もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

大力&小熊が登場する舞台

2016-01-25 21:56:52 | 郷土史エピソード


土史の調べものをしていると、思いがけないところで、それまで全く聞いたことのなかった出来事について知る機会があります。
そんな時は、「へー、こんなことが!」と驚くと同時に、少し得した気分になります(もちろん、なんだそんなことも知らなかったの、と他の方に思われることもあるですが)。
今回ご紹介するものそんなお話の一つ。
旭川ゆかりの詩人、今野大力と小熊秀雄が主役、準主役として描かれるお芝居が、昭和40年代に上演されていたという話です。


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先日、古い新聞記事を調べていたところ、偶然、ある記事が目に入りました。
記事に添えられていたのは、旭川ゆかりの2人の詩人、今野大力と小熊秀雄です。
見出しには、こうありました。

「旭川が生んだプロレタリア詩人今野大力と、民衆詩人小熊秀雄の生涯が、民芸の流れをくんでいる演劇集団『銅鑼』=代表、田村實氏=で、初めて舞台化される。八月から大阪を皮切りに全国公演、来年二月には旭川をはじめ道内各地を巡演する予定だ。」(北海道新聞 昭和49年6月14日)

「銅鑼(どら)」は、記事にもあるように、昭和47年、宇野重吉らの「民芸」から分かれて独立した劇団です(55年に名称を「劇団銅鑼」に変更)。
劇団名は、日本の演劇に近代化をもたらした小山内薫、土方与志の「築地小劇場」が、開演時に銅鑼を鳴らしたことが由来だそうです。
創設期には俳優の鈴木瑞穂が代表を務め、劇団は現在も活動を続けています。



今野大力


劇団の上演記録によりますと、今野大力と小熊秀雄が登場する舞台は、大垣肇・小関智弘作、早川昭二演出の「雪の下の詩人たち」という作品です。
「銅鑼」の旗揚げ3作目の公演として、49年に上演されています。

また記事にあるように、北海道公演も行われていました。
50年2月25日の北海道新聞(旭川地方版)には次のように書かれています。

「旭川にゆかりの深い二人の詩人小熊秀雄と今野大力を主人公にした『雪の下の詩人たち』を二十四、二十五日の二日間、旭川市民文化会館で演劇集団〝銅鑼〟が上演した。(中略)詩劇とでもいうような舞台の展開で、最初のうちは戸惑い気味の観客も、ストーリーが展開するつれて舞台に引き込まれ、日本が軍国主義の色彩を濃くし、自由な文学・芸術運動が弾圧されるなかで、働く者、貧しい者の心を歌い続けた二人の詩人に心を揺り動かされていた。」



小熊秀雄


この作品が世に出た昭和49年と言えば、田中角栄首相が金脈問題で、ニクソン大統領がウォーターゲート事件でともに辞任、フィリピンでは小野田元少尉が発見され、球界では長嶋選手が引退した年です。
ワタクシはその頃高校生。
もう40年以上も前のことです。

「あの時代に、2人を描いたこんな舞台が作られていたんだ」と感心していたところ、当時、「銅鑼」が作成した上演台本を入手することができました。
こちらがそうです。



「雪の下の詩人たち」上演台本


内容をよく見ると、劇の中心人物として描かれているのは今野大力です。
小熊と、大力と同じプロレタリア詩人で、弾圧のため夭折した福岡県出身の今村恒夫が準主役的な描かれ方をしています。
そのほか大力の妻の久子や、親交のあった壺井栄、中條(宮本)百合子など、さまざまな人物が登場します。



「雪の下の詩人たち」上演台本


劇の前半では、旭川時代の大力や小熊を描くシーンもあり、当時小熊らが頻繁に通っていたカフェ「ユニオンパーラー」らしき店も登場します。
また旭川時代の詩人仲間として、鈴本という人物が登場しますが、これは、川端康成や萩原朔太郎などとも親交のあった旭川出身の鈴木政輝がモデルと思われます。
さらにマルキストの今村という男も登場しますが、これは大正末期から昭和の初頭にかけて、旭川新聞の文芸欄を舞台に大力、小熊と紙上論争を繰り広げた「名寄新芸術協会」の北村順次郎がモデルと思われます。
北村は、大正2年に起きた「名寄集産党事件」で治安維持法により逮捕されますが、芝居の中ではこの弾圧事件についても触れられています。
このほか、新聞記事にもあるように、大力や小熊の詩が台詞と同じくらいの分量で多くのシーンに使われているのも特徴です。



大力や小熊がいた時代の旭川(大正末期)


舞台では、ともに劇団の看板俳優だった鈴木瑞穂が小熊を、森幹大が大力に扮したと記されています。
2人がどんな演技を見せたのか、観てみたかった気がします。

なお劇団「銅鑼」には、平成9年初演の「池袋モンパルナス」(小関直人作、山田昭一演出、平成28年3月新演出で再演予定)という舞台があり、これにも小熊秀雄が主要人物として登場します。
劇団のホームページによりますと、「池袋モンパルナス」は、ことし3月に新たな演出で19年ぶりに再演されるということです。
ともに短い生涯を燃えるように生きた大力、小熊の姿を描いた「雪の下の詩人たち」。
この作品についても、何とか埋もれたままにせず、再演の道を探ってほしいと思います。




大力や小熊がいた時代の旭川(昭和2年・2条師団通付近)




旭川に〝島〟!? 

2016-01-04 13:08:38 | 郷土史エピソード

あけましておめでとうございます。
今年もこのブログをよろしくお願いします。

さて、内陸にあって海とは縁遠い旭川。
でもかつては市内にいくつもの〝島〟がありました。
市街地の整備が進むにつれて姿を消した旭川の〝島〟。
いったいどんな〝島〟だったのでしょうか。
今年初めての記事は、あのブラタモリでおなじみの〝地形〟のお話です。


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石狩川に忠別川、美瑛川に牛朱別川、そしてその数々の支流。
旭川は大小さまざまな川が流れる「川の街」として知られています。
ただこうした川の整備が進んだのは昭和に入ってからのことです。
それまでは、市内の広い範囲に渡り、いくつもの川の流路が複雑に入り乱れていました。

いわば〝原始の川〟がほぼそのままの状態だった当時の旭川。
この時代の地理的な特徴として第一に上げられるのが、多数の「川中島」の存在です。



(地図―1)


上の地図は明治40年の旭川中心部です。
今は市街地となっている場所に多数の「川中島」があるのが分かります。
それぞれ「亀吉島」「喜平島」「上ノ島(上ヶ島」などと名前が付けられています。



(地図―2)


次の地図は大正3年のものです。
川中島の様子はほぼ同じですが、前の地図の「製鉄所」と書いてあったところが「下ノ島」となっています。

たくさんある川中島のうち「亀吉島」と「喜平島」は、当時そこに住んでいた人の名前が由来です。
まず「亀吉島」の名の元になったのは、こちら。



(写真―1)鈴木亀蔵


御存じ、旭川に最初に定住した和人として知られる鈴木亀蔵です。
アイヌの人たちからは「亀吉」と呼ばれていたため、彼の住んでいた場所が「亀吉島」と名付けられました。

では「喜平島」は・・・?
こちらは奥野喜平にちなんだ名前です。
喜平は鈴木亀蔵と同じく開拓期の旭川の住民です。

一方、「上ノ島」「中ノ島」「下ノ島」があったのは、今の新町方面から常磐公園、常盤町、市立旭川病院のある一帯です。
このうち「中の島(中島)」は、今の常磐公園に当たります。
このためかつては「中島公園」と呼ばれた時期もありました。



(写真―2)かつての下ノ島、市立病院付近


このように長く旭川の中心部にあった〝島〟ですが、「上ノ島」「中ノ島」「下ノ島」が、昭和5年から7年にかけて行われた牛朱別川の切り替え工事によって〝消失〟するなど、川の整備が進むにつれ姿を消していきました。
現在、その名残は、町名に残る「亀吉」などわずかになっています。




(写真―3)現在の亀吉町