もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

お知らせ 歴史市民劇の本が完成!

2021-07-30 15:00:00 | 郷土史エピソード


今回はお知らせです。

このブログでも何回か紹介した旭川歴史市民劇の本がついに完成しました。

写真は、刷り上がったばかりの本です。





・「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフェイティ ザ・ゴールデンエイジ −コロナ禍中の住民劇全記録−」(中西出版)
・ 著者 那須敦志
・ イラスト ワダタワー
・ A5版 267頁
・ 定価 1800円(税込み1980円)

全道の書店で、あす31日から販売されます。
本州の方はAmazon等で取り寄せることができます。
旭川では31年ぶりの住民劇となった歴史市民劇の全てが詰まっています。
このブログの読者ならかならずご満足いただける内容です。
よろしくお願いいたします。
なお、このブログの読者で、旭川のまちなかぶんか小屋に来ていただいた方には、特别斡旋価格(1700円)でお売りいたします。

また以下の日程で、出版記念会、および市民劇のDVD上映会を開催することが決まりました。
出版記念会では、上演の裏話等、那須による市民劇を振り返るトークを予定しています。
また引き続いての上映会では、3月の本公演を収録したDVDを見ていただきます。
この日のイベントでも本の特別価格での販売をいたします。
こちらもよろしくお願いいたします。

*旭川歴史市民劇の本出版記念回&DVD上映会

・8月28日(土) まちなかぶんか小屋(旭川市7条通7丁目買物公園)
・13:00〜13:45 出版記念会
・14:00〜16:00 DVD上映会



本公演のカーテンコール








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初代旭橋と馬鉄

2021-07-23 15:00:00 | 郷土史エピソード


今回は、旭川のシンボル、旭橋と、明治から大正にかけて運行された馬鉄=馬車鉄道についてです。


                   **********



旭橋と馬鉄については、2013(平成25)年に出版した「知らなかった、こんな旭川」やこのブログでも触れていますが、その後、新たな絵葉書などの画像を入手しましたので、改めてまとめることにしました。

まずは旭橋(初代です!)と馬鉄について振り返っておきましょう。



画像01 鷹栖橋下流の石狩川(明治35年)


写真1は明治35年発行の「上川便覧」に載った石狩川の写真です。
当時、今の旭橋の場所に架けられていた鷹栖橋の下流の様子です。
左側に写っているのは、嵐山や半面山、近文山といった旭川西方の山々です。
手前に広がる石狩川は、まだ原始河川のままの状態です。
この辺りに最初の橋が架けられたのは1892(明治25)年11月。
長さ50間、幅1間の仮橋です(1間は約1点82メートル)。
それまでは渡し船が唯一の渡航手段でした。



画像02 鷹栖橋の渡橋式(明治28年)


通行量の増加に伴い、道庁がこの仮橋の架替えに着手したのは1894(明治27)年のことです。
翌年3月には完成し、鷹栖橋と命名されました。



画像03 完成間近かの初代旭橋(明治36年か)


その鷹栖橋が旭橋に生まれ変わったのは、陸軍第七師団の札幌から旭川への移駐が背景にあります。
橋のある場所は、近文地区と駅のある市街地とを結ぶ重要地点。
兵馬や砲車などが頻繁に移動することから、より頑丈な橋が必要になったのです。
このため新しい橋にはアメリカ製の鉄鋼材が使われ、1904(明治37)年3月、トラス式吊橋という最新式の鉄の橋(前後は橋脚も含め木製)が誕生しました。
全長は85間、幅6間。
「旭橋」という名前は、当時の奥田千春旭川町長の提案だったそうです。



画像04 馬鉄が走る師団道路(明治40年代)


一方、馬鉄です。
正式名称は、上川馬車鉄道。
これも第七師団の移駐で、近文地区と中心部の往来が飛躍的に増えることを見込んで計画されました。
起工は、初代旭橋の誕生から1年余り経った1905(明治38)年8月です。
翌年5月、旭川駅前と運営会社の本社があった近文1線1号(現在の花咲町1丁目、護国神社前)結ぶ路線で営業を開始しました。
このあと軌道は順次延長され、3年後には旭川駅を出発し、師団の各部隊前を経由し、今の陸上自衛隊の敷地にあたる当時の練兵場を一周する路線が完成します。
さらに1914(大正3)年には、師団を囲むループから、衛戍病院(軍の病院のこと)を経由して鷹栖村1線6号に至る新たな路線も追加されました。
画像05は新旭川市史に掲載されている全営業路線の図です。



画像05 上川馬車鉄道路線図


新旭川市史によりますと、上川馬車鉄道の1913(大正2)年の営業体制は、客車20台、貨車4台、馬38頭、車掌16人、御者17人となっています。
この頃には、会社の経営も軌道に乗ったと市史には書かれていますが、その後、予期せぬ危機に見舞われます。
肝心の第七師団の主力が旭川からいなくなってしまったのです。
当時、全国の各師団は交代で満州に派遣されていました。
日露戦争で得た旅順など中国東北部の権益を守るために設置された関東総督府に所属する部隊、満州駐箚(ちゅうさつ)軍です。
この満州駐箚軍への交代勤務の命令が第七師団に下ったのは、1917(大正6年)2月のこと。
4月から各部隊の移動が始まると、兵隊さんはもちろん、さまざまな用務で師団を訪れる人は激減してしまいました。
当然、馬鉄の乗客も大幅減となり、上川馬車鉄道は一気に存亡の危機に陥ります。
当時の社長は、荒井建設の初代社長でもある荒井初一氏です。
打開のため東奔西走するものの、結局、翌年7月の株主総会で廃業を決議。
同月25日の運転をもって旭川の馬鉄は短い歴史を閉じました。



画像06 師団司令部前の馬鉄(明治末)


さて、ではその馬鉄と初代旭橋について見ていきましょう。
路線図でも見ていただいたように、師団のある近文地区と街の中心部をつなぐ馬鉄は、途中で石狩川に架かる旭橋を通ります(この時代、牛朱別川はまだ切り替え前で街の中心部よりを流れていましたので、今のロータリーの場所にあった常盤橋も通っていました)。
ではどのような形で馬鉄は石狩川と牛朱別川を越えていたのでしょうか。
それが分かるのが、画像07です。



画像07 初代旭橋(明治末〜大正初期)


旭橋の下流側の低い位置にもう一本の橋があって、そこを馬鉄が走っています。
低い橋は、馬鉄用の橋、馬鉄専用橋です。
アングルを変えると、どのように馬鉄が走っていたかがよく分かります。



画像08 初代旭橋(明治末〜大正初期)


冬、常盤町側から写した写真です。
馬鉄が向かってきています。
馬鉄専用橋と言いながら、人も写っていますね。
その後方に、やはりカメラに向かってきているもう一台の車両も見えます。

こんな写真もあります。



画像09 初代旭橋(明治末〜大正初期)


今の本町側からの撮影です。
馬鉄の姿はありませんが、軌道の様子がよく分かります。

カラーの絵葉書もあります。
白黒の写真に、手で彩色したものですが、旭橋も専用橋も欄干の部分は橋脚や橋本体よりも白っぽかったようです。



画像10 初代旭橋(明治末〜大正初期)


ではなぜこうした専用橋をわざわざ作っていたのでしょうか。
はっきりと理由が書かれた文献には出くわしていませんが、やはり傾斜の問題で専用橋を作る必要があったのではないかと推測します。



画像11 常盤通(明治末〜大正初期)


画像11は現在の常盤通のあたりを写した写真です。
中央奥に初代旭橋が写っています。
この通り、いまは通り全体がゆるやかな上り勾配になっていますが、この写真ですと、橋の手前からかなり急な上りになっています。
大雨などに備え、旭橋自体はかなりの高さの位置に架橋する必要があります。
このため、こうした橋の前後の急勾配は避けられず、馬鉄ではなかなかのぼるのが厳しかったのではないでしょうか(仮にのぼり切るパワーが馬にあったとしても、毎日何往復もの運行は厳しかったのかもしれません)。

もう一度、旭橋と専用橋の高さを比べてみましょう。



画像12 初代旭橋(明治末〜大正初期)


かなりの差ですよね。
馬のパワーを考え、上り勾配のない、低い位置に架けられた専用橋が設けられた、というのがワタクシの推測です。

と、話はこれで済めばよいのですが、そう単純ではありません。
旭橋を調べると、こんな写真も出てきます。



画像13 初代旭橋(明治期か)


なんと、上り傾斜がきつく、馬鉄には厳しいはずの初代旭橋の上を馬鉄が通っています(馬もはっきり確認できますし、車両の形も馬鉄のものです)。



画像14 初代旭橋(年代不明)


こちらの写真では、馬鉄の軌道がはっきりと写っています。

調べると、馬鉄の運行開始時点では専用橋はまだ架かっておらず、橋ができるまでは旭橋を利用していたようです。
また専用橋は低い位置にあるため、川の増水により流出し、再建までの間、やはり旭橋を使った可能性もあります。



画像15 初代旭橋(大正8年以降)


これは馬鉄廃止後の旭橋を写した絵葉書ですが、馬車が通っています。
やはり馬の力では旭橋は全く無理ということではなかったようです。

一方、牛朱別川に架かっていた常盤橋ですが、ここも馬鉄専用橋がありました。



画像11 常盤通(明治末〜大正初期)


画像11をもう一度見ていただきます。
旭橋方向から走っていた馬鉄が画面左側にカーブして行くところです。
実はこの先、画面では撮影者の左横に馬鉄専用橋がありました。



画像16 常盤橋と旧馬鉄専用橋(大正末)


その馬鉄専用橋が写った写真がこちら。
画面中央から左にあるのが専用橋。
右側の少し高い位置にあるのが常盤橋です。
ただこれは大正末の撮影で、馬鉄はすでに廃止されています。
よく見ると、橋には杭が打ってあって、なにやら立看板も置かれています。
人は通れたのかもしれませんが、何らかの通行規制がかけられていたようです。
もう一枚、馬鉄が運行されていた時期の常盤橋と馬鉄専用橋が写った貴重な写真がこちら。



画像17 常盤橋と馬鉄専用橋(明治38年か)


右が常盤橋、左が専用橋ですが、専用橋は増水により水没寸前の様子です。
2枚の写真で分かるのは、旭橋とその脇の馬鉄専用橋ほど高さに差がないことです。
常盤橋にそれほど高さがないのは、石狩川と牛朱別川の規模の違いによるものでしょうが、それほど高さがないのであれば、わざわざ専用橋を架ける必要はなかったのでは、とも思うのですが、詳しいことは分かりません。
ただこの専用橋、役目を終えた後も、長くこの場所に架かっていたようで、昭和4年ころの撮影と伝えられる写真にもその姿が確認できます。



画像18 切り替え工事直前の常盤橋と旧馬鉄専用橋(2つの橋が重なって写っているが、奥が常盤橋、手前が専用橋)


ということで、どうやらこの専用橋、昭和5年に始まった牛朱別川の切り替え工事に伴い、常盤橋とともに撤去されたようです。

一方、この切替工事と並行するように進められたのが、2代目旭橋の架橋工事です。
昭和6年、牛朱別川は新しい流路が掘削されて、旭橋下で石狩川と合流しました。
翌昭和7年には、かつての牛朱別川の跡の埋め立て工事が完了、さらに2代目旭橋の渡橋式が行われます。
そして常盤橋跡に造成されたロータリー、そして新生旭橋では、馬鉄の後継に当たる市街電車の運行が始まるわけです。



画像19 2代目旭橋の渡橋式(昭和7年)


当たり前の話ではありますが、街の要所要所には、それぞれが経てきた変遷の積み重ね=歴史があります。
それを辿っていくことは、旅に似た面白さがあると常々感じています。
旅行が地域的な移動なのに対し、歴史を調べるのは時間を移動する旅と言えるでしょうか。



画像20 ロータリーを走る旭川市街軌道の電車(昭和20年代後半か)

画像21 2代目旭橋を走る旭川市街軌道の電車(昭和10年代)



<旭橋と馬鉄、常盤橋の歴史>

・ 1892(明治25)年    現在の旭橋の位置に仮橋が架けられる
・ 1895(明治28)年 3月 仮橋が架け替えた鷹栖橋が完成
・ 1898(明治31)年 7月 旭川駅が開業
・ 1900(明治33)年11月 第七師団、札幌からの移駐開始
・ 1901(明治34)年 3月 今のロータリーの位置に常盤橋架橋
・ 1902(明治35)年10月 第七師団の移駐が完了
・ 1904(明治37)年 5月 初代旭橋が完成
・ 1904(明治37)年 8月 第七師団が日露戦争に出動
・ 1906(明治39)年 5月 上川馬車鉄道が営業開始
・ 1914(大正 3)年 9月 上川馬車鉄道、全路線が開通
・ 1917(大正 6)年 4月 第七師団の満州派遣開始
・ 1918(大正 7)年 7月 上川馬車鉄道が営業を停止
・ 1930(昭和 5)年 5月 牛朱別川の切り替え工事が始まる
・ 1931(昭和 6)年11月 牛朱別川切り替え工事が竣工
・ 1932(昭和 7)年10月 旧牛朱別川の埋立工事が竣工
・ 1932(昭和 7)年11月 2代目旭橋完成、旭川市街軌道師団線も通る
・ 1936(昭和11)年 5月 常盤橋跡地にロータリー造成


◆ 市民劇の本のお知らせ



画像22 旭川歴史市民劇の本


最後は、市民劇の本のお知らせです。
すでに今月31日に全道の書店やAmazon等で発売されるとお伝えしていますが、今回は内容の紹介です。



画像23 カラーグラビア(本公演舞台写真)


巻頭16ページのカラーグラビアは、まず本公演の名場面の紹介から始まります。観客が入り、キャストたちが乗りに乗った熱演の様子が伝わってきます。
カラーグラビアでは、去年2月の予告編(プレ公演)の舞台写真と、本公演の舞台裏の写真も掲載しています。



画像24 カラーグラビア(予告編舞台写真)


画像25 カラーグラビア(本公演の舞台裏)



本編は、①市民劇の記録、②脚本、③歴史解説の3部構成です。



画像26 振り返り座談会の一部


画像27 キャスト紹介の一部



市民劇の記録は、足掛け3年に分かるロングランの取り組みを振り返る座談会のほか、本公演のキャスト紹介、実行委員やスタッフ・キャスト等の名簿など、市民劇の全容が分かる内容になっています。
予期せぬコロナ禍の中、メンバーがどのような困難に見舞われ、どう考え、どう対処したか、ウィズコロナの時代に様々な取り組みを行う方々の参考にもなると思います。



画像28 脚本編の一部


公演では、上演時間の関係などから、登場人物やいくつかのシーンを省いた上演用脚本を使用しましたが、本にはオリジナルの脚本を掲載しました。ゴールデンエイジの旭川をよりよく知ってもらうための対応です。



画像29 歴史解説編の一部


また歴史解説では、主な実在の登場人物や、劇に登場する歴史エピソード、劇中歌などについて、詳しく説明しています。
なので、郷土史の本としても楽しんでいただけるのではないと思っています。

多くの方々の思いがこもった本です。
どうぞよろしくお願いいたします。



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松下洋服店と1条師団道路界隈

2021-07-13 17:00:00 | 郷土史エピソード


今回は小ネタ。
明治末から大正にかけて、1条通8丁目の師団道路にあったおしゃれなテイラー、洋服の仕立て屋さんが写った珍しい写真をご紹介します。


                   **********



写真①
 

それがこの写真。
同じ場所から撮影した2枚の写真をつなぎ合わせ、パノラマ写真のようにしてあります。
おそらく撮影されたのは大正初期と思われます。
画面を斜めに横切るのは1条本通りです。



写真①(右半分)


注目してほしいのは画面右の下側
屋根のところに店名を書いた看板?の一部が写っています。
左から右に「松下」の文字があり、その下に「洋」。
それらを囲うように「TAI▪LOR」と書かれています。
実はこれ、明治末から大正にかけ、師団道路(現在の平和通)の1条通8丁目にあった洋服の仕立て屋さん「松下洋服店」の屋根なんです。



写真①(右半分拡大)


拡大するとこんな感じ。
よく見ると、「松下」「洋」「TAI▪LOR」と書かれたでっぱり?の上にも看板が置かれているのが分かります。
斜め横からのアングルなので分かりづらいのですが、右側の屋根に影が映っていて、「松下洋服店」と読めます。

ちなみにこの看板のある屋根の向こう側に、白っぽい石造りの建物が見えますが、四角に「大」の屋号から、明治34年に1条通8丁目に創業した「斉藤陶器店」であることが分かります。
また写真の撮影場所ですが、師団道路を挟んだ向かいにあった「越後屋」という料理屋さんから撮ったものと思われます。

「松下洋服店」に戻ります。
明治〜大正のいくつかの絵葉書等にもその姿があるのを見つけました。



絵葉書①


そのうちの1枚がこちら。
右側に「松下洋服店」が写っています。
先程の屋根の看板の「洋」の下には「服店」の文字。
さらに「TEL」と見えますので、電話番号も書かれていたようです。
入り口の上には「TAILOR.MATSUSHITA」と書かれた看板も置かれています。
その上には2つの出窓があって、なかなかおしゃれな建物であることがわかります。
撮影時期は同じく大正初期と思われます。



絵葉書①(右半分)


「松下洋服店」の向こう隣は、明治39年に創業し、41年にこの場所に移転した旭川銘菓「旭豆」の製造販売店「浅岡菓子店」です。
さらに1条本通りをはさみ、明治34年に丸井今井が開設した「丸井今井金物店」が見えています。



絵葉書①(左半分)


さらに左側に目を転じますと、師団道路の真ん中を走る馬鉄(馬車鉄道)が見えます。
旭川の馬鉄は明治39年に営業を開始し、大正7年まで運行されました。
その左には「丸井今井」。
この時代は百貨店になる前の「丸井今井洋品雑貨店」です。
1条本通りをはさみ「丸井今井洋品雑貨店」の手前に写っているのは「石田商店」。
明治33年創業で、昭和5年までこの場所にありました。



絵葉書②


一方、こちらは大正4年7月に撮影されたほぼ同じ場所の絵葉書です。
この年の7月は、大雨で忠別川と美瑛川が複数回に渡って氾濫。
当時の神楽村や美瑛村では50人を超す死者が出たと伝えられています。
旭川中心部でも宮下から5〜6条まで水に浸かる被害があり、絵葉書はその様子を伝えています。
「松下洋服店」、「浅岡菓子店」、「丸井今井金物店・洋品雑貨店」、「石田商店」など、絵葉書①とほぼ同じ姿です。



絵葉書③


同じ水害の際の模様を写した別の絵葉書ですが、通りの反対側から写しています。
ワイヤーで吊るした丸井の看板の右(7丁目)側の建物が「丸井今井洋物雑貨店」、左(8丁目)側が「丸井今井金物店」ですね。
その奥に「石田商店」、「浅岡菓子店」が見えていますが、不鮮明です。
「松下洋服店」は屋根だけ見えています。
撮影の日付は大正4年7月23日となっています。



写真②


こちら写真②は同じ時期の「浅岡菓子店」の全景です。
左隣に「斉藤陶器店」が見えています。
反対側、右隣は「松下洋服店」です。
屋根の上の造作を見ると、写真①の「松下洋服店」の屋根上と一致します。
絵葉書③の「松下洋服店」の屋根とも一致しています。



写真②、写真①、絵葉書③の比較


続いて紹介するのは、これまで見ていただいたものより少し古い時代の絵葉書です。



絵葉書④


アングルは、絵葉書①とほぼ同じですね。
撮影時期ですが、馬鉄が走っていますので、明治39年5月以降であることは間違いありません。



絵葉書④(左半分)


「丸井今井洋品雑貨店」、「石田商店」の建物に大きな変化はありません。



絵葉書④(右半分)


「丸井今井金物店」の建物も変化なしですが、手前の2つの店は先ほどとは大きく異なっています。
まず手前の建物ですが、看板から「松下洋服店」の改築前の姿であることが分かります。
店はこのような平屋の木造の建物から始まったわけですね。
そして「金物店」と「松下」の間の店ですが、「看板」に「豆旭」と書いているのが読みとめます。
ここも「浅岡菓子店」の改築前の姿で間違いないようです。
だとすると、「浅岡菓子店」がこの場所に移転したのは明治41年ですので、それ以降、先程の一連の写真が撮られた大正4年までの撮影ということになります。
明治末なのか、大正はじめなのか、さらに詰めたいところですが、手がかりがなく分かりません。

このように、時代時代の街並みの変わりようを見ていくことも、郷土史研究の面白みです。

なお明治43年刊行の「北海道の隆運」という本に、「松下洋服店」と「石田商店」の写真が載っていましたので、参考にご紹介します。



写真③ 明治期の松下洋服店


写真④ 明治期の石田商店


ちなみに四角い看板のある方が、師団道路、丸みを帯びている看板がある方が1条通に面しています。
看板(四角い方)の様子や電柱など、絵葉書に写っている様子とほぼ同じなことがわかります。


◆旭川歴史市民劇の本について


最後はまた市民劇の本に関するお知らせです。
いよいよ発刊日が決まりました。
今月31日(土)です。



本のカバー


こちらは予定されているカバーのデザイン。
イラストは、市民劇のメインビジュアルにも使った俳優兼イラストレーターのワダタワーくんの労作です。
A5版で、ページ数はちょっと多くて287ページです。
値段は1800円、税込み1980円です。
前回もお知らせしたように、市民劇の記録、脚本、歴史解説の3部構成で、巻頭の16ページがカラーグラビアという贅沢な作りです。
このブログを見ていただいている方なら、必ず楽しめると思います。
またコロナ禍のなかで、参加メンバーがどのような困難に直面し、どう考え、どう対処したかも分かる内容になっています。
このためコロナ禍のもと、さまざまな取り組みを行っている方々の参考にもなる本であると思います。
発刊日以降、全道の書店に並びますし、道外の方はAmazonなどで注文できます。
ぜひお買い求めください。

よろしくお願いいたします。




市民劇のラストシーン

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銀座時代の速田弘 新資料

2021-07-02 17:00:00 | 郷土史エピソード
久々の記事アップです。
今回は、先の旭川歴史市民劇でも活躍したゴールデンエイジ期を代表するモダンボーイ、そうヤマニの大将、ヤマニの兄貴こと、速田弘のお話です。



                   **********



◆シローチェーンの広告


まずは、こちら。



シローチェーンの広告


化粧品の広告としても通用しそうなスタリッシュなイラスト。
大正末〜昭和初期の旭川で活躍したカフェー・ヤマニ店主、速田弘が、戦後、東京銀座で展開したクラブチェーン、シローチェーンの広告です。

「銀座では何ンと申しても」。

このわざとカタカナを1字使った所、そして「CIRO」のロゴもおしゃれです。

「高級な 日動シロー」、「愉しい カジノシロー」、「落付た バーシロー」、「洒落た クラブシロー」。

4つの店にはそれぞれキャッチコピーが添えられています。
この広告が掲載されていたのはこちら。



日劇ミュージックホールのパンフレット


昭和29年に発行された東京の劇場、日劇ミュージックホールのパンフレットです。
広告が載っていたのは、このパンフレットの裏表紙です。



日劇ミュージックホールのレビュー


日劇ミュージックホールは、かつて東京の有楽町にあった東宝経営の娯楽の殿堂、日本劇場=日劇の5階にありました。
開場は昭和27年。
踊り子さんが衣装を脱いでいくいわゆるストリップとは異なり、主にトップレスの女性ダンサーが繰り広げる華やかなレビューが売り物でした。
また当時の売れっ子コメディアンによるコントも評判で、多くの観客を集めたそうです。
ただ昭和55年には、有楽町の再開発に伴い、日劇の閉鎖、解体が決まったことから、同じ有楽町にあった東京宝塚劇場に移転、昭和59年には、営業を終え、閉館されました。

広告が掲載された昭和29年といえば、ミュージックホールの開設から2年後。
新たな娯楽の登場に注目したかつてのモダンボーイ、速田の意気込みが感じられます。


◆速田弘とは


ここで改めて速田弘について、押さえておきましょう。



速田弘(1905−?)


速田は、明治38年に旭川で生まれた実業家です。
経営していたのは、4条通8丁目にあったカフェー・ヤマニ。
彼は、時代を先取りした鋭い経営感覚で、店を旭川有数のカフェーに育てました。
しかし戦時色の強まりに伴い経営環境は次第に悪化。
新店舗「パリジャンクラブ」への投資も、結局は経営不振に拍車を掛ける結果となり、1934(昭和9)年、行き詰まった速田は自殺未遂を図り、その後、旭川から姿を消します。



カフェー・ヤマニ


そんな速田が、再び注目荒れるのは戦後のこと。
前述のナイトクラブチェーン、シローチェーンのオーナーとして復活するのですが、旭川を去ってからのいきさつは不明です。
ワタクシの調査では、昭和29年に速田が銀座に4店のシローと名の付くクラブを経営していたことは分かっていました(今回の日劇ミュージックホールの広告も昭和29年の発刊)。
また昭和30年には、速田は当時の地域の飲食業者でつくる銀座ソシアルサロン組合(現在の銀座社交飲料組合)の副会長になっていたことも確認しています。
銀座において一気に4店もの店舗を持ったとは考えづらいこと、業界団体の幹部となるのは相当の実績が必要だったであろうこと、などを考えますと、彼が銀座で店舗営業を始めたのは、戦後のもっと早い時期なのではないかと思います。



昭和30年代の銀座(絵葉書)


ともあれ、旭川で示した速田の優れた経営感覚は、やはり本物だったということでしょう。
ただ戦後の速田については、この頃、銀座で成功をおさめたという以外はほぼ不明です。
このうちシローチェーンについては、昭和30年代の末までには経営者が別の人物に移ったようで、40年代末までにはすべて閉店したと伝えられています。


◆センスあふれる店舗と広告


さて速田は、旭川時代、弦楽アンサンブルでチェロを弾いたほか、ジャズのバンドも結成していたことが知られています。
こうしたアート分野の才能も速田の実業家としてのセンスの良さの源です。
その特徴がよく現れているのが、店舗と広告のデザインです。



カフェー・ヤマニ(昭和5年)


写真は、昭和5年の改装後のヤマニです。
デザイン性の高いファサード(外壁)が特徴です。




ヤマニと喫茶アボQもを含むジオラマ


こちらは、旭川市博物館にある昭和始めの4条師団通界隈のジオラマです。
交差点に面したサッポロビヤホールの看板のある建物がヤマニ(改装前)です。
その右側、9丁目方向に視線をずらしていくと、街路樹が切れたところに白く見える壁(実際は黄色)に丸窓が2つ付いた所があります。
ヤマニの経営のかたわら、速田が開店した喫茶店です。
名前はアボQ。
ギリシャ神話の女神の名前が由来とされています。

開店当初には、奇抜な名前のこの店を紹介する記事も書かれています。




アボQを紹介する新聞記事


パリジャンクラブ



一方、こちらは速田が起死回生を狙って開店した新店舗、パリジャンクラブです。
3〜4条仲通りの7丁目、今の花月会館の斜め向かいにありました。
右端の4階建てのビル(旭ビルディング百貨店)のすぐ手前がパリジャンクラブです。
少し分かりづらいのですが、入り口脇にシースルーの螺旋階段がある斬新なデザインです。




パリジャンクラブの設計図


紹介したヤマニ、アボQ、パリジャンクラブ。
3つの店舗の改修や設計は、いずれも札幌在住の名建築家、田上義也が手掛けています。
田上は本業の他、バイオリニストとしても活躍した人で、同じように音楽家でもあった速田とは交流がありました。
おそらくは速田の斬新な感覚を理解した上で、田上も腕をふるったのではないでしょうか。
昭和初期の旭川に、こんなおしゃれなデザインの建物があったという事実は、実に愉快です。



田上義也


続いて、広告について見ていきましょう。
戦前の速田は自分でコピーを考え、カットも自分で描いていました。
せっかくですので、少しまとめてご紹介します。



ヤマニの広告①


ヤマニの広告②


ヤマニの広告③


ヤマニの広告④


ヤマニの広告⑤


ヤマニの広告⑥


ヤマニの広告⑦



いずれも速田のセンスが溢れています。
カットに「ヤマニの兄貴作品・・・」と書かれているのは、速田自作の図案であることを示しています。

続いて、戦後のシローチェーンの新聞広告です。



シローチェーンの広告①


シローチェーンの広告②


シローチェーンの広告③


日動シローの広告



旭川時代の斬新さこそありませんが「同種」のニオイがしますよね。
おそらくは、戦後も、広告のデザインは本人がアイデアを出すなど深く関わっていたと思われます。

なお本人の名前が書かれた火事見舞いを見つけましたので、これも紹介しておきます。



火事見舞いの新聞広告


◆シローチェーンとは


さて戦後の銀座に花開いた速田のシローチェーン、いったいどんな店だったのでしょうか。
キャッチコピーにも見られるように、4店、それぞれに個性があったと推測できますが、出店場所からいってもどれも一流のナイトクラブだったことが伺えます。
昭和29年の銀座の地図には、シローチェーンの各店舗の名前が確認できます。



昭和29年の銀座地図①


まずは西銀座5条1丁目のこの区画。
日動シローの名前があります。
右上に日動画廊の名前がありますが、日動シローは画廊の入るビル(日本動産火災保険本社ビル)の地下にあったと思われます(シローの入り口はビルの裏側)。

日動画廊は日本で最も歴史あるとされる洋画商です。
この場所には、いまは東京海上日動銀座ビルが建っています(中に日動画廊も)。



昭和29年の銀座地図②


つづいてはみゆき通り沿いの銀座6丁目のこの区画。
ここにもシローの名前があります。
当時の銀座年鑑で確かめますと、この店はカジノシローだったことがわかります。
現在は銀座尾張町towerという10階建てのビルになっています。

同じ区画には交詢社の名前が見えます。



昭和29年の銀座地図②


交詢社は明治13年に福沢諭吉らが設立した日本初の実業家の社交クラブです。
クラブは現在も同じ場所に建つ交詢ビルディング内にあります。
なお交詢ビルディングの地下にかつて交詢社シローという店があったと書かれているネットの記事がありましたが、調べた限りでは銀座年鑑にはその名前はなく、確認はできていません。



昭和29年の銀座地図③


最後に銀座8丁目のこの区画。
シローBARの文字が見えます。
銀座年鑑によりますと、この住所には、クラブシローとバーシローがありました。
同じ建物の地下と地上など別フロアに2つの店があったと思われます。
ここはいま資生堂パーラーや資生堂ギャラリーなどが入る東京銀座資生堂ビルになっています。



戦後の銀座(絵葉書)


一方、4店舗のうち看板店の日動シローでは、ジャズなどのバンド演奏が日常的に行われていたようです。
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫さんによる日本のジャズメンのインタビューでは、サックス・クラリネット奏者の清水万紀夫さんが、若き日に日動シローで演奏していたこと、のちにクレイジー・キャッツに参加する桜井センリさんのバンドも出演していたことなどを語っています。
旭川でジャズバンドを結成していた速田のことですから、うなずける話です。

またネットを見ていて、ある記事を見つけました。
Obacoという方のブログで、青春時代の思いでについて書いているのですが、そこに日動シローが登場します。
この方は17歳の頃、西銀座の名曲喫茶「らんぶる」でウエイトレスをしていたそうですが、裏通りをはさみ、店のすぐ前が日動シローでした。



昭和29年の銀座地図①


先程の地図を見ると、そのとおりの位置にらんぶるがあります。

ブログによりますと、暇な日の夕方、入り口の前のドアのところに佇んでいると、田舎から出てきたばかりという彼女には縁のない(obacoというからは秋田出身の方なのでしょうか)、小顔で背が高く、スラリとした足にハイヒールの美人たちが、狭い入り口から階段を降りてゆくのをよく目にしたそうです。
当然この美人たちはシローのホステスさんですよね。
Obacoさんはそのドアの外の光景に魅せられ、店が混んできてもなかなかそこを動けなかったと書いています。

ジャズの生演奏が流れる店内で客を迎える艶やかなホステスたち。
どんなに華やかな大人の空間だったのかと、想像を掻き立てられます。

戦後の速田弘については、本格的に調査をしたいとつねづね考えていた所ですが、場所が東京であることからなかなか進まず、そのうちにコロナ禍に見舞われ、ほとんど手つかずの状態が続いています。
ただ末裔の方を探すなど、機会を見つけて、何とか調べることができたらと思っています。

読者の中で何か情報をお持ちの方がいたら、ぜひお知らせ下さい。



戦後の銀座(絵葉書)


◆旭川歴史市民劇の本について



本のゲラ①


最後はお知らせです。
3月に上演した旭川歴史市民劇の本作りが大詰めです。
タイトルは「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ ―コロナ禍中の住民劇全記録―」です(長い!)。

内容は、足掛け3年の取り組みの記録、脚本、歴史解説の3部構成と盛りだくさんです。
取り組みの記録では、運営の中心となったワタクシを含む4人のメンバーの振り返り座談会が目玉です。
脚本は、このブログにも掲載したオリジナル台本をベースにした書籍掲載版の脚本を掲載しています。
歴史解説は、主な実在の登場人物や劇で扱った場所や出来事などのトピック、さらに劇中歌や劇に引用した旭川ゆかりの文学者の作品について詳しく載せてあり、郷土史本としても楽しめます。
加えて、本公演&プレ公演の舞台写真、本公演の舞台裏の写真、合わせて42枚を載せた、なんと15ページの豪華カラーグラビアが巻頭を飾る予定です。
現在、最終校正の段階まで来ていまして、7月中には刊行できる見込みです。

刊行の時期、価格など、はっきりしましたらまたお知らせいたします。




本のゲラ②




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