もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

アンコール・私の好きな旭川 VOL.4 旭川郷土史「トリビア」

2014-09-24 08:13:58 | 郷土史エピソード


かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
4回目は、私が旭川の歴史に詳しい方々から教えてもらい、「へー」と思った「トリビア」の紹介です。


                      ***********


<旭川郷土史「トリビア」>(2010年11月30日掲載)


① 明治以来、軍都として発展した旭川市。
  かつての「陸軍第七師団」は、明治天皇が「しちしだん」と読んでしまったため、
  「だいななしだん」ではなく、「だいしちしだん」と呼ばれることになった。



(写真①)旧陸軍第七師団司令部(明治44年)


(写真②)日露戦争凱旋パレード(明治39年)



「第七」は、「だいなな」と呼ぶのが一般的ですが、1896年(明治29年)、北海道に「第七師団」が創設され、宮中で行われた初代師団長の任命式の際、天皇陛下が「しちしだん」と読んだので、以来、「だいしちしだん」と呼びようになったのだそうです。

ちなみに旭川の自衛隊関係者の皆さんは、さすがに事情をよく知っていて、「しちしだん」というと「旧陸軍第七師団」、「ななしだん」というと「陸上自衛隊第七師団(千歳駐屯地)」が頭に浮かぶのだそうです。

ただこの「旧陸軍第七師団」、戦前も海軍関係者は「だいななしだん」と呼んでいました(なぜかはわかりません。海軍の数字の呼び方「マル、ヒト、フタ、サン、ゴー、ロク、ナナ・・・」に従っているとの説も・・・)。

なお以前、NHKで放送されたドラマ「坂の上の雲」では、この微妙な読み方の違いを正確に再現していました。
ドラマの中で、第七師団は日露戦争の旅順攻撃のシーンに何度か登場するのですが、陸軍関係者(品川徹さん-旭川出身!-が演じた大迫師団長など)はセリフで「だいしちしだん」と話していたのに対し、本木雅弘さん演じる秋山真之(海軍!)は「だいななしだん」と呼んでいました。

ドラマにおける時代考証の正確さ、恐るべし!です。


② その「第七師団」になじみの深い「北海道護国神社」。
  境内にある池は、上空から見ると北海道と樺太の形をしている。




(写真③)北海道護国神社


(写真④)池は大きくて地上からは形がよくわからない


図①)上空からみると、こんな形をしています



市内花咲町にある「護国神社」。
旧樺太や千島を含め、北海道関係の戦没者が祀られています。
建立は明治35年(1902年)。
2万坪に及ぶ境内の一角を占める池の名前は、ずばり「北海道池」と「樺太池」と言います。
「北海道池」は、実際の北海道より少し横長の形をしています。

また北海道池の旭川に当たるところには小島があり、また留萌市に当たる場所には、留萌の融資から贈られた灯篭(灯台を模している?)が置かれています。


③ 旭川市は、駅前から順に、宮下通り、1条通り、2条通り、3条通りと下っていくが、
  宮下通りは、かつて4~5丁目に「上川神社」が置かれていたため、
  「神社の前」という意味で「宮下」の名がついた。




(写真⑤)かつて神社があった場所


写真⑥)神楽岡にある現在の上川神社



今は、神楽岡(かぐらおか)にある上川神社ですが、そもそもは明治26年、旭川駅近くの高台(現在の宮下通り4丁目~7丁目・当時は義経台と呼ばれた)に置かれたのが始まりなのだそうです。
その後、鉄道の敷設や街の発展にともない、明治31年には6・7条通り8丁目に、明治35年には宮下通り21丁目にそれぞれ移転しました。
神楽岡への移転は大正13年です。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンコール・私の好きな旭川 VOL.3 2・26事件をめぐる2人の将軍の娘

2014-09-23 07:05:40 | 郷土史エピソード


かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
3回目は、旭川と関わっていた意外な人物達とその数奇な運命について紹介した長文の記事です。


                     ***********


<2・26事件をめぐる2人の将軍の娘>(2011年5月13日掲載)

今回も、まずはこちらの写真から!!



(写真①)



でっ、でかっ!!
思わずカメラを向けてしまいました。
実はこのクマ、どこに置かれているかというと・・・。



(写真2)



旭川の隣、上川町にある「環境省層雲峡ビジターセンター」でした!
層雲峡と言えば、スケールの大きな石狩川源流の渓谷と、野趣あふれた温泉で有名な大雪山観光の拠点です。
先日、およそ20年ぶりに訪ねてみました。




(写真③)ダイナミックな大函


(写真④)銀河の滝も見事


(写真⑤)層雲峡で見つけたもう一つの「層雲きょう」(おそらくは「そううんばし」)



この日は、昔と変わらない雄大な景観を堪能することができたのですが、実は郷土史にはまっているワタクシ、今回の訪問の真の目的も、ある歴史的なスポットを訪ねることだったのです。
それがこちら!!



(写真⑥)



建物は「旭川赤十字病院付属層雲峡診療所(すでに閉鎖。前身は昭和3年に建てられた陸軍の療養所=正式名称は第七師団衛戍病院層雲峡分院)」で、その脇に石碑が建っています。



(写真⑦)



療養所の開設に合わせて立てられたこの石碑。
碑文には、療養所の建設や層雲峡の開発に功績があったとして、その後、数奇な運命をたどる2人の軍人の名が刻まれています。

1人は、当時の第七師団師団長だった渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう、1874-1936)。
もう1人は、渡辺の元で第七師団参謀長をつとめ、歌人としても知られる齋藤瀏(さいとう・りゅう、1879-1953)です。




(写真⑧⑨)石碑に刻まれた2人の将軍の名前



石碑の建立から8年後の昭和11年、陸軍教育総監(陸軍トップ3の1人)に就任していた渡辺は二・二六事件で青年将校に襲撃され、殺害されます。
一方、齋藤は、青年将校を支援したとして軍法会議にかけられ、禁錮5年の刑を科せられます。
直截な言い方をすれば〝殺された側と殺した側〟に分かれてしまうのです。

かつては、ともに第七師団で北の守りに就いていた2人の将軍。
実は、後年、著名な功績をあげた女性を娘に持ったことでも共通しています。

このうち齋藤瀏の長女、齋藤史(さいとう・ふみ、1909-2002)は、現代日本を代表する歌人で、父の転勤に伴い、6歳から11歳までと、15歳から18歳までの計8年間を、旭川の師団官舎で過ごしています。
1回目の旭川滞在期間、史は第7師団の将校の子弟用に作られた北鎮(ほくちん)小学校に通いますが、同級生に、二・二六事件で処刑される栗原安秀(くりはら・やすひで、1908-1936)が、1級下に同じく死刑になる坂井直(さかい・なおし、1910-1936)がいました。

この頃のことを、史はこう回想しています。
「小学校は軍関係の者ばかりの、創立は皇后の御下賜金を元にしたという特別な学校でしたから、一クラス男女合わせて二十人前後、学校も一緒なら家でも遊び友達、一家そろってのつきあい-晩のご飯こちらで食べて帰ったら-という、家族のような、兄弟のような、そんな同級生に、栗原安秀がおりました。のちの、二・二六事件の栗原中尉です。そして下級生にはやはり同事件の坂井直がおりました」(「おやじとわたしー二・二六事件余談」より)



(写真⑩)齋藤瀏・史親子が住んでいた官舎があった場所(旭川市春光町)


(写真⑪)将校の子弟が通っていた北鎮尋常小学校(昭和8年)


(写真⑫)北鎮尋常小学校(右)と偕行社(左)(昭和8年)



幼友達が処刑され、父が収監された二・二六事件。
この体験は、生涯に渡り、繰り返し史の作品に現れます。
1980(昭和55)年に、53年ぶりに旭川を訪れた際は、層雲峡の石碑にも立ち寄って歌を残しています。


  おびただしき年の数すぎて事過ぎて先逝きびとの記念碑に逢う

  錆色の楢落葉積む 二・二六に殺されし錠太郎の名ある碑(いしぶみ)

  ゆくすゑを誰も知らねば渡辺・齋藤の名もつらねたり一つ碑の面に

  人の運命(さだめ)過ぎし思えばいしぶみをめぐるわが身の何か雫す

                     (齋藤史歌集「渉りかゆかむ」より)


一方、渡辺錠太郎の次女、渡辺和子さんは、現在84歳。
岡山県にあるノートルダム清心女子大学の理事長を務めています。
昭和2年に旭川で生まれた和子さんが、二・二六事件に遭遇したのは小学校3年生(9歳)の時。
自宅が青年将校の襲撃を受けた際、父と同じ部屋にいた和子さんは、父が殺害される現場を至近距離から目撃するという凄絶な体験をしています。

その後、18歳でキリスト教の洗礼を受け、アメリカに留学。
来日したマザー・テレサの通訳を務めるなど、宗教家、教育者として幅広く活動し、今も講演や著作活動などで多忙な毎日を送っています。

彼女は、旭川にも、講演などで度々訪れていますが、4年前には、やはり層雲峡の療養所跡を訪ね、石碑の前に立ちました。
(実は、先日も旭川に講演に来られ、その際、地元の関係者と会食したのですが、私も同席させてもらいました。ユーモアを忘れず、いきいきとふるまわれる姿に感銘を受けました!)。



(写真⑬)常磐公園を訪れた和子さん(後ろの石碑は、父が揮ごうした)



                     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


旭川で交わり、数奇な運命をたどった2人の将軍と、それぞれの娘。
二・二六事件の関係者の中には、この他にも、旭川生まれで、栗原ら青年将校のリーダー格だった村中孝次(1903-1936)などがいます。
下の写真は、層雲峡の石碑訪問の翌日に訪れた旭川・春光台(しゅんこうだい)の様子です。



(写真⑭)かつての第七師団敷地を見下ろす春光台の丘



眼下には、住宅地が広がっていますが、かつては第七師団の施設や官舎などが並んでいました。
この日も、渡辺錠太郎や齋藤瀏、村中孝次らが利用した偕行社(将校の社交場、現在は旭川市彫刻美術館)の建物や、齋藤史、栗原安秀、坂井直らが通った北鎮小学校などを望むことができました。
北の地に足跡を残した人びとと、その後の運命に思いを馳せた2日間でした。



(写真⑮)春光台からみた旧偕行社


(写真⑯)現在の北鎮小学校


(写真⑰)春光台に残る軍の水道施設


(写真⑱)春光台に咲く水芭蕉


 





コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンコール・私の好きな旭川 VOL.2 まぼろしの塔!?を追って 続編・続々編

2014-09-15 10:38:33 | 郷土史エピソード

かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回は前回の「まぼろしの塔!?を追って」の続編と続々編です。


                      ***********


<私の好きな旭川~まぼろしの塔!?を追って~続編!>(2011年2月10日掲載)


まずはこちらの写真を!


(写真①)こっ、これは!?

分かりますか?
以前、このブログで紹介した「大平和塔」です。
写真を引いたサイズで紹介しますと・・・。


(写真②)こんな感じ

中央にあるのは、かつての市立旭川病院です。
病院の裏(写真だと左)の空き地に塔が建っているのがはっきりと写っています!!
塔は、以前紹介した私の父が写した昭和35年の写真とアングルは違いますが同じ位置にあります(「日立テレビ」の文字も同じです)。


(写真③)35年9月撮影の写真(小さな男の子は2歳のワタクシ)


(写真④)偶然写り込んでいた「大平和塔」


(写真⑤)昭和25年、ロータリーに建てられた直後の「大平和塔」


実は、この写真、市立病院のエントランスホールに掲示されています。
ブログを読んだ方から情報提供のコメントをいただいたことで、存在を知りました。

「大平和塔」は、旭川市で開かれた「北海道開発大博覧会」のシンボルタワーとして昭和25年に現在の常磐通りロータリーに建設され、その後、昭和35年2月に市立病院裏に移設されたことが分かっています(詳しくは、11月26日のブログを参照してください)。

この写真の撮影は昭和37年ですので、写っているのは、移設後2年目の塔の姿ということになります。


(写真⑥)写真が掲示されている市立病院のエントランスホール


(写真⑦)昭和37年、昭和62年、平成14年の3枚の写真が飾られていて、それぞれ初代、2代目、3代目の市立病院の建物が確認できるようになっている


市立病院によりますと、塔は、現在、医師住宅のある場所に建てられていたそうです。
前のブログでは、記憶を頼りに塔が建っていた場所を推定しましたが、ほぼ合っていたことが確かめられ、ほっとしました。


(写真⑧)かつて塔が建っていた場所にある医師住宅

そして驚いたことに、塔を移設した時に設けた「基礎」が、今でも敷地内に残っているそうです!
(今は雪が積もっていて見ることはできませんでしたが、春になったら、写真を撮らせていただくことになっています)。


(写真⑨)現在の市立旭川病院、中央↓が医師住宅。左に写っているのは旭橋

塔が、最終的にどのような経緯で撤去されたかなどは、依然分かっていませんが、
いろいろな方のご協力で、新たな事実が少しずつ明らかになってきています。
引き続き、なにか情報がありましたが、ぜひお知らせください。


                       **********


<私の好きな旭川~まぼろしの塔!?を追って~続続編>(2011年4月28日掲載)


今回も、まずは写真から!!


(写真①)旭川市博物館所蔵


(写真②)旭川市博物館所蔵


もうお分かりですよね。
このブログではおなじみの「大平和塔」。
新たに見つかった写真です!!

①は、昭和34年頃の撮影。
ロータリーに向かう8条の斜め通り(「8条斜線」)からのショットです。
バスと一部かぶっているのは残念ですが、ここまで鮮明に「大平和塔」をとらえた写真を見るのは初めてです!

最上部にあるのは「母の鐘」(「大平和塔」から時報代わりに流されていた音楽=詳しくは2010年11月26日のブログ参照)のメロディーを奏でていたスピーカーでしょうか。
その上には照明のようなものも見えます。
広告の文字の取り付け状況など、細かい様子もよくわかります。


写真①拡大

②は、昭和34年の撮影。
旭川の初夏の名物行事、「北海道音楽大行進」のスナップです。
写真の手前側に、ロータリーに沿って行進するブラスバンドの姿が(どこかの高校でしょうか)、その奥に見物の市民が写っています(人出の多さに驚きます!!)。

注目してほしいのは「大平和塔」の〝足〟の部分です。
4人ほどがよじ登って行進を見物しています(塔の大きさが良く分かります)。

なお写真右上隅には、この写真の撮影から4か月後に竣工する「市役所庁舎」の姿が見えます(建物の周りに、工事の足場のようなものが写っているように見えます)。


写真②拡大A

また市役所庁舎から左に目を転じていくと、「8条斜線」沿いの商店などの後に、我がなつかしの母校、「中央小学校」の姿が(屋根だけですが)確認できます。


写真②拡大B

なお、「北海道音楽大行進」は、一般から小学生まで、ブラスバンドや鼓笛隊などが、演奏をしながら市内を行進する一大イベントで、参加者は数千人に及びます!!
時期は6月、昭和6年に始まり、途中中断をはさみますが、これまでに78回も行われている伝統の行事です。


(写真③)写真②と同じアングルで見た現在のロータリー


                        *********


続いては、この写真を。
ぴんと来た方は、このブログの相当熱心な読者です。


(写真④)

実はこれ、以前「まぼろしの塔!?を追って・・・続編」でふれた「大平和塔」の土台=〝基礎〟なんです!!!


(写真⑤)手前のコンクリートが見えている部分が基礎。奥に見えるのは旭橋


(写真⑥)看板と車庫の間にあるのが基礎


大きさは、1メートル×90センチほど。
場所は市立病院の敷地内にある医師用の住宅棟の裏です(雪解けを待って先日、行ってきました)。
コンクリートは劣化がかなり進んでいましたが、中に仕込まれた鉄筋の太さは尋常ではありません!

案内してくれた病院の事務局の方によりますと、地中に埋められている部分の高さ(深さ?)も1メートル程あり、建物の基礎としてはかなり規模の大きなものだということです。
労力や費用もかかることから、そのまま撤去せず残したのではないかということでした
(なお塔は4本の〝足〟で支えられていましたので、あと3つ基礎が残っているはずですが、建物の下に隠れるなどしていて、確認できませんでした)。


(写真⑦)直径3センチ近い鉄筋。


(写真⑧)↓が基礎のある場所。建物は医師住宅棟(この下に別の基礎がある)



                       ★ ★ ★ ★ ★ ★


幼いころの遊び場所の一つだった市立病院裏は、子供にとっては十分すぎるほどのスペースがある原っぱで、私たちは日が暮れるまで、ボール遊びや鬼ごっこなどに興じていました。
そして、塔は、そんな私たちを見守るように立っていました。

調査を始める前、私の中では、実在していたかどうかさえ不確かだった塔の姿、さまざまな映像や資料(さらには実物につながる基礎という〝ブツ〟まで!)にふれるなかで、いまはしっかりと思い浮かべることができます。
協力していただいた皆さんに、改めて感謝申し上げます。



(写真⑨)2歳のワタクシと大平和塔(昭和35年・再掲)





コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンコール・私の好きな旭川 VOL.1  まぼろしの塔!?を追って

2014-09-14 09:49:36 | 郷土史エピソード


今回から従来の郷土史エピソードに加え、新しいシリーズをスタートさせます。
名付けて「アンコール・私の好きな旭川」。
これ、先日、閉鎖したワタクシの別のブログに掲載していた記事のうち、郷土史関係の記事を再構成して掲載するものです。

実は、別ブログの郷土史関係記事は、かなりの部分、既刊の郷土史本「知らなかった、こんな旭川」に反映させているのですが、「引き続きネットでも見たい」という声があり、こうした対応をすることにしました。

掲載にあたっては、旧ブログでの掲載日時を明記し、再構成をしたうえでアップします。
画像については、著作権の関係があり、記事によっては大幅に削除、または差し替えを行います。
このシリーズに関しましては、こうした事情をご理解の上、楽しんでいただければと思っています。
どうぞよろしくお願いします。

ということで、「アンコール・私の好きな旭川」の初回は、かつて旭川にあったシンボルタワー「大平和塔」について。
ワタクシがふるさと旭川の歴史に興味を持つきっかけとなった思い出深い記事です。


               ************


<私の好きな旭川④~まぼろしの塔!?を追って~>(2010年11月26日掲載)

皆さん!子供のころの記憶で、はっきりはしていないが、何となく頭に残っている光景(情景)ってありませんか?
小さなころの記憶がどの程度残っているのか、小学校高学年のころの自分の子供に質問をして確かめたことがありますが、住んでいた家や、通っていた幼稚園や保育園の特徴など、ごく幼いころでも、かなり正確な記憶を持っていて驚いたことがあります。

なぜそんなことを書き始めたかと言いますと、長年はっきりしていなかった幼いころの記憶の正体を、最近、やっと確かめることができたからなんです!!

それがこの写真です。


(写真①)

近所のお姉さんといっしょに写っているのは、2歳9か月のワタクシです!
撮影日は昭和35年9月8日(なんと50年前!!)。

撮影したのは父で、場所は実家裏の牛朱別川(うしゅべつがわ)の堤防です。
で、注目していただきたいのは、バックにある橋(緑橋)、のさらに後ろにあるタワー、というか塔なんです(わかりますか)。


(写真②)「日立テレビ」と書いてある

実はこの塔、小学校低学年くらいまでの記憶ではまさにこの写真の通りの位置(市立病院裏の空き地、遊び場でした)に建っていたはずなのですが、その後の記憶では、どう思い返してもその場所に塔の姿はありません。 
ですから、一時は「テレビで見た記憶と現実の記憶がごちゃまぜになっていたのかも?」などと思っていたのです。
ですが、今回、この写真が出てきたことで(実家で偶然見つけました)、記憶の通りこの場所に塔が建っていたことが確かめられました!


(写真③)実家裏から塔があったあたりを望むと、現在はこんな感じ(塔は↓のあたりか?)


(写真④)市立病院の裏の今の様子、塔はこのあたりに建っていたと思われる(当時は原っぱ)


ただ、長年のもやもやが解消された一方で、いったい誰が、いつ、何のために建てたものなのかなど、塔に関しては分からないことだらけ。
実は、調べていくと、意外?な事実が次々に分かってきたんです。

まずはこちらの写真を。


(写真⑤)「北海道開発大博覧会誌」(昭和26年)

これは昭和25年、開基60周年記念事業の一つとして、旭川市が道と共催した「北海道開発大博覧会」の記念誌です。
この記念誌に、塔の写真が載っていました。


(写真⑥)

宣伝の文句は入っていませんが、形は実家にあった写真の塔とまったく同じです!
実は、この塔、名前を「大平和塔」といって、博覧会のシンボルタワーとして、同じ年に建てられたものだったんです。
建てられた場所は、旭川市内の名所の一つ「ロータリー」(円形のいわゆるロータリー交差点。日本最大とされている)。
博覧会は「常磐公園」がメイン会場で、公園の脇にある「ロータリー」に、今でいう〝ランドマーク〟を設けた、というわけなんです。

当時、ロータリーは真ん中を電車が通るようになっていて、塔は線路をまたぐような形で設置されました(そのあたりの位置関係は、博覧会の案内図を見るとよくわかります)。


(写真⑦)道博の案内図(右下に塔が)


(写真⑧)現在のロータリー


ちなみにこの「北海道開発大博覧会」、当時の市の年間予算の3分の2に相当する1億5000万円が投じられ、40日間の会期中の入場者は延べ51万人を超えたということです。


(写真⑨)入場ゲートからみた平和塔


(写真⑩)


(写真⑪)


(写真⑫)絵葉書やおみやげ、マッチのレッテルなどにも塔の姿が


戦後まもない旭川で行われた一大イベントのシンボルとして建てられた「大平和塔」。

では、その後なぜ市立病院裏に移されたのでしょうか。
図書館に残っていた古い新聞記事などからその経緯も分かってきました。
かいつまんで説明しますと・・・、

① 塔は、本来、博覧会終了時に撤去する予定だったが、多額の費用(市費で120万円)をかけて建設したことからしばらく残すことになり、その後は、旭川名物の一つとなって市民に親しまれたため1年ごとに国の設置許可を更新していった。

② しかし戦後復興が進むにつれ、6方面から車が集中するロータリーの交通量が激増。国(開発建設部)から再三ロータリーの改造(道路部分の拡幅)を要請されたことから、昭和34年3月、市はついに塔の撤去を決めた。 

③ 一方、塔は昭和27年から日立製作所の広告塔としての役割も果たしていた(市に年間20万円の広告料を払っていた)。撤去後は、日立製作所が市から25万円で塔を買い取って継続利用することになり、市立病院裏に移設することになった。
 
④ 実際の撤去は、設置から9年あまり後の昭和34年11月25日から始まり、翌35年2月には市立病院裏への移設・復元工事が終了した。


                ★ ★ ★ ★ ★ ★


イベントのシンボルタワーとしての役目を終え、純粋広告塔として第2の役割を果たすことになった「大平和塔」。
「市立病院裏に移設された数年後、雷が落ちたため完全に撤去されたと聞いた」と話してくれた方もいるのですが、移設後の塔の消息について、私の調査ではまだ確たる事実はつかめていません。
(もしご存じの方がいましたら、ぜひご連絡ください!お願いします!!)。


(写真⑬)初夏の旭川の風物詩、北海道音楽大行進のスナップから(昭和32年)

最後に、この「大平和塔」が、10年にわたって旭川市民に親しまれていたことを示すエピソードが、ある本に載っていましたのでご紹介します。

「今、旭川市の空には朝な夕なに、日にいくたびとなく朗らかなメロディが響きわたっている。母の鐘である。この母の鐘の設置には女史(筆者注・佐野文子氏=旭川で、さまざまな社会貢献活動を行ったことで知られる。特に献身的に携わった戦前の廃娼運動は有名)の働きが中心であった」

「昭和二十七年女史は大阪市で開かれた保護司大会に出席、ここで『ミヲツクシの鐘』といって夜の盛り場で遊んでいる青少年に呼びかけ、母親たちの待つ温かい家庭を思い出させるというのを聞いた(中略)深く感動して、帰るやすぐに児童福祉協議会に申し入れ、仮称『母の鐘建設期成会』を組織、全市的活動となった」

「初めは夕方の五時と夜十時の二回であったが、三十三年に市内小中学校生徒の世論により朝五時と八時と正午を増して五回としたもので、設置当初は、ロータリーにあった平和塔の上にしつらえたのであった(中略)。市の時報として、潤いとして市民の中に溶け込んでいるが、何よりも青少年にやさしい母の声として呼びかけ、ここに十余年今後も永久に鳴りつづけることであろう」
(村上久吉著・旭川叢書第五巻「旭川の人びと」より・1971年)(筆者注・平和塔の撤去が決まった後、母の鐘は市役所屋上に移設)



(写真⑭)露店でにぎわう昭和通りからロータリー方向を望む(中央やや右に平和塔が)(昭和32年)


                **********


「アンコール・私の好きな旭川」、次回は「大平和塔を追って」の続編、さらに続々編をアップします。お楽しみに!






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和2年の〝夏期講座〟

2014-09-07 16:42:44 | 郷土史エピソード

今回はこちらから。



(写真①野口雨情)


(写真②小熊秀雄)


ともに旭川にゆかりの深い2人の詩人、野口雨情小熊秀雄です。
青年時代に旭川にやってきて地元の新聞社に勤めたことも共通しています
(雨情は「北海旭新聞」、小熊は「旭川新聞」)。



(写真③旭川新聞社・大正初期?)


ただ雨情が旭川で過ごしたのは1909(明治42)年の8月から11月まで。
一方、小熊が旭川にやってきたのは10年余り後の1922(大正11)年。
なので接点はないはず、と思っていました。
ところが、大正後期から昭和初めにかけての旭川の文化史を調べていたところ、意外な事実を知りました!

その舞台となったのが、こちら。



(写真④大休寺)


5条通5丁目にある曹洞宗のお寺、大休寺です
(我が家は檀家なので、お付き合いの深いお寺です)。
大休寺は明治27年創建の旭川でも長い歴史を持つお寺ですが、昭和2年7月、ここを会場にある催しが行われました。

当時の新聞に載った告知です。


<昭和2(1927)年7月5日 北海タイムス>

 大雪山夏期大学 7月29日、30日  旭川市大休禅寺にて
             8月1日より5日まで 層雲峡にて
  当代一流の名家数名
  主催 北海タイムス社 大雪山調査会
  後援 北海道山岳会


そして初日の様子を伝える記事も。

<昭和2(1927)年7月30日 北海タイムス>

「遥々(はやばや)と 各地から集る 大雪山大学聴講者」
 大雪山夏期大学会員は二十九日朝からドンドン来旭し駅前には南條山岳会書記、伊藤商工会議所員出迎え樺太の国境に近い内路の木村君が遥々と遣ってきたのを皮切りに前列車で到着した。
 午後四時四十八分着では有馬講師夫人、井上サン等婦人会員の方も見え夫々宮越屋旅館と越後屋旅館に分宿した。
 夜は大休寺の講演に臨み涼風に吹かれながら喜田、馬場両講師の講演を聴く。
 尚喜田講師は延原旭師教諭と支援員の案内で神居古潭並びに納内の古代人の遺跡を調査し本日の見学の資材を収集した。



「大雪山夏期大学」は、このころ本格的な開発が始まったばかりの大雪山、層雲峡の啓発活動を目的に開かれたイベントです。
昭和2年7月29日から8日間の日程で、前半は大休寺を会場にした講義(講演会)、後半は実際に層雲峡を訪ねての登山や温泉体験の内容でした。
告知に「当代一流の名家数名」とあるのは、同行する講師のことです。
北大や東北大、慶応大の教授のほか、当時、新進気鋭の童謡詩人として知名度が上がっていた雨情も名を連ねていました。

なお主催の「大雪山調査会」は、層雲峡の開発に力を注いだ旭川の実業家、荒井初一が中心になって作った組織で、こうしたイベントのほか、パンフレットや研究書の制作、発行等の事業を行っていました。
ワタクシの手元にも、昭和3年に調査会が発行したパンフレットがあります。



(写真⑤大雪山調査会が発行したパンフレット)


(写真⑥夏期大学の一行が泊まった層雲閣―右上は同じく層雲峡にあった陸軍療養所)


なお、このイベントについては、「大町桂月の大雪山」、「知られざる大雪山の画家 村田丹下」などの著作がある清水敏一さんの著書に詳しく紹介されています。
この中で清水さんは、荒井初一の依頼で大雪山の絵を精力的に描くなどPRに尽力した旭川ゆかりの画家、村田丹下が、「大雪山夏期大学」の講師として、知り合いの雨情を推薦した、と述べていると書いています。
こうした事情に加え、旭川に縁があり、童謡詩人として著名だった雨情は講師としてうってつけだったということではないでしょうか。
雨情は講演の席で、大雪山調査会の依頼で作った「層雲峡の歌」を自ら披露するなどして、大好評を得たと記録されています。



(写真⑦荒井初一)


(写真⑧昭和10年の旭川鳥瞰図に描かれた大休寺=この辺りは通りに寺が並び、寺町、寺社通りと呼ばれた)


(写真⑨明治36年の市街図にも寺社通りが)


で、一方の小熊秀雄ですが、どういう関わりがあったのでしょうか。
実はこの夏期大学、基本的には旅費などを払っての参加でしたが、大休寺での講演は一般の市民も聞くことができたようです。
そして、まさにその聴衆の中に小熊秀雄がいたことを示す文章があるのです。

昭和34年、詩誌「情緒」に掲載された「小熊秀雄との交友日記」。
著者は小熊を含む当時の旭川の詩人グループの一人だった小池栄寿(よしひさ)です。



(写真⑩詩誌「情緒」)


「小熊秀雄との交友日記」は、小池が小熊や周辺の人々と過ごした大正15年から昭和3年にかけての日々を、日記をもとに書き起こしたものです。
昭和2年7月30日にこんな記載があります。


<小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より>

七月三十日。大休寺の大衆夏期大学二日目に夜ゆく。
「国史より見たる国民思想」喜田貞吉博士。
「民謡と大衆文芸」野口雨情氏。
小熊、涼木、塚田兄弟も見えた。
塚田君達は早く帰った。
小熊、涼木君と帰る。
帰れば既に十二時。



まさに日付も場所もぴったり!
言葉を交わしたかなど詳しいことはわかりませんが、雨情と小熊、講師と聴衆という立場ではありましたが、接点があったことは確かです。
ちなみに文中にある「涼木」は、その後、旭川の文芸をリードする詩人、鈴木政輝のこと。「塚田兄弟」の弟は、30代で夭折した旭川のダダイズム詩人、塚田武四のことです。

さらに「交友日記」の少し前の日付にこんな記述も見つけました。


<「小熊秀雄との交友日記」より>

四月二十六日。
午後七時半から北海ホテルで円筒帽詩人祭が催うされる。
十二、三人の予定のところへ二十名も来る。
タイムス支局長竹内武夫氏、画家村田丹下氏、弁護士鈴木重一氏、実科高女主事沢井一郎氏等も出席され盛会裡に十時半閉会。
小熊、鈴木、塚田の三君とヤマニでコーヒー、喜楽で紅茶、ニコニコでコーヒー、生ビール皆意気軒昂一時に及ぶ。
(注 円筒帽は鈴木、小池、小熊らの詩誌 ヤマニは4条通8丁目にあったカフェー)




(写真⑨ヤマニカフェー 絵葉書・昭和4年頃)


村田丹下は先ほどもお話しした荒井初一、野口雨情と接点のあった画家。
竹内武雄は、当時の北海タイムズ社の旭川支局長で、今も続く北海道音楽大行進の創設に力を注いだ人物です。
小熊らのグループとどの程度の付き合いがあったかはわかりませんが、北海タイムズは大雪山調査会とともに夏期大学の主催者でもあります。
なので、もしかしたらこの会合の場で、夏期大学の話も出て、竹内、村田が講演を聴きに来るよう小熊らを誘ったのかもしれません。
またそうした話はなくとも、既知の竹内や村田が関係していて、旭川ゆかりの詩人、雨情が講師を務める催しとあれば、小熊らの興味を惹くには十分だったのではないでしょうか。



(写真⑩昭和初期の旭川)


                     ******


以前の記事「ゴールデンエイジ」でも書きましたが、大正12年から昭和3年にかけての旭川は、個性豊かな文化人が交錯し、影響しあい、様々な表現に挑戦した「熱い」時代でした。

この時期はまた層雲峡・大雪山の観光振興など地域おこしという面でも旭川の人々の活動が活発化した時期でもあます。
今回の大休寺での夏期講座(大学)はそんな時代の「熱」を感じるエピソードといえます。




(写真⑪昭和初期の層雲峡)



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする