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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

北修の2つの像

2015-08-26 19:23:56 | 郷土史エピソード


長く市民に親しまれた常磐公園の「熊の親子の噴水」。
作者が「大雪山の北修」として知られる地元出身の画家、高橋北修(たかはし・ほくしゅう)であることはあまり知られていません。
北修はまたかつて公園にあった開拓の功労者の像の制作も手掛けていました。
今回はこの2つの像のお話です。


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「人気者、噴水の熊の親子」


まずは、こちらの写真を。



(写真①)千鳥が池と熊の親子の噴水(昭和33年・旭川市中央図書館蔵)



市民の憩いの場、常磐公園。
その中心にある千鳥が池にかつて置かれていた「熊の親子の噴水」です。
位置は現在の噴水とほぼ同じ。
完成したのは昭和28年、高さ4.5メートルの熊の親子の像と、台座に取り付けた4つの熊の顔から勢いよく水が噴き出す凝った作りが特徴でした。
旭川っ子の楽しみは、貸ボートでこの噴水にぎりぎりまで近づくこと。
ボートはすぐには止まれないため、近づきすぎてびしょ濡れになる若者もたくさんいました。
当時の新聞によりますと、噴出する水の量は、1日約150トンに上ったということです。




(写真②)熊の親子の噴水とボート(昭和37年・旭川市中央図書館蔵)


「作者は『大雪山の北修』」



(写真③)高橋北修(1898-1978)


この「熊の親子の噴水」を中心になって制作したのが、地元出身の画家、高橋北修です。
北修は、雄大な大雪山を独特のタッチで描いた油絵の連作が有名で、「大雪山の北修」と呼ばれました。
このブログでは、何度か取り上げていますが、詩人小熊秀雄との交遊もよく知られています。
北修は画業のかたわら、舞台装置の制作や紙を素材にした人形作りなどにも熱心でした。
そうしたところから噴水の制作を依頼されたのかもしれません。


「岩村像も北修作」


常磐公園では、この噴水の完成の2年前、やはり北修が中心となって制作したもう一つの像の除幕式が行われています。
それがこちら。




(写真④)岩村通俊像(昭和26年)


上川開拓の功労者、岩村通俊(開拓使大判官、初代北海道庁長官などを歴任)の顕彰像です。
この像は、戦時中、金属供出のため撤去されていた像を復元したものです。
まだ物資が豊富ではなかったためコンクリートで制作されました。
岩村像はいまも常磐公園に設置されていますが、これは北修のコンクリート像の傷みが激しくなったことから、平成2年に再度復元したものです。




(写真⑤)昭和13年建立の岩村像(昭和10年頃・絵葉書)


「クロクマとシロクマ!?」



(写真⑥)完成時の噴水(昭和26年・北海タイムス)


ところで北修作の熊の親子の噴水、写真によって色が変わっているように見えるのをご存知ですか。
完成した時の新聞記事の写真では、台座は黒っぽく、熊は白っぽく見えますが、別の写真では台座も熊も黒っぽく写っています(カラー写真ではこげ茶色)。
また撤去間近い昭和61年の写真では台座も熊も真っ白です。




(写真⑦)千鳥が池と熊の噴水(昭和33年・旭川市中央図書館蔵)


(写真⑧)千鳥が池と熊の噴水(昭和43年)


(写真⑨)千鳥が池と熊の噴水(昭和30年代・絵葉書)


(写真⑩)撤去間際の噴水(昭和61年・旭川市中央図書館蔵)



屋外にあるため汚れが目立って来た時点で塗り直しをしたのかもしれませんが、かなり極端な色の変遷です。
どういう経緯があったのか知りたいところです。




(写真⑪)冬の千鳥が池(昭和35年・旭川市中央図書館蔵)


(写真⑫)現在の噴水






旭川初の野外劇

2015-08-07 19:18:21 | 郷土史エピソード

以前このブログで、昭和40~50年代に常磐公園で行われた野外劇について書きましたが、それよりもはるか昔の大正時代、同じく常磐公園を舞台に野外劇が上演され、大喝采を浴びていたことが分かりました。
今回は、当時、人気絶頂だった喜劇役者一座による旭川初の野外劇についてご紹介します。


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<喜劇王、曾我廼家五九郎>


まずは、こちらの写真を。



(画像①)曾我廼家五九郎顕彰碑


東京浅草、観光客でにぎわう浅草寺の境内にある、地元ゆかりの喜劇人の顕彰碑です。
喜劇人の名前は、曾我廼家五九郎(そがのや・ごくろう)。
明治9年、徳島県生まれで、川上音二郎らの壮士芝居の一座を経て関西の喜劇役者、曾我廼家五郎の門下に入り、五九郎を名乗りました。
その後、明治40年代に独立して東京浅草に進出、昭和15年に死去するまで喜劇界の第一線で活躍しました。



(画像②)同上の写真アップ


顕彰碑には、絣の着物に羽織、チョビ髭にハイカラ帽子姿の男が描かれています。
当時、新聞に掲載され人気を博したコマ漫画の主人公「ノンキナトウサン」です。
大正14年に映画化され、五九郎が主人公のトウサンを演じて大ヒットとなりました。
当時は「ノンキナトウサン」を略して「ノントウ」と呼ばれたそうです。



(画像③)大正時代の浅草六区・五九郎の幟が見える(絵葉書)


(画像④)現在の浅草六区




<旭川初の野外劇>



その喜劇王、曾我廼家五九郎が、大正13年夏、旭川にやってきます。
7月1日からの函館を皮切りにした北海道巡業の一環でした。
23日付の旭川新聞はこのように伝えています。

本社主催で一般に公開 曾我廼家五九郎の野外劇
来る二十五日午後四時から 公園池の端で開演の予定

喜劇界の大立物曾我廼家五九郎一行の来演を好期として本社主催の下に旭川に於ける最初の試み『野外劇』を常盤公園に於いて挙行すべく目下準備中であるが、既報の如く『月給日』一幕を公園の風景を背景として演出し公開するもので、無論一銭の料金も要せぬものである。開演期日は来る二十五日午後四時、場所は公園池の端築山の予定で、小高い所で演ずるのであるから多数の人々が見物する事が出来るのである。尚当日雨天の際は一行が旭川に於いて開演中好晴の日を選んで延期開演するのである。開演の日は朝から花火を打ち上げ又開演の合図も花火を以てする事となっている。」

公演の主催が当の旭川新聞とあって、記事にも力が入っているようです。
旭川新聞は翌24日にも広告を出すとともに、函館巡業の際の一座による野外劇の写真を掲載しています。



(画像⑤)野外劇の広告(旭川新聞・大正13年7月24日)


こうした前宣伝の成果もあって、当日は公園に2万人もの市民が詰めかける盛況ぶりでした。

人気高潮に達す 本社主催五十九郎一行の野外劇
公園の会場に殺到せる民衆2万悉く笑殺さる

本社主催民衆慰安の五十九郎劇一行野外劇は既報の如く昨日午後四時から常盤公園池畔芝山に於て公開した。(中略)会場には本社の社旗と五九郎の大幟がヒラヒラと翻り舞台となる池畔小高い所の四阿(あたり)に紅白の幕を張り一方本社の幔幕張った天幕との二ケ所が楽屋とした。(中略)観衆は正午すぎる頃から早くも公園目がけて繰出して時半ばには既に舞台正面と言うべき広場より頓宮境内は立錐の余地なく殊に池のボートは全部観衆買切り・・・(中略)野外劇『月給日』は既報筋書の如くであるが嘗て伏見宮邸にて演じ各宮殿下の台覧を仰いだ由緒ある喜劇で配役は左の如くであり五時弐拾分二万余の観衆を笑殺し拍手喝采裡に大成功にて演了した。此の催しのため師団道路筋は時ならぬ雑踏を呈した。」(旭川新聞・大正13年7月26日)

さらに翌27日には、公演の模様を写した写真(しかも3枚!)が掲載されています。
新聞の保存状態が悪く、ごらんのような不鮮明さですが、記事の様に大勢の市民が詰めかけている様子が確認できます。



(画像⑥)新聞に掲載された野外劇の写真(旭川新聞・大正13年7月24日)


この五九郎一座の野外劇、当時3条通15丁目にあった劇場「錦座」で行われた公演(こちらは木戸銭を取っての舞台)のPR的な意味合いが強かったようです。
初日となる26日付の旭川新聞にはその演目や料金を記した広告が載っています。



(画像⑦)錦座の広告(旭川新聞・大正13年7月26日)


野外劇に続き、錦座での公演も大入りが続いたようで、26日から最終日の30日まで途中演目を一部変えながら熱演が続きました。
なお29日の旭川新聞の記事では、五九郎一座が、地元の劇場のチームと常磐公園で野球の試合をしたことを伝えています。
巡業で長旅の続く座員の気分転換を兼ねたPR策の一環だったのかもしれません。



(画像⑧)大正時代の常磐公園



<大物演劇人が続々>



ところで、あまり知られてはいませんが、大正時代の旭川には、曾我廼家五九郎だけではなく、歌舞伎から新劇まで数々のビッグネーム=大物演劇人がやってきて舞台を披露しています。
ざっとあげますと・・・。

大正2年9月 6代目尾上菊五郎一座 佐々木座
大正3年9月 芸術座(松井須磨子・島村抱月) 佐々木座
大正4年3月 川上貞奴一座 佐々木座
大正9年9月 2代目市川左団次、7代目松本幸四郎一座 錦座こけら落とし

面白いのは、須磨子と貞奴という高名な2人の女優が相次いで旭川を訪れている点です。
旭川の演劇史に詳しい北けんじさんは、当時の新聞を紹介したうえで、このように評しています。

「嘗て新しいと云ふ寝耳に水の様な声に驚かされて芸術座のカチューシャを観た時は多くの顔が失望の色を浮かべてゐた。正月の芝居が沈み勝に過ぎた今日、早くも雪解けの長閑さを味わふかの様に待ちわびてゐた貞奴一座が佐々木座に来ての初日は素晴らしい人気であった。マダムの指は未だ痺れるには間がある。夫れに時代劇の八犬伝黒田高楼は旭川唯一の観劇趣味に投ずるに足るもので女装の犬坂が凛として決心を見せる処は拍手喝采。無論対牛楼の大立回りは涙を流して喜ぶ者もあった。(後略)(『北海タイムス』大4・2・3付)
とある。つまり、松井須磨子の芸術座は旭川の観客には高尚に過ぎて退屈してしまったようだが、マダム貞奴一座の『八犬伝』の大立回りは旭川の観客には理屈抜きで面白い芝居に映ったということのようである。新劇のもってまわったような科白にはついていけない、正直な観客層だったともいえる。しかし、こんな演劇もあるのだという認識は植え付けられたという意味で画期的な公演だった。」(北けんじ「旭川演劇百年史」=「旭川市民文芸 旭川文芸百年史」内掲載より)


(画像⑨)松井須磨子(1886-1919)


(画像⑩)川上貞奴(1871-1946)



名優、菊五郎、左団次、幸四郎が珠玉の芸を披露し、須磨子・貞奴は〝競演〟を見せ、そして喜劇王「ノントウ」五九郎が常磐公園に集った観客を沸かせた大正の旭川。
顔ぶれの豪華さという面では、現代より恵まれていたといえるかもしれません。



(画像⑪)佐々木座