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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

頓宮建立と千鳥ヶ池

2015-09-10 08:29:51 | 郷土史エピソード


大正12年に行われた上川神社頓宮建立の「木曳式」。
手古舞姿の芸妓100人余が木遣音頭を歌う中、印半纏に赤鉢巻の市民が紅白の大綱で造営に使う柱を曳く華やかな行列が街を練り歩きました。



                   **********


「頓宮建立の木曳式、華やかに」



(写真①)初詣客で賑わう頓宮(昭和35年・旭川市中央図書館蔵)


「頓宮さん」と、昔から親しみを込めて呼ばれている上川神社頓宮です。
これは昭和35年の正月の写真ですね。
和服姿の2人連れがキュートです。

この頓宮、常磐公園の千鳥ヶ島に建立されたのは大正13年6月ですが、前年の8月、造営のための柱を本宮から造営地に運ぶ「木曳式」が盛大に行われました。
「木曳式」では、頓宮造営に使う6本の柱を白布で包んで2台の「奉曳車」に載せ、印半纏に赤鉢巻や花笠紋付き姿の各町内の代表が紅白の大綱を使って曳いたと記録されています。



(写真②)宮下通にあったころの上川神社(大正4年頃・北海之礎)


当時宮下通21丁目にあった本宮です。
行列は、本宮を出発した後、師団通を経由して常磐公園まで練り歩きました。
手古舞姿の芸妓100人余りが木遣音頭を歌って付き添う華やかなもので、沿道は見物の市民であふれかえりました。

なお当時の記録によりますと、行列の先頭は「上川神社頓宮御用材奉曳式」と書かれた長旗で、神職と式の責任者であった実業家の槙荘次郎氏が後に続きました。
さらに旭川有数の活動写真館、「神田館」館主の佐藤市太郎氏が提供したという音楽隊も華を添えました。



(写真③)式の責任者を務めた槙荘次郎氏


(写真④)神田館館主、佐藤市太郎氏



「頓宮造成と千鳥ヶ島」



(写真⑤)常磐公園と頓宮(昭和初期か・絵葉書)


ところで、頓宮が建てられた常磐公園の千鳥ヶ島、造営前は単に「中の島」と呼ばれていたようです。
上川神社が昭和2年に発行した「縣社上川神社御造営記」によりますと、大正10年、氏子会が頓宮の敷地として千鳥ヶ島を適地と決めて旭川区(当時は区政)に申請を出し、12月、許可を受けたとしています。
そして造営に当たって島を縁起の良い千鳥の形に変え、「千鳥ヶ島」と命名したとしています。

島のある池の名前は「千鳥ヶ池」ですが、この名もこのいきさつに由来していると思われます。



(写真⑥-1)千鳥ヶ島はその名の通り上空から見ると千鳥の形(昭和35年・旭川市中央図書館蔵


(写真⑥-2)同上・拡大


(写真⑦)千鳥ヶ島に建つ現在の頓宮



ちなみに千鳥ヶ島のとなりにあるのは「亀ヶ島」。
こちらも縁起の良い命名です。



(写真⑧)奥に見えるのが亀ヶ島(昭和33年・旭川市中央図書館蔵)


「頓宮敷地選定の理由」


なお頓宮の造営は、上川神社の本宮が宮下通から現在の神楽岡に移ることが決まったことに伴い、神輿渡御の際の「御旅所」を設ける必要があるとして計画されました。
また常磐公園を頓宮の敷地として選んだ理由として、以下のように書かれていると「縣社上川神社御造営記」は紹介しています。

「頓宮ハ本庁ト近文方面トノ地理上ノ関係ヨリ見テ両者ノ中間ニ置クヲ必要トシ且ツ神輿御泊中ハ老幼男女ノ参拝ニ便ナル位置ヲ選ブノ要ハ言ヲ俟タザル所ニシテ右ノ要件ニ鑑ミルニ此地ノ最モ適當ナルヲ認ムル議ニシテ(中略)
池水ヲ以テシテ一廊ヲ爲シ清浄此上モ無キ地域ニシテ尊厳ナル風致ヲ添フル点ニ於テ公園ノ一景物ヲ爲シ更ニ此地ノ来往ニ至便ノ所ナルヲ以テ参拝者モ亦従ツテ多数ニ上ル可ク自然敬神ノ念慮ヲ燃シナラシメ人心教化ノ上ニ及ボス所モ亦尠ナカラズトス
如上ノ理由ヨリシテ區内他ニ適當ノ地ヲ得ザルヲ以テ此地ヲ選定シ使用方出願ニ及ビタル次第ニ御座候」

どうでしょうか。
常磐公園の位置的な特性や環境、たたずまいについて、当時の旭川の人たちがどのように見ていたかがよくわかる文章なので、長文ですが、引用させてもらいました。
この選定理由の通り、頓宮は今も身近な存在として市民に親しまれています。



(写真⑨)ボートと頓宮(大正末期か)


「木曳式当日に乱入者!?」



(写真⑩)常磐公園=後方に常盤橋が見える(昭和初期か・絵葉書)


最後に、頓宮の造営に関わるユニークなエピソードを一つ。
冒頭で紹介した「木曳式」の当日、行列が師団通りを過ぎて切り替え前の牛朱別川にかかっていた常盤橋(現在のロータリーの場所)に差し掛かったところ、集まった群衆目がけ、泥酔した男が日本刀を振り回して乱入するという事件がありました。
以下、当時の旭川新聞です。

「附近一帯は之が見物の爲め人の渦を巻く様な雑踏中場所も有ろうに四條二十三丁目右一號紹介業〇〇〇(61)が何處で飲んだか鍾馗の様に酔っ拂って夏尚寒い物凄い氷の様なピカピカした白鞘三尺五寸の日本刀及び小刀二振を振り回し乍ら此の刀は家累代の家寶で切れ味も素晴らしい物だぞと盲滅法に群衆目蒐けて振り廻す騒ぎなので之を見た見物は吃驚仰天し(中略)常盤橋附近は直ちに阿鼻叫喚の巷と化し・・・」(旭川新聞・大正12年8月4日)



(写真⑪)常盤橋(明治末期~大正初期・絵葉書)


華やかな行列で、この日の旭川はいわばお祭り、ハレの日のような状態。男も酔った勢いで気が大きくなったんでしょうか。
幸い付近を警戒中の巡査が男を取り押さえ、けが人等は無かったということですが、必死に逃げまどう人々の姿が目に浮かびます。

常盤橋と言えば、以前このブログにも書いた通り、昭和2年6月、対立していた地元のアナキストグループ「黒色青年連盟」と、右翼団体「旭粋会」が角材や鉄棒、日本刀を持ち出して渡り合うという旭川始まって以来の大乱闘が起きた場所でもあります。
今はロータリーとなって姿を消した常盤橋、実は郷土の歴史話の宝庫でもあるようです。




(写真⑫)かつての牛朱別川と常盤橋(昭和4年)







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旭川初の死亡事故

2015-09-03 22:04:55 | 郷土史エピソード


大正期に旭川に初めて導入された自動車は、馬車や馬鉄に替わって次第に住民の足となっていきました。
その一方、大正6年には、初の死亡事故も起きていています。
今回はその詳細です。


              *********


大正6年6月、当時区制を敷いていた旭川で、初めての自動車による死亡交通事故が起きました。
場所は1条通8丁目の交差点。
新聞は次のように伝えています。

「旭川区一条通十四丁目左七号、伊藤長蔵長男、政千代(十六)は、富士製紙会社旭川電気事務所の小使なるが、二十二日午前十一時四十分頃、自転車にて一条通十丁目方面より師団道路に向て疾走中、折柄師団道路方面より驀進し来れる槇荘二郎氏所有自動車弁慶号と衝突し、後頭部其他を轢傷し、直に付近の星野医院に担ぎ込みたるが、応急手当の暇なく直に絶命したり。(大正5年3月25日・北海タイムス)


「弁慶号と義経号」


この事故を起こした「弁慶号」、実は写真が残っています。



(写真1) 旭川初の乗合自動車、「弁慶号」(大正6年頃・旭川市中央図書館蔵)


かなりの人数が乗っていますね。
フォード型で、16人乗りの大型車だったそうです。
この「弁慶号」、記事中にある当時の区議会議員で実業家の槇荘次郎(まき・そうじろう)氏が、事故の前年に買い入れた2台の営業用自動車の1台です。
もう1台は「義経号」、こちらは12人乗りだったそうです。

記事によりますと、この日は朝一番に市内で車の修理を行い、その後作業員がオーナーである槇氏宅に向かう途中、事故を起こしました。
犠牲になった伊藤政千代さんは16歳、将来のある身で、さぞ無念だったに違いありません。
事故の際、自動車には運転手の作業員以外乗っておらず、車側にはけが人などはいませんでした。

ただ郷土史家の村上久吉さんや渡辺義雄さんの著述によりますと、この事故をきっかけに、槙氏は2台のフォードを札幌方面に売却、営業自動車業を廃業したということです。


「ユニーク実業家、槇荘次郎」


ところで、「弁慶号」、「義経号」のオーナーの槇氏は、旭川の実業家の中でもユニークな発想をすることで知られていました(息子さんの槙三郎氏も、真っ赤なジープで選挙活動を行うなど、ユニークな活動で知られる市議会議員でした)。
昭和3年発行の「旭川写真帳」には、荘次郎氏が道庁に働きかけて設置の許可を得た「北海道庁選定食用蛙飼育所」の看板と、蛙?(置物かも)を手にした本人の写真が載せられています。



(写真2)槇荘次郎氏と食用蛙飼育所の看板(昭和3年・「旭川写真帳」より)


(写真3)手には蛙?(同上・拡大)



話は脱線しますが、この食用蛙、時には飼育所から逃げ出すこともあったようです。
昭和4年夏には、牛朱別河畔で夜な夜な化け物のうめき声が聞こえると、新聞にも取り上げられた「旭川の夏のお化け騒動」が起きますが、正体は槙氏の飼育所から脱走した蛙だったとされています。


「親しまれた円太郎」



(写真4) 乗合自動車「円太郎」(昭和初期・絵葉書)


(写真5) 円太郎の試運転を伝える記事(大正13年7月5日・旭川新聞)



なお槇荘次郎氏が弁慶・義経の運行を始めた大正5年、旭川ではまだ馬鉄や馬車が交通の要でした。
しかし人口の増加に伴って不便さが募り、大正13年に市が10台の自動車を買い入れて民間の会社に貸出し、本格的な乗合自動車の運行が始まりました。
この車は「円太郎(えんたろう)」と呼ばれ、市街電車の運行が本格化するまで、住民の足として親しまれました。




(写真6)駅前を行く馬鉄(絵葉書)


(写真7)駅前を運行する馬車(絵葉書)





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