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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

4条通7丁目のビル

2014-04-17 09:22:56 | 郷土史エピソード



旭川の平和通(師団道路、師団通)には、
戦前のかなり早い段階からビルが建てられていた場所がいくつかあります。

まずは、現在マルカツデパートのある2条通7丁目です。
昭和8年に、一部4階建てのサカエヤデパートのビルが開業しました
(サカエヤは旭川初のテナント式の百貨店)。




写真①サカエヤデパート(昭和31年・旭川市中央図書館蔵)


さらに古くからビル化されたのが、
現在アッシュがある1条通7丁目です
(長く丸井今井旭川店があった場所として、
 記憶されている方が多いと思います)。

ここでは大正11年10月、
それまでの丸井今井呉服店旭川支店が全面改装され、
一部3階建ての百貨店(旭川初!)となりました。




写真②新築の丸井今井百貨店(大正11年・「写真旭川」より)


そしてこの丸井今井と同時期に、
ビルが建てられた場所があるのですが、ご存じでしょうか。

その場所は4条通7丁目。
そう、つい先日までゲームセンターのゲオさんが入っていたビルですね。
現在は解体作業が進んでもう建物の姿はありません。




写真③ビルが無くなった4条通7丁目


実はこの場所、丸井百貨店の開業に遅れる事1か月、
大正11年11月に
丸井をしのぐ石造り4階建てのビルが建てられているんです。

新旭川市史や郷土史家の渡辺義雄氏の著作によりますと、
この場所、もともとは活動写真王として知られた
佐藤市太郎氏経営の映画館「第三神田館」のあった場所でしたが、
大正9年に火事で焼失
(向かいにあった「第一神田館(大正14年焼失」)と同じ運命)。
その後、大正10年にビルの建設が始まり、
翌11年11月に上棟式が行われました。

開業当初は「二番館」という店でしたが、
その後経営者が変わって「旭ビルディング百貨店」、
さらに「三好屋呉服店」と変遷。
渡辺氏は「(さらに)その後、改築され、
経営者も変わったがいずれも定着せず、
このような移り変わりの激しいビルも珍しい」と書いています。




写真④旭ビルディング百貨店(撮影年不詳・絵はがき)


なお旭川の古い街並みを記録した写真や絵はがきには、
この4条通7丁目にあったビルから撮影したものが数多くあります。




写真⑤ビル屋上から東方向(大正11年・「宗谷線全通記念写真帳」より)
中央は向かいの第一神田館。


写真⑥ビル屋上から駅方向(大正11年・絵はがき)
左手前から、共盛館勧工場(マーケット)、博進堂書店、秋野保全堂薬局、赤松靴店など。


写真⑦ビル屋上から北方向(昭和5年)
4条本通にヤマニカフェ―や北海ホテルが見える。奥に旧市役所庁舎も。



平和通(師団通)の4条といえば、旭川の中心のそのまた中心。
旭川の街並みを紹介するには、うってつけの場所だったのでしょう。

さらにこの場所、
戦後も「北洋相互銀行(現在の北洋銀行の前身)旭川支店」が
移転してくるなど変遷をたどりますが、
昭和43年には、近代的なビル「まるせんデパート」が開業
(これもテナント式の百貨店で、
今回取り壊されたのはこの時建設されたビル)。
ワタクシも高校生だった時にはよく利用しました
(閉店後は電器店のYESとなり、その後ゲオになったはず)。




写真⑧まるせんデパート(昭和45~46年頃・旭川市中央図書館蔵)


旧まるせんデパートビルの跡地が今後どうなるかは不明ですが、
80年近くビルがそびえていた旭川の一等地が更地になるのは、
やはりさびしいと思わずにはいられません。




写真⑨解体中の旧まるせんデパートビル(平成25年)


なお旭ビルディング百貨店時代のビルでは、
盛んに美術展や写真展などが開かれ、
当時の文化発信の拠点になっていたようです。
最後にそんな当時を忍ばせる
興味深いエピソードを一つ紹介します。




写真⑩旭ビルディング百貨店(撮影年不詳・絵はがき)


大正13年、
旭ビルディングで旭川美術協会の作品展が開かれた際のお話です。
作品展には、
大雪山の絵で知られる高橋北修や盟友の関兵衛らが出展しましたが、
その中に詩人ながら協会の創設メンバーでもあった
小熊秀雄による異色の作品があったそうです。

「土と草に憂鬱を感じたり」という、
当時勤めていた旭川新聞の広告をコラージュした作品で、
なんと本物のサケの尻尾があしらわれていたそうです。

さらにこのサケの尻尾、
会場にまぎれこんだ犬にかじられるという珍事件も発生!
この時のことを北修はこのように書いています。


「私は、大震災(注・関東大震災のこと)のあった二日目に旭川に戻った。
 その翌年、旭川に初めて建ったビル(注・旭ビルディングのこと)の
 開店披露の行事に便乗して、
 旭川美術協会の何回目かの展覧会を四階で催した。

 (中略)

 床の上に置いてある作品をアルバイトの学生達が、
 順次壁にかけてゆくうちに小熊の作品の近くへきたとき、
 突然、皆が騒ぎ出した。
 驚いたことに、どこからきたのか一匹の尻の腐った野良犬が、
 まだ床のうえに置いてある二〇号位の小熊の作品を噛っているのだ。
 彼の作品の中央には
 ホンモノの鮭のしっぽあたりの切身が張り付けてあった。
 食い散らされた作品は、無残な姿で私達の目の前に晒されていた。

 (中略)

 翌年の春、私は小熊と一緒に上京した。
 彼には初めての上京であった。」
 
 (「小熊秀雄のこと 犬に喰われた絵」より・高橋北修、昭和42年)

 注・小熊全集の年譜によりますと、
 小熊と北修が一緒に上京したのは展覧会開催前の5月からで、
 小熊は7月頃まで東京で初めて暮らしたということです。
 なので翌年の春に上京したというのは、
 北修の記憶違いと思われます。
 なお小熊は、大正14年にやはり短期間、東京で暮らしたのち、
 昭和3年に三たび上京し、本格的な東京生活を始めます。




写真⑪旭ビルディングでの展覧会会場にて
(大正13年・後列左端に高橋北修、1人置いて小熊秀雄)



当時、北修も小熊も20代。
北修はその後旭川に戻って昭和53年に亡くなるまで長く活躍、
「大雪の北修」として広く名を馳せました。
一方、小熊は東京で詩壇に新風を吹き込むものの、
昭和15年、39歳の若さで病死します。

かつての4条通7丁目が、
そんな旭川を代表する2人の芸術家が関わった
ユニークなエピソードの舞台でもあったことを
忘れないでいたいと思います。




写真⑫高橋北修(1898-1978)


写真⑬小熊秀雄(1901-1940)



なお、今回この記事を書くため小熊秀雄全集を当たっていたところ、
昭和47年、当時のまるせんデパートで、
もう一人の旭川ゆかりの芸術家、中原悌二郎の彫刻作品と
小熊の絵画やスケッチなどを展示した「中原悌二郎・小熊秀雄展」が
開かれていたことがわかりました。

4条通7丁目の歴代ビル、やはりあなどれません!




写真⑭第一神田館と建設中の旭ビルディング(大正10年頃・絵はがき)


写真⑮第一神田館と完成した旭ビルディング(大正11~12年・絵はがき)




コメント (4)
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なつかしの市勢要覧

2014-04-10 20:19:00 | 郷土史エピソード

各自治体では、
その年その年の人口や産業、住民生活の概要などを紹介する冊子を作っています。

旭川市も、戦前から毎年こうした冊子=市勢要覧を発行しています。
きょうは、手元にある大正14年、昭和11年、そして昭和31年の
市勢要覧に掲載された写真や興味深いデータをご紹介します。

まずは大正11年(1922年)の市勢要覧です。


大正11年の市勢要覧

10センチ×15センチのコンパクトなサイズで、
中にさまざまな市勢データ、
および市内の地図や主な施設の写真を印刷した紙が折りたたまれています。


折り畳み式

ちなみにデータは表面でこんな感じ。
人口や面積、気象の記録などが載っています。


おもて面は市勢データ


同上


そして裏面は地図と写真。
地図は2色刷りで、駅は「停車場」と書かれています。
その近くにあるカタカナは主な施設を示していて、
「チ」は鉄道省事務所、「ツ」は北海道銀行支店、「ケ」は道の農産物検査所です。


裏面


同上


少し北の方を見ますと、
大正時代ですので、牛朱別川はまだ切替前で中心部近くを流れています。
常磐公園が川の中島のような状態であることが良く分かります。

さらに牛朱別川も石狩川も
河川改修などがほとんど行われていない時代ですので、
激しく蛇行しながら流れている様子が分かります。



このほか写真では、
3条通9丁目にあったレンガ造りの火の見やぐらから撮影したパノラマ写真が掲載されています。

火の見やぐらの上から、北側、東側、南側を撮影した写真で、
一番右には当時、4条通9丁目にあった旭川郵便局が写っています。


北側・東側、一番左が旭川郵便局


パノラマ写真の続き、東側・南側


続いては、昭和11年。


昭和11年の市勢要覧

こちらは少し大きくなって18.5センチ×12.5センチです。
ワタクシもあまり見たことのない貴重な写真がたくさん載せられています。

まずは旭川市立高等女学校。
市立高女(いちりつこうじょ)の名前で親しまれました。
知里幸恵や三浦綾子が通ったことでも知られていますよね。
ちなみに亡くなったワタクシの母も市立高女が母校です。


旭川市立高等女学校

続いては、今の文化会館の場所にあった尋常小学校時代の中央小。
これも自分関係で恐縮ですが、ワタクシの母校です。


旭川中央尋常小学校

面白いところでは、こちら。


旭川市営質屋

市営の質屋さんがったのですね。
場所は9条通9丁目となっています。

さらに珍しいところではこちら。


市営野球場


市営水泳場


ともに北海道招魂社(今の護国神社裏)にあったと書かれています。
野球場は今のスタルヒン球場の位置とそう変わらないのではないでしょうか。
右奥に、今も護国神社の境内にある平成館(当時は北鎮兵事記念館)が見えます。

水泳場は、石狩川の水を引き込んだと書かれていますので、
さらに川寄りにあったと思われます。
広さは50メートル×25メートルで、飛び込み台は5メートルとあります。


データページ

データページにも興味深い記述がたくさんあります。
一年間に死亡した市民のデータでは、
1567人の死者のうち(当時の全人口は約91000人)最も多かった死因は
「伝染病及び寄生虫病」です。
当時の衛生状態を推し量ることができます。

また世代別で最も多かったのは、なんと1歳未満で260人。
まだ医学の発達が進んでおらず、生まれてすぐ亡くなる子どもが多かったことが分かります。

さらに乗り物の運賃も詳しく書かれています。

電車は片道6銭、往復だと11銭で割引きになっています。
自動車は、乗合自動車ですと市内なら電車と同じ額、
ただ貸切だと市内片道80銭、往復1円20銭と値段が跳ね上がります。

さらに人力車は細かく値段が決まっていて、
駅から常磐公園までなら片道35銭、上川神社まで50銭、師団司令部まで80銭などとなっています。

面白いのは条件によって割増料金が設定されていて、
夜間は2割増、悪路や暴風雨、棒風雪などで困難なるときは3割増などとなっています。


運賃ページ


同上


最後は戦後、昭和31年です。


昭和31年の市勢要覧

31年といえば、ワタクシが生まれる前の年。
大きさはB5版(56ページ)です。

これも貴重な写真が何枚か載っていましたので、少し紹介します。



まずは旭橋付近の空撮写真。
今と比べますと、圧倒的に木造の建物が多いのが分かります。
手前の2つの橋は、牛朱別川にかかる緑橋と永隆橋。
ちなみに2つの橋を結ぶ堤防(街の中心部側)のすぐ右に建ち並ぶ住宅の一つがワタクシの実家です。

続いては今のグランドホテルの場所に合った旧市役所庁舎。
「ぜい金おさめてすみよい旭川」の垂れ幕が目立っています。



そして駅前広場の夜景。
ここにある白い人物像の彫刻は、
いろいろな写真やフィルムで良く見かけますが、作者等詳細がよくわかりません。

もしご存じの方がいましたら、
ぜひコメントで教えていただきたいところです。






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