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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

小熊秀雄が書いた旭川・その2

2020-04-11 17:00:00 | 郷土史エピソード


前回に続き、「小熊秀雄が書いた旭川」の2回目です。
大正末から昭和初めにかけての旭川の様子を、当時、地元旭川新聞の記者でもあった詩人・小熊秀雄が書いた連載記事から見ていきます。
今回は、乗合自動車「円太郎」の同乗記や、まだ停車場と呼ばれていた旭川駅の待合室のルポ、活動写真館巡りなどの記事を紹介します。


                   **********



画像1・旭川新聞社での小熊秀雄(上段左)


◆「円太郎」同乗記


まずは記者・小熊による「円太郎」の同乗記です。
「円太郎」は、大正13年に旭川で運行が始まった乗合自動車です。
市が買い入れた10台の車を民間に貸し出す形でスタートし、多くの市民に利用されました。
そもそも東京で乗合馬車のことを「円太郎」(落語家の名前にちなんだ名前だそうです)と呼んでいたため、乗合自動車も同じ名前で呼ばれるようになりました(なので旭川だけが「円太郎」と呼んでいた訳ではありません)。
小熊の記事が掲載されたのは大正14年1月、おなじみヘアスタイルちなんだ「黒珊瑚」の署名記事です。



画像2・駅前を走る自動車(大正中期・絵葉書)


 七 雪の日の円太郎未来派旅行
     二七二号の大速力乗車印象

 走るは走るは
 円太郎
 雪の路上の
 暴ばれ者
 精々静かに
 頼みます
     ×
 午後三時旭川駅前広場の雪の上から滑走しだした円太郎自動車「二七二号」に収まった、のらくら者二人、これで師団練兵場を一周しまたもとの停車場前に戻つて来やうといふ寸法、大枚二人で四十銭の乗車券でこの一周の間にどんなパノラマが展開されるか、なにせ大速力で走つてゐる車内の出来事、印象、感情なにもかもを書かうといふのであるからナマ温かい文法を捨てて、黒珊瑚独特新案出、新感覚、未来派の筆法をもつて綴ります。
 読み辛いところ、判らないところは、幾重にも勘弁して戴いて、各自が乗つたつもりで「チンチン動きますよ」「停車場前発三時」女の児四人、松葉杖をついた四十格好の男、鼠色オーバの男、もと北海ホテルの女給であつた女が桃色のシヨールを動かしながら「ときわ橋のところ、遊郭の側までネ」ブーブー臭いガソリンだ、硝子窓が曇つてゐる、チンチン。
 屋根、屋根、八本足の馬が走つてゐる、ソバ屋の看板が食欲をそそる、暢天のニキビ面。「旭ビル前三時三分、五條交番前三時六分」
女学生の真赤な毛糸の帽子がひとつ、足の曲がつた可哀さうな男がやつとの思ひで乗車する「乗客十六人」常盤橋、すれちがつた円太郎二九七号。(中略)
 「やあ、おい止めてくれヤあ」
 「二十六連隊前三時二十四分」
 フクレ雀のやうに黄色い外套を着た歩哨が立つてゐる。
 「女車掌のオーバは自弁かい」
 「いや、会社で出すつて話だよ」
 ギラギラ光るトタン屋根。
 「師団司令部前三時二十六分」
 赤レンガの野砲隊「アイタタタ」悪路、悪路、悪路、悪路。
 女車掌は不妊症になります白い馬、天にのびた樹、鳥居、除雪人夫のシヤベル。
 「招魂社前三時四十分」帰路電鍍工場、しるこ、理髪、歩いてゐる特務曹長の光つた肩章
 「旭橋三時四十五分」
 写真大割引、軍人諸君割引します(中略)
 「五條交番前三時四十五分」
 神田館、旭ビルの女店員、眼許り出した馬、アンチピリン丸の金看板、黄金地獄フワントマ
 「二條通三時五十分」
 暢天とたつた二人きりで淋しい青い腰掛の色、眼が廻つた、三時五十分もとの駅前に停車チンチン(「のらくら紀行」より・大正14年)



本人も言っている通り意味不明な部分もありますが、楽しい文章です。
読んでわかる通り、「円太郎」は旭川駅を出発して師団道路を北上、今のロータリーの場所にあった常盤橋(切替工事前で、今より中心部よりを流れていた牛朱別川に架かっていました)、さらに旭橋(初代です!)を経由して今の大町方面へ。
招魂社(今の護国神社)前の十字路を左折し、練兵場の周りをぐるっと回り、各連隊や司令部前を通って再び招魂社。
あとは来た道を戻って駅、というコースだったことがわかります。
これは大正7年に廃止された馬車鉄道と同じルートです。
参考に馬鉄の路線図を示しておきます。



画像3・馬鉄の路線図(「旭川市街の今昔 街は生きている」より)


ちなみに第七師団の練兵場は、今の自衛隊が敷地として使っている場所です。
当時ここには建物は何もなく、今の春光地区にあたる練兵場の周りに師団司令部や各連隊等の施設がありました。



画像4・第七師団衛戍地全図(明治36年)


こちらは師団の当時の施設の配置を示した地図です。
師団長と旅団長の写真と旭川市の地図が載っている場所が練兵場です。
当時の第七師団は、大部分が一箇所に集中して配備されていた特殊な地方師団でした(仮想敵国であったロシアの南下に備えたためと思われます)。
その規模の大きさがよくわかります。

記事に戻りましょう。
桃色ショールの女が「ときわ橋のところ、遊郭の側までネ」と言っているのは、当時、中島遊郭の入り口である大門(おおもん)が今の常盤通にあったためです(これも牛朱別川の切替工事の前なので、そうした位置関係になります)。
「暢天」は旭川新聞のカメラマンでしょうか、小熊の相方です。
「暢」は「のんき」の「暢」ですから、「のんてん」とでも呼んだのでしょうか。
「神田館、旭ビル」の神田館は、4條通8丁目にあった活動写真館「第一神田館」のこと、旭ビルは同じく7丁目にあった4階建ての「旭ビルディング百貨店」のことです。
このうち「第一神田館」は、この記事が出た5か月後の大正14年6月、火災により焼失してしまいます。



画像5・多くの自動車が停まる駅前(昭和初期・絵葉書)


◆停車場の人々


続いては「円太郎」の発着場所でもあった旭川停車場、旭川駅のルポです。


 発車にまだかなりの間のある停車場の待合室は種々雑多な階級の人達で満たされてゐる愁(ゆ)つたりと腰掛けによつて敷島の煙りを輪に吹く男、斑(まだら)に塗つた白粉の顔を伏せて私しや売られて行くわいなといふ風な淋しげな表情をしてゐる年頃の田舎娘、涙と鼻水を一緒くたにすすりあげ俺が村でのハア自慢話をハア聞いて呉ろといふ格好で盛んに弁じ立てて居る近在のお百姓、御前さま如何とり計ひませうの堀江四郎の新派に出て来さうなだらりと着流しの八字髯(はちのじひげ)の色男、今にも公娼廃止の演説でもおつ始さうな七三髪の新婦人、きりりしやんと胸高に締た黒のはかまにラインの色も鮮かな女学生がトーダンスまがひの後高の靴を鳴らして音楽的リズムの容姿(しな)をつくつて歩むもあり、現在服装の縮図現代階級の鳥瞰図は停車場である(中略)正面入口に掛けられた「お忘れ物」の黒板に掲示の多くなるのもこれからである(中略)先づ多いのは莨(たばこ)入れ、風呂敷包み、弁当、蛇の目傘、信玄袋などで財布の忘れたのでは一銭銅貨三枚也から余程金の不要(いらない)人間もあると見えて百八十五円を三ヶ月になるがとりに来ないさうである(中略)女物のオペラバッグを調べて見るとあーら不思議や・・・秘めたる恋の文殻でぎつしり、係り員があてられること夥(おびただ)しいものもあるさうだ中には手荷物の預かり所へ荷物を持つて行つたが荷造りが不完全であつたり斤量が超過して居たりして係りが文句を言ふと思ふと故意に柳行李などを忘れて行き先から遺失届けをして駅に送らせるといふ横着者もあるさうだ(「浮世さまざま歳晩漫語・二十一」より・大正12年)



画像6・旭川停車場(大正10年頃)


待合室にいるそれぞれの人を、イメージしながら読むと楽しめます。
堀江四郎は新派の役者さんなんでしょうか。
さながら一人ひとりに物語でも浮かべながら考えたような小熊の人物描写、さすが詩人です。

旭川駅は、明治31年の開業。
小熊が取材した当時の駅舎は、大正2年に改築された2代目で、昭和35年に、民間資本も入れて建設された近代駅舎が完成するまで、長く旭川の玄関口として親しまれた。



画像7・駅構内から見た駅前広場(昭和初期・絵葉書)


◆活動写真館巡り


続いては、再び大正12年掲載の「浮世さまざま歳晩漫語」から活動写真館巡りの記事です。
活動写真とは初期の映画を指す言葉で、当時旭川には、北海道で2番目に早くできた常設館「第一神田館」をはじめ、数多くの活動写真館がありました。
 

 冬枯れの興行物はめつきりとの寂しさ、何程目玉の松ちやんが眼をむいてお立ち廻りをやつても栗島すみちやんが何程泣き笑ひしても矢張り師走は師走の寂れやう、この処年内はまづ座主館主が泣き笑いで暮れようといふ佐々木座を振り出しに、第一神田館の説明振りを傾聴しお次に美満寿(みます)館から錦座とざつと各館を一廻りして見たがどの館でもガラガラの有様僅(わずか)に錦座が例の「座布団代全廃」と古典劇テオドラで人気を呼び八分の入を見せて居るが「これも毎週の替り目にはこの通りお蔭さまの入ですが次ぎの週に真近くなればそれは惨めな客脚です」と館員がこぼしてゐた、かへつてぐつと押迫つた三十日や大晦日の夜は大入満員の珍現象を毎年見る、それは地獄絵を見るやうに追つ追はれつ赤鬼青鬼の走馬燈のやうな追撃戦に四苦八苦の御仁達が逃げ場を失つて押入の中に呼吸を凝らすのは第一蒸し暑くて時代遅れだそれよりも活動写真でも見ながら避難する方が文化的なやり方とさてこそ一家眷属引率して鬼共の鋭鋒をさけ一夜明くればお芽出度(めでた)い初春を待つといふ悧口な御連中で、賑わふ訳である(「浮世さまざま歳晩漫語・七」より・大正12年)
 

目玉の松ちゃんは、日本初の映画スターとされる尾上松之助ですね。
栗島すみちゃんはやはり初期の映画スターの一人、栗島すみ子です。
佐々木座は、開拓時代の顔役で博徒の親分だった佐々木源吾が明治33年に1条通6丁目に建てた旭川初の劇場です。
ここでは文楽や歌舞伎のほか、大正3〜4年には、島村抱月、松井須磨子の芸術座と、川上貞奴一座が相次いで公演しています。
この時代は活動写真も上演していたのですね。



画像8・佐々木座(明治35年・上川便覧)


第一神田館は、当時「神田館の大将」と呼ばれた佐藤市太郎が経営者です。
東京出身で、新天地札幌で始めた理髪店が成功、その後本拠地を支店のあった旭川に移すとともに、興業の世界に事業を広げ、最盛期には道内各地に10館もの活動写真館を持っていました。
「説明振り」とあるのは、活弁士の語りのことです。
活弁士は、単に「活弁」とか「弁士」と言ったり、「説明者」と言ったりすることもありました。



画像9・第一神田館(右の5層の建物・大正6〜7年・絵葉書)


美満寿館は、まず3〜4条の仲通7丁目に常設の活動写真館「二六館」として開業し、大正12年1月に名前を変えました。
この時代は松竹キネマの特約館で、同じく名前の出ている銀座の錦座とは姉妹館でした。
なお美満寿館のあった3〜4条仲通7丁目は、その後、次々と映画館が建ち並び、昭和に入ってシネマ小路とかキネマ街という名前で呼ばれました。



画像10・美満寿館前の賑わい(大正末・絵葉書)


数ある活動写真館の中でも客の入りがまずまずと紹介されている錦座ですが、前回、小熊が参加した演劇公演の所で紹介しましたね。
明治41年、大國座として創業、佐々木座と並ぶ旭川を代表する劇場です。
その後、大正9年に建物を新築し、錦座として開館します。
その杮落としの公演が、なんと当時の歌舞伎の大スターの共演でした。
この公演について、長く市史編纂に携わった北けんじさんはこう書いています。


 「帝劇歌舞伎合同・市川左団次・松本幸四郎大一座」という押し出しの良さである。左団次と幸四郎の顔合せは大正期に入ってこの年の三月、新富座で実現しているが、地方巡業では絶対あり得ないといわれていたが、座主岩見永次郎の在京1ヵ月に及ぶねばり腰で松竹会社と交渉の結果実現したのである。(「―旭川文芸百年史シリーズ⑥―旭川演劇百年史)より」


なお錦座は、この年10月に松竹と契約して松竹キネマの封切館にもなっています。
また9月の関東大震災で活動の場を失い、北海道に避難してきた東京の花形弁士を起用したことが市史に書かれています。
ちなみに小熊の記事に登場する「古典劇テオドラ」とは、1919年(大正8年)製作の歴史物のイタリア映画のことです。



画像11・銀座通りと錦座(右端の建物・絵葉書・昭和4年)


◆断髪ウエイトレスと芥川


ここまで、小熊の記事を街の変容ぶりを中心に見てきましたが、彼の眼差しは、もちろんそこで日々を営む人々にも注がれています。
ここからはそんな記事をいくつか紹介します。


 彼女の自慢とするところは「あたい」と「七歳から断髪してゐる」との二つである。彼女が師団道路角のカフェー・ヤマニに現れたのは、最近のことであるが、試みにモボの仲間入りをして、彼女を補へ「君は何時頃から断髪したんだ」と質問をすれば、彼女はトンと木履(ぽくり)で、床をならし、くるりと背を向けて、右肩をこころもち上げて、ニッコリ笑つて、クニャクニャと体をゆすぶつてから、「アタイ七つから断髪してゐるわ」と必ず答へるに違ひない。彼女の七歳の自慢はきのふ今日の駈出しの俄(にわか)モガとは、わけが違ふといふ意味の自慢である。
 この種の断髪ウェトレスが旭川にも滅切ふえてきて殊に支那料理店にはかならず姿を見せてゐるが、断髪の生命であるべき襟脚は毛むくぢやらで、ビューティスポットは地球の廻るやうに、頬のあちこちと転々流転し、今日は左の方にあるといふ新らしさ、二重眉の凄いところで、鮫の鰭(ひれ)のやうに、頬に垂れた毛をふりかぶつて、バレンチノを語り、恋愛を語り、芥川龍之介を語るといふ「ガリ」やう、しかし一面に新時代の先駆者である強い彼女達モダンガールにも、芥川ではないが「ぼんやりとした不安」があるのであらう。(「近代化された師団道路・其の五」より・昭和2年)



カフェーヤマニには、すでに触れていますね。
もともとは速田仁三郎が明治44年に創業した食堂で、大正12年にカフェーに転身、2代目店主で、「旭川一のモボ」、「ヤマニの兄貴」などと呼ばれた弘の才覚でたちまち人気店となります。
ヤマニは当時の文化人のたまり場の一つで、小熊は客としても頻繁に訪れています。
文章の終わりの方に芥川龍之介の名が登場しますが、この記事の書かれた半年前の大正12年5月、芥川は、有島武郎の弟でやはり小説家の里見弴とともに旭川を訪れています。
出版社が企画し、北海道各地を巡った文芸公演と映画上映のためで、旭川の会場は銀座通りの錦座でした。
実はこの講演会には小熊も姿を見せていたことが、詩人仲間の小池栄寿の手記に書かれています。


 五月十九日。改造社主催の文芸講演会が午後四時半から錦座で。「文芸の味ひ方」里見弴。「夏目先生」芥川龍之介。各三十分ずつ話して六時自動車で去り急行で退旭、会場で小熊さんに逢ふ。作家の生活の映画を見て二人で出て小熊さんの家へ。僕は果物を、氏はビール二本、ビール豆を途中で買ふ。身欠鰊をかじりつつメートルを上げる。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)



画像12・カフェーヤマニ(昭和5年頃)


なお芥川はこの講演旅行について、北海道の自然に・風土に感心しつつ、連日、講演で同じ話をすること、そして各地で同じような北海道料理のもてなしを受けることに閉口したと綴っています。


 講演にはもう食傷した。当面はもうやる気はない。北海道の風景は不思議にも感傷的に美しかつた。食ひものはどこへたどり着いてもホツキ貝ばかり出されるのに往生した。里見君は旭川でオムレツを食ひ。「オムレツと云ふものはうまいもんだなあ」としみじみ感心してゐただけでも大抵想像できるだらう。(「講演軍記)より・昭和2年)


実は、里見が旭川で「オムレツとはうまいものだ」と語ったと芥川が書いていることは、以前に聞いたことがありました。
なぜ東京住まいの里見が旭川でオムレツをうまいというのか、引っかかっていたのですが、この文章を見て納得が行きました。
ちなみに北海道講演の2か月後、この文章の発表の1か月後、芥川は「或旧友に送る手記」と題された文章を残して自殺します。
小熊が使っている「ぼんやりとした不安」は、芥川のこの遺稿にあり、死後、広く知られるようになった言葉です。



画像13・芥川龍之介


◆鎖断社現る


記事を続けましょう。
はっきりとした理由は分かりませんが、大正から昭和にかけての旭川は、左翼の活動、とりわけアナキストと呼ばれた無政府主義者のグループの活動が盛んでした。
その一つについて、小熊がこのように書いています。


 時の推移とともに、さまざまな経路の変つた職業の生まれてくるのは争はれない、これも時代が産んだ新職業のひとつであらう。この場合この仕事を職業化するのは考へものかもしれないが市内四条通六丁目角の女髪結の隣りに近頃「芸娼妓自由廃業紹介所」といふ眼新しい看板がかかげられた表の硝子戸にべたべたと「自由廃業をしたい芸娼妓諸君へ」といふ白赤の印刷物がはりつけられて通りすがりにひよいと硝子越に、ねそべつた若い男のすがたが見えたがいかにもプロ運動にふさわしいやうな所内の有様であつた。虐げられたる者達の繋がれたる鉄鎖を断つといふ意味から名づけられたものであらう「鎖断社(さだんしゃ)」といふのであるが、同人達の宣言では、この北海の地に無産階級の根底を築かうといふので、労働運動に社会運動に中央の同志と呼応して今後あらゆる方面に活躍しようといふのである、その第一歩として生温い一種の改造運動ではあるが金権の暴力に圧迫されて淫慾の犠牲となつてゐるあまたの弱き女性の解放に尽くしたいといふのがこの社の主張である。自由廃業をしたいと思ふ芸妓なり娼妓なりが申込めば、いろいろの注意やら商業届も書けず其の手続きが出来ない者に手続きもするし、届書も書いてやつて完全に自由廃業の目的を遂げさしてやるといふことである(中略)東京でこの種の自由廃業相談所ににたのをやつた者があるさうだが芸娼妓の自由廃業を教唆応援して女の雇い主が泣きついてきたときは雇主側から金をとつて生活をしてゐたさうであるが、これなどはプロ援護の美名に隠れてプロを喰ひ者にしてゐた憎むべき徒輩と言はれよう。こんど旭川に初声をあげた鎖断社などもともすればかうした誤解され易い立場にある仕事をやらなければならない訳だ。同社の前途を共鳴と祝福の意味から筆者ははるかに、真実の苦言を呈してをく。(「秋の夜長の無駄話」より・大正12年)


昭和41年に発刊された「北海道社会運動史」によりますと、鎖断社は、大正末から昭和始めにかけ、旭川、函館、小樽などで活動したアナキストのグループのことです。
「露天商などの商売をやりながら『籠の鳥』と称された遊郭の娼妓の自廃運動に主力を注ぎ、これを人身売買からの解放運動の手段としたから、各地の遊郭業者を震え上がらせたものである」(「北海道社会運動史」より)とありますが、当時のアナキストグループの多くが、時には恐喝まがいの手法で企業などから活動資金を得ることも少なくなったので、小熊が懸念したようなこともあり得たのではないかと想像します。


 旭川の鎖断社のアナキストの中心人物は大鐘参夫らであり、後に小樽で黒色青年同盟の運動を起した寺田格一郎や、昭和初期の旭粋会との乱斗事件や、不敬罪に問われて下獄した山下章二も、そのころソヴェートロシアから帰ってからアナ系運動に投じていった。露店商、香具師などを業とし、長髪の思想青年が多く、異行の徒の集団であった。(「北海道社会運動史(渡辺惣蔵著)」より)


旭川のアナキストグループについては、いろいろご紹介したいことがありますが、今回は趣旨が違いますので、いずれ別稿でまとめたいと思っています。



画像14・旭川中島遊郭の妓楼


◆北修とヌードデッサン会


最後は大正12年の「当世職業苦楽」という連載記事です。
旭川のいろいろな職業人を紹介する企画ですが、小熊はその中に友人でもある画家の高橋北修を登場させています。
2人は、大正12年、東京で絵の修行をしていた北修が、関東大震災にあって旭川に帰郷した直後に知り合い、その後、小熊の第1回の上京に北修が同行するなどしました。


 漆黒の長髪をだらりとビロードのルパシカに瀟洒なズボンをはいて清々しい初夏の草地に専念に絵筆をとる画家・・・これを通称芸術家といひ、またの名を夢を喰つて生きてゐる徒食者ともいふ。こんなことを言つては所謂芸術家連に抗議を申し込まれさうな暴言に聞えるが全くのところ芸術家は何程夢を喰つても喰ひ足りないといふ恐ろしく喰ひ意地の張つた職業でそれだけに職業として面白味も深みも多分な生活をおくることが出来るは事実である、が一面潜まれたる悲哀に絶えず襲はれて難行苦行にあたら一生を徒食に終るのが多いらしい、星よ菫(すみれ)よの青春の憧れの頃はともすればこの芸術憧憬から前途を誤る青年も少くない、当市赤耀社(せきようしゃ)同人である洋画家高橋北修君は矢張り前途に輝かしい芸術の理想を描きながら上京したのは十九歳の時であつたといふ。ルパシカに長髪の仏蘭西型の洋画家とは似ても似つかぬ武骨ぶりの野人とまでニックネームのある北修君のドラ声で語るところに依るとかうだ。芸術家の一番苦しいことは作品を完成するまでの精進で同時にこの苦しみが又最も愉快なことである相な。また「物質」云ひ替へれば金の問題も相当に根強く洋画家を威嚇する一(ひ)とつであつて俗受けのするやうな作品を出すとパンの方は安定するが収まらないのは自己の芸術的良心で仲間からもてんで顧みられなくなり、さりとて芸術方面ばかりねらつてゐると民衆の妥協点が次第に遠ざかり随つて食はないで居なければならず、「その呼吸がなかなか面倒ですよ、この両方の中間を上手に縫つて行く者が社会的に成功してゐる訳ですよ」と語ってゐた。(「当世職業苦楽 九 洋画家の巻」より・大正12年)


小熊本人こそ、芸術家そのもののような人なのですが、ここはあくまで記者のスタンスで書いているということでしょうか。
ルパシカは当時の画家や、舞台人などがよく着ていたロシアの男性用上着です。
赤耀社は、北修が小熊らと結成した美術研究会で、大正12年、旭川で初めてのヌードデッサン会を企画したことで知られています。



画像15 ・高橋北修


このヌードデッサン会について、小熊はその体験をもとに短編小説を書き、昭和2年、旭川新聞で発表しています。


 画家達は、彼女がまだ着物を脱ぎもしないうちから、もうすでに感激し興奮してゐた。
 ――芸術のために、我々の芸術のために彼女が裸体になつてくれるのだ。
 なんといふ彼女は大きな理解をもつてゐるのだらう。
 新らしい油絵具も買つてきた。
 新らしく画布も張つた。
 すべての準備はととのつた。画家達は、お麗さんの麗しい姿を、感謝の気持ちで迎へるばかりとなつた。
 第一日目の日。
 彼女が最初のモデル台に立つ日。
 私の仲間が九人、研究室のストーブを破れる程に、石炭を燻べて室を温め、画架を林のやうに立て彼女の出来(しゅつらい)を待つてゐた。
 彼女はなかなか研究室に姿を見せなかつた。
 ――女は怖気がついたのさ。
 私がかう言ふと、仲間の一人は打消した。
 ――私は信じよう、お麗さんは芸術の理解者なんだ、待ちぼうけを喰はずやうなことはないよ。(中略)
 ――おい諸君。お麗さんは風呂に入ってゐたよ。
 頓狂な声をあげて、蘭沢が飛込んできた。
 仲間は小さな歓声をあげた。(中略)
 お麗さんは私達を一時間もまたした。
 蘭沢が女湯を覗きに行つてみると、お麗さんが姿見の前で両肌をぬいで白粉をぬつてゐたといふ。
 ――困つたことが出来たよ。念入りに厚く塗つてゐるんではないか。モデルが白粉をぬるなんて、肉体の美観をだいなしにしてしまふ。お麗さんがきたら、この次から白粉を付けないやうに注意してくれ給へな。(中略)
 ――遅くなつてすみませんでした。
 彼女は優しかつた。彼女の顔は果して美しく化粧されてゐた。
 私の思つてゐたやうに、彼女は果して裸体になることを怖れた。
 ――着物を着たままで、写生して下さいな。
 ――それは困ります実に困ります。
 私達は声を合し彼女に嘆願した。
 ――ぢゃ半身だけね。腰から上だけ脱ぎませう。妾(わたし)こんなことはじめてなんですもの。
 ――それは困ります実に困ります。
 私達は声を合し彼女に嘆願した。
 ――では思い切つてね、すつかり脱いでしまいませう。最初は後を向かして下さいな、わたし恥づかしいんですもの。
 ――それは困ります実に困ります。
 私達は声を合し彼女に嘆願した。
 彼女はカーテンの蔭で衣服をぬいだ。
 ――それストーブをどんどん燃やせ。
 蘭沢は、大きな声で誰かに命令した。女が素っ裸で姿態(しな)をつくるのはなかなか難しいものらしい、お麗さんは滑稽な感じに全身をくねらしてモデル台の上に現れた。(小熊秀雄作「裸婦」より・昭和2年)



「――それは困ります実に困ります。私達は声を合し彼女に嘆願した」の3連発に笑わされます。
どこまで事実に沿って書いているか、どこまで想像なのかは分かりませんが、何せ大正時代の、旭川では初めてのこと、実際にこんなやりとりが交わされていたのかもしれません。



画像16・北修の裸婦デッサン


このようにおおらかだった時代だからこその、ちょっと滑稽で、ちょっと無謀で、でも前向きなエネルギーに満ちたエピソードが、今回紹介した大正から昭和始めにかけての旭川(ワタクシはゴールデンエイジと呼んでいます)にはたくさんありますので、また紹介できればと思います。
なお今回ご紹介した小熊の記事や小説は、すべて創樹社刊の「小熊秀雄全集」に掲載されています。
全文を読みたい方は、図書館などで見ていただけると幸いです。




画像17・美術展会場での北修(後列左)と小熊(後列右から2番目)







小熊秀雄が書いた旭川・その1

2020-04-10 17:00:00 | 郷土史エピソード


詩人、小熊秀雄は、大正末から昭和初めにかけての旭川時代、地元新聞社の記者でした。
記者としての小熊は、文芸欄の担当とともに社会部系の取材も精力的に行っていました。
その社会部系の取材では、サツ回り=事件取材などとともに、いわゆる街ネタ=地域の話題を集めることが欠かせません。
小熊もそうした街ネタを数多く誌面に掲載しています。
今回は、2回に渡り、そうした小熊の記事を通して当時の旭川の様子を見ていきたいと思います。
1回目の今回は、当時のメインストリートだった駅前師団道路の姿です。


                   **********


◆小熊秀雄とは



画像1・小熊秀雄


まず小熊秀雄について、簡単におさらいです。
小熊は、明治34年、小樽市生まれ。
3歳で母親と死別し、その後、東北、北海道、樺太を渡り歩きました。
このうち樺太では、高等小学校を卒業後、漁師の下働き、農夫、職工、伐採人夫などの職を転々とします。
この過酷な経験が、常に虐げられた民衆の側に立つ後の創作姿勢を養ったと思います。
旭川に来たのは、大正10年、20歳の時です。
小熊は中央で名をなすという思いが強く、昭和3年には、旭川で結婚した妻、つね子、そして一人息子、焔(ほのお)を伴って3度目の上京を企て、ついに池袋周辺に定着します。
その後、新鋭詩人としての地位を確立しますが、戦時色が強まって発表の場が狭まる中、赤貧のうちに39歳の若さで病死します。
このように東京進出後の小熊の境遇は熾烈なものでしたが、旭川では新聞記者としての仕事が経済的な安定を支え、文芸はもとより、演劇や美術などさまざまな分野で多くの人々と交わり、生き生きと地域の文化活動を牽引しました。



画像2・当時の旭川新聞社


そんな小熊が記事の中で描いた当時の旭川。
ちょうど小熊が旭川新聞で働き始めた大正11年は、旭川に市政が施行された年です。
この時期の様子について、小熊はある文章の中で、「旭川という土地が持つ特殊な情熱的な青年的な雰囲気・・・」(「北海道時代の今野大力―弱い子よ、書けずにいた子よー」より)と書いています。
上川に旭川、神居、永山の3村が設置されてから30年余り。
足元もおぼつかなかった開拓期をとは違い、いわば青年期に入った旭川は、小熊が書いたように、土地自体が若々しいエネルギーに満ち溢れていたのでしょう。

それではそんな旭川を象徴する師団道路の様子から見ていきましょう。
なお小熊の記事については、句読点や漢字の使い方など読みにくいところがありますが、そのままの形で引用します。


◆師団道路の近代化



画像3・師団道路(昭和2年・「写真集旭川」)


師団道路は、旭川駅前と第七師団司令部を結ぶ戦前の旭川のメインストリートです。
大正に入ると、師団通という呼び方も始まり、銀ブラ=東京銀座でブラブラ、にあやかって、師団道路(師団通)でブラブラ=団ブラという言葉も生まれました。
昭和2年11月、小熊は「伝兵衛」という名前(記者=伝える人、という意味でしょうか、他に「黒珊瑚」、「縞馬太郎」などの名の署名記事もあります)で、「近代化された師団道路」という連載記事を掲載しています。


 アスファルト舗道は、旭川が先鞭の自慢のひとつ、あの工事は冬場は保(も)つまいといふ心配も、流石に毛唐人の新技術でパンパンだ。函館、札幌、その他の都市が垂涎ものの一つである、高層建築はどんどん殖(ふ)へるし、赤い屋根の家も多くなったし、誠に結構な近代化で御座る。
 四条師団道路の床屋の屋根には構成派の画看板があがるというモダーンぶり。「あなた、大変りつぱアル私クニロシアの都にソックリある」とは北海ホテルに投宿したソビエートロシアの老船長さんが記者に語った言葉で、満ざらお愛そ許りでもないらしい。(「近代化された師団道路・其の四」より・昭和2年)



ロシア人のはずなのに、何故かかつてよく使われた〝中国人なまり〟で表現されているところがご愛敬。
小熊がここでルポしている師団道路の舗装化は、大正14年に宮下〜2条間で始まり、次いで4条までが大正15年に完了しています。
また6条までの舗装化が行われたのは、昭和2年とされています。
それにしても、小熊が書いているように、旭川の道路の舗装化が北海道で最も早かったとすればたいしたものです。
では舗装化の前と後では、通りの様子はどのように変わったでしょうか。



画像4・舗装化前の師団道路(絵葉書・明治43〜44年頃)


画像4は舗装化の前、明治末の師団道路です。
右端の大きな看板を掲げているのは、明治34年創業の秋野薬局(3条通8丁目)です(看板について詳しく知りたい方は、このブログの記事「『胃活』の広告」をご覧ください)。
師団道路を走っているのは、明治39年に運行が始まった馬車鉄道=馬鉄です。
雨上がりなのでしょうか、軌道の脇は道路の土が泥状になっていて、馬車などの轍ができているのがわかります。
軌道の中には水たまりもできています。



画像5・舗装化前の師団道路(絵葉書・大正8年か)


画像5は、少し4条側に寄った場所を写した手彩色の絵葉書です。
大正も後期ですが、道路の色は茶色!まだ舗装はされていません。
前の絵葉書との違いは、馬鉄の軌道が撤去され、初期のフォード型の自動車が走っていることです。
ただ通りには軌道のあった痕跡がはっきり残っています。
なので、軌道が撤去された大正8年の撮影と思われます。



画像6・舗装された師団道路(大正末〜昭和3年)


さあいよいよ舗装化の後の画像です。
3条から4条にかけての師団道路を写した絵葉書です。
白黒で分かりづらいのですが、歩道と車道(と言ってもまだ車が少ないので、通りの真ん中を歩いている人もたくさんいます)の間に段差が設けられ、縁石も置かれています!
凹凸があって水たまりもできているようですが、道の中央から歩道側に傾斜がつけられていて、それに沿って雨水が流れた跡があります。
自転車や大八車などの走行もかなり楽になったのではないでしょうか。
小熊は同じ連載でこう書いています。


 こないだ師団道路を人力(=人力車のこと)を走らせながら車上から車屋さんに声をかけてみる「かう道路は平坦になっては車屋さんも足溜りがなくて引ぱりにくいだらうね」と同情するとそれは考へすぎた素人考へであつた。矢張りアスファルトになつてからは労力半減。スベスベした舗道を駆る楽(たのし)さはないといふ、ところで一方あの舗道ができてから妙な病気がチョイチョイ流行る、最も東京では丸ビル病といふ近代病が流行つたことがあつた、あれは丸ビルのモガ、モボ連が脚が奇妙にダルクなつて来る病気で脚気の一種だらうと騒いだものだが昇降機であがつたりをりたり終日勤務にコンクリートの中に住み土も踏むことが少いのだからそんな病気にも罹るだらう。ところが旭川のモダーン病は師団道路を歩くと嘔吐気(はきけ)を催すといふ、そこで記者はお医者気取で親しく患者の症状を聴き研究するに、旭川も急に舗道が新装されてはこんな患者が出るのも少しも不思議はない、病気の原因はやはりアスファルト舗道で嘔吐気をするのは眩暈(めまい)がするからで、舗道面が白いのと前方を見れば斜面をのぼって行くやうな錯覚を生ずるからで、そんな田舎臭い病気を卒業しなければ近代人の資格がない。(「近代化された師団道路・其の一」より・昭和2年)


アスファルト舗装のせいで吐き気を催すということも驚きですが、記者が勝手に原因を決めてつけてしまうことにもびっくりです。

舗装に関してはもう一枚、工事の様子がわかる写真がありますので紹介します。



画像7・師団道路の4条以北(昭和2年・旭川市博物館蔵)


これは、画像6で中央やや左に見えていた旭ビルディング百貨店から北方向を写した画像です。
通りの中央部と歩道だけ舗装され、その間は土が剥き出しになっているように見えます。
ということで、おそらくは舗装工事の最中なのでしょう。
7条付近では、作業らしき人影も見えます。
この後、昭和4年からは通りの名物となる「すずらん街灯」も設置され、師団道路は急速に生まれ変わっていきます。

さらに小熊の記事を続けましょう。
師団道路は、舗装化で便利になった反面、危険も増したようです。


 このあひだのこと、旭川でも都会なみのラッシュアワーから、危ふくお婆さんが煎餅になるところであつたのを、記者が目撃した。場所は四条師団通で凄かった、あとから自転車に突つ掛けられて、前へのめつた所を円太郎で轢かれたのだから、今流行の用語をつかへば「三角関係」といふのだろうがずいぶん痛い三角関係もあつたものだ。(「近代化された師団道路・其の二」より・昭和2年)


「円太郎」という言葉が出ていますが、これは大正13年に始まった乗合自動車のことです。
市が買い入れた10台の車を民間に貸し出す形でスタートし、多くの市民に利用されました。
「円太郎」については、小熊が同乗記を残していますが、これは次回紹介したいと思います。
なおこれより前、旭川では、大正5年に実業家の槇荘次郎がフォード型の自動車を2台購入、「弁慶号」、「義経号」と名付けて旭川初の乗合自動車の営業を始めています。



画像8・槇荘次郎の乗合自動車(大正6年・「旭川市街の今昔 街は生きている」)



ただ翌年6月、このうちの「弁慶号」が師団道路で死亡事故を起こしてしまい、廃業を余儀なくされます。
この事故、旭川で初めての車による死亡事故で、犠牲者は自転車の男性でした。
大正7年に馬鉄が廃止されてから、旭川では乗合の馬車や馬そり、それに人力車が今でいう公共交通機関でした。
そこに現れた近代化の象徴、乗合自動車。
しかし昭和4年から相次いだ各電車路線の開通で、自動車の利用は個人や会社単位のものに急速に変わっていきます。


◆賑わう師団道路


続いては、賑やかさを増した師団道路界隈の商売についてです。
まずは、往来の様子を小熊が生き生きと描写しています。


 旭川の盛り場師団道路の師走気分は慌ただしく押迫つて大道香具師のかな切り声でなかなか賑やかだ、口髭で威厳を見せた法律屋さんやら蟇口(がまぐち)屋さんにメリヤス屋さんに何時も元気のあるのは瀬戸物屋の糴売(せりうり)、十七八の子が傍の石油箱をパッチンバッチン叩きつけてガラガラと小丼(こどんぶり)を一組前にならべるサアこのこの小丼がこれだけで一円二十銭だ、一円にまけてやる、八十銭から六十銭だ、これでも買ひくさらないか(中略)
 こんな良い茶碗でも揃へて置いてをけいちいち外国のチリメンに包んである。これは金縁の金かけ金にも色々ある、メッキ、陰キン、借金、疝キンそんな金と金が違ふ金は純金だ、之はいちいち筆でもつて書いたのだ書いたのだ書いた書いたにも色々ある皮癬(せん)かいた、梅毒(かさ)かいた、恥かいた、そんな書いたと違ふ誰が書いたと言ふたら狩野法眼に吃の又平左甚五郎に瀬戸物屋さんと四人相談づくて製(こしら)へたのだ、団子や牡丹餅は手掴みでも喰へるが、お茶椀許りは手掴みで喰へない、こんな奴の一揃へでも揃へて置け(中略)
今日はこつちの方にお客さんがあつて、こつちの方にないこつちの方は貧乏人許りの集合だろ、そう言はれて口惜しかつたら買つてみろ。
 いやそのしゃべるのに早いのと言ったら眼が廻りさう、うつかり田舎から出てきた人なら卒倒しそうな皮肉と諧謔をまぢへた大雄弁のこの瀬戸物屋さんは毎日少い日で十五円多い日で二十五六円の売揚げがあるさうだ兎に角歳晩の師団道路気忙しい気分に満たされてゐる。(「浮世さまざま歳晩漫語・九」より・大正12年)



香具師は、小熊が書き取っているように、巧みな口上で往来の客の注意を寄せて物を売る、芸人と商売人をミックスさせたような人々です。
当時の師団道路では見かけることが珍しくなかったようで、話術に引きつけられた人々が数え切れないほど群がっているのが写った絵葉書もあります。



画像9・4条師団道路十字街付近(大正8年か・絵葉書)


ちなみに人々が集まっている奥の建物、サッポロビールの看板が出ているのは旭川のカフェーの名点の一つ、カフェーヤマニ。
4条本通りを挟んで向かいに見えているのは辻薬局です。



画像10(画像9を拡大)


それにしてもすごい人だかり!何を売っていたか、知りたくなりますね。
もう一枚、同じ場所で、様子がわかりやすい絵葉書もあったので紹介しておきましょう。



画像11 ・4条師団道路十字街付近(大正9〜10年か・絵葉書)


ヤマニの奥に、大正9年5月開業の北海屋ホテル旭川支店の建物が見えていますので、それ以降の撮影なのは確かです。
そのホテルとヤマニの間の路上に、画像8ほどではありませんが人だかりが出来ています。
おそらく香具師が商売をしていると思われます。
また師団道路を挟んでヤマニの向かい、7丁目にあるのは呉服店ですが、その脇では植木を売っているようです。
このように当時は香具師だけでなく、多くの人が路上で物を売っていました。



画像12・3条本通りの様子(昭和5年・絵葉書)


画像12は、3条師団道路から東方向を写しています。
左端の薬局は画像4で紹介した秋野薬局、その向かい右の建物は旭屋書店(のちの富貴堂書店)です(奥には画像2で紹介した旭川新聞社も見えています)。
その2店の前あたりに露店が出ています。
売っているのは野菜でしょうか(大きいのはスイカ?)。
しかも場所は車道!交通量がまだ少なかった時代ならではの光景です。

一方、師団道路に軒を並べる各店舗も、それ以前とは様変わりしていたようです。


 師団道路の近来のモダーン化は素晴らしいもの、どんどんと家並みが改築され、出来上つたその商家をみるとどこかしら新時代の建築様式を取り入れてゐる、飾窓や商品のならべかたも垢ぬけがしてきたし、だい一お店の小僧さんの服装からして時代が違ふといふ感じだ。小僧さんといへば昔から小倉帯に紺前垂とタイプがきまってゐた。角火鉢にしがみついて両腕をアメマスの腹のやうな斑点の火形をこしらへて手なぐさみにソロバンを縦にもつて指でパチパチならして客を待つてゐたのが、近頃はどうだらう、俳優竹内良一の扮するモダーンボーイが公爵令嬢にオッ惚てゴルフ場に出かけてゆくといつた格好例の大柄の華美なシャツを着てズボン履き、お客も店員も世の中が自由主義になつてきてゐるので「いいのがあつたらお買いなさい」といつたツンとすましやうだ。(「近代化された師団道路・其の一」より・昭和2年)



画像13・2条師団道路の街並み(昭和2年・絵葉書)


飾窓はショーウィンドーのことでしょうか。
さらにこの時代、小売業で先端を走っていた店について、小熊が書いています(彼が関わった演劇公演についてもさりげなく触れています)。


 夫婦連れの団ブラは今では珍しいものではない、しかしこれも僅か数年この方めっきり殖(ふ)へたのでさう眼だたなくなつたが、ご夫婦連の走りは、鈴木弁護士のご夫婦だといふ噂もあるがどうか・・・鈴木の奥様は頬ペタにトカゲを画いたり素足に靴下の模様を書いたりする軽薄極まるモガではなく、所謂真実聡明なモガだといふ噂もっぱら、錦座で新劇「人形の家」の大舞台に立つた経験もあり、さてこそ夫婦連れ散歩の型を創始したといふ、また錦座の芝居でモダンガール劇「人形の家」の主役ノラに扮した井合歯科医院夫人が洋装の魁(さきがけ)といふ噂もある、近来激増した夫婦連れをねらつてゐるのが丸井呉服店楼上の食堂、ここでは泥酔禁止で汁粉や飯物ばかりより出さない、天丼を喰つて酔つぱらふ者もなからうから子供連れのご夫婦には安全、また飾窓の新柄に動かぬワイフをここに引ずり込んで汁粉一杯で亭主がごまかせるといふもの、みなこれ近代的商法のひとつなり。(「近代化された師団道路・其の四」より・昭和2年)


団ブラ!使われていますねー。
でもこの時代までは、夫婦連れで通りを歩く人はあまりいなかったんですね。
そのような近代的な〝行い〟の先導者として紹介されているのが、小熊も参加した演劇公演の参加者3人です。
この公演、詳しくはこのブログの記事「大正12年の素人劇団」を見ていただきたいのですが、大正12年7月、市民有志が集まり、3条通15丁目にあった劇場「錦座」で「人形の家」など3作品を上演したという、いわば市民劇の走りです。
小熊に紹介されている鈴木夫妻とは、旭川に判事として赴任したのち、退職して弁護士として開業した鈴木重一と妻の嘉代子、井合夫人とはアメリカの大学で学んだ経験もある歯科医師、井合関三の妻、萩子です。
小熊の書いた通り、「人形の家」(イプセン作)では、井合萩子が主人公のノラを、ノラの友人リンデ夫人を鈴木嘉代子が演じました。
ちなみ、同時に上演された「ヴェニスの商人」(シェークスピア作)では、高利貸しのシャイロックに金を借りる貿易商、アントーニオを小熊が、美貌の貴婦人ポーシャを井合萩子が演じています。



画像14 ・旭川文化協会公演「人形の家」の舞台


画像15 ・参加者の集合写真(「ヴェニスの商人」の出演者は扮装姿)



画像15 の集合写真の上段左から3番目の女性(胸に十字架が見える)が井合萩子、1人おいて和服の女性が鈴木嘉代子、さらに1人おいてやはり胸に十字架が見える男性が小熊です。
公演では重要な役を担った2人の女性、どんな人なのかと思っていましたが、時代の先端をゆくモガの代表格だったのですね、納得が行きました。

師団道路に話を戻しましょう。
小熊が食堂について紹介している1条通7丁目の丸井今井。
呉服店と書いてありますが、大正11年には3階建てに改装、旭川初のデパート、丸井今井百貨店旭川支店として新装開店しています。



画像16・丸井今井百貨店旭川支店(昭和3年・「写真集旭川」)


さて食堂といえば、師団道路には3〜4条を中心に人気の食堂がありました。
先に紹介した4条8丁目角のカフェーヤマニも前身はヤマニ食堂という料理屋でしたし、その斜め向かいの7丁目角には食堂三日月、3条7丁目角には金子寿(かねこことぶき)という、やはり当時の旭川を代表する食堂がありました。



画像17・4条師団道路付近(絵葉書・昭和4年)


右端の建物が三日月です。
看板に「電気鍋」とあるのは、すき焼き用の電気コンロを指しています。



画像18・3条通(絵葉書・昭和4年)


こちらは3条本通を東方向に撮影しています。
画面下3分の1位のところを横切っているのが師団道路です(舗装されているので3条通りより白っぽく見えます)。
左端の大ぶりな看板のあるのが、金子寿です。
「寿司」「うなぎ」「小町茶屋」などの文字が確認できます。

さて最後は、再び小熊による大正12年師走の師団道路の描写です。


 からりと腫れ渡つた冬の日の午後・・・からからと乾からびた太陽の光が頬ぺたを自暴(やけ)に冷たく撫で廻す寒さの中に慌ただしい歳末の気分に追はれて
師団道路を歩む人達の足取りも最大急行だ(中略)
 ずらりと並んだ各商店ではお隣りに負けまいと万国旗を張る蓄音器の鳴り物入りで囃し立てる「何々大売出し」「何々大廉売」と目立つやうに引き立つやうに死物狂ひで大競争の態である師団の兵隊さんが通る。左り褄(つま)をちいと持ちあげて赤い蹴出(けだ)しをチラつかせた年増芸者がこんなに明るいのにお座敷と見えて梅林の方に小走りにゆく「チェッ忌々しいや」ととんだところで憤慨してゆきすぎる。(中略)
 各書店前の立看板のトランプ、カルタ、花札、百人一首などの文字や愛嬌者(もの)の鼠の絵葉書も妙に歳晩気分をそそつてゐる。丸九の洋品店の化粧部に素的(すてき)な別嬪さんが四人専念に品定めの真最中だ。「これの方が乗りが可いワ」「それよりこつちの方を妾(わたし)使つてるワ」となかなかよく饒舌(しゃべ)る。何分にも売り物の娘さん達のこと飾り物の奥様のこと精々おめかしをやるべし。やるべしと。御励奨申し上げてハクションとひとつ咳をして歩きだす。兎に角あますところ今年も二週間の歳晩の師団道路に賑やかな事だ。(「浮世さまざま歳晩漫語・十三」より・大正12年)



ネズミの絵葉書云々というのは、この記事が出た翌年が子年(ねずみどし)だからと思われます。
梅林は、4条通8丁目にあった料亭です。
後半の化粧品売り場の女性たちの記述は、今なら〝炎上〟間違いなしといったところでしょうか。
ただ様々な人が繰り出し、活気を見せる通りの様子はよく伝わってきます。
小熊といえば、普段はやはり彼の生み出した「詩」に接する機会が多いのですが、こうしたくだけた散文には、独特のユーモアを感じさせる一面を見ることができ、興味が尽きません。

「小熊秀雄が書いた旭川」、次回は乗合自動車「円太郎」の同乗記や、活動写真館巡りなどの記事を紹介します。




画像19・賑わう師団道路(絵葉書・大正末)





牧水来訪・手記に見るそれぞれの思い

2020-04-01 14:00:00 | 郷土史エピソード


久しぶりのブログの更新です。
今回、取り上げるのは大正の末年、15年10月の、歌人、若山牧水の旭川来訪です。
牧水の来訪については、このブログでも幾度か書いていますが、今回はそこに関わった3人が、どのような思いを持ったのか、それぞれが書き残した文章から見ていきたいと思います。


                   **********



若山牧水


まずは牧水について。
言わずと知れた国民歌人ですよね。


  幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

  白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ


この2つの代表作。
牧水についてよく知らないという人でも、なんとなくそらんじることができるという方がいるのではないでしょうか。
牧水は宮崎県生まれで、早稲田大学に進学、23歳で第一歌集を出しました。
酒と旅を愛する歌人として知られ、43歳の若さで亡くなるまで、8000以上の歌を詠んだとされています。



石川啄木


北原白秋



牧水は、同じく国民歌人の石川啄木の友人で、その臨終に立ち会ったことでも知られています。
さらに早稲田時代には、詩・短歌・童謡などに優れた作品を残し「詩聖」と称された北原白秋と同期で、一時は同じ下宿に住んでいました(もちろん啄木と白秋も、同じ歌人として親交がありました)。
ちなみにこの3人、明治〜大正期にいずれも旭川を訪れています。

話が横道に逸れましたね。
牧水の話です。



齋藤瀏


すでに歌人として名前が知られていた牧水が旭川を訪れたのは、大正15年10月のことです。
出迎えたのは、当時、旭川にあった陸軍第七師団の参謀長を務めていた齋藤瀏(りゅう)でした。
人気歌人と軍人、どんな関係があったのか。
実は、瀏は佐々木信綱門下の歌人でもあり、牧水とはわずかですが、東京で面識がありました。
この年の8月、牧水が瀏に宛てた手紙です。


拝啓 先づ斯く突然お驚かし申します失礼を深くお詫び申します。実はおもひがけなきことにて或るお願ひごとを申し上ぐるのであります。今回或る必要に迫られ御地方に於て小生の揮毫品頒布会を催ほすことに相成りました。ところが小生はいまだ北海道を知らず親しく顔を合わせたといふ知人とても一人もありません。ただ僅かに歌の道に携はって居らるる人々をたよってこのことを行はうといふのであります。誠に突然にてあつかましきお願ですからこの無理なる企てに対し御援助下さいませんか。(中略)この催しはまことに苦しき催しにて考へても苦痛ですが、北海道に参りますこととあなたへお目にかかりますことは少なからぬ楽しみであるのです。(中略)たいへん失礼ですが右勝手なるお願のみ申上げました。  
八月八日                          若山牧水
齋藤 瀏 様

(若山牧水全集第12巻収録・「書簡 大正15年・昭和元年」)

 

当時、牧水は歌誌「詩歌時代」を創刊したものの資金難で廃刊となり、借金も抱えていました。
このため歌人仲間を頼って揮毫した色紙や短冊などを売る資金集めの旅行を考えたようです。
別の日の劉への便りにはこうあります。


 揮毫会は、実は一昨年、自分の住みます家を作りますために始め、昨年一杯でどうやらその目的だけは達したのでございました。ところが今年早々から運動を起し、五月に創刊しました「詩歌時代」が非常なる失敗にて負債だけにても数千円に上り「創作」(=明治44年に牧水が創刊した雑誌)の発行にもさしつかうる様な有様になって参りました。種々考へました末、「詩歌時代」をば残念ながら十月号までに廃刊し、その負債返済の一法として、もうこそやらないと思うてゐました揮毫行脚をもう一度企つることになったのです。心当たりの土地をばこの前の時に済ましてゐますので、今度はその目的地を北海道に選びました。

(若山牧水全集第12巻収録・「書簡 大正15年・昭和元年」)




旭川停車場


北海道への旅は、9月下旬から11月下旬までの2か月に及んでいます。
9月21日、上野を発って列車で北上。
青函連絡船に乗り換え、函館に着いたのが9月24日。
その日の夜に札幌に入り、札幌、岩見沢で揮毫会や講演会を開いて旭川に着いたのが10月2日です。
瀏は、旭川では自分の住む官舎に泊まるよう勧めていました。
それに応え、札幌滞在中の牧水が送ってきた手紙について、瀏は「手紙には次のことが認めてあった。是が私に気に入って牧水がなほなほ好きになった」として、その内容を紹介しています。


 なをお言葉に甘え御宅に御厄介になりましてもよろしうございませうか。甚だ厄介なる人間でございますが酒を毎日一升平均いただきます。これは朝大きな徳利のまま小生の側にいただきおきこれを適宣に一日中に配分して頂戴致します。おさかなは香の物かトマト(生のまま塩にてたべます)がありますれば充分でございます。食事の時もたいていさうしたもので結構でございます。可笑しうございますが右申しあげておきます。

 牧水の面目の躍如たるを覚えた。私はなつかしい思で牧水の来旭を待った。

(齋藤瀏「悪童記」より)




第七師団司令部


参謀長官舎での牧水(前列中央)と喜志子(その左)、齋藤瀏(その右)、キク(後列左)、史(後列右)



旭川に着いた翌朝は日曜日。
瀏は、妻のキク、一人娘の史とともに、牧水を散歩に誘います。
牧水に同行している喜志子夫人を加えた5人が向かったのは、官舎に近い春光台でした(当時、齋藤一家が住んでいた参謀長官舎は、今の春光6条4丁目辺りと思われます)。
この3日朝の散策については、のちに史がこう書き残しています。


 わずかの時間を得て、私たちは散歩に出た。官舎町のつづきの、春光台と呼ぶ丘。一日ずつ秋の深まる北海道の、白いすすきの中の道を、例の裾をはしょった牧水と和服の父を先に、喜志子夫人と母と私。片手の上に、紫の山ぶどうと、拾ったどんぐりをのせて、牧水は歩きながら朗詠い出した。若い日の友人、その死の床を見守った石川啄木の「ふるさとの山に向かいて言うことなしー」という歌であった。足元に見つけた一本のきのこを、夫人の掌に載せると、「何というきのこ?」「ぼりぼり、といいます」。その素朴な名前に、私たちは声を合わせて笑った。

(齋藤史「遠景近景」より)




瀏と史


同じ朝についての牧水の回想です。


 五人は柏の林のなかへ随分と深く入っていった。一帯に平らかだが、ところどころにおほらかな窪地があった。其所には柏の代りに種々の潅木が茂り、白膠木(ぬるで)の紅葉が美しかった。それにもまして眼にたつのは、野葡萄の紅葉であった。野葡萄の葉といっても、まず団扇(うちわ)に似た広さを持ってゐるのである。或る窪地からひょっこりと一人の老婆が籠を負うて這い出てきた。見れば野葡萄の黒紫のみずみずしいのを入れている。十銭銀貨を出して所望すると、五人の手に分けてなお余る程であった。
 野は一帯に霜どけの湿りを帯びていた。そして柏の枯れ葉が落ち散り、落葉の間には、どん栗の愛らしいのが散ってゐた。どんぐりの落つる音は、われらが歩いてゐる間にも断えず聞こえてゐた。落葉の上にも落ち、熊笹のうへにも落ちた。すべてがいかにも静かなので、お互ひにあまりものも言わず、ただむきむきにひっそりと歩いてゐた。ひとつは道のわるいせゐもあった。その間にお嬢さんの史子さんがお父さん似の身体をいかにもしなやかにしこなしてぬかるみを避けながら、落葉や枯草の間をぴょいぴょいぴょいぴょいと跳んで歩かるる姿が何とも言へず優しく美しかった。

  枯野原霜どけみちを行く時し君が手のふり美しきかな 

(若山牧水「北海道行脚日記」より)




史が通った北鎮小学校


牧水が史子と呼んでいるのは、瀏が時折そうした呼び方をしていたからと思われます(もともと瀏は「史子」として役所に届け出ましたが、係が間違って「子」を忘れて記載してしまったそうです)。
史は小学校1年から6年までの幼児期も旭川で過ごしました。
なので春光台はいわば遊び場。
ましてこの時の史は17歳、少々の悪路などお手の物だったのでしょう。
生き生きとした姿が目に浮かびます。



春光台から見た第七師団(第七師団西比利亜出征凱旋記念写真帖)


牧水はよほど春光台が気に入ったようで、5日と6日にも早朝一人で訪れています。
6日はあいにくの雨でしたが、5日は、前日見ることができなかった雄大な景観に目を見張っています。


 朝、わたし一人、早く眼が覚めた。こっそり玄関をあけ、未練の残ってゐる春光台に出かけた。朝闇の残ってゐる草原には蟋蟀(こおろぎ)の声が澄んで、親愛なる柏の木の梢には淡い霧が迷うていた。めづらしく歌ごころが湧いて、二首三首と作って歩いてゐるうちに、霧晴れ、日光がさしてきた。そして、一昨日、見ることのできなかった大雪山の大山塊が旭川平野の向こうに見えてきた。思わずも頭を下げたい位ゐの厳かさが、その立ち並んだ高山のいただきからいただきにかけて漂うてゐた。ましてや数日前に降ったであらう新雪がそのいづれにも輝いてゐるのであった。

(若山牧水「北海道行脚日記」より)



旭川の土地っ子にとって、街からのぞむ大雪の山々、ましてや雪のかぶった荘厳な姿は、見慣れていても改めて惚れ惚れしてしまうような美しさです。
それを牧水が眼に焼き付け、文章として残していてくれたことを嬉しく思うのはワタクシだけではないはずです。



大雪の山並み(2020年3月鷹栖町より撮影)


この旅で、牧水は齋藤家に4泊しています。
その間、販売するための揮毫をしたり、市内で講演をしたりしています。
また夜はほぼ毎晩、宴席が設けられました。
その際の牧水の様子を史が書き残しています。
少し長くなりますが、お付き合いを。


 牧水を囲むもよおしは、札幌につづいて旭川はことに好調。講演会、歌会にも多くの人が集まった。このころ、もう牧水の酒は断てないものになっていて、夜も枕元へ一升瓶を置かなければ、安心して眠りに入れない。講演の中途でも酒気が切れてくると調子が落ち、口も鈍くなる。ソレっと土瓶に酒を入れ、お茶に見せたものを演壇に運ぶと、一口舌に乗せただけでたちまち回転が戻り、満場に向かって、「何かご質問はありませんか」と胸を張った。会のあとは、我が家で客たちと飲む。興がのると、立ち上がって朗詠をする。すこしあごを上げ、眼を閉じて、しずかな美しい調子で、自分でも楽しんでうたった。(中略)
 そのような酒の席がいよいよ賑やかになったさい中に、「ちょっと―」と牧水が左右の人々のおしゃべりを押さえた。何事かと話を止めると、「聞いてごらん。いま向こうの方で話をしている齋藤さんの声ね、うつくしい―低くて、美しい声だ―」言われて人々は急にそちらの方に耳をたてた。座敷の末席の方で、他の人々と話していた瀏は、牧水の回りが突然しんとなって、自分の方を見ているのに気付くと、話を中断して、此方を振り向いた。きょとんとしている。「いやいや―」何でもない、と牧水は手を振って見せ、あたりはまた元に戻ったが、そのとき、わたくしは騒がしい酒席にまぎれない牧水の神経を見たような気がした。事実、あまりに一同の調子が上がってくると、いつの間にか、席から消えている。気付いたわたくしが奥の部屋をのぞいてみると、一人であぐらを組んで、銚子ひとつと盃ひとつ、膝の前においてゆっくりと飲んでいるのであった。にこにことしながら少し間の悪そうに。「あのね、ひとやすみ―」ほんとうは、静かなお酒がお好きなのだ―と思ったものである。(中略)
 揮毫は、毛布をのべて、喜志子夫人が助手。墨をすったり紙を運んだりのお手伝いがわたくし。大き目の筆に墨を含ませて、一字ずつ、丸い字を書いてゆくのだが、半さいの時は、まず「あやしき格好をいたします」とことわって、着物の裾を上げ、帯にはさんで、じんじん端折りをする。ラクダ色の木綿のズボン下の膝がたるんで、ぶかぶかしたのが現れるが、―気にしない、気にしない―そのまま紙をまたいで、中腰で書く。「僕の字は、小学生のようで―誰にでも読めます―」などと言いながら。あたたかい、気取り気のない、肉太の卑しくない字が生まれてくるのであった。

(齋藤史「遠景近景」より)




牧水と喜志子


飾らない人柄の牧水と寄り添う喜志子。
2人を迎えるため、揮毫販売の予約を取るなど、あれこれ奔走する人情家の瀏。
そして平日の日中は師団に出てしまう瀏の替わりに夫妻をもてなす史とキク(この時期、瀏は演習が直近に迫っていて、休暇を取ることができない事情がありました)。
短い滞在ではありましたが、5人の気持ちが自然に通じ合ってゆく様子を、残された文章から感じることができます。

その中で、最も重要なエピソードが、牧水が史にかけた言葉です。
齋藤史は、昭和15年に出した第一歌集「魚歌」で新進歌人として注目され、平成14年に93歳で亡くなるまで、日本歌壇のトップランナーであり続けました。
「読売文学賞」、「現代短歌大賞」など数々の文学賞を受賞し、平成5年には女性歌人として初めて日本芸術院会員となっています。



当時の旭川の街並み


春光台への散策の翌日、史と牧水は官舎の縁先にいました。
その言葉は、史が歌を始めるきっかけとなりました。


 このような人柄の牧水に、まじめに、「史子さん、歌をずっとやるつもりは無いんですか、―それはいかん。あなたが歌をやらないというのは、いかんな」と言われると、わたくしは返事に困った。歓迎歌会に出した一首にしても、から手で出てもつまらないと、取りあえず作ったまでのこと、自分の将来も才能も見当さえつかめず、目標もない。しかしこの言葉は、ふしぎと耳の奥にしみついた。今になって思うのである。あの言葉がなかったら、短歌を書いてきたかどうか―と。 

(齋藤史「遠景近景」より)



史は、晩年、旭川を訪れ、このような歌を作っています。


  牧水も来て宿たる家のあと大反魂草(おおはんごんそう)は盛り過ぎたり
                     (歌集「渉りかゆかむ」より)

  さらに十年記憶ずらせばこの道をゆく牧水の後姿(うしろで)も見ゆ 
                      (歌集「秋天瑠璃」より)



齋藤史


牧水は旭川訪問の2年後の昭和3年9月、急性腸胃炎と肝硬変により、43歳の若さで亡くなります。
瀏はその前年、旭川から異動した九州で、牧水と再開しています。


 その後私は旅団長として熊本に転じたが、部下大分連隊の視察のため別府へ宿つた時、牧水が朝鮮旅行から体を痛めて此処に来て居たので、その宿所を訪問した。非常にやつれて居て気の毒な位元気がなかった。面会を断って居た所だが、喜んで逢って機縁機縁と繰り返した。そして牧水の発言で史に宛て寄せ書きのはがきを出した。これが牧水との最後の逢ひであった。そして永訣であった。 

(齋藤瀏「悪童記」より)



旭川訪問の時、牧水は40代とはいえ、人生の最晩年にいたわけです。
後の名歌人の誕生につながった国民的歌人の言葉。
私には、史の感性のうちに才能の煌めきを感じた牧水が、表現者のバトンを受け渡した、そんな気すらしてしまう歴史のエピソードです。





参謀長官舎での5人