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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

アンコール・ワタシの好きな旭川 VOL.21 大中とみずわ荘

2015-05-16 15:24:22 | 郷土史エピソード


かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回も前回に続き連載物の「旭川郷土史エピソード」からの記事です。


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<旭川郷土史エピソード 大中とみずわ荘 >(2014年5月9日掲載)


続いては「郷土史エピソード」の10回目、
まずはこちら。





もうお分かりですよね。
このブログにも過去何回か登場している常磐公園の売店、「大中(だいなか)」さんと「みづわ荘」さんです。

ワタクシも子供のころから数えきれないくらい訪れた旭川の〝ソウルスポット〟の一つです。

ただ今後予定されている公園の改修に伴い、先月、2店とも撤去作業が行われました。





写真は、先月18日にワタクシが撮影したものです。

この日は道立旭川美術館で企画展のオープニングセレモニーがあり、
公園を散歩しながら向かったのですが、途中、2店の撤去が行われていたのに偶然遭遇。
これは記録しておかねばと思い、携帯のカメラで撮影しました。





2店のうち、「大中」の創業は、大正5年に、公園がオープンして間もないころと聞いています。
以前に店主の斎藤光康さんに話を聴いたときは、先先代が札幌の中島公園で飲食店をしていた関係で、旭川に進出したと話していました。

開業間もないころの常磐公園(当時は中島公園)の写真には、すでに飲食店らしい建物が写っています。
これが「大中」と思われます。



「宗谷線全通記念写真帳」より(大正10年頃)


また、以前にも書きましたが、昭和30年代から40年代の「大中」は、食堂と売店の脇にひょうたん型の池があり、池を囲むように「ミニ動物園」がありました。

店の奥に卓球場もあって、ワタクシは毎週週末に友達を誘って通ったものです。



ボートの後方に写っているのが当時の「大中」(旭川市中央図書館蔵・昭和38年)


また、たしか5年生の時だったと思うのですが、大中さんのスロットマシンのようなゲーム機で遊んでいたところ、大当たりして抱えきれないくらいのコインが出てきたことがありました。

そのときは周りにいた子供たちにコインを使ってラーメンをふるまった記憶があります(コインをお金代わりにして売店で飲み食いができたのです)。



初期の「大中」(大正~昭和初期か)


もう一つの店、「みづわ荘」は、おととし、常磐公園展の関連イベントとして行ったスタンプラリーのスタンプを置かせていただきました(その節はお世話になりました!)。



「みづわ荘(この頃は「みずわ荘」と称していた)」(旭川市中央図書館蔵・昭和30年代か)


その他にも何度か立ち寄っておいしいお蕎麦をいただきましたが、「みづわ荘」といえば、何といっても経営者である木村照子さんです!

常磐公園展の準備をしていた際に、木村さんが旭川を代表する俳人であり、何冊も句集を出している方だということを始めて知りました

公園展では、「常磐公園と文学」というコーナー中で、常磐公園をテーマにした木村さんの句やエッセーを紹介しましたが、そのエッセーの中で、木村さんは自分が3歳のとき、一家が売店を買い取って引っ越してきたと書いています。

お生まれが昭和3年ですので、「みづわ荘(当時は違う名前かも?)」の開業は昭和6年ということになります。

長い間、公園を訪れた市民に憩いを与え続けた「大中」と「みづわ荘」。
大げさですが、一つの時代が終わったと感じる方も多いのではないでしょうか。
2つの店の皆さん、ほんとうにお疲れさまでした!




「大中」と「みづわ荘」(旭川市中央図書館蔵・昭和34年)




アンコール・ワタシの好きな旭川 VOL.20 まちづくりに込めた壮大なストーリー

2015-05-16 15:17:42 | 郷土史エピソード


かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回は旭川のメインストリート、平和通について書いたこの記事です。


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<まちづくりに込めた壮大なストーリー >(2012年7月23日掲載)


まずはこちら。




以前も紹介しましたよね。
7条通買物公園にある「開拓のイメージ」です。

旭川駅前から「宮下通」「1条通」「2条通」「3条通」と北方向に続いていく買物公園。
おしまいは駅から約1キロ先の「8条通」ですが、その少し手前、この「開拓のイメージ」のある「7条通」で、もう一本の歩行者優先道路「七条緑道」と直角に交差しています。



七条緑道


この「七条緑道」、市役所と市民文化会館が並ぶ区画と、市民の憩いの場、常磐公園を結ぶ500メートル弱の道路で、買物公園オープンの1年後、昭和48年に完成しました。
当初の構想では、買物公園と同じ歩行者専用道路とする考えだったそうです。
ただ近隣の商店から南北・東西とも通りから車が締め出されてしまうと不便だとの声が出され、現在のように、道の中央を緑地・散策路とし、その両脇にそれぞれ6点5メートルの車道を設ける事にしたそうです。
(なお真ん中に歩道、両脇に車道という構造は、鎌倉にある「鶴岡八幡宮」の参道がモデルになりました)。

さらに、今回、そうした街づくりに関わった方々の話を聞いて驚いたのは、当時の五十嵐広三(いがらし・こうぞう)市長の頭の中には、買物公園や7条緑道ができるかなり以前から将来の旭川中心街のマップが描かれ、それぞれの要となる場所に置く彫刻やモニュメントなどのイメージも固められていたことです。

ということで、この写真を。





旭川中心部に配置された彫刻やモニュメントです。

まず右上の「開拓のイメージ」が表しているのは、作品名通り、明治期の先人の営みです。
塔の周りには車輪やロープ、蹄鉄やカンジキといった道具がちりばめられています。

その下の彫刻は、市民文化会館前の広場にある「凍れる滝(しばれるたき)」。
明治35年に、今も日本の最低気温である氷点下41度を記録した旭川の厳しい気候が表現されています。

左上は、やはり先人の労苦をしのんで制作された「風雪の群像」。
その下は、明治期の旭川の発展に大きな功績を残した第2代の北海道長長官で、初代第七師団師団長、屯田兵司令官でもあった永山武四郎(ながやま・たけしろう)です
(松浦武四郎と混同しませんように!)。
この2つはいずれも常磐公園に置かれています。

こうして見ると、これらの作品群、全体を通して、自然環境の厳しい旭川の風土とその中で歴史を紡いできた先人の足跡が、壮大な物語を描くかのように配置されていることが分かります。

自らもプロ顔負けの絵を描いていたという五十嵐元市長、まさに面目躍如といったところでしょうか。



8条買物公園にある「手」。「愛」を表すこの作品も元市長の発案で設置された。


最後にもう一つ、元市長が「芸術・文化」をまちづくりの大きな柱にしていた事を示すエピソードを。





買物公園のオープンから3年後、昭和50年に開館した旭川市民文化会館の大ホールを飾った緞帳です。

原画の作者は世界の巨匠、棟方志功(むなかた・しこう)。
市民の宝にしようと、元市長が自ら何度も自宅のある青森を訪ねて親交を深め、制作を依頼したのだそうです。
(ちなみに描かれている7人の天女は、北斗七星の化身です。
北都旭川にちなんだモチーフですよね)。



会陥落成時のホールと緞帳(旭川市中央図書館蔵)



緞帳の原版画(旭川市教育委員会蔵)



なお棟方志功は、オープン当初の買物公園にも足跡を残しています。
何かというと、今は撤去されてしまった「ジャンボブックの落書き板」。
子供たちに自由に落書きをしてもらおうと買物公園のオープンに合わせて設置されましたが、一番初めにここに落書きした人が実は棟方でした。

旭川に招かれ、元市長に買物公園を案内されている途中、落書き板の設置の意図を聞くやいなや、突然、絵を描き始めたのだそうです。
棟方の自由奔放な人柄をあらわすエピソードです。




3条買物公園にあった落書き板



市民文化会館と「凍れる滝」