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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

『ヤマニの兄貴』速田弘 続報

2014-12-10 18:18:54 | 郷土史エピソード


11月24日にアップした「『ヤマニの兄貴』速田弘」の記事の最後で、旭川カフェー界の風雲児、速田弘について、本人が写っている可能性が高い写真をご紹介しました。
その後の調べで、まさに本人の顔写真が掲載された新聞記事が見つかりましたので、改めてご紹介します。


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前回11月の記事で、昭和9年12月2日、経営難のため、速田が自殺未遂を図ったことを紹介しました。
その6日後、旭川新聞は「カフェーパリジャンの速田氏自殺企つ」とする記事を掲載しました。
速田弘の顔写真が掲載されていたのは、この記事です。



昭和9年12月8日の旭川新聞の記事


速田弘の写真



前回の記事では、また、速田が参加していた「旭川共鳴音楽会」の集合写真を紹介し、「一番若く見える前列左から2番目の人物が彼である可能性が高いように思われます」と書きました。



「旭川共鳴音楽会」の写真(「旭川回顧録」より)


ただこの旭川新聞掲載の写真をもとに、改めてチェックしますと・・・。

いました。
後列の左側にいる人物、メガネはかけていませんが、まず同一人物と見て差支えないと考えます(前列左から2番目の人物は別人ですね。私の推測はハズレでした。申し訳ありません)。



2つの写真を並べると


旭川を代表するモボ=モダンボーイと呼ばれた速田ですが、こうしてみると、外見は割と地味(老け顔?)であったことが意外です(新聞記事掲載時で28歳、「共鳴音楽会」の写真掲載時で16~17歳)。
ただそれでも本人の姿が特定できて、まずは一安心というところです。

なお昭和9年の旭川新聞には、速田の自殺未遂やその後の境遇についてかなり詳しく記事にされています。
当時の旭川で、速田弘がどれだけ有名であったのか、この記事からもわかるような気がします。



(注・11月の記事にも、この記事と同じ内容ですが、追加情報をのせました)


アンコール・私の好きな旭川 VOL.10  馬鉄と専用橋

2014-12-07 09:47:23 | 郷土史エピソード


今回も「アンコール・私の好きな旭川」。
前回に続き、馬に関したお話しです。


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<私の好きな旭川~馬鉄と専用橋>(2014年2月27日掲載)


まずはこちら。



明治44年(旭川市中央図書館蔵)


このブログでも何回か紹介していますが、かつての師団通(現平和通)を記録した写真です。

通りを行くのは馬鉄(馬車鉄道)。
ちょうど上りと下りがすれ違えるよう、線路が一部複線化されているところを走っています。



同上


旭川の馬鉄は、明治33年の陸軍第七師団の移転に伴って運行が計画されました。

営業開始は6年後の明治39年。
廃止までわずか12年間の運行でしたが、最盛期には客車20台、貨車4台、馬38頭の体制で運行され、1日の平均利用者数は1200人に上ったと言います。

で、この馬鉄、旭川駅前と師団があった今の春光地区を結んでいましたが、途中、石狩川を渡らなければなりませんよね。
どうしていたかというと、こちら。



初代旭橋と馬鉄専用橋(明治末~大正初期・絵はがき)


わかりますか。
奥の初代旭橋の手前にもう一本橋が架かっていて良く見るとそこを馬鉄が通っています。
馬鉄用の専用橋を設けていたんです。
もう一枚、橋のたもとから写した写真がこれです。



初代旭橋と馬鉄専用橋(明治末~大正初期・絵はがき)


専用橋は旭橋の下流側に架けられていました。
ただ旭橋付近の馬鉄の写真というとこんなものもあります。



初代旭橋と馬鉄(明治末~大正初期・絵はがき)


こちらには専用橋はなく、馬鉄は旭橋の上を通っています。
調べてみると、馬鉄専用橋は初代旭橋の建設当時から計画されていましたが、明治37年の本橋の完成時には間に合わず、当初は旭橋の上に軌道を敷いていたことが分かりました。

また当時は頻繁に洪水が起きていたため、専用橋は、できたあとも何度か流出と再建が繰り返され、その都度、馬鉄の走行路も変わったと見られます。

石狩川を渡る馬鉄の写真に、専用橋を通るものと、旭橋の上を通るものの2つあるのは、そうした事情が関係しているのです。



常盤通を行く馬鉄、奥に初代旭橋(大正元年頃・旭川市中央図書館蔵)






アンコール・私の好きな旭川 VOL.9  「おいばば」って何!?

2014-12-06 23:19:01 | 郷土史エピソード


今回は「アンコール・私の好きな旭川」。
今も残る第七師団関係の建物についてです。


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<私の好きな旭川~「おいばば」って何!?>(2011年10月11日掲載)


まずは、こちら。





時代を感じされるレンガ積みの壁。
どこの壁かと言いますと・・・、こちら。





旭川市春光3条7丁目にある歴史的建造物、「旧陸軍第七師団覆馬場」です。
読みは「だいしちしだんおいばば」、「第七師団」を「だいしちしだん」と読むのは以前このブログで紹介した通り。
「覆馬場」の方は、「おおいばば」が詰まったのでしょうか「おいばば」と読みます。
聞き慣れない言葉ですが、字を見れば一目瞭然。
「覆い(屋根)」の付いた「馬場」。
寒冷積雪地の旭川でも乗馬訓練などができるよう考案された軍の施設です。



複雑にレンガが組み合わされている窓枠部分


立体的な構造が強度を高めている


屋根の上に換気のための小屋根が


反対側の屋根には採光用の別の小屋根が



この施設、建設されたのは大正元年か2年とされていますので、まもなく100年!
今も、バス会社である旭川電気軌道さんの車両工場として使われていて、現役です。



中にはバスのタイヤがいっぱい


待機中のバス



現在、「覆馬場」の周りは住宅地ですが、かつては騎兵連隊の敷地内でした。



施設脇は、今は駐車場


騎兵連隊の跡地であることを示す石碑と市の史跡プレート



さらにこの「覆馬場」に隣接して、旧第七師団ゆかりの別の建物があります。
それがこちら。





現在は「フジ寝装」さんという布団を作っている会社のこの建物。
第七師団の兵器関係の施設として建てられました。
2棟のうち奥が昭和9年、手前がなんと明治35年(109年前!)の建設で、奥の建物の入り口には、今も「第三未填弾薬庫(火薬を詰めていない弾薬か)」と書かれています。



薄くなっているが、確かに「第三未填弾薬庫」と書かれている


壁も109年前そのまま


天井部分


創建当時から使われている床板



弾薬を扱う建物なので、創建当時、屋根は銅版で葺かれていたとのこと。
明治35年の建物は梁などもすべて木造!
歴史の重みを感じました。





ということで、前回に続いて旭川市内にある歴史的に貴重な建造物を紹介されていただきました。
撮影を許可していただいた旭川電気軌道さん、フジ寝装さん、ありがとうございました。