の改築設計
• 昭和 5(1930)年  田上設計による「ヤマニ」の改築実施か
• 昭和 6(1931)年  満州事変勃発(9月)
• 昭和 7(1932)年  満州国建国(3月)
•              5・15事件(5月)
•              旭橋架橋・牛朱別川切替完成祝賀会(11月)
• 昭和 8(1933)年  日本、国際連盟脱退(3月)
•              「パリジャンクラブ」開店(6月)
• 昭和 9(1934)年  「ヤマニ」が閉店(2月)
•              速田自殺未遂(12月) 
        
• 戦後           速田弘、銀座で「シローチェーン」を経営、成功する




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『ヤマニの兄貴』速田弘

2014-11-24 11:43:32 | 郷土史エピソード

今回は、「アンコール・私の好きな旭川」をいったんお休みにして、久々に新作の記事を掲載します。
旭川の歴史を調べていると、時折、「へー、こんな人がいたんだ」と思える魅力的な人物に出会うことがあります。
きょうは、そんなキラリと光る一人をご紹介します。


<カフェー・ヤマニとモボ速田>

まずはこちらの写真を。






昭和5年の4条十字街(旭川市中央図書館蔵)


昭和5年、4条通7丁目にあった「旭ビルディング」から撮影したパノラマ写真です(大きく掲載するため2枚に分けて掲載しています)。
中央のタテの通りが師団通(今の平和通買物公園)、手前が4条交差点です。
そして交差点に面した8丁目左の角(今の「アピスビル」の位置)にある建物。
大正から昭和初期にかけて人気を集めたカフェー「ヤマニ」です。




カフェー「ヤマニ」


以前、このブログの記事(「ザ・ゴールデンエイジ前編」7月21日アップ)でも少し紹介しましたが、この「ヤマニ」の2代目経営者として活躍したのが、モダンボーイと称された速田弘(はやた・ひろし)です。

この人物、一介の飲食店経営者ではあるのですが、旭川の歴史について触れた本の中に幾度となく登場しています。
このうち旭川出身の作家、木野工(きの・たくみ)は、次のように書いています。




「旭川今昔ばなし」


「大正十二年には四条八丁目左一号、今の『たぬきや陶器店』のところに『バー・ヤマニ』が改装出現し、その隣り四条八丁目左二号には相次いで『アボQ喫茶部』が開業している」
「『アボQ』と『バー・ヤマニ』をやっていた速田さんは、いつも一時代先を見通していた新しい感覚の持ち主だった」(木野工「旭川今昔ばなし」より)

「ヤマニ」は、速田弘の父親、仁市郎(にいちろう)が明治44年に創業した食堂が前身です。
郷土史家の渡辺義雄さんの著書によりますと、「ヤマニ」は左1号側の食堂部分と左2号側の「ヤマニ旭館」に分かれていました。
このうち「旭館」は日本料理や仕出し、時には各種の催事会場として利用されていました(「街は生きている」より)。

その「ヤマニ」が改装してカフェーとなったのは、木野が書いているように大正12年のことです。
3条通7丁目の「ライオン」、3条通8丁目の「ユニオンパーラー」と並んで、旭川のカフェーの走りでした。

冒頭の写真と同じ場所から撮影した写真に、改装前の「ヤマニ」が写っています。
2枚を見比べますと、食堂からカフェーへ、華麗な転身だったことがよくわかります。






大正11年の4条十字街(旭川市中央図書館蔵)


食堂時代のヤマニ


さて大正末期の旭川中心部に華麗に登場したカフェー「ヤマニ」ですが、とにかく次々と新機軸を打ち出して地元っ子を驚かせたようです。
その一つがこちら。




大正14年6月7日・旭川新聞より


大正14年の旭川新聞の記事です。
この年の3月、東京で始まったばかりのラジオ放送の受信免許をいち早く取り、市民に公開したのです。

さらにこちらの広告。




昭和6年3月19日・旭川新聞より


開業20周年(食堂時代も含め)にちなんだ連続企画をPRする広告です。
字面だけだとどのような内容の催しかはわかりませんが、客を飽きさせないさまざまな趣向が凝らされたようです。

こうした独自の営業活動の結果、「ヤマニ」は旭川でのトップクラスの人気店としての地位を固めて行ったわけですが、その立役者が弘でした。

弘本人については、かつて新旭川市史の編纂に携わった北けんじさんの著書に詳しく紹介されています。
そのなかで北さんが注目しているのは、彼の独特なPR力です。

「ちょっとその前に、コピーライターとしての速田弘に触れておきたいと思う。旭川新聞のコラム「赤い灯・青い灯」の一コマ・・・
○…ヤマニの兄貴速田君は、旭川カフェー営業者仲間でも年少者であり、モダンボーイであり???であるが、彼氏仲仲営業にかけては熱心だ。
○…本誌の広告文案のヒントを得るに寝食を忘れて苦心するそうナ。かくして『ヤマニの女子は人殺し女子云々』のめい文が生れる。彼氏はかやうなめい文を連発してカフェー党を嬉しがらせ誘惑し、自己陶酔してゐる。(旭川新聞・昭和6年5月16日)(中略)
とあるように、当時のカフェーの広告では一頭地を抜いている。エロ・グロ・ナンセンス プラス テロの時代の申し子というべき見事なコピーである。現在においてさえ衝撃であるかもしれない。それ程に切れ味がよく小気味いい。時代の先端を走っていたように思う」(「詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼―」より)

ここで「ヤマニの女子は人殺し女子云々」とあるのは、昭和6年5月2日に旭川新聞に載せられた広告を指しています。




昭和6年5月2日・旭川新聞より


なるほど「何事か」とつい目を止めてしまう広告です。
カットの下には「ヤマニの兄貴作品№56」と記されています。
コピーだけでなく、カットも自作、さらに「ヤマニの兄貴」という呼び名も自称だったのかもしれません。

ちなみに同時期、同業他社もさかんに新聞広告を出していますが、どれも個性に乏しく、「速田作品」の独自さが際立っています。




昭和6年10月4日・旭川新聞より


昭和6年5月3日・旭川新聞より


昭和6年5月13日・旭川新聞より


さらに速田がヤマニの喫茶部として開業した「アボQ」についても、北さんは旭川新聞を引きながら、そのネーミングセンスに感心しています。

「ヤマニの隣りに黄を基調とした原色塗りの甚だモダンな建築の出現に道行く人は『薬屋でもできるンだろうか』といぶかんだという。そして大きな立て看板に『アボQ』とあるのでますます首を傾げて行人は、頭上の吹き出しの中に『?(ハテナ印)』をシャボン玉のように連続して飛ばしはじめる。そして、ここで『アボQ』なるネーミングの秘密が明かされる。A.B.Cuoというローマ神話のなかの幸福(殊に恋愛)の神なのだそうだ(中略)。
『アボQ』はローマ神話のなかの愛の女神の名前をちょっと怪奇性を加えてもじったものだったのである。名付親のモボ速田弘は客に『アボQ』の由来を訪ねられても明かさず、ただただ莞爾としていたことだろう」(「詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼―」より)

ちなみに、この「アボQ」については、北さんも紹介している昭和4年の旭川新聞のコラムに写真が載っています。




旭川新聞「街のスナップ」(昭和6年5月13日)


この写真を手掛かりにして探してみますと、ありました!
冒頭に掲載したパノラマ写真の中に喫茶「アボQ」も写っています。




昭和5年の4条十字街(旭川市中央図書館蔵)


(同上)アボQと書かれた文字も見える


こちらの絵葉書には派手な看板が写りこんでいます。



昭和4年当時のヤマニ(絵葉書)


拡大すると、店の前に「アボQ」の看板が


支那そば、志るこ、ランチ、コーヒーなどの文字が見える



<幅広い人脈とヤマニに集う人々>


さて新進気鋭のカフェー経営者として独自の足跡を残した速田弘ですが、幅広い人脈を持っていた人物でもあったようです。
有名なのが、速田と、同時期に活躍した建築家、田上義也(たのうえ・よしや)との関係です。

田上は帝国ホテルを設計した名建築家、ライトの弟子です。
大正12年に北海道に渡り、以来、北海道の風土に根差した数々の優れた建築を道内各地に残しました。




田上義也


田上の研究者である北海道大学の角幸博名誉教授によりますと、このうち旭川で田上が手掛けた建物は4棟に及びます.
そのうちカフェー時代の「ヤマニ」、「アボQ」、そして昭和8年開店のカフェー兼レストラン「パリジャン・クラブ」の3つが速田弘の経営です。

こうした2人の深い関係については、音楽を通した交流が契機となっているというのが通説です。
実は、速田はチェロ奏者として地元の音楽グループ(大正10年結成の「旭川共鳴音楽会」)に加わっていた経緯があり、田上も建築家としてだけでなく、バイオリン奏者としても活発な活動を行っていました。

さらに2人の共通の知人だったのが、当時の北海タイムス旭川支局長だった竹内武夫(たけうち・たけお)です。
北さんは、次のように書いています。
  
「竹内武夫も音楽通であり、招魂社音楽大行進も町井楽器店主の町井八郎と相談しながら実現したもので(中略)、竹内、田上、速田の三人は音楽を通じて知り合った仲であったようだ」(「詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼―」より)

また当時「ヤマニ」や「アボQ」は、地元の若い芸術家のたまり場にもなっていました。
資料を拾ってゆきますと、速田弘とこうした若者たちとの交流ぶりを垣間見ることができます。
その一つがこちら。




大正14年5月6日・旭川新聞より


桜の季節に合わせて行われたカフェー「ヤマニ」のイベント、「夜桜デー」の案内です。
どうやら凝ったカラクリ装置を用意し、お客を楽しませたようなのですが、ここに「装置監督」として名前が上がっているのが、このブログではおなじみの画家、高橋北修(広告では北州となっている)です。

北修は東京での絵の修業時代、看板描きや舞台装置作りのアルバイトをしていたことがあり、その経験を買われたのかもしれません。
何事にも凝り性だったと伝えられる北修、夢中になって装置作りに励んでいる姿が目に浮かびます。




高橋北修


さらに小熊秀雄や今野大力らとも交流のあった地元ゆかりの詩人、小池栄寿(こいけ・よしひさ)が残した文章「小熊秀雄との交友日記」には、「ヤマニ」に集う若者たちの様子が生き生きと描かれています。

「(昭和二年)四月二十三日。午後七時、ヤマニ階上の文芸座談会(北海日日主催)へ、三十名位集まる。松崎豊作、藤田みはる等の猛者と、鈴木、小熊君との間に激論つづく。帰旭以来、初めて小熊氏に逢ふ。記念撮影、詩の朗読、短歌朗詠、寄せ書きなどして散会」
「六月二十八日。永井郁子女史の邦語歌詞独唱会、七時から商工会議所。九時終り。小熊氏、沢井一郎氏と師団通りへ。第二神田館前でソーダ―水。『ヤマニ』で生をやってゐると黒色青年聯盟の連中が入ってきて、新聞を悪く云ったがすぐ小熊さんと仲よくなる」(注・黒色青年聯盟はアナキストのグループ。新聞は当時小熊が勤めていた旭川新聞のこと)
「(昭和三年)三月三十一日。今野紫藻君が午後三時十分で上京す。師団通りで林檎五十銭を買って見送る。遅れそうになって走る。ようよう間にあう。小熊氏と塚田君が来ていた。帰りヤマニでコーヒー」(注・今野紫藻は今野大力のペンネーム)(いずれも「小熊秀雄との交友日記」より)

ちなみに、昭和2年6月の記述に関しては、酔った勢いでビールのコップを床にたたきつけるなどして騒いでいたアナキストたちが、店内で小熊を見つけ、「新聞はうそを書く」と言って絡み始めたのだそうです。
小熊はニコニコと笑って受け流していましたが、その後、リーダー格の男が出てきて仲間を静め、「いずれゆっくりとお話ししましょう」と丁寧に挨拶をして出て行ったとか。
映画のワンシーンのようなこの場面、もしかしたらその場に店主、速田弘も居合わせていたかもしれません。




小熊秀雄



<挫折と復活>


斬新な経営感覚とマルチな才能、広範な交友関係を武器に、大正から昭和にかけての旭川に新風を吹かせた速田弘ですが、その後は苦難の日々が続いたようです。

昭和8年、速田は満を持して新店舗「パリジャン・クラブ」の経営に乗り出します。
「パリジャン・クラブ」は、喫茶、レストラン、カフェの3つを合わせたようなコンセプトの店で、4条通7丁目右の仲通り、花月会館の向かいにありました。
田上義也が設計した建物自体も、正面左手にガラス張りのらせん階段、その上に飾り塔が付いた斬新なものでした。




旭川新聞「パリジャン・クラブの広告」(昭和8年6月2日)


しかし昭和6年の満州事変の勃発以降、中国での戦線は拡大を続け、時代は急速に質素、倹約が尊ばれる風潮に覆われてゆきました。
昭和9年2月、速田は父の代から続いた「ヤマニ」を閉店し、「パリジャン・クラブ」一本に絞って経営の立て直しをはかりますが、事態が好転することはありませんでした。

「昭和9年12月2日、速田弘は不景気のため経営困難に陥り数千円の負債を抱えて二進も三進も動きが取れず、三階の寝室でカルチモンをのみ自殺を図ったのである。医師の手当てによって一命は取り留めたものの、『パリジャン・クラブ』は休業状態に入り、やがて『パリジャン・クラブ』は山崎精軒商店の手に落ち、貸家として新聞の案内板の一隅を飾るという運命に陥ったのである」(北けんじ「詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼―」より)

大正から昭和にかけ、旭川の一等地、4条十字街界隈を舞台にした速田の「冒険」は、このように終わりを迎えます。
では事業家、速田は「死んでしまった」のか。
実はその後の彼について、木野工が意外な事実を伝えています。

「結果から見ると、(速田弘が)旭川で創めた新感覚の事業は、時代を先取りし過ぎていて全て失敗した。しかし風俗文化の道を拓いた人であった。その精神が戦後の東京で花を咲かせ『シロー』という高級クラブ・チェーンをつくり上げた。『シロー』は最初、銀座の交詢社ビル地下に開かれたが、古風ながら重厚なビルのイメージが『シロー』のイメージに重なり超高級バー(クラブ)として凡百の飲み屋を蹴散らし、銀座繁華街を席巻した、いまは、フリーの客が自由に入れても、多少高級なバーは全て『クラブ』だが、この風俗営業『クラブ』を定着させたのは速田さんである)」(木野工「旭川今昔ばなし」より)

なんと速田の「冒険」は第2章があったというのです。
しかも成功譚として。
この記述については、北けんじさんも「木野工は北海タイムスの東京本社にいたのであるから、『シロー』チェーンの情報はほぼ間違いがないであろうと思う」と書いています。

その見方をさらに裏付ける資料を見つけましたので、ご紹介します。




銀座年鑑


昭和30年版の「銀座年鑑(銀座タイムス社)」です。
中にある店舗名簿に木野が触れていた速田の店「シロー」が載っていました。
しかも「チェーン」の記述の通り、「日動シロー(銀座5条1丁目)」、「クラブ・シロー(同8条2丁目)」「バー・シロー(同8条2丁目)」「カジノ・シロー(同6条4丁目)」と4店も。




「銀座年鑑」より


このうち「日動シロー」の「日動」は、今も銀座にある有名な画廊、「日動画廊」と同じく、入居していたビル(日動海上ビル)から来ていると思われます(住所が同じ)。
また「カジノ・シロー」は、木野が書いていた「交詢社ビル(交詢社は福沢諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家の社交クラブ)」と同じ住所です。

さらに昭和31年発刊の同じ銀座タイムス社の「銀ぶら讀本 巻の1 遊びの知識」には、こんな下りがありました。

「銀座会館、グランドパレス、アスターハウス、クラウン、日動シロー、キャンドル、美松などの一流どころから、一軒の小さな店を階上、階下、或は一階と地階にわけて営業しているささやかなバーに至るまで、銀座のカフエー、バーは。いずれも客の好みや、ふところ具合などでそれぞれ繁盛しているが・・・」(銀座タイムス社「銀ぶら讀本 巻の1 遊びの知識」より)

一方、「銀座年鑑」に戻りますと、当時銀座にあった業界団体の紹介ページにも速田弘の名前がありました。




「銀座年鑑」より


銀座ソシアルサロン組合」は、昭和4年に結成された銀座のクラブやバー、キャバレーなどで作る業界団体で、現在も社団法人「銀座社交料飲組合」として活動しています。
日本の盛り場の頂点に立つ銀座、その業界団体の副組合長となれば、経営者としてしっかりとした実績と経験に裏打ちされて初めて就けるポストと推測できます。

速田弘が、どのような経緯で東京銀座に進出し、成功をおさめたかはわかりませんが、旭川時代に垣間見せた時代を先取りする感覚や幅広い人脈を支えた人柄をかけて勝負に出たことは間違いないと思います。

旭川を振り出しに、挫折を乗り越え、大逆転勝利を収めた速田弘。
やはり痛快な人物です。



<最後に ~彼こそが速田弘?~>


旭川の街の歴史に中に、確かな足跡を残している速田弘ですが、実ははっきりと本人と確かめられた写真を見たことがありません。
そんな中、彼が写っている可能性のある写真がありましたので、最後にご紹介します。




「旭川市回顧録」より


少し緊張した面持ちの男たち。
左上の看板には「旭川共鳴音楽会事務所」の文字があります。
前年の市制施行を記念して発行された「旭川市回顧録」(大正12年1月)に掲載された写真です。

前にも触れましたが、「旭川共鳴音楽会」は、大正10年7月、医師である北村誉造を中心に結成された地元の音楽愛好家によるアンサンブルで、速田もチェロ奏者として参加していました。
「旭川市回顧録」には、会員の名前が挙げてあり、速田の名前も書かれています。




「旭川市回顧録」


ではどれが速田なのか。
北けんじさんの著書によりますと、速田は昭和4年の時点で23歳とありますので、「旭川市回顧録」が出版された大正12年では16歳か17歳。
チェロも持っていることから、一番若く見える前列左から2番目の人物が彼である可能性が高いように思われます。

ただこの集合写真に速田が加わっていない可能性もあり(写真のメンバーは9人、記事に載っているメンバーは13人)、断定はできません。
もう少し早く調べることができていたら、「これが彼」と教えてくれる古老が旭川にも残っていたかもしれません。
まことに残念です。




彼が若き日の速田弘?



旭川新聞「旭川共鳴音楽会が出演した演芸大会の広告」(大正14年10月23日)




(追記・2014年12月10日)


その後の調べて、速田弘の自殺未遂を伝える昭和9年12月8日の旭川新聞の記事に、本人の顔写真が掲載されていることが分かりました。



昭和9年12月8日の旭川新聞の記事


速田弘の写真



「一番若く見える前列左から2番目の人物が彼である可能性が高いように思われます」と書きましたが、この写真をもとに「旭川共鳴音楽会」の集合写真を改めてチェックしますと・・・。



「旭川共鳴音楽会」の写真(「旭川回顧録」より)


いました。
後列の左側にいる人物、メガネはかけていませんが、まず同一人物と見て差支えないと考えます(前列左から2番目の人物は別人ですね。私の推測はハズレでした。申し訳ありません)。



2つの写真を並べると


旭川を代表するモボ=モダンボーイと呼ばれた速田ですが、外見は割と地味(老け顔?)であったことが意外です(新聞記事掲載時で28歳、「共鳴音楽会」の写真掲載時で16~17歳)。
ただそれでも本人の姿が特定できて、まずは一安心というところです。

なお昭和9年の旭川新聞には、速田の自殺未遂やその後の境遇についてかなり詳しく記事にされています。
当時の旭川で、速田弘がどれだけ有名であったのか、この記事からもわかるような気がします。









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アンコール・私の好きな旭川 VOL.8  牛朱別川で〝妖怪騒ぎ〟!?

2014-11-03 12:44:23 | 郷土史エピソード

今回も「アンコール・私の好きな旭川」。
2013年8月に書いたこの記事です。


           ***********


<私の好きな旭川~牛朱別川で〝妖怪騒ぎ〟!?>(2013年8月29日掲載)


まずはこちら。






昭和6年、切り替え工事の前の牛朱別川です。
この2年前、なんとこの牛朱別川の川辺で妖怪騒動が起きました!!
現在で言いますとこちらです。






10条通13丁目付近といいますから、ワタクシの実家の近く。
常盤中学校からもう少し東に行ったところです
昭和4年7月26日の旭川新聞によりますと、この辺りで、夜な夜な不気味な鳴き声が響き、「幽霊だ」「いや妖怪だ」と街をあげての大騒ぎになったそうです。
現場には、怖いもの見たさに大勢の人が集まり、まるで夏祭りのようなにぎやかさだったとか。
新聞の見出しには次のように書かれています。
「化け物見たさに賑ふ夏の宵 牛朱別川辺の小沼の畔 さても物凄い唸り声
(記事には人であふれ返った現場の写真も載っています)」



切り替え工事前の牛朱別川(中央が10条通13丁目付近)


で、結局この騒動、近くで飼育されていた食用蛙がその正体と分かって一件落着したそうですが、その犯人?とおぼしき蛙が写っている写真を古い文献に見つけました!
その文献は、昭和3年発行の「旭川写真帳」。
この中に牛朱別川近くにあった食用蛙の飼育所の写真が載っています
(看板には、「北海道庁選定食用蛙飼育所」とあります)。
時代と場所から考えてまず間違いないと思います!



「旭川写真帳」より


同上


ちなみに、見事な大きさの蛙を手にしているのは、この飼育所を設けた槇荘次郎さん。
旭川で2台のフォードを買い込み、それぞれ「弁慶」「義経」と名付けて乗り合いバス事業を行うなどした実業家です。
妖怪騒動が起きた当時の牛朱別川はほとんど整備が進んでおらず、特にこの現場付近は、ヤチハンノキなどが生い茂るじめじめとした沼地でした。
でも自分の生まれ育った場所の近くで、こんな出来事があったと思うと可笑しくなります。




10条通13丁目付近での切り替え工事の様子



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アンコール・私の好きな旭川 VOL.7 創成期のイケメン功労者&北の散歩道のルーツ

2014-11-02 13:02:10 | 郷土史エピソード

かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回は郷土史をテーマに、旭川の街を歩いたこの記事です。


           ***********


<私の好きな旭川~創成期のイケメン功労者&北の散歩道のルーツ>(2011年5月26日掲載)

まずはこちらの写真から!!
 


鈴木亀蔵(1851-1902)
 

どうですか、和服にシルクハットのおしゃれな姿!
甘いマスクで、なかなかのイケメンだと思いませんか。
旭川の歴史を勉強した方には、おなじみかもしれません。
鈴木亀蔵(すずき・かめぞう)さんと言います。

鈴木亀蔵さんは、明治のはじめ、秋田県から北海道に渡ってきた人物です。
はじめ千歳でサケ漁の仕事をしていましたが、当時はアイヌの人たちしか住んでいなかった旭川(当時は忠別)にしばしば来るようになり、交易を始めました。
そして明治10年、26歳のときに、今の石狩川と忠別川の合流地点付近に住居と店を兼ねた小屋を建て、定住します(異説もあるそうです)。
亀蔵さんは誠実な人柄で、妻も日高生まれのアイヌの女性でした。
このため、まわりのアイヌの人たちからは「亀吉(かめきち)さん」と呼ばれて親しまれたそうです。
 


亀蔵ゆかりの亀吉地区
 

今回、ワタクシがまず訪れたのは、鈴木亀蔵さんの愛称「亀吉」にちなんだ旭川市亀吉2丁目にある「亀吉公園」です。
 


住宅街の一角にある亀吉公園


公園に置かれている石碑


かなり痛んでいますが、写真付き!


石碑には「鈴木亀蔵居住の地」とありますが、実際に彼が小屋を建てたのは、石狩川と忠別川の合流地点の近くです。
ということで、実際に小屋を建てたと思われる場所に行ってみました。
それがこの写真!



鈴木亀蔵定住の地(石狩川・忠別川合流点付近)


ここらあたりか?


嵐山からみた石狩川・忠別川の合流地点(丸で囲ったあたりが亀吉定住の地?)



鈴木亀蔵さんは、旭川が発展するとともに事業(雑貨商)を拡大し、警察署の設置や忠別小学校(ワタクシの母校、中央小学校のもととなった学校)の開校に当たっては、多額の寄付をしたと伝えられています。
また明治23年には、札幌の実業家とともに旭川に酒造会社を設立します。
この会社は、現在、曙1条1丁目の日赤病院の向かいにある「日本醤油工業」さんのルーツとなった会社です(終戦間際に政府の指導で、お酒から醤油の醸造に転換したとのことです)。
ちなみに、この会社のトレードマーク「キッコーニホン」の「キッコー」は、亀の甲羅。
さすが亀吉さんゆかりの会社です。



日本醤油工業さん(歴史を感じさせます)


さまざまな記録によると、鈴木亀蔵夫妻は、自分たちの後に旭川に移住してきた人たちを温かく迎え、家に招いたり商売を助けたりして、面倒を見たそうです。
明治創成期の旭川の真の功労者と言えそうです!!



定住の地の近くにあった「亀吉の森(河畔林を利用した遊歩道)」


           ***********


続いては、こちらの写真を。



木立のなかの遊歩道 右の木はサクラ


自転車も通れます 



旭川の北星(ほくせい)地区にある「北の散歩道」です。
散歩やジョギング、サイクリングなどを楽しめる市民の憩いの空間です。



お孫さんと散歩中?


ただこの遊歩道、大きくカーブを描きながら、住宅街の真ん中を突っ切っています。
なぜ住宅街にこんな空間があるのかといいますと・・・、(旭川市民なら、お分かりの方も多いですよね)
ここは元鉄道の線路だったところを利用して作られた場所なんです!
その鉄道とは「大町岐線(おおまちぎせん)」。
大正5年に旭川区(今の旭川市)が作成した地図を見ますと、右下の鉄道の駅(近文停車場)から「第七師団練兵場(いまの自衛隊駐屯地)」に向かって、鉄道が敷かれているのがわかります。
これが「大町岐線」(4点6キロ・大町は地名)です。
 


大正5年の旭川の地図(ちなみに近文停車場の右の方に「亀吉島」と書かれています。これは前述の鈴木亀蔵由来の「亀吉地区」に当たります。当時は川に囲まれていたため〝島〟と呼ばれていたのです。本格的な河川改修が行われる前ですので、そうした〝島〟が市内各所にあるのがわかります)。


赤が、現在、北の散歩道になっている部分


わかりますか、車道と歩道に対し、散歩道が斜めに走っています



「大町岐線」の歴史を簡単に紹介しますと、作られたのは明治32年(旭川まで鉄道が開通した翌年!)。
当時、第七師団を札幌から旭川に移すことになり、建設に必要な膨大な量の資材などを運ぶため、まず線路を敷いたのです!!
建設用の木材は、愛別(あいべつ)や美瑛(びえい)の山で切り出し、石狩川と美瑛川を利用して旭川まで運ばれました。
そして「近文駅」裏の河川敷に陸揚げした後、「大町岐線」で沿線の製材工場に運搬して加工、さらに師団の建設現場まで鉄道輸送したそうです。
また工事に動員された職人や作業員は多い日で約6000人、完成までの4年間ののべ人数は100万人に達したとされています。
どれ位の大工事だったかがわかります!



第七師団の建設工事 


完成間近の第七師団(明治35年)


北の散歩道の終点(始点)、中央奥に自衛隊駐屯地のフェンスが見える


今も近くには木材工場の姿が



師団完成後は軍用物資の輸送とともに、主に沿線の製材工場のための木材運搬線として利用された「大町岐線」。
戦後も木材や石炭などの輸送に利用されましたが、昭和30年代には貨物の取り扱いを止め、50年代に入ると線路も撤去されて一部が「北の散歩道」として整備されました。
また終戦直後、占領軍が旭川に駐留した際も、この引き込み線を使って旭川入りしたと伝えられています。  

手持ちのものがなく、掲載できないのが残念ですが、航空写真で見ますと、近文駅から今の自衛隊駐屯地の手前まで、かつての「大町岐線」の跡がくっきりと残っていて、「へー」と感心することしきりです。
興味のある方は、ぜひインターネットの地図検索(航空写真も表示できるものが多い)で見てください!
歴史の痕跡を実感することができますよ!!




この広場は駅だった場所の跡


せせらぎのある一角も


旭町付近  




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