北鎮記念館に保存されている「ステッセルのピアノ」。
どうやら日露戦争で乃木将軍に贈られたとされるロシア軍司令官夫人愛用のピアノではないようですが、その流転の歴史を見ると十分に歴史的価値があると思われます。
今回は、旭川の歴史とともに歩んだピアノのお話です。
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ステッセルのピアノ
アップライト式のこのピアノ。旭川にある北鎮記念館に置かれている「ステッセルのピアノ」です。
「ステッセルのピアノ」は、日露戦争の際、旅順要塞の司令官だったロシアのステッセル将軍が、勝者である乃木大将に愛馬とともに贈った夫人愛用のピアノです。
このピアノは、その「ステッセル夫人のピアノ」を、旅順攻防戦に参加した陸軍第七師団が、旭川に持ち帰ったものとされています。
出征する第七師団(明治37年・先頭は大迫尚敏師団長)
水師営の会見でのステッセルと乃木(明治38年・2列目中央の2人)
ところが、平成5年に刊行された作家、五木寛之の著書「ステッセルのピアノ」で有名になったように、「ステッセルの―」とされるピアノは、旭川だけでなく、遠軽、水戸、金沢にもあります。
また、かつてあったという話が伝わるところも全国にいくつかあるようです。
五木は、どれが本物かということは書いていません。
ただ旭川のピアノは当時、中国上海にあったメーカーの製品と見られることから、将軍夫人が愛用したピアノではなく、ロシア軍が現地で調達して使っていたものを(ロシア軍の基地には必ずピアノがあったそうです)、第七師団が戦利品として持ち帰った可能性が高いようです。
旭川に凱旋した第7師団(明治39年)
中国で作られ、ロシアの租借地であった旅順で使われ、第七師団によって旭川に運ばれたピアノ。
興味深いのは、その後も〝流転〟を続けたことです。
第七師団が持ち帰った当時、旭川にはピアノはなかったそうです。
もちろん地元にピアノを弾くことが出来る人などいません。
このため第七師団では、初代師団長、永山武四郎の子息夫人を迎えて弾き初めをしました。
その後、ピアノが置かれたのは、将校の子弟が通った北鎮小学校です。
当時の北鎮小学校は、将校の福利厚生クラブである偕行社が運営する学校でした。
しかし月日がたち、北鎮小学校が新しいピアノを購入したことから、北海道護国神社の前身、北海道招魂社の敷地内にあった北鎮兵事記念館に移されます。
第七師団司令部
現在の北鎮小学校
北海道招魂社(大正4年頃)
ピアノの運命がさらに大きく変わるのは戦後です。
郷土史家、村上久吉の「旭川市史小話」によりますと、まずピアノは旭川にやって来た進駐軍によって接収され、彼らが頻繁に開いたパーティーなどで使われました。
進駐軍が引き揚げると、今度は旧商工会議所の建物内にあったダンスホール「ロータリー」がピアノを引き取ります。
旧商工会議所は現在の商工会議所(道北経済センタービル)と同じ場所にあり、建物内に、「三階小劇場」という映画館と、ダンスホール「ロータリー」がありました。
旧商工会議所
同上(「ダンスホール」「Rotary」の文字が見える)
その後、いっそう老朽化してきたピアノは、3条通7丁目にあった料亭「いろは」に譲られますが、ほどなくリタイア。旧旭川偕行社(現旭川市彫刻美術館)にあった郷土博物館(現在の旭川市博物館の前身)に収蔵され、さらに現在の北鎮記念館へと移されます。
旧偕行社
こうして見てみますと、軍都旭川の象徴だった第七師団によって日露戦争の地、旅順から運ばれたピアノは、戦前は、軍ゆかりの北鎮小学校と兵事記念館、戦後は、進駐軍、ダンスホール、平和通脇の料亭と巡り、再び軍ゆかりの旧偕行社、そして自衛隊が運営する現在の北鎮記念館と移されてきたわけです。
ワタクシには、旭川の歴史のいわば証人でもあるように思えてきます。
その意味では、この〝流転〟のピアノ、「ステッセルのピアノ」ではない可能性がきわめて高いわけですが、十分に歴史的な価値があるピアノだと言えるかもしれません。
北鎮記念館