長く市民に親しまれた常磐公園の「熊の親子の噴水」。
作者が「大雪山の北修」として知られる地元出身の画家、高橋北修(たかはし・ほくしゅう)であることはあまり知られていません。
北修はまたかつて公園にあった開拓の功労者の像の制作も手掛けていました。
今回はこの2つの像のお話です。
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「人気者、噴水の熊の親子」
まずは、こちらの写真を。
(写真①)千鳥が池と熊の親子の噴水(昭和33年・旭川市中央図書館蔵)
市民の憩いの場、常磐公園。
その中心にある千鳥が池にかつて置かれていた「熊の親子の噴水」です。
位置は現在の噴水とほぼ同じ。
完成したのは昭和28年、高さ4.5メートルの熊の親子の像と、台座に取り付けた4つの熊の顔から勢いよく水が噴き出す凝った作りが特徴でした。
旭川っ子の楽しみは、貸ボートでこの噴水にぎりぎりまで近づくこと。
ボートはすぐには止まれないため、近づきすぎてびしょ濡れになる若者もたくさんいました。
当時の新聞によりますと、噴出する水の量は、1日約150トンに上ったということです。
(写真②)熊の親子の噴水とボート(昭和37年・旭川市中央図書館蔵)
「作者は『大雪山の北修』」
(写真③)高橋北修(1898-1978)
この「熊の親子の噴水」を中心になって制作したのが、地元出身の画家、高橋北修です。
北修は、雄大な大雪山を独特のタッチで描いた油絵の連作が有名で、「大雪山の北修」と呼ばれました。
このブログでは、何度か取り上げていますが、詩人小熊秀雄との交遊もよく知られています。
北修は画業のかたわら、舞台装置の制作や紙を素材にした人形作りなどにも熱心でした。
そうしたところから噴水の制作を依頼されたのかもしれません。
「岩村像も北修作」
常磐公園では、この噴水の完成の2年前、やはり北修が中心となって制作したもう一つの像の除幕式が行われています。
それがこちら。
(写真④)岩村通俊像(昭和26年)
上川開拓の功労者、岩村通俊(開拓使大判官、初代北海道庁長官などを歴任)の顕彰像です。
この像は、戦時中、金属供出のため撤去されていた像を復元したものです。
まだ物資が豊富ではなかったためコンクリートで制作されました。
岩村像はいまも常磐公園に設置されていますが、これは北修のコンクリート像の傷みが激しくなったことから、平成2年に再度復元したものです。
(写真⑤)昭和13年建立の岩村像(昭和10年頃・絵葉書)
「クロクマとシロクマ!?」
(写真⑥)完成時の噴水(昭和26年・北海タイムス)
ところで北修作の熊の親子の噴水、写真によって色が変わっているように見えるのをご存知ですか。
完成した時の新聞記事の写真では、台座は黒っぽく、熊は白っぽく見えますが、別の写真では台座も熊も黒っぽく写っています(カラー写真ではこげ茶色)。
また撤去間近い昭和61年の写真では台座も熊も真っ白です。
(写真⑦)千鳥が池と熊の噴水(昭和33年・旭川市中央図書館蔵)
(写真⑧)千鳥が池と熊の噴水(昭和43年)
(写真⑨)千鳥が池と熊の噴水(昭和30年代・絵葉書)
(写真⑩)撤去間際の噴水(昭和61年・旭川市中央図書館蔵)
屋外にあるため汚れが目立って来た時点で塗り直しをしたのかもしれませんが、かなり極端な色の変遷です。
どういう経緯があったのか知りたいところです。
(写真⑪)冬の千鳥が池(昭和35年・旭川市中央図書館蔵)
(写真⑫)現在の噴水