旭川を描いた小説は数多くありますが、その中でワタクシが特に感銘を受けたのが、昭和初期の中島遊郭を舞台にした木野工(たくみ)の「襤褸(らんる)」です。
そこには、地域の発展の陰に、悲惨な境遇にあった多くの貧しい人たちの存在があった事実が、乾いたタッチで描かれています。
今回は、小説の一部をご紹介しながら、そこに浮かび上がる当時の旭川とその実情について見ていきたいと思います。
ということで、ここからは一部ネタバレ的な要素もありますので、お含みおきを。
**********
◆はじめに
画像1 木野工
まずは作者の木野工です。
大正9年、旭川生まれ。
長く北海タイムスで、記者、論説委員などを務める一方、作家活動を続けた人です。
画像2 木野の小説
木野の作品は、昭和20年代から40年代にかけて、芥川賞の最終候補に4回、直木賞の最終候補に2回ノミネートされています。
「襤褸」も直木賞の最終候補となった作品で、第5回北海道新聞文学賞を受賞しています。
画像3 「旭川今昔ばなし(正・続)」
また昭和初期の旭川の街並みや風俗、店舗、人などについてまとめた「旭川今昔ばなし(正・続)」は、郷土史研究の貴重な〝道標〟となっています。
特に旭川の花柳界や遊郭については、その成り立ちやしきたり、店舗や業界人など、詳細かつ多岐に渡って書かれています。
画像4 中島遊郭の妓楼①(大正7年)
それもそのはず。
木野は市内で生まれてすぐ生家の知り合いの家に養子に出された人で、この養父母の家が中島遊郭の中にあった料理店「大正亭」でした。
この〝遊郭の中で育つ〟という珍しい経験は、のちの作家活動の中で活かされ、「襤褸」のほか、遊郭・花街を舞台にした「旭川中島遊郭」という短編集も出しています。
画像5 木野工「襤褸」
で、今日お話しする「襤褸」ですが、発表は昭和47年。
木野の代表作と言える作品です。
主人公は、17歳で日本海側の雄冬から中島遊郭に身売りされてきた漁師の娘、花です。
花は、劣悪な境遇の中で体を壊し、わずか1年足らずのうちに短い生涯を閉じてしまいます。
悲惨な境遇ですが、そこには次のような木野の思いがあります。
「吉原や島原(筆者注・吉原は東京、島原は京都の遊郭)などは小説にも記録にもかなり残っている。地方でも最下層の娼婦の世界はよく作品に描かれる。しかし、それら情緒的に捉えられるか、卑しい興味が先に立つか、いずれかの傾向を帯びやすい。乾いた筆で、わずか30年前には社会の機構の中に堂々と奴隷の制度が存在し、それを誰も異としなかった記録を小説の形にまとめたかったのが『襤褸』の狙いである。(中略)特定のモデルは妓楼にも娼妓にもないのに、かなりの抗議めいた手紙をもらった。それは『襤褸』の世界がいかに普遍性を持っていたかを私に立証してくれたようなものだった。」(木野工「襤褸」帯文より)
それでは、小説の背景となった当時の状況などを踏まえながら、内容を見ていきましょう。
◆旭川の遊郭とその実態
画像6 木野作成の地図(「旭川今昔ばなし」より)
かつて、旭川には2つの遊郭がありました。
まず明治31年、開拓期の中心部だった曙地区に設けられた曙遊郭です。
そしてその後、陸軍第七師団の札幌から旭川への移駐に伴い、地元業者が中島遊郭の設置計画を立ち上げます。
中島遊郭の位置は当時の永山村字牛朱別、今の東1・2条の2丁目周辺に当たります。
当時、第七師団は、計画について一切関知しないという態度を貫きましたが、地図で見てわかるように、新遊郭は石狩川を挟んで七師団の対岸にあります。
師団で生活する兵隊の利用を見込んでの計画であることは誰の目にも明らかでした。
画像7 第七師団司令部(「北海道第七師団写真集」より)
新遊郭の近くには旭川中学があったことなどから、当時旭川では大規模な反対運動が起こりました。
その急先鋒は町長の奥田千春。
奥田らは上京して、計画を認めないよう政府に陳情しました。
これに対し、明治40年3月、就任したばかりの河島淳北海道庁長官は抜き打ち的に新遊郭の設置許可を出します(当時、長官は官選で、内務大臣の管轄下にありました)。
これに反発した反対派は国会に嘆願書を提出。
旭川の新遊郭問題は全国紙でも連日取り上げられ、一時は衆議院で論議となる事態となりました。
ただその間にも妓楼などの建設は着々と進み、同年10月、政府に押し切られる形で中島遊郭は営業を始めます。
町長を先頭にしても反対運動が実らなかった背景について、木野は「底に潜んでいた軍の要請と、それに媚びた官僚の無理解」があったとしています。
いわば内閣が軍に〝忖度〟したと言ったところでしょうか。
ということで始まった中島遊郭の営業。
ゴタゴタはあったものの、すでに街の中心は、旭川駅から伸びる師団道路周辺に移っていたことから、曙遊郭の客を奪う形で伸びてゆきます。
開設時に20軒、約120人だった妓楼と娼妓は、「襤褸」の舞台となった昭和7〜8年にはそれぞれ倍近くに膨れ上がります。
そうした中島遊郭に、主人公の花が初めて来たときの様子を、木野は次のように描写しています。
「橋(注・永隆橋のこと)を越えると堤防の坂の下は一筋の商店街になっており、そば屋、カフェーなどもあったが、大きな飾り窓を持った写真屋が花の目には珍しかった。まっすぐに行って四つ辻になったところが、右に大門を構えた中島遊郭、左が駐在所で、高い消防用の鐘梯子が目に入った、車はその大門から入る中央通りを目の前にして、右仲通りと呼ばれていた裏通りへ折れた。吉川楼(注・花が売られた妓楼)は中央通りからその右仲通りへ抜けている建物で、裏には張店はなかったが呼び込みの番頭も居り、此処からも登楼できるようになっていて、中は同じ一軒なのに裏側を支店と呼んでいた。」(木野工「襤褸」より)
画像8 中島遊郭の大門(大正初期・絵葉書)
画像8は、木野の文章にもある中島遊郭の大門です。
門の奥に見えるのが中央通り。
通りを挟んで左右に並んでいるのが妓楼です。
文章の中にある駐在所の跡は、今でも小公園のようになっていて、当時を忍ぶことができます。
画像9 吉原遊郭の絵葉書
さて、物語の話に入る前に、ここで当時の日本の公娼制度について、押さえておきたいと思います。
急速な近代化を進めた明治新政府は、明治5年、人身売買の禁止、および娼妓解放令を出します。
とは言っても、売春そのものが禁止されたわけではありません。
貸座敷免許地と呼ばれる土地(=遊郭)に、営業を許可した業者(=貸座敷業者=妓楼)を置き、そこにやはり政府公認の紹介業者(=周旋屋)を通して女性(=娼妓)が集められ、娼妓は警察に登録して鑑札(=売春営業の許可)を受けて働くという仕組みです。
つまり娼妓は自由意志で売春を行い、妓楼はその場所を貸しているという建前がとられたわけです。
このため、娼妓には自らの意思で売春営業をやめる=自由廃業の権利が生じましたが、廃業したとしても背負った借金がなくなるわけではないため、権利の行使はごくわずかに止まりました。
こうした実態を考えると、当時の公娼制度とは、政府公認の管理売春制度であり、娼妓は、木野が書いたように、事実上の奴隷とも言える存在でした。
画像10 旭川駅(昭和11年・「陸軍特別演習大演習記念写真帳」より)
「襤褸」の中には、公娼制度を支えた妓楼や周旋屋、客、そして娼妓の姿がリアルに描かれています。
「雄冬の苫小屋を出てから、もう五日も経っていた。
花には、いま自分がどうしてこの女たちと二人の男と一緒に旭川の駅に降り立ったのか、たった五日間のことが混じり合って、どの日にどんなことが起ったのか、どんなことが約束されて、自分の躰がどんな風に扱われてゆくのか、それさえ判然とはせず、考えつめることもできなかった。
『さあ。旭川だ。お前たちが贅沢しながら面白おかしく暮せる街だ』
北海道では名の通った周旋屋だという馬場周旋所から、遥々と雄冬の果てまで、花の母親すぎを尋ね求めて来たのだという出帳場の山伸が、鋭い目で六人の女たちを睨み据えるようにそう言って顎をしゃくったとき、花は初めて、自分が旭川のどこかに売られて来たのだという実感が湧いた。」(木野工「襤褸」より)
小説の冒頭部分です。
周旋屋は、今のように公共職業安定所などなかった時代、様々な職業の斡旋、紹介を行った業者です。
主人公の花を他の女とともに旭川に連れて来た「山伸」は、旭川の大手の周旋業者、馬場周旋所の出帳場、つまり外回りの責任者とでも言える存在です。
花は旭川の師団道路にあった馬場周旋所の本店に連れていかれ、そこで丸裸にされた上、まるで物のように競りにかけられ、中島遊郭の妓楼の一つ、吉川楼に落とされます。
「値を吊りあげているのは専ら吉川楼だった。土工(注・土木作業員のこと)専門と言ってもいいほどの店で、土建業者と特約を結んでいる中位の大きさの店だったが、いわば兵隊割引きをやって組合から苦情の絶えない専徳楼よりも更に一級下という最下級の店だった。」(木野工「襤褸」より)
吉川楼が花を競り落としたのは、前日、稼ぎ頭だった娼妓が死亡したことが理由です(この娼妓は、肺病を患っており、もう長くはないと判断した楼主が土工の出張所に泊まりの営業に出し、疲労の果てに息絶えます)。
画像11 師団道路の街並み(昭和9年)
こうして花が送り込まれた娼妓の世界。
日常についても描写は詳細です。
例えば食事。
「おそい朝食が形だけ飯台にならべられ、味噌汁に、大丼に盛った沢庵と、僅かな干物の生焼きが、これも一つの皿に盛ってある。飯はふかし釜のまま飯台にのっていて冷え切っている。妓楼の食事の粗末さは今更いうまでもないが、それは徹底したもので、飯は三等米を前日に炊くのがしきたりである。そして冷や飯にしたものを。更にアルミのふかし釜で半生にふかす。それが冷えるのを待って飯台に出すのだ。その飯が残っている間は何度でもふかし直しては冷えた時分に食わせる。そうすることで、娼妓たちの食慾を削ぐことと、客に店屋ものを取らせて利ざやを稼ぐことの両得を狙っているわけであった。飯でさえその位だから、惣菜の貧しさも想像に余りある。」(木野工「襤褸」より)
店屋もの云々とあるのは、娼妓をひもじくさせ、客に出前を取るようおねだりさせたということです。
このように遊郭内では、女性たちに与えるものは最小限に、そして絞れるものは絞り尽くすという過酷な仕組みになっていました。
「花は二百円の契約金で五年の年期勤めという証文を取られて売られて来た。
法規状は抱え主と本人、親権者の直接契約というのが建前だった。しかし、どこの土地でも、周旋屋の主が保証人とか身許引受人の名義で、その契約を代行していた。二百円のうち、募集費とか手数料とか、さまざまな名目で五十五円ほどは先取りされていた。」(木野工「襤褸」より)
契約金のうちかなりの額が、周旋屋の取り分としてピンハネされたということですね。
また娼妓が背負う借金もなかなか減らない仕組みになっていました。
「年季奉公で入った場合には、その期限が来れば契約金だけの貸借は消える。食費は、特別に町へ出ることでもあって勝手な飲み食いでもする機会があれば別だが、一応は抱え主が負担する。その他、衣装から夜具、調度、日常の必需品は抱え主が用意することにはなっている。しかし、それは最低の、限度ぎりぎりのお仕着せで、少しでも客を余計に取ろうとすれば必要なものはいくらでも買ってくれるのが例だったし、また、自分ではこれで十分と思っても、どんどん衣装などは作らされてしまう、そして、それは契約とは別扱いの借金として積まれてゆく。その費用が何百人に一人かの幸運で身請け話ができ上った時には、そのまま身請人の負担にかぶされてゆくし、年期が明けたときには、新しく歩合の契約でその店に縛られ、こんどは年期中や、その前の諸掛りまでが借金として初めて表面に出され、それをからだで少しずつ返済してゆく形をとる。」(木野工「襤褸」より)
まさに蟻地獄のようです。
画像12 中島遊郭の妓楼②(大正時代)
一方、「襤褸」には、こうした娼妓を悲惨な境遇から救おうという活動、廃娼運動の活動家についても書かれています。
このブログではお馴染みの社会活動家、佐野文子をモデルとした人物です。
「佐上芙美子は曙遊郭の近くの裕福な商家に育った。両親ともになかなかの見識を持った人物で、芙美子が女学校を出てキリスト教婦人矯風会に入るのも黙って見ていた。しかし、縁あって芙美子は早熟な結婚をした。両親がほっとしたのも束の間で、芙美子の夫は早世した。芙美子が廃娼運動に取り組み出したのはそれからで、機をとらえては中島遊郭へ出かけて来ていた。」(木野工「襤褸」より)
実際の佐野文子とは生い立ちなどは変えてありますね。
その芙美子は、遊郭内にあった妓楼組合の事務所で静養していた花の元を訪れ、廃業するよう説きます(この時、花は自分が吉川楼に勤めるきっかけとなった先輩娼妓と同じく肺を病んでいました)。
「芙美子は花の枕元に座り込んで、まず法律の説明から話を始めた。花にもおぼろげながら芙美子の言っていることが分かっては来ていたようだった。それでも『先生、でもあたしには義理というものがあるんです。それに、ここを出て一体何をして食べていく道があるんでしょうか』と芙美子の説く廃娼運動が、やっぱり世間で言うアカの宣伝としか受け取れないのであった。」(木野工「襤褸」より)
当時、特殊な技能を持たない一般的な若い女性が就くことのできる職業はごく限られていました。
自由廃業をした娼妓の中には、借金返済のため、再び体を売る商売に戻った人も少なくなかったと言います。
こうした社会状況も、娼妓の前には厚く高い壁となっていました。
画像13 佐野文子
◆昭和7〜8年の旭川
画像14 満洲派遣から帰還した第七師団の将兵(昭和9年・「北海道第七師団写真集」より)
この「襤褸」、木野は物語の導入部分で、主人公花がわずかな間に悲惨な死に至ることを暗示しています。
それは昭和7〜8年の旭川の社会状況が、地元の娼妓たちの境遇に、更にいっそうの過酷さを加えた事情を描きたかったためと思われます。
その一つは、軍備の拡張に伴う第七師団の兵員の増大です。
第七師団の札幌から旭川への移駐が完了したのが明治33年。
この頃約5000人だった兵員は、昭和初期には7000人にまで増えていました。
その男たちが妓楼に押しかける様子を、木野はこのように書いています。
「若い花には客が殺到した。(中略)
本部屋とは名ばかりの、ほんの形だけの調度を入れただけのものではあったけれども、とにかく花は自分の部屋を持った。しかし、自分の部屋で客を取るのは上客の泊りだけで、むしろ屏風仕切りの回し部屋に寝る時間の方が多かった。
ことに、土曜、日曜の兵隊の外出日には、花はほとんど睡眠をとることを許されぬほど酷使された。」(木野工「襤褸」より)
画像15 招魂祭の賑わい(旭川新聞より・昭和6年)
また招魂祭の喧騒については、次のように描写しています。
「宵宮だから、日中はそれほどでもあるまいと思ったのに、第七師団では砲兵隊と歩兵一個連隊を残して、この日から外出を許可してしまったから、まだ普段なら深い眠りの時刻にある筈の午前9時すぎに、もうどの妓楼も天手古舞の忙しさになってしまった。現在なら、さしずめ予約券か整理券でも出して、散髪に行くとか、映画を見たり、お茶を飲んだりして待ち時間をこなすところだろうが、当時は居合わせたものの早い者勝ち、玄関にずらりと並べられた等身以上の半身像写真なども見返られず、妓名を指定することさえ出来ないままに、ただ、ぶらぶらと玄関三和土で順を待つといった具合だった。」(木野工「襤褸」より)
兵隊の利用を見込んだ中島遊郭の設置はまさに当たったというところでしょうか。
招魂祭には、道内各地から娼妓を借り受けて営業したと伝えられていますが、寝る暇もなく一晩で多くの男の相手をする娼妓は、まさに命を縮めたと思われます。
画像16 牛朱別川切替工事の概念図(緑色が新流路、朱色が旧流路・「牛朱別川切替工事概要」より)
さらにこの時期、旭川では街始まって以来の大規模なインフラ整備の工事が進行中で、全同各地から多数の土木作業員がかき集められていました。
その工事とは、牛朱別川の切り替えを始めとする河川整備と、旭川中心部と第七師団を結ぶ生命線である旭橋の架け替えです。
このうち牛朱別川の切り替えは、今よりも町の中心部近くを流れていて、大雨のたびに氾濫し、大きな被害を出していた牛朱別川の流路を人為的に変え、現在のように旭橋の下で石狩川と合流させる工事です。
昭和5年5月に起工し、新流路の切り替えが終わったのが6年11月、そして旧流路の埋め立てなど全ての工事が終わったのが昭和7年10月という大事業でした。
画像17 牛朱別川切替工事の様子①(「牛朱別川切替工事概要」より)
一方、旭橋の架け替えは、師団との交通の要所としての重要性に加え、電車路線が開設したことで、拡幅を求める声の高まりに応え、昭和4年11月に着工、7年11月に竣工しました。
さらにこの時期、旭川では、石狩川本流を始めとする他の川でも河川整備のさまざまな工事が進められており、牛朱別川も含め整備に伴う永久橋の設置工事も各所で行われました。
こうした大規模なインフラ整備により、当時の旭川には、全道各地、さらには本州からも多くの土木作業員を含む工事関係者が集められ、各所に土工部屋と呼ばれる飯場が設けられました。
集まった土木作業員は、数千人、ピーク時には万を超えたとされています。
画像18 建設中の旭橋
軍の増強と、土木作業員の大量流入。
この2つは、旭川の遊郭にも大きな影響を与えました。
実は昭和4年頃から全国的に不景気が続き、更に北海道は4年から7年にかけて凶作となり、大正時代にピークを迎えた日本海側のニシン漁も年々水揚げを減らしていました。
これに伴い、大正14年には、全道で妓楼413軒、娼妓2055人だった北海道の遊郭も、昭和8年には、208軒、1233人と大幅に衰退、道外への娼妓の転売が相次ぎ、全国どこに行っても北海道から来た娼妓のいないところはないと言われたそうです。
これに対し、唯一、成長を続けたのが中島遊郭です。
それは軍隊と土木作業員が落とす金によって、中島遊郭だけは娼妓一人当たりの稼ぎが全道平均の倍ほどもあったためです。
この結果、全道各地から身売りした女性や、引き抜かれたり鞍替えさせられたりした大勢の娼妓が中島遊郭に集まりました。
画像19 完成した牛朱別川の新流路(画面右上)と石狩川(画面下)(「牛朱別川切替工事概要」より)
なお「襤褸」には、この時期の土木工事で働く作業員、中でもタコ労働者の様子を描写したシーンが何度か出て来ます。
タコとは、娼妓と同じく、借金のかたに監禁状態に置かれて過酷な労働を強いられる存在で、「男版の女郎」とも呼ばれました。
「そのタコが、牛朱別川の、もうほとんど川面らしい水面の無くなった川跡で、まだ雪が消え残っているというのに、全裸に花の紺絣のそれよりも更に短い薄地のひらひらとした腰布一枚という格好で、子供にいたずらされた蟻のように、ただ徒らに右往左往しているのだった。花には、その男たちの数が余りにも多いために、そう見えた。(中略)すこし目がなれて来て、その腰布一枚の男たちとは別に、腹に白布を巻き股引をはいている男が、働いている男たちの間に何人かいるのが判別された。その男たちは例外なく三、四尺の棒を振り回していて、土を運んだり、埋立ての場所を指図したりしながら、時々大声を発しては裸の男たちを殴りつけた。」(木野工「襤褸」より)
画像20 牛朱別川切替工事の様子②(「牛朱別川切替工事概要」より)
物語では、花や花が吉川楼に落とされるきっかけとなった先輩娼妓が、こうしたタコ労働者の飯場やそれに近い底辺の土木作業員の飯場に送り込まれます。
楼主は肺病を病んだ二人に最後の荒稼ぎをさせたわけです。
「楼主は、この妓(注・先輩娼妓のこと)もいよいよこの辺がつぶし時、と踏んだのであろう。石狩川上流の上川村の土工部屋へ泊りに出した。監獄部屋という名がそのままぴったりとくる感じの、細い谷間の突当たりにある土工部屋で、その妓を含んで三人の娼婦が、まる二日、土工一人に二十分の応対をさせられた。四方に荒筵を下げただけの、人前も同然の仮床だった。」(木野工「襤褸」より)
「一棟には、土工を含めて百人位の男たちが起居していたが、契約土工だけに、逃亡防止も、いわゆる監獄部屋ほどのきびしさはなく、工事を休むこの期間は、自前で飲む分には酒も飯場の飯炊き婆さんが自由に買って来てくれた。しかし、外出だけはきびしかった。そのために山伸が女の連れ込みを企んで一ト儲けをはかったのだ。連れてこられた女の大半は潜娼(注・鑑札を受けていないもぐりの娼婦=私娼)の年増ばかりで、若い女は花ひとりだけだった。(中略)
花はそれでも血を吐かず、延べにして千人近い男たちを遊ばせ漸く二週間の務めを果した。」(木野工「襤褸」より)
先輩娼妓は主張先の飯場でそのまま亡くなり、花は出張から戻った2日後に遊郭内で亡くなります。
特定のモデルはいないと木野は書いていますが、このように搾取の果てに死に至った女性は少なくなかったと思われます。
画像21 牛朱別川沿いから見た中島遊郭の遠望(明治末か大正初期・「旭川写真帖」より)
画像22 中島遊郭(時代不詳・絵葉書)
「花よ、恨むなよ。どうせ俺たちの世界で生きている奴はみんな、おんなも男も世の中のぼろ屑だ。世の中の汚れたところを拭いて歩いているようなもんよ」
ワタクシが生まれ育ったのは、旭川市10条通9丁目。
家の裏には牛朱別川の堤防があります。
また高校生の時、夏は、永隆橋を渡って東1条2丁目を横目に見ながら、冬は同じく東1条2丁目のバス停を使用して学校に通っていました。
恥を忍んで言いますと、その東1条2丁目に遊郭があったことは郷土史を学び始まるまで知りませんでしたし、子供の頃の遊び場だった家の裏の牛朱別川がタコ労働者らによって掘削された川だというのは、まさにこの「襤褸」によって知りました。
小説のタイトル「襤褸(らんる)」とは、山伸の言葉にあったぼろ屑、ぼろ切れのことです。
私たちのふるさとの発展の陰に、ぼろのように使い捨てられた多くの人々がいたことを、私たちは決して忘れてはいけないと思います。
画像23 発展する旭川の街並み(昭和9年)